人生をいかに生きるか(上)
「人生をいかに生きるか」 上
林 語堂/ 阪本 勝 (翻訳) 1979/11 講談社 文庫: 275p
Vol.2 No.674★★★☆☆ ★★★★★ ★★★★☆
林語堂と書いて、はやし・ごどう、と読むものと思っていたが、実際はリン・ユータンと読む。語感からすれば、禅語録にでも出てきそうな名前だが、Osho「私が愛した本」を読んだかぎりは「キリスト教」編にふさわしかろうと思っていた。ところが実際に読んでみると、これはむしろ最初からやっぱり「東洋哲学(中国)」編に入れるべきだったのではないか、と思い直した。
中国人的教養の最高理想はつねに賢者の覚識に立ち、大観の精神をもって人生に処することにあるのである。この心境の曠懐の精神が生まれる。これあるがために、人々は鷹揚な皮肉の味に世をわたし、名声や、富貴や、功名の誘惑をものがれ、最後には甘受することができる。またこの大観の精神から、自由の感覚や、漂浪への愛着、矜持と、洒脱と、平成が生まれるのである。最後にははげしく強く生のよろこびに至りつくことのできるのは、ただこの自由と洒脱の念あるゆえである。p35林語堂
現在のところ上巻をめくったところだが、この本なかなか面白い。なかなかジャンルにはまらないカテゴリー・エラーな魅力がむんむんしている。どこかOshoの話題に通じるところさえ感じてしまう。ところが、Oshoの評価は辛い。
林語堂はその著「人生にいかに生きるか」の中で、さまざまなことについて美しく書いている---死を除いてだが。ということは<生>は含まれていないということだ。<生>は、死を招じ入れた時に初めてやって来る。死がなくては無理だ。生と死はひとつの硬貨の両面だ。一方を拒否して他方だけを手に入れることはできない。しかし彼は美しく、芸術的に書いている。彼はまちがいなく現代の最大の著述家のひとりだが、何を書いてもそれは単なる空想、純粋な、純粋な空想に過ぎない・・・・単に美しいものごとについて夢を見ているにすぎない。時には、夢が美しいものであることもある。夢がすべて悪夢であるわけではない。Osho「私が愛した本」p198
林語堂は決してその著書のなかに死という単語を使っていないわけではない。すくなくとも、現代人が日常に使う程度以上に死は意識されている。
人間これ必滅の肉体---この事実の結果としてつぎのような重大なことが起こる。第一、いつかは死なねばならぬ。第二、胃というもの、強健な筋肉というもの、好奇的精神というものがある。これらの事実は、基礎的なものであるから、人類文明の性質に深甚な影響をおよぼす。あまり明白なことなので、誰も考えてみたものがないが、これらのことをはっきりと知らなければ、人間とその文明とを理解することができない。p92林語堂
当ブログは右往左往しながらも、自前のプロジェクト「G・O・D」を通じて、「死」に接近中だ。むしろ、これを避けてはもう当ブログは前進できないところまで来ている。林語堂は、ちょっとしか読んでいないが、積極的に「死」を「語って」いるように思う。
「人生をいかにいきるか」は、<生>とは何の関係もなく、また芸術とも何の関係もないが、それでもやはり偉大な本だ。それは、読む者が本の中に吸い込まれてしまうという意味で偉大だ。人はその中で迷いかねない。まさに鬱蒼たる森の中に迷い込むようなものだ。空には星、あたりいっぱい樹ばかりだ。道もなければ、人の通った跡もない。どこに行く当てもない。Osho「私が愛した本」p198
本格的な酷評だ。Oshoが取り上げているもう一冊の林語堂の本「中国の知恵」はまだ見つけていないが、検索してみれば、林語堂の本は結構ある。もっと冊数を読んでみないと、当ブログとしては結論はだせない。
通常、関連本を読もうとした場合、なんとなく億劫だなぁ、と思う場合と、お、これは面白そう、と全然苦にならずに読み進めることができる場合がある。林語堂については、まだひとつの本の半分を読んだに過ぎない。だから、まだ初期的な面白さが効果的に感じられているのかもしれない。もっと読んでみたい、と思う。何冊か、10冊とか20冊とか読んだあとに、私はどんな読後感をもつのだろうか。
それは人をどこにも導かない。それでも私は、これを偉大な本だと思う。なぜか? それは、この本を読むだけで、人は過去と未来を忘れ、現在の一部になるからだ。林語堂がはたして瞑想というものを知っていたかどうか私は知らない・・・・不幸にも彼はキリスト教徒だった。そのため彼は、道教の僧院にも、仏教の寺院にも一度も行かなかった。ああ、彼は自分が何を見逃しているのかを知らない。Osho「私が愛した本」p198
