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2009/06/30

ゴドーを待ちながら<1>

ゴドーを待ちながら新装版
「ゴドーを待ちながら」 <1>
サミュエル・ベケット /安堂信也 2009/01 白水社 単行本 196p
Vol.2 No.691★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 若い時に演劇グループの手伝いをしていたことがある。ほとんどがポスターやチラシの制作、会場整理のような手伝いだったが、時には不足した役者の穴を埋めるためにステージに立ったこともある。アングラ芝居や実験シアターのようなものが多かったので、わりと変化に富んだ面白い体験をたくさんした。だから、いろいろなつきあいやネットワークもあり、演劇やステージも数多く観た。

 そんな青春のただ中で、この「ゴドーを待ちながら」も観た。私が見たのは男性役者の一人芝居だったが、すでにその時点でこの「ゴドーを待ちながら」という演劇の特異性、問題性も意識しており、拍手かっさいはしなかったものの、最後まで見通した。そして、当時の自分としては、何か観ずるものがあったのだろうか、その後、いくらか時間が経過してから、その一人芝居団の団長にして唯一の役者であるその本人を訪ねていったことがある。そんなことを思い出した。

 サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」の初演は1953年1月パリでのことであった。当時の批評の9割は無視と敵視だったという。そして1割は熱狂的称賛だった。その後、アメリカ・マイアミでの初演はさんざんだった。初日から客から帰ってしまい、最後まで残っていたのは身内だけ。早々に公演中止とあいなったとか。

 初演の1953年、そして私が観た1976年の間に23年間の時間が経過し、その後、今日までに、更に33年間の日時が過ぎ去ったのだが、こうしてみれば、私の人生のなかでは割と早い時期に演劇に接したことになるし、この「ゴドーを待ちながら」を観たことになる。

 私は途中で席を立たなかったが、決して面白いとは思わなかった。むしろ当時の自分は演劇に何がしかの「面白さ」を求めることをしてはいなかったと思う。なにかの探究をするかのようにステージを見続けていた。このステージがエンターテイメントであったなら、むしろ私はチケットを手にいれたとしても観にいかなかっただろう。

 私は、自分の人生で演劇とは出会ったが、それは私の道ではなかった。ステージさえ立ったことがあるが、それは2日間で終わったために、私は早々とその道から足を洗うことができた。「なんとかと役者は3日やったらやめられない」という俗語があるが、私はかろうじてその危険ゾーンから無事生還したことになる(笑)。

 11番目。サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」だ。さて、「ゴドー」が何を意味するのか知る者はいない。ちょうど「神」が何を意味するか知る者がいないように。実際、ベケットは「神」の代わりに「ゴドー」という言葉を発明することで大変な仕事をした。誰もがありもしないものを待っている。神など存在しないからだ。誰も待って、待って、待ちつくしている・・・・それもありもしないものを待っている。番号が完成しているにもかかわらず、私がこの本「ゴドーを待ちながら」を入れたかったのはそのためだ。Osho「私が愛した本」p163

 そのテーマや上演された時期から考えると、ベケットのこの現代演劇は、どこか現代アートとつながるものがあるに違いない。意欲に満ちて、創造的で、破壊性を持ち合わせていて、実験的で、どこか人騒がせなセンセーショナルな奇声を発する。その20世紀的スタイルは、どこか時代遅れになってしまっていて、「現代」と呼ぶにはおこがましいような気もする。だが、ひとつの伝統やしきたりのクビキを断ち切るには必要なものであったのだろう。

<2>につづく

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