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2009/06/26

黄檗伝心法要<1>

<1>よりつづく

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「禅家語録 1」世界古典文学全集 36A <2>
西谷 啓治, 柳田 聖山 1972/12 : 筑摩書房 単行本 519p
★★☆☆☆ ★★★★★ ★★★★★

「黄檗伝心法要」<1>

 「私が愛した本」の中の「黄檗の書」とはこの書であろうとされる。

 6番目。6番目はもうひとりの中国人による本「黄檗(希運)の書」だ。それは小さな本だ、論文ではない。ほんの断片だ。真実は論文では表現されない。真実の書に哲学博士とかくわけにはいかない。哲学博士は馬鹿者たちに与えられるべき学位だ。黄檗は断片で書く。表面的には、それらは何の関連性もないように見えるがそうではない。そのつながりを見出すためには、人は瞑想しなければならない。これはかつて書かれた最も瞑想的な本のひとつだ。

 英語では「黄檗の書」は、英語ふうに「黄檗の教え」と訳されている。タイトルまで間違っている。黄檗のような人間は教えたりしない。その中に教えなどない。人は瞑想し、沈黙し、それを理解しなければならないのだ。Osho「私が愛した本」p36

 臨済宗、曹洞宗とならんで、黄檗宗と称される禅宗の一派をなす伝統だが、その悟りへの透徹さは完全だ。

問い、「道とはどのようなもので、またどのように修行すればよいのでしょうか。」 

師の答え、「君はいったい道をどんなものだと考えて修行したいなどと言うのだ。」 

問い、「諸処のお師匠さまがたはみな、禅に参じ道を学べと説いておられると伺っています。」 

答え、「機根の鈍なやからを導き入れるための文句だ、そんなのは頼りにしてはならぬ。 

問い、「それは鈍根の人を誘導するための文句にすぎぬとなりますと、では上根の人を導くには、いったいどんな法をお説きになりますか。」 

答え、「上根の人なら、いまさらそれを求めるため人を頼りに行こうなどとするものか。この自己さえも把えようのないものである以上、ましてこのおのれの認識の対象たりうる法などというものがあろうか。経典にも言ってあるではないか、『法という法はいったい何の形をしているのか』と。」 

問い、「そういうことでしたら、追い求める必要は一切ないというわけですね。」 

答え、「そうだ。そのようであれば、苦労ははぶけるというものだ。」 

問い、「しかしそういうことですと、何もかも一切が断ち切られてしまって、すべて無になってしまいはしませんか。」 

答え、「いったい誰がそれを無にするというのかね。君はそいつを何ものと考えて追い求めようとしているのだ。」 

問い、「追い求めてはならぬとおっしゃりながら、なぜまた一方では、それを無として断ち切ってはならぬとおっしゃるのですか。」 

答え、「追い求めさえせねば、それで事はすむのだ。いったい誰がそれを立ち切れと君に言ったかね。それ、君がいま見ているあの虚空、あれを君はどのように断ち切るつもりかね。」 

問い、「それではこの法というものは虚空と同じだの異なるだのと言ったかね。私はさしあたり以上のような説明をしただけなのに、君はすぐさまそこのところに解釈を働かそうとする。」 

問い、「それなら人のために(虚空の喩えを引いたりなどして)解釈を働かせるようなことをなさらなければいいでしょう。」 

答え、「私は君の邪魔だてした覚えはないぞ。要するに解釈(知的分析)というものは情(こころ)の働きの枠内のものだ。そいう情が働くと智慧は遠のけられる。」 

問い、「つまり、そこのところに情(こころ)を働かせなければ、それでよいわけですか。」 

答え、「情を働かせさえせねば、よいのわるいなどと言うものは誰もおらぬ。」 p278「黄檗伝心法要」

<3>につづく

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「黄檗伝心法要<2> 黄檗の書」につづく  2010/07/25

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