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2009/06/29

荘子

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「荘子」中国の思想 12 第三版
荘子  岸陽子 1996/08 単行本: 徳間書店 284p
Vol.2 No.690★★★☆☆ ★★★★★ ★★★★★

 一番最初にOshoのところに行った時、実は、その人物がどんな存在なのか、よくわからなかった。インド人で最近欧米からも訪問者があるらしい、という程度。読むべき本も「存在の詩」一冊しかなかった。どんな動きかわからなかったが、とにかく行ってみなければわからないだろう、という、若者特有のあたってくだけろ精神だった。

 今思えば、実は私は二股をかけていた。当時日本人青年がインドを旅しようということなら、Oshoか日本山妙法寺の流れだった。とにかくインドに行って、どちらかにお世話になろう。その程度だった。そして、ひとつ目にOshoを訪問したことが正しかったかどうかは今でもわからない。ただそうなっていたとしか言えない。

 プーナの彼のアシュラムを訪問して驚いたことは、Oshoは彼の住まいを老子ハウスと名付けていたこと。これは想像もつかなかった。そして、隣接する講堂を荘子オードトリアムと名付けていたことにも驚いた。私のなかのチャンネルが、どこかでカチッとはまる音がした。

 つまりここで私が言っておきたいことは、Oshoが語っていたから老荘が好きになったのではなくて、もともと私は老荘に魅かれていて、しかもOshoが老荘を重く見ていた、ということなのだ。これは日本にいてOshoを想像していただけでは予想もつかなかった。

 その後に日本山の藤井日達上人のもとでひと月も修行する機会を得ながら、結局その道場をあとにしたのは、日本山には仏教しかなかったからかもしれない。日本山には、直接的に老荘と繋がるようなものはなかった。

 もし私自身の「私が愛した本」を一冊出せ、と言われたら、この「荘子」を出すのではないだろうか。いろいろ考えて結局これしかないと思う。だが、よくよく考えてみると、じゃぁ、どの出版社から出た、どの著者によるものか、などと聞かれたら、完全にアウトである。あちこちの「荘子」をめくっているが、一冊単体の「本」はイメージすることができない。私にとっては荘子は「本」ではないようだ。

 老子やボーディダルマは、あまりにオリジナルすぎる。ひとつのカテゴリの祖である。類例がない。まったくの個性だ。彼らはあまりにキャラが濃すぎる。「本」として読むのは面白いが、人生のなかに取り込むような、栄養素としてなら、彼らは強すぎる。樹木としての私は、その栄養素が濃すぎるために、かえって枯れてしまうかもしれない。

 荘子は老子について語っていることが多いので、老子についてもわかるが、一人の人間として生きた人間像として、私は荘子のほうがイメージしやすく、親しみやすい。老子ほどけた外れではないが、易経孔子ほど、世間ずれしていない。なんとなく私にぴったりサイズという気がする。

 6番目は「荘子の寓話」だ。彼こそは最も愛すべき人間であり、これこそ最も愛すべき本だ。Osho「私は愛した本」p13

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