摩訶迦葉
「禅家語録 2」 <1>
世界古典文学全集 36B 西谷 啓治 , 柳田 聖山 1984/01 筑摩書房単行本: 523p
Vol.2 No.687★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆
「摩訶迦葉」
つまりはマハカーシャッパの有名な「拈華微笑(ねんげみしょう)」のお話のくだりについてことだ。思うにその出典はあちこちにあるはずなのだが、Osho「私が愛した本」の巻末の紹介では、この「禅家語録2」の中の「無門関」第六則が、出典のひとつとして紹介されている。
世尊釈迦牟尼仏が、むかし霊鷲山の法会で説法しておられたとき、来会の僧たちの前で、ひと枝の花を取って人々に示した。そのとき、みな黙ってしまったが、ただ摩訶迦葉尊者だけがそれを見てにっこりと微笑した。すると世尊は、「私のところに、真実の教法にして一切を照見し一切を蔵する眼、妙なる涅槃(悟り)の心、形相をもたない真実の相、不可思議ななる法門がある。いま、それを言句文字にたよらず、経典の教え以外のしかたで、摩訶迦葉尊者にゆだねるであろう」と言われた。p368
実に有名なお話で、このエピソードがあったゆえに禅の流れができたともいえる。
仏陀は目を上げ、声をあげて笑うと、摩訶迦葉を自分のもとへと呼んだ。彼に花を与え、一座の者たちに説法が終わったことを告げてこう言った。
「私は、お前たちが受けとる資格のあるものはすべて与えた。そして摩訶迦葉には、彼にふさわしいものを与える。彼はまさにそれに値する。私はお前たちに何年にもわたって言葉で語りかけてきたが、お前たちは決して理解しなかった。今日私は沈黙で語りかけた。そして摩訶迦葉の笑いが、彼が理解したことを告げていた。Osho「私が愛した本」p76
あまりにシンポリックであり、誰でも知っているお話だ。多言は要しない。以心伝心、不立文字、教外別伝。
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コメント
suganoeki さん
なるほど、赤薔薇と白薔薇の違いがあったわけですね。
Oshoの場合、地球各地域、各流れの意識性をメルティングしているところがあるから、このようなダブルミーニング、マルチミーニングはあり得るでしょうね。
タロットカードなどでは、赤薔薇と白百合のクロスがあって、赤の情熱と、白の純潔さの象徴、などと取る場合もあるようです。もちろん、この辺には薔薇十字会の影響も垣間見えるのですが。
1980年代末のOshoは、このミステッィク・ローズ瞑想と、ホワイト・ローブ・ブラザーズフット瞑想と、二つを意図的にリリースしたように私には見えています。
日本語では聖白衣同胞団(とかなんとか)など表現されるエソテリックな動きが昔からあって、いずれ神智学などとも通じるものなのでしょうが、Oshoがこの流れを意識した、というより、誰かが持ち込んだものを受け入れた、と考えることもできるように思います。
投稿: Bhavesh | 2009/07/06 16:07
Bhavesh さん、あびさん、こんにちわ。
「拈華微笑(ねんげみしょう)」は、講談社新書だかの仏教の本で見て以来、難しい漢字と読みだとおもいつつも、なんだか忘れられない言葉です。
それを「ミスティック・ローズ」とするあたりは、Oshoさんの欧米文化への配慮だったりするのでしょうかね。
薔薇というと西洋を連想するわたしです。
しかしながら、wikipedia をいま見てみたら、
> イスラム世界では白バラはムハンマドを表し、
> 赤バラが唯一神アッラーを表すとされた。
などともあり、いや色々おもしろいですね。
投稿: suganoeki | 2009/07/06 14:48
あびさん
書きこみありがとう。このような間違いに気づく人はいるかもしれないですが、ここまで指摘してくれる人はなかなかいないものです。どうもありがとう。
以前、あび本人の本の文章を引用したときでさえ、私は誤字脱字以上の転記間違いをしており、まったく恥ずかしい思いをしたものです。
