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2009/06/22

人生をいかに生きるか(下)

  <上>よりつづく

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「人生をいかに生きるか」
林 語堂 , 阪本 勝・訳: 1979/11 講談社 307ページ
Vol.2 No.675★★☆☆☆ ★★★★☆ ★★★☆☆

 いかなる文明も、その最後の確認如何は、それが、どんなふうな夫や、父や、母を造り出すかという点にあると、私はむかしから考えている。このきわめて簡単な点に触れないでは、あらゆる文明の事績、すなわち、芸術、哲学、物質的生活といったようなものには、なんの意味もないものとなってしまう。p13

 上巻を読み終わった時の印象を引きづりながら下巻を読みだすと、なんという「俗人」かというような論旨の展開がつづく。

 「個人的経歴」の形にあらわれる一個の理想としての独身生活には、なにか個人主義的なところがあるばかりではなく、ばかばかしい主知主義的な点があって、この後者ゆえに、独身主義は排撃されるべきものなのである。いったん好んで無用の主知主義者となる頑迷な独身主義者や未婚夫人は、その外形的な功績にあまり夢中になりすぎているのではなるまいか。家庭生活のほかのなにかよい代用物のなかに幸福を見出すことができ、深い満足の味わえる知的、芸術的、職業的な興味を求めることができるとでも、信じているのではなかろうか。p22

 1937年、著者が42歳のときに書かれた文章とは言え、2009年の現在、この文書を読んでストレートに支持できるとすれば、かなり偏った信条の持ち主に見られてもしかたないだろう。少子化現象がすすみ、独身生活がどんどん拡大している現代日本においては、「婚活」という言葉さえ登場して、否定の否定は肯定、というような逆転現象が見られる。しかし、ここに書かれているような、一方的に決めつけているかのような言葉はなかなか受け取りにくい。

 たとえば、結婚という制度にすら痛烈なジョークを浴びせ続け、小さな家庭は個になり、さらには個はコミューンのなかに存在するようになるだろう、と預言したOshoにしてみれば、そのビジョンの違いはあまりにも明白である。Oshoサニヤシンの多くは結婚し、子供を中心とした家庭生活を送っているが、いまでもコミューンのなかに暮らしているサニヤシンはそれほど多くはない。

 われわれはいったい何をしようとしているのだろうか。私にはわからない。
 四角い家を建て、順に並べてゆく、樹もないまっすくな道路をつけてゆく。曲がりくねった道や、古風な家などはもはやなく、庭園に井戸のあるようなところはどこにもない。街のなかに私庭があったとところで、そんなものはおよそカリカチュアというものだ。
p151

 林語堂の痛烈な批判精神がいきつくところはどこであろうか。

 「オールド・ボーイ」こと老子は、その「道徳経」のなかで、「不刻の岩」のことをいつも力説している。自然をあまりひねくりまわすことをやめよ、至高の芸術品は、最大の詩や文章と同じく、なんら人工の痕なく、曲水浮雲のように自然で、中国文芸批評家がしばしばいう「斧鑿(ふさく)の痕をとどめざる」ものだからである。p155

林語堂は、他のキーパーソン同様、要所要所において老子を登場させる。しかるに、巻末の解説「林語堂その人と思想」の中で解説の合山究は書いている。

 実際生活においては、彼は勤勉誠実な儒家的人物であり、宗法にはこだわらぬが敬虔なクリスチャンであった。人情に篤く、家庭に温かく、熱誠にあふるる態度で人に接し、尽くることなき情熱を傾けて文学や芸術を語る彼は、老荘的な怠惰や放縦とはいささかも縁がなかったという。道教的な性向は、内面的、気質的な問題として、彼の内部に根深く存在し、文学思想となって奔放に顕在化したにすぎないのである。合山究p305

 老荘が必ずしも怠惰や放縦とは言えないが、「いささかも縁がなかった」と研究者が断定する限り、「人生をいかにいきるか」という大テーマのなかでは、老荘的なライフスタイルは、林語堂という人とは縁がなかったと言っていいのかもしれない。

 宗教や思想方面について言えば、彼は本来クリスチャンであるが、長いあいだ異教徒をもって自認してきた。しかし、59年にはふたたびキリスト教に復帰したことを宣言している。合山究 p304

 上は、1985年生まれ、1976年に81歳に亡くなった著者、74歳の時の心境である。

 私は異教徒である。この声明のうちには、キリスト教に対する反逆的意味が含まれていると思う人があるかもしれない。しかし反逆という言葉は苛烈な言葉だ。私などはきわめてゆっくりと歩みを進めて、すこしづつキリスト教から離れてきた人間であって、そのあいだいに愛と敬虔の念をもって、死力をつくして諸々の教理に取りすがったのだが、残念ながらそれはみんな私から逃げ去ってしまった。反逆という言葉は、かような気持ちを正しく表現しない。つまり憎悪の気持は絶対になかたのだから、反逆とはいえない。p256

 祖父の代より続いたキリスト教牧師の子としてうまれ(p297)に生まれ、一時は上のこのような文章を書いた(42歳)林語堂は、結局74歳の時にクリスチャンになったのだから、当ジャンルにおいては、一応「キリスト教」編に入れておいてもまんざら間違いではない、という結論に達した。

 最良の書は、われわれをこの瞑想的な気分に誘うものであって、事実報告に終始するだけのものではない。この点からいえば新聞閲覧に費やされる莫大な時間は、全然読書ではないと私は思う。なぜなら新聞の一般読者は、瞑想的価値のない事実や事件の報道ばかりに接するからである。p222

 私はいつでも山上の垂訓に還ることができた。「野の百合を見よ。」などという詩句は、なかなか傑作なので、ちょっと疑うわけにもゆかなかった。私に力を与えたのは、この詩句と、キリスト教徒の精神生活の意識であった。p264

 林語堂の本は、時代背景やそのキャラクターを勘案したうえで読み進めていく上では、いろいろな示唆があってなかなか面白い。しかしてまた、Oshoがわざわざ「私が愛した本」の158冊のうちの2冊としながらも、林語堂を「堕落した中国人、キリスト教徒だ。それこそが堕落というものだ。堕落は人をキリスト教徒にする。堕落は腐敗をまねく。すると人はキリスト教徒になる。」p197と酷評していることにも合点がいく。

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