村上春樹『1Q84』をどう読むか<1>
「村上春樹『1Q84』をどう読むか」 <1>
河出書房新社 島田裕巳 内田樹 森達也他 2009/07 単行本 222p
Vol.2 No723★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆
「1Q84」効果はなるほど結構大きい。ある人のブログにトラックバックを張ったら、そこから当ブログにやってきた人は約100人。その人のブログのメディア性の大きさを称賛すればいいのか、村上春樹人気を評価すればいいのか。ただ、そういう形でやってきた人は、ただそれだけの繋がりなので、リピーターになってくれるようなことはないようだ。
私はごくごく最近まで、村上春樹と村瀬春樹の違いさえ分からなかったのだから、特段、村上ワールドに関心があるわけではない。むしろ、二人の春樹を並べてみるだけなら、私は村「瀬」春樹のほうが好きかもしれない。なんせ、姿をくらませながら、ソフト・ポルノ小説(時にはそういう風に読める)みたいなのを書き続けている村「上」春樹より、奥さんの、ゆみこ・ながい・むらせ、と仲良くやっていそうな、村「瀬」春樹のほうが好意的にイメージしやすい。
店頭には「1Q84」ばかりではなく、その周辺の書籍もだいぶ目立つようになってきた。小説そのものは、店頭で「立ち読み」しただけで、あとは図書館の順番待ちだが、あと250人ほど、私の前にいる。ゆっくり読めるようになるのは、だいぶ後のことになるだろうが、ひょっとすると、私は、「ゆっくり」は読まないかもしれない。
この本、約30人ほどの「著名」人たちの短いコメントを集めて一冊にしたものである。この人々が「著名」なのかどうかは知らないが、私の目にはまず島田裕巳の文字が飛び込んでくる。たしか10ページほどのコメントになっていたが、最後は(談)で締めくくられていたから、電話インタビューででも答えたものだろうか。それにしても、最後はきちんと校正して、加筆しているであろう。だが、談であるだけに、割と軽く語られている。
ヤマギシ会についてのコメントが長く、新島淳良などについてもかなり語っている。内部の人間しか知らない新島の秘密の部分を、村上はどうして知っているのだろう、と疑問視している元「内部」の人間、島田ヒロミ先生の語りが冴える。小説家なら、誰だっていろいろ調べて書くだろうに。ヤマギシ会の「秘密」は、自分しか知らないみたいな口ぶりが可愛い。
森達也は、麻原集団を扱った「A」という作品で、物議をかもしだしたが「ご臨終メディア」のような作品より、私は同じ森達也ならグレート東郷について書いた「悪役レスラーは笑う」のような作品のほうが好きだ。森は例の一連の出来事について独特の視点を持っているが、この一連のできごとのソーカツとしては、私は佐木隆三の「慟哭」以上のソーカツを知らない。
この本において、森もまた(談)として締めくくられていたので、充分に推敲されたコメントではないかも知れないが、それでもやっぱり、ちょっと言葉尻の割り切りかたがすっきりしない。私はあの集団については、チベットのマントラを混同されることさえ気にいらないので、当ブログでは極力、集団名は書かないようにしている。
内田樹の文章は彼のブログからの転載ということだから、同じ文章をいまだにネット上で読めるかもしれない。しかし、複数のコメントがあるが、どの文章なのかはまだ確認していない。自分もブログを書いていて思うのだが、ブログに書くにはブログに書くスタイルがあるので、もし内田がまた書物として書くとするなら、また別な角度からのコメントになるのではないか。
よく考えてみれば、あの事件のあとも「『オウム事件』をどう読むか」なんて本もあったくらいだが、よくよくみなさん、「どう読むか」がお好きなようだ。この本でも他のいろいろな人々が、思い思いの感想をお述べになって、おられる。
しかしまぁ、それはあくまで「たかが」小説ではないか。村上春樹はノーベル文学賞をとるかとらないか、なんてことが、話題になっているが、サルトルのようにノーベル賞を拒否した作家たちも過去にいるし、ノーベル賞をなにか最後の「上がり」のように見てしまうのはまちがいでしょう。大江健三郎もノーベル賞後の文化勲章を拒否したのだった。
いろいろな読み方があっていいのだろうが、なにかに故事つけて考えてばかりいないで、少しは内なる世界への旅のひとつとして読みたいものだとは私は思う。
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