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2009/07/19

魂とは何か さて死んだのは誰なのか<2>

<1>よりつづく 

魂とは何か
「魂とは何か」 さて死んだのは誰なのか<2>
池田晶子 /わたくし、つまりNobody 2009/02 トランスビュー  単行本 255p

 先日、ちょうど1年前にガンで余命3カ月と宣告された人とお話をした。仕事の帰り際に仲間たちとお茶を飲んだだけなのだが、それでもちょっと印象に残ったことがあった。

 一年前に余命3か月なら、通常ならこの世のひとではない。すでに昨年亡くなられたはずの方である。しかし、一旦は医師が見放したはずの彼はまだ生きていた。会社を整理し、仕事を同僚にまかせ、妻ともどもすっかりその旅じたくを調えた。

 しかし、彼は生還した。治療効果があったのか、彼の精神力がなにかを上回ったのか。団塊の世代の後半とはいえ、彼はまだまだ現役世代である。年金暮らしで悠々自適、というわけにはいかない。彼は、また仕事に復帰して、仕事環境を整えつつある。だが、それでも再発、移転も、気にはなる。いつまた同じ状況に陥るか予測はつかない。

 彼の生還は妻にとっても大変なよろこびで、妻が投書したその体験談が地元紙の夕刊に掲載された。それまで、彼の病気に気がつかなかった私にその夕刊のコピーをくれて、近況を話してくれた。そしてひとこと、「ガン保険には助けられた」と話した。

 青年時代に「余命6カ月」を宣告されてから、すでに30年近く生き延びてしまっているこちらの立場としては、「死」からの「生還」もそうそうめずらしいことではない、と思っているし、「死」が人々の「生」をいかに純化するかも、すこしは分かる。保険にも助けられた。

 しかし、「死」から生還した直後のお話として、ガン保険、のお話はいただけない。本当は「魂」の話をしたかった。「死」と身近に遭遇することによって、何がどう変わったか。なにを理解したか、そんなことを本当は聞きたかった。

 別な仕事仲間には、また別なストーリーがあった。こちらは心臓疾患だった。こちらも団塊世代の前の世代ではあるが、まだまだ生命力旺盛に見えた。しかし、彼は半年間、生死の境をさまよい、意識をもたなかった。外側から見ていただけでは、眠っているようにしか見えなかった。

 こちらの彼も半年後、目を開いた。そして、医師のメディカル・コントロール下にありながらも、以前の元気をとりもどした。「イエス・キリストは十字架の上で死にました。しかし、私は半年後に生き返りました」と、なにかの勉強会の時、みんなの前でステージから挨拶した。つづく話は、やはり仕事の話だった。「魂」の話には、つながっていかなかった。

 こちらの聞き手の体制になにか欠陥があるのかもしれない。「魂」の話をごく自然にできるような環境にないのかもしれない。すくなくとも、私自身が、すぐそのような話を聞かせてもらえるような雰囲気を持っていないのかもしれない。

 あるいは、と思う。人は「死」の体験をしたとしても、必ずしも、「魂」へ行きつくとは限らないのかも知れない、と。

 <魂>という語、これだけ取り出して聞く時の一種怪しげな響きが、おそらく馴染まないのだと思う。とはいえ、気をつけて聞いていると、わりとよく人はこの語を口にしているのだ。明らかに「死後の存在」を意味している「魂の冥福」という言い方があり、「現代の魂」「迷える魂」「魂の救済」などは、心とか感情とか、それらの総体としての人生の姿とか、そういう意味合いで使われることが多いようだ。最近はよく聞く「自分探し」「私探し」という言い方も、まずこの文脈にある。p20

 人は、いざ「死」に直面しても、「魂」と遭遇することはすくない。それには準備が必要だ。そこにこそ、「チベット死者の書」の意味がある。もし人が深く瞑想すれば、そこに「死」を体験することができ、「魂」を見つけることができる。それは必ずしも、肉体的な「私」を必要としない。もし「私」が「魂」と出会いたいと思うなら、まずは「私」の「死」を体験することだ。通常は、ここまで煮詰まった思索を、人はしない。

 「意識」の普遍性は言えるが、<私>の普遍性は言えない。そこで、<魂>の語を使ってみたいと私は考えるのだ。「社会的な<私>」から峻別された「形而上的な<私>」として、そして敢えて、その先のないどん詰まりの意、「<私>のイデア」として、<魂>というこの言葉をだ。p24

 人はどこかで手を打たなければならない。円周率を3と割り切ったからと言って、それは間違いとは言えない。「私」が割り切れるならそれでよい。必ずしも3.14が正しいともいえない。だが、そこで手を打つことができるなら、それでもいい。3.14159265・・・・とどこまでも追っかけたければ、追っかけてもいい。だけど計算上はここが終点ということはない。

