Zen Flesh, Zen Bones<3>
「Zen Flesh, Zen Bones」 : A Collection of Zen & Pre-Zen Writings<3>
by Paul Reps (1959) Publisher: Charles E. Tuttle Company Hardcover p211
いまだにこの本の、禅肉、禅骨、というタイトルがついた由来をつかんではいないが、この本にのこの本がついた理由は分かってきたような気がする。少なくとも、なるほど、この本にはこのタイトルが似合う、と思うようになった。
この手の本は通り一遍目をとおしたから、と言ってどうなるものでもないが、かといって、ここで一気に突っ込んでいっても、どうなるものでもない。大体の概略がつかめたら、あとはその時期が来るのを心待ちして、静かに引き下がるのも、立派なな読書スタイルであると思う。
第3部の、Gateless Gateは、いわゆる「碧眼録」と並ぶ公案集「無門関」の英語訳であり、原典のほうは「禅家語録 2」p357の「無門関」などを見る限り48の公案がまとめられている。この48という数字にはエソテリックな意味合いはなく、こちらのZen Flesh, Zen Bonesのほうが48+1=49の公案で成っているとしても、そこのところにこだわる必要もなさそうだ。
ここまでいわゆるZEN関係の書物をちらちらと身ながら思うこと。それは英文のZEN書は、つねに禅の伝統を大事にし、その伝統の中で何事かを見性しようとしているふうに見えるのに対して、OshoZenは、とかくあまりそのような伝統を重く見すぎてはいない、ということ。
また、「禅の三本柱」のようにTeaching, Practice, and Enlightenmentという順序も、決してあり得ないことでもなさそうだが、Oshoの場合のように、とにかくEnlightenmentが一番先に来ることもあり得るのだ、ということも認識しておかなくてはならない。教えがあり、実践があって、究極の体験があるのではなく、まず究極の体験が起こってしまったあとに、実践や教えが追っかけてくるということも大いにありうる。
とくに「六祖檀経」などに目を通すとつくづく思うのだが、学問もなく、修行もたいして積まないのに、たった一回お経を聞いただけでEnlightenmentしてしまうという「頓悟」の存在も、ますます禅=ZENの魅力を深いものにする。
欧米の英語Zen本は、とかく中国日本文化を高く敬愛して、その中から次第に何かを得ようとしている方向性が強いように見えるが、Oshoの場合は、取り立ててどこかの地域や文化の伝統なしにはなにごともできないとする姿勢はない。むしろ、そのような依存性をつよく禅棒で撃ち落とす。
Oshoのサニヤシンという立場であってみれば、ましてや日本に生まれ、禅の伝統を敬愛している立場であるなら、なおのこと、その伝統の素晴らしさを再学習する必要性を感じながらも、それらの時間軸や空間軸を超えた、極私的にして、なお普遍的な人間の在り方の可能性を知る必要があると思われる。
この本、素晴らしい一冊だった。いずれはわが書棚にも一冊常備したい。
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