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2009/06/23

中国の知的ライフ・スタイル

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「中国の知的ライフ・スタイル」 
林語堂著  喜入虎太郎訳 1979/12 青銅社 単行本 254p
Vol.2 No.677★★☆☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 はて、この本は、Oshoが言うところの「中国の知恵」の邦訳であろうか。英語のタイトルはThe Wisdom of China であるが、ウィキペディアを見ると、数ある著書の中で、一番それらしいのは「支那の知性」という本で、のちに「中国人の知的ライフ・スタイル」に改題されたとある。英語版Wikipediaにも「The Wisdom of China and India」という本はあるようだが、はて、それがお目当ての本かどうかも判明しない。

 しかし、ここは代表作とされる「人生をいかにいきるか」をめくり終わった今、こまかい検証は必要なかろう。数十冊もある膨大な林語堂の著書をおっかけてみるか、適度なところで手を引くか、の判断材料としてこの本がなってくれたらそれでいいだろう。

 2番目。林語堂によるもう一冊の本「中国の知恵」だ。彼には文筆の才がある。だから彼は、中国どころか全世界の知恵をも含む老子のことを何ひとつ知らないにもかかわらず、「中国の知恵」でまで書くことができる。もちろん林語堂は、老子の2、3の文章を入れてはいる。だがその章は、彼のキリスト教的教育と一致するものだ。言い換えれば、全然老子的ではないものだ。換えは荘子も引用しているが、当然その選択はきわめて合理的なものだ。ところが荘子は合理的な人間ではない。かつて生きていた人間の中でも最も不合理な人間だ。Osho「私が愛した本」p199

 林語堂のこの本はOshoが生まれる1930年前後の文章がまとめられている。今から80年前の本だから、ましてや英語や中国語や日本語に翻訳され続けているかぎり、原書の在り方とは違った形に変貌している可能性もあるので、単純に現代人のセンスで林語堂を受け止めてしまうのは、必ずしも正しい読書スタイルではないと思う。

 しかしそれを言い出したら、おなじ時代のグルジェフやシュタイナーなども同じことになり、「新潮文庫20世紀の100冊」のなかで言えば島崎藤村やサン・テグジュペリもおなじく割り引いて考えなくてはならなくなる。ましてや、ここはなにも林語堂の個人攻撃をする場ではない。ただ、長年にわたる彼の活動の顕著であればあるほど、ひとつのたたき台として、未来の地球人スピリットはいかにあるべきか、を考える上では、林語堂は恰好の材料になってくれるということになるだろうか。

 荘子は私の恋愛のひとつだ。自分が愛する者を語るときには、必ず極端な、誇張した言い方になるものだが、私には極端には聞こえない。私なら荘子に、彼が書いた寓話のどのひとつに対しても、この世の王国すべてをやりたいくらいだ・・・・しかも彼はそういうものを何百と書いている。そのひとつひとつが「山上の垂訓」であり、「ソロモンの歌」であり、「バガヴァッド・ギーター」だ。ひとつひとつの寓話があまりにも多くのものを表し、計り知れないほどに豊かだ。Osho「私が愛した本」p199

 当ブログにおいては、「荘子」も、「山上の垂訓」も「ソロモンの歌」も「バガヴァッド・ギーター」も未読である。しかしこれを機会にすこしづつ近づいていってみよう。

 林語堂は、荘子をキリスト教徒的に引用している。彼がそれを理解しているとは思えない。だが換えは確かにいい書き手だ。だから「中国の知恵」は、バートランド・ラッセルの「西洋哲学史」とかムーアヘッドとラダクリシュナンの「インドの心」などのような、一国を代用する数少ない本と並んで置かれるべきものだ。それは歴史であり、神秘ではないが美しく書かれており、文法も何もかも正確に書かれている。Osho「私が愛した本」p200

 なんと当ブログは「西洋哲学史」も「インドの心」も未読である。すでに林語堂の2冊の本を手にしたかぎり、ここはすぐに林語堂追っかけを始める前に、これら一連の書をめくってから、もう一度考えることにしよう。

 彼はキリスト教徒であるばかりではなく、修道院学校で教育を受けた・・・・。さて、子供の身に降りかかることで、修道院学校以上の不幸を思いつけるかね? だからキリスト教徒の観点からすれば、何もかも正しい。そしてここで今、彼について話している狂人の観点からすれば、なにもかも間違っている。だがたとえそうであっても、私は彼を愛している。彼には才能がある。申し訳ないが、私には彼が天才だとは言えない。だが彼にには才能がある。途方もない才能がある。それ以上は要求しないでほしい。彼は天才ではない。だからお世辞は言えない。私には真実しか言えない。私は絶対的に真実であることしかできない。Osho「私が愛した本」p200

 Oshoがここまでいう本はあまりない。ここにひとつの葛藤がある。

 市民たちの深い眠りを妨げるためにでも、卿の花火をもっと音高く揚げ、もっと明るく花火をはねさせずや。しかして全市の大火よりも美しき供応はなく、きらびやかなる道化はあり得ないだろう。
 なぜならば、その灰の中より「美しき都」が起り、しかしてその廃墟の中より「新しき王国」が地上に生まれるだろうから。なぜなれば、余は「蘇生」を待望するほどにも、「死滅」を熱望するものだから。
 だが、袂を分かつに当り、余の忠言を入れよ。今しばしはなお「真理」を庇い、愉楽のベールであろうとも相当の衣服をつけさせよ、なぜなれば、裸の「真理」は僧正たちの見るべきものにあらざれば!

 かくのごとくツァラトゥストラは語れり。  林語堂p192「ツァラトゥストラと道化」

 林語堂は実に神通無碍の言葉使いを知っている。この本は雑誌に掲載された小さなエッセーたちをまとめたものだが、であるがゆえに、実にテーマは広範な分野におよび、時には政治的にも時事問題にかなり影響された内容を書いている。しかし、それを差し引いたとしても、実にOshoが絶賛する文筆の才は、おっとり刀の出会いがしら読書子にも、尋常ならざることがよくわかる。

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