私自身は、人生万事60点合格主義で生きてきたものだから、ほとんどアバウトです。少なくとも完璧主義者ではありません。60点にすら到着しないことも山とあります。いくらそそっかしいブログであったとしても、すべての書き込みにおいて、自分で読みなおしても、必ずひとつやふたつの誤字脱字があって、いつも恥ずかしい思いをしています。誤字脱字や勘違いは今後とも指摘してください。
禅の在り方については、いろいろな考え方があり、個人ブログ上で議論を尽くすことはなかなかできないことのように思います。ただ、最近読んだ本でいうと、林語堂http://terran108.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-412a.html
のような形で自分の出自である伝統にもどる、ということは私の場合はないようです。
投稿: Bhavesh | 2009/06/29 22:36
ども。
僕は耳に「ねんげみしょう」と入り、目に「拈華微笑」と入ってから、その後に、OSHOの講話にもそれが語られているのと知ったという経過をたどっている仏教少年だったのですが、それゆえにこそ、こういうときには、登場したほうがいいかなーと自分では思っているのですが、あまりうるさいようなら、自粛します。苦笑。
「みしょう」と読むのは、仏教用語は呉音で読むというこの島の習わしですから、これを破ってしまうと、極端な話「修行」(しゅぎょう)が(しゅうこう)になってしまい、修学旅行の略かなーなんて思ってしまったりもしますから(笑)、まあ、やはり、習わしに沿って読む人間がまだ生きているうちは、習わしを言ってもいいかと、つまり、私としては、わしの目の黒いうちは「ねんげみしょう、じゃあ」と言いたいと思います。笑。
(一応いまは国語の先生です。)
僕の考えでは、OSHOは、鈴木大拙が漢訳仏典を英語で表現した禅語を英語で用いていると思うのですけど、ぐるっと一周してその英語が日本語に訳されるとき、OSHOとか、カリフォルニア経由で仏教と出会った人々が、元の日本語に戻せないことはよくあることで、それはそれでおもしろいことでもあります。
そして、どうせなら、こうしてこうしてこうなってグルっと一周したら、こうなってかえってきましたー、と全部知っておくのも、時におもしろいかなとも思ったりもいたします。
投稿: あび | 2009/06/29 21:10
あびさん
ご指摘ありがとう。さっそく訂正しておきました。
実はキーボードを打ちながら、はて、どっちにするかすこし悩んだのです。そして検索してみると、どっちもありなので(誤字として流通している)、あえて蓮華にしたのでした。
史実や中国語の典籍を語源とするかぎり拈華がただしいのでしょうが、そこに禅語の危うさをちょっぴり感じます。
「禅語事典」http://plaza.rakuten.co.jp/bhavesh/diary/200806060000/ や「人生を癒す百歳の禅語」http://plaza.rakuten.co.jp/bhavesh/diary/200806090000/
を見ていると、平均的な現代日本人であるはずの私には、とてもとても読めないし書けないような文字がたくさんあります。
拈華と言ったほうが、ブッダが蓮華をちょっと指でつまんで顔近くに持っているような優雅さを感じるのだけれど、もともと素養のある人ばかりではなく、若い人にも理解してもらおうとすると、蓮華微笑も、まんざらでもないかな、と思います。ロータス=スマイル、これもまた、なかなかイメージしやすいものがあります。
微笑を、みしょう、と読まなくてはならないところも、ちょと横紙破り的傾向の強い私には、型苦しいのでした。
Oshoは、ベースにこの拈華微笑を据えたであろうと思われる瞑想法に「ミスティック・ローズ」という名前を付けました。ロータスとしないで、ローズとしたところに、Oshoのユーモアのセンスを感じます。
なにはともあれ、ブログは双方向性の妙味があるわけですから、貴重なご指摘をいただいた限り、ここは、「拈華微笑(ねんげみしょう)」が正しい表記であることをメモし、訂正させていただきます。 Thanks
投稿: Bhavesh | 2009/06/29 10:51
蓮華微笑ではなく、拈華微笑(ねんげみしょう)です。
投稿: あび | 2009/06/29 01:33