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2009/07/18

トマスによる福音書<2>

<1>よりつづく

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「聖書の世界」 第5巻 新約 1
田川 建三ほか著 1970 講談社 全集 p330

「トマスによる福音書」<2>

 この「聖書の世界」シリーズ、他の本はあるのに、近くの公立図書館には、この第5巻だけが入っていない。それは偶然なのか、それとも意図的に省ぶかれたのか。判然とはしないが、他の図書館から転送してもられば、それを読むことは、それほど難しいことではない。

 しかし、ほんの2~30ページをめくったとしても、普段から聖書に慣れていない身として、はて、この福音書のどこがどう特別なのかは、ちょっとだけではわからない。

 「トマスによる福音書」はいわゆる新訳聖書外典のひとつである。
 新訳聖書外典とは、現在われわれが所有する、教会の規準と定められた新訳聖書「正典」の中に採用されなかった古代キリスト教諸文書の中、内容的には正典と同一の価値を持つとの要求をかかげ、形式的には正典と類似するか、あるいはそれを補足する諸文書のことである。従って、新訳聖書外典は、教会の教義(ドグマ)から見れば多少なりとも異端的内容を有するが、自らは、正典同様に使徒的であることを主張する。使徒トマスによる福音書」も同様である。
p327「解説」荒井献

 Oshoは「私が愛した本」の中で、仏教や禅ついては、20冊以上を取り上げているのに、キリスト教については6冊しか紹介していない。しかもそのうちの2冊はやや批判的に林語堂を出してきているだけであり、新約からひとつ、旧訳からひとつ、申し訳なさそうに代表的な部分を出してきているだけである。

 残る2冊のうち「ディオニシウス」については、なんせあのアラン・ワッツが書いているいわくつきの本である。当ブログとしてはまだ未読であるが、なにか風雲急を告げる可能性がある。

 そして、ここに来て外典「トマスによる福音書」である。そもそも、この福音書というネーミングが、この書にはふさわしくない。

 本文を読むと、----本書は確かに「福音書」と名付けられてはいるが----新訳聖書正典や外典のいわゆる「福音書」とは文学的性格を異にすることがわかる。本書は、実はイエスの語録であって、「福音書」に必要な物語の部分がほとんどないのである。p328 荒井献

 Oshoの「愛の錬金術」はこの「トマスによる福音書」についての講話録だ。いままでなにげなく見てきたサブタイトル「隠されてきたキリスト」のコピーがここに来て、さらに光を増してきた。

 20 弟子たちが言った、「天国は何に比べられるか、わたしたちに言ってください」。彼が彼らに言った、「それは一粒のからし種のようなものである。(それは)どんな粒よりも小さい。しかし、それが耕やされている地に落ちると、大きな枝をはり、空の鳥の隠れ場となる」。p280 「トマスによる福音書」

 Oshoは、この句から講話を始める。からし種(マスター・シード)は最も小さいのに、最も大きく成長する可能性の象徴として、この部分を引用している。日本語「愛の錬金術」の英語原書のタイトルは「The Mastard Seed」だ。講話がスタートした日は、1974年9月1日。ボンベイからプーナに移転して半年、Oshoはここで一段とシフトアップして、スピードを加速したようにさえ思える。ますますイエスとOshoが共振する。

 OshoにはChristianity, the Deadliest Poison and Zen, the Antidote to All Poisons」Jesus Crucified Again, This Time in Ronald Reagan's America」などがある。ここに来て、Oshoがキリスト、あるいは、キリスト教を、どのように見ていたのかが、より一層はっきりしてくる。あるいは、キリスト教に基づいた社会がOshoをどのように見たのかも、逆照射されてくる。

 科学には仏陀やイエスを生み出せない。が、科学には、覚者(ブッダ)の出現が不可能になるような社会を生みだすことができる。
 多くの人が私のところへやってきて訊ねる。なぜ覚者(ブッタ)たちはもう現れないのですか? なぜティルタンカール(ジャイナ教の覚者)たち、キリストたちは現れないのですか?
 それはあなたがたのせいでだ! あなたがたは単純な人間、純真な人間が存在するのがむつかしい社会を創ってきた。そしてたとえそういう人が存在しても、あなたがたは彼に気づかない。覚者(ブッダ)たちがいなくなったということではない。彼らを見るのがむつかしいだけだ。彼らはたしかにいる!
 毎日会社に行くときあなたは覚者(ブッダ)の脇を通り過ぎているかもしれない。だが、あなたは気がつかない。あなたは盲になっている。
Osho「愛の錬金術」上 p38

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 p271    ”山上の垂訓”の丘

 この章を担当した荒井献には、別途、単行本としての「トマスによる福音書」(1994)がある。 

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