私の読んだかぎりではここまではとても言えない。いやぁ、そんなことはないんじゃないか、とさえ思う。
私自身の目で人生を観察すると、人間的妄執のかような仏教徒的分類は完全だとはいえない。人生の大妄執は2種ではなく3種である。すんわち名声、富貴、および権力。この3つものを一つの大きな妄執に包括する恰好の言葉がアメリカにある。いわく、「成功」。しかし、多くの賢明な人々にはわかっていることであるが、成功、すなわち名声、富貴に対する欲望というのは、失敗、貧困、無名に対する恐怖を婉曲にいい現した名称であって、かような恐怖がわれわれの生活を支配しているのである。p174林語堂
林語堂はエマーソン、ホイットマンやソローなどのアメリカの詩人にも言及するし、キリスト教にも言及する。あるいは当然のごとく中国の哲人たち、老子、荘子、孔子、陶淵明、柳宗元にも言及する。
中国には、儒教、道教、仏教の三宗教があて、いすれも壮大な組織を持ってはいるが、中国人特有の強靭な常識は、どの宗教も微力なものにしてしまい、人生の幸福とはなんぞやという、平凡な問題に引き下げてしまった。だいたい中国人は、あまりつきつめてものを考えなることをしないし、ある一つの観念や、信仰や、あるいは哲学の学派を、心底から信頼をすることをしない人間である。p50林語堂
老荘思想に比して、儒教や孔子に圧倒的な距離をおいているOshoと、キリスト教的環境を生き抜いた林語堂が老儒折半的な態度をとることには、おのずと、互いの立場に違いが見えてくる。
彼は「バイブル」を、つまり世界一の三流本を読んでいた。その中のふたつの小部分、「旧約」の「ソロモンの歌(雅歌)」と、「新約」の「山上の垂訓」を除いてだが。このふたつを取り除いたら「バイブル」はまさにがらくたにすぎない。ああ、彼が少しでも仏陀を、荘子を、少しでもナーガルジュナ(竜樹)を、カビールを、アル・ヒラジ・マンスールを・・・・少しでもこういう狂人たちを知っていたら----そのとき初めて科rえの本は真摯なものになっただろうに。彼の本は芸術的ではあるが真摯ではない。誠実ではない。Osho「私が愛した本」p199
「バイブル」をここまで言ってしまう人は多くない。むしろ一般的な常識では、Oshoのほうが少数派だ。「ソロモンの歌」と「山上の垂訓」はOshoのお気に入りだから、近いうちに目を通しておこうと思う。
成功欲は失敗の恐怖の別名だと、きわめて聡明に考えてしまうと、成功欲そのものは消滅してしまう。大成功すればするほど、人は失意に対して恐怖をいだく。名声に対する夢覚めはえれば、大いなる逃避の利を悟るにいたる。老子的見解からいえば、悟達の士とは、成功とは成功とは思わず、失敗を失敗とも感じない人のことである。これに反し、そこまで悟れない人の特徴は、外見的な成功や失敗が絶対真実のものと考えてしまう点にある。p266林語堂
本書が「人生をいかに生きるか」(The Importantce of Living, 1937)というタイトルの一冊であってみれば、要領よくこの世を生き抜いていく処世訓が展開されていたとしても、必ずしもこの一冊だけが糾弾されるべきものでもなさそうだ。
林語堂は<生>のことなど何ひとつ知らない。死について何も知らないのだから。中国人であるにもかかわらず、彼は堕落した中国人、キリスト教徒だ。それこそが堕落というものだ。堕落は人はキリスト教徒にする。堕落は腐敗をまねく。すると人はキリスト教徒になる。Osho「私が愛した本」p197
ここにおいて、論点は非常に微妙なところにやってきた。Oshoは生きるということは、死を知り生を知ることだ、とする。それには瞑想が必要だとする。林語堂は、人生を幸福に生きるには、ユーモアが必要だとする。
叡智、言葉をかえていえば、最高のものの考え方は、われわれの夢または理想主義を、現実に根ざすすぐれたユーモアの感覚をもて和らげる点にあるのである。p41林語堂
林語堂の「ユーモア」論も捨てがたいし、Oshoの死と生をくぐりぬける「瞑想」の道も、必ずしも容易なことではない。たしかに自分の中にも、林語堂の中に逃げてしまいたくなる部分は存在する。もし、それで満足するなら、結局は、自分はそれまでの存在だったのだ、ということになるのだろう・・・・、か。
.
| 固定リンク
「49)ブッタ達の心理学2.0」カテゴリの記事
- 死ななくてすむ人間関係の作り方(2009.08.17)
- 自分を活かす色、癒す色(2009.07.28)
- 自分力を高める色彩心理レッスン(2009.07.28)
- 色彩心理の世界(2009.07.27)
- ゴーリキー 母(2009.07.25)
コメント