シーシュポスの神話
「シーシュポスの神話」
アルベール・カミュ /清水徹 新潮社 文庫 257p 改版2006年09月 1997年51刷を読んだ
Vol.2 No724★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆
この本最近改版されたようだが、カミュと言えば、こちらのこの表紙のほうが長いこと馴染みがある。1969年発行、当時高校一年の時から、ずっとこの表紙だった。
「シーシュポスの神話」は古い神話だ。マルセルがそれを自分の本に使った。みんなにそれを聞かせよう。
シーシュポスは神なのだが、最高神に従わなかったため地獄に落とされ罪を受けた。その罰というのはこうだ。シーシュポスは大きな岩を谷から山頂まで運ばなければならないのだが、大きな岩を持ってやっと辿り着きそれを下ろそうとすると、頂上があまりに狭いため、岩はまた谷底に落ちてしまう。シーシュポスは慨嘆し、息を切らし、汗みどろになりながら谷底まで下りてもう一度その岩を運ぶ・・・・無意味な仕事だ・・・・それがまた滑り落ちることは完全に分かっている。だがどうしようもない。
これこそが人間の物語のすべてだ。だからこそ深く掘り下げればここに純粋な宗教があると私は言う。これこそが人間の状況だ。これまでもそうだった。お前たちは何をしているのか?-----他のみんなは一体何をしているのか? 岩をある場所まで持って行くこと、それは毎回毎回、同じ谷底まで滑り落ちる。おそらく毎回、少しづつ深くなって行くだろう。そしてまた翌朝も、もちろん朝飯前というわけにはいかないが、それを再び運ぶ。しかも、運びながらも、それがどうなってなるか知っている。それはまた滑り落ちる。
この神話はすばらしい。マルセルはそれをもう一度紹介した。彼は非常に宗教的な人間だった。実際、ジャン・ポール・サルトルではなく、彼こそ本物の実存主義者だった。だが彼は宣伝屋ではなかったから、決して前面に出て来ることはなかった。彼は沈黙したままだった。黙って書き、黙って死んだ。世の中の多くの人々は、この人がもういないことを知らない。彼は実に静かな人だった。だが彼が書いたもの、「シーシュポスの神話」は、非常に雄弁だ。「シーシュポスの神話」は、かつて生み出された最大の芸術作品のひとつだ。Osho「私が愛した本」p176
マルセル・カミュは「黒いオルフェ」などのある映画監督だから、ここでOshoの言っているMarselとはノーベル文学賞作家アルベール・カミュのことであろう。それとも同じフランス人実存主義者ガブリエル・マルセルのことであろうか。
アルベール・カミュの兄の娘の息子が、日本でタレント活動しているセイン・カミュということになる。セイン・カミュからは、アルベール・カミュの不条理なものは何も感じないが、彼は大叔父さんを背景として持っているだけで、大きな財産を相続したようなものだ。
世間の人びとのだれもが、まるで<死を知らぬ>ようにして生きていることには、いくら驚いても驚きたらぬだろう。これはじつは、死の経験というものがないからだ。本来、現実に生き、意識したものしか経験でありえないのだが、この死という場合、せいぜいのところ、他人の死についての経験を語ることしかできない。p27
高校時代や10代の頃は、身の回りにはカミュ信奉者はいっぱいいた。ミニコミ紙のタイトルに、「異邦人」の主人公ムルソーの名前を借りてきたり、アルベール・カミュから自分のペン・ネームをつくり、有部髪之(あるべ・かみゆき)と名乗る者が現れたりした。「不条理ゆえに我信ず」をスローガンにする者もいた。
翻訳の一人称が、「ぼく」となっているので、それで親近感を強く持ったのだろうか、あるいは思春期の感傷がそうさせたのか、カミュ・ファンは多かった。その後、彼らの人生はどうだったであろうか。団塊世代の弟分にあたる我々の世代も、次第に思秋期を迎えつつある。
真なるものを探求するとは、願わしいものを探求することではないのだ。「人生とは、いったい、なんだろう」というあの苦悶の底から発せられた問いから逃げるためには、驢馬のように、幻の薔薇を食べて生きなければならぬならば、不条理な精神は、諦めて虚偽に身を委ねるよりは、むしろ、怖れることなくキルケゴールの答え「絶望」を採るほうを選ぶ。すべてを充分に考えたとき、断乎たる魂は、つねに、「絶望」という答えを受け入れるであろう。p62
時代は、70年安保、あるいはその後の「敗北感」のただなかにあった。
自殺は反抗につづいて起こるとひとは思うかもしれない。だがそれは誤りだ。自殺は反抗の論理的到達点をなすものではないからである。自殺は不条理への同意を前提とするという点で、まだに反抗とは正反対である。自殺とは、飛躍がそうであるように、ぎりぎりの限界点を受入れることだ。いっさいが消尽されつくしたとき、人間はその本質的歴史へと還る。自己の未来、唯一の怖ろしい未来を彼はみわけ、そのなかへと身を投じてゆくのだ。自殺はそれなりに不条理の解決となる。p78
自殺、という単語を口にするものも多かった。その方法が語られ、リスト・カッターがいないわけでもなかった。焼身という方法を用いた者もいることはいた。
自殺は不条理を同じひとつの死のなかへ引きずりこむ。だがぼくは知っている、不条理が維持されるからといって、不条理が解決されるということはありえないのだということを。不条理とは死を意識しつつ同時に死を拒否することだというかぎりにおいて、不条理は自殺の手から逃れて出てしまうのだ。p80
アルベール・カミュは1960年、交通事故で亡くなった。享年46歳。小説を読んだあとで、カミュが交通事故で亡くなったことを知った時、私の中では、ジェームス・ディーンや赤木圭一郎と同じように、神格化されてしまった。それ以上動かないプロマイド写真のようなものだ。
意識的でありつづけ、反抗をつらぬく、---こうした拒否は自己放棄とは正反対のものだ。人間の心のなかに不撓不屈の情熱的なもののすべてが、拒否をかきたてて人生に歯向わせるのだ。重要なのは和解することなく死ぬことであり、すすんで死ぬことではない。自殺とは認識の不足である。不条理な人間のなしうることは、いっさいを汲みつくし、そして自己を汲みつくす、ただそれだけだ。p80
巻末に「フランツ・カフカの作品における希望と不条理」という文章が付録としてついている。
「変身」もたしかに明徹さの倫理の慄然たる具体像をあらわしているとはいえよう。しかしこれもまた、人間が自分はやすやすと動物になってしまうと感じたときに味わうあの途方もない驚きの産物なのだ。こうした根本的な両義性のなかにこそ、カフカの秘密がある。p180
10代の私は、「異邦人」のムルソーより、「変身」のグレゴール・ザムザのほうにシンパシーを感じていた。きょうママンが死んだ。ただ、ただ太陽がまぶしかったから、という不条理さより、朝目がさめると、天井をのたうちまわっている自分を発見するほうが、よりリアリティを持って感じることができた。
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