 結局のところ、人はみな同じではないのだ。同じなのは見た目のこの形だけなのだ。「同じではない」というのは、「不平等」という意味ではなく、たんに<魂>が別々だということである。民主主義の悪いところは、誰も彼も同じで、またその同じというのが、ただ「人間である」というそれだけの根拠により、またそれによって求められるところも、要するに会的な生存というじつに浅薄なところにあるわけで、私はあの考え方は好きではない。人間を<魂>として見るなら、民主主義はあり得ない。天才もまた、民主主義の世の中には存在しない。「同じではない人間がいる」ということを、人々が理解しないからである。p57

 大学で哲学を専攻した彼女には、「哲学」というルーツが肌にあっていたのだろう。必ずしも「大学の中」で学んでいたのではないようだが、それでもやはり、彼女の身近なつながりは哲学にあった。彼女の「大疑団」は必ずしも哲学特有のものではない。もし、彼女がただひとり<私>として<個>であったなら、別な世界も開けただろうが、彼女は<哲学>に囲まれすぎていた。赤肉団上の無位の真人、という立場に立ち得たなら、彼女に見えたものは、もっと違っていただろう。

 今度は、父親が、がんである。
 まるで、がんに非ざれば人に非ず、といった状況である。
 どこの家でも、そんなことをやているらしく、きょうび、かんは本当に珍しくない。
p107

 上の文章は1998年10月に季刊「仏教」に発表されたものだから、この地点では、彼女は、そう遠くない時期に、自分自身である<私>が<死>に直面することになるとは、予想していなかったかもしれない。他者の<死>と、<私>自身の<死>はまったく意味は違う。

 先日、ケン・ウィルバーの大著「進化の構造」をパラパラと操っていたら、面白い一節にぶつかった。驚くと同時に、納得した。ああ、やっぱり----。 127

 ここで「進化の構造」がでてきた。

 ウィルバーは、これにプラトンの言葉、「それに関する私の論文は存在しないし、存在しえない」を等置している。これは、例の第7書簡や、対話編(「テアイテトス」、「ソフィステス」)では「語りえぬこと」について語っている有名な一節だろう。ともに、理性が存在に「降参」をつげている瞬間である。「哲学」の限界である。p127

 彼女は、とにかく、彼女の旅を続け、遠くまできた。

 ユング心理学を継承発展させたトランスパーソナル心理学も、近年とみに成果をあげているが、成長と統合の「物語」は、非常におさまりがいいぶん、自身の物語性を忘却しやすい、そんなふうにも思える。p129

 この本の中には、1992年10年から2006年9月までの彼女の文章がアトランダムに再編集されている。旧版「魂を考える」のあとの文章も収容されているので、彼女の思索の変遷と、社会的出来事のリンクを注意深くチェックしていかないと、彼女の意図したところが読み切れないところもある。ましてや、一般紙に発表されたものであれば、編集者たちの意図を抜きには、この一冊は成立していない。

 この頃、心理学の可能性について考える。裏から言えば、心理学の不可能性についてとも言える。「何が」存在しているのかという、これ自体が絶対不可能な(最後)の問いにとっては、しかし、右のような哲学的思考をも、ひとつの心理現象として見抜き包摂してゆける心理学的感受性は、なお有効ではなのではなかろうか。
 哲学的思考は、定義により、思考している「主体」、すなわちこの何ものかが、その何であるかを自ら思考することにより崩れてゆくという事態には、対応できないからである。崩壊、解体してしまった「主体」に、しかしながらなお現存する呟きようのもの、これは「誰」であるのか、もしくは「何」であるのか、問いつつ沿うて動けるのは、むしろ心理学のほうではなかろうか。
p239

 2007年2月にガンでなくなった著者にしてみれば、2006年9月に「新臨床心理学入門」に掲載された上の文は、多少のリップ・サービスがあったとしても、本音の遺言に近い述懐ではなかろうか。

 おそらくは、我々の言語アラヤ識それ自身が、自身を自覚化することで無限に生成を重ねていくように・・・・と続くのであろうか。全人類の全歴史を射程に入れて、なおその向こうを望見し、常にそこからこそ我々のこの文化、この現実にかかわろうと立つ氏の姿勢は、それを見る者に、逆に一種の壮大な眩暈のようなものを与える。アラヤ識こそが真に生成するものであると知った時、もはや「我々」とは誰のことなのであろうか。p183 2001年9月

 Whwre is Soul of Akiko Ikeda?  今、池田晶子の魂はどこにいるだろう。それは、どこか、あらぬところ、外に求めてはならないだろう。「私」のなかにこそ、それを求めていくしかないだろう。

<3>につづく

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コメント

文頭で紹介した知人は、結局、昨年春に亡くなった。闘病生活も秘密にされ、葬儀も家族葬で、参列することはできなかったが、ひと月ほど経ってから遺族に連絡の上、焼香してきた。
最後まで仕事に情熱を燃やした、白いワイシャツの似合うナイスガイだった。
あらためて、ご冥福をお祈りいたします。合掌

投稿: Bhavesh | 2013/01/12 11:20

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