私が愛した本<35>「ガンジー自伝」
「私が愛した本」 <35>
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p
「ガンジー自伝」
オーケー、私がこの追々補で最初に話そうと思っている本は、まさか私がそれについて話そうとは、誰も思いもよらないような本だ。それはマハトマ・ガンジーの自叙伝「我が真理の実験」(邦題「ガンジー自伝」)だ。真理に対する彼の実験について話すのは実にすばらしい。今こそそのときだろう。
アシュ、お前はどんどん続けなさい。さもなければ私はマハトマ・ガンジーを批判し始める。このかわいそうな男に私がやさしくなれるように、どんどん続けなさい。これまで私はこの男にやさしかったことがない。たぶんお前なら、私がマハトマ・ガンジーにさえ少しはやさしくなれるように手伝えるかもしれない・・・・・もっともそれはほとんど不可能だとは分かっているが。
だが私は確かに2,3すばらしいことを言うこともできる。ひとつは、誰もこれほどの誠実さを持って、これほどの真実をこめて自叙伝を書いたものはいないということだ。これはかつて書かれた最も真摯な自叙伝のひとつだ。
自叙伝というのは非常に奇妙なものだ。自分自身について書いている。自慢し始めるか、もしくは謙遜しすぎになり始める。これは単に自慢のもうひとつのやり方にすぎない・・・・私は2番目の本でそのことについて話すつもりだ。だがマハトマ・ガンジーは、このふたつのどちらでもない。彼は単純だ。ただ事実を述べるだけだ。まさに科学者に似ている・・・・それが自分の自叙伝であることになどまったく無関心だ。彼は、人が他人には隠したがるようなことを何もかも言う。だがタイトルそのものは間違っている。人は、真理に対して実験はできない。人はそれを知ることができるし、知らないでいることもできる。だがそれを相手に実験はできない。
この「実験」という言葉そのものが、自然科学の世界に属している。人は、主観を相手に実験はできない。そしてそれが真理というものだ。そう記録しておきなさい。主体性とは、実験や観察のいかなる対象にもなりえない、と。
主体性とは、存在の中で最も神秘的な現象であり、その神秘とは、それが常に後ろへ後ろへと後退することだ。どんなものであれ観察できるものは「それ」ではない・・・・それは主体性ではない。主体性とは、常に観察者であり、決して観察されることはない。真理を実験対象にできないのは、実験というのが物、対象物に対してしか可能ではなく、意識に対しては不可能だからだ。
マハトマ・ガンジーは心からいい人間だったが、瞑想者ではなかった。そして人は瞑想者でなければ、どんな善人であったところで、それは役に立たない。彼は一生実験をしたが、何ひとつ達成したものはなかった。同じように無知なままで死んだ。
これは不運だ。というのは、あれほど高潔で、誠実で、正直な、しかも真実を知りたいというあれほど強い願望を持った人間は、めったに見つかるものではないからだ。だがその願望そのものが障害物になる。
真理は私のような、そんなことを気にもかけていない、真理そのものにも無関心な人間によって知られる。たとえ神がやって来て私の扉を叩いたとしても、私は戸を明けるつもりなどない。神の方がその扉の開け方を見つけなければならない。真理はそういう怠け者の人間のところにやって来る。だから私は自分のことを「怠け者のための光明への案内人」と読んできた。今やそれが完全になるようにもうひとつ付け加えてもいい・・・・私は怠け者のための光明への案内人であり、また非光明への案内人でもあると! それは光明を超えていく。
私はガンジーが気の毒だ。もっとも私は常に彼の政治を、その社会学を、そして時間の車輪を後に戻そうとするその馬鹿げた考えをすべて批判してきたのだが。それを、車輪を回すこと、と言ってもいい・・・・彼は人間が再び原始人になることを望んだ。彼はあらゆる技術に反対だった。罪のない鉄道や、電報や、郵便機構にさえ反対していた。科学がなくては人間はマントヒヒになる。ヒヒは非常に強いかも知れないが・・・・ヒヒはヒヒにすぎない。人間は前進しなければならない。
私はこの本のタイトルにさえ異議をとなえる。なぜならこれは単なるタイトルではなく、ガンジーの全生涯を要約しているからだ。イギリスで教育を受けた彼は、自分を完璧なインド風イギリス人だと思っていた・・・・・完全なヴィクトリア朝の人間だと。あれこそが地獄へ行く人間だ、あのヴィクトリア朝の宮廷人たちこそ! 彼にはエチケットやら、礼儀やら、あらゆる種類のイギリス式たわごとが詰まっていた・・・・・。さぁ、チェタナが傷ついているに違いない・・・・チェタナ、すまないね。お前がここにいるのは偶然だ。それにお前も知ってのとおり----私は身近にいる人を叩くためにいつも何かを見つける。
だがチェタナは幸運だ。彼女は英国式淑女ではない。ラジニーシ・フリークだ! それに彼女はイギリスの貧しい家の出だ。それは非常にいい。彼女の父親は漁師だった、素朴な人だ。彼女は気どってはいない・・・・そうでないと、イギリス婦人というのは、紳士連中よりももっと、いつもツンとすまして、まるでいつでも星をみていますと言わんばかりだ。あの連中はまったく鼻につく、気どりが臭ってくる。
マハトマ・ガンジーは、イギリスで教育を受けた。多分それで混乱したのだろう。おそらく無教育だったらもっとましだっただろう。そうすれば真理について実験などしなかっただろうし、真理を経験していたことだろう。真理を実験する? 馬鹿げている! 滑稽だ! 真理について知りたければ、それを体験しなければならない。Osho「私が愛した本」p212
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