山上の垂訓 聖書<1>
「聖書」 新改訳 <1>
新改訳聖書刊行会 1970/9 日本聖書刊行会
Vol.2 No708★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆
7番目は「山上の垂訓」だ。「バイブル」全体ではなくて「山上の垂訓」だけだ。「山上の垂訓」を除けば、「バイブル」はすべてまさに牛の糞(ブルシット)だ。Osho「私が愛した本」p13
この手の講話は、何度か聞いていて、聖書のどこかにそのような項目があるものだと思っていたが、このたび、いざ聖書を広げてみると、このようなタイトルの部分がないことにようやく気がついた。私のもとにはいく冊かの聖書が集まってきているが、この新改訳聖書は、高校生の時にバブテスト教会に通った時に求めたもの。身の回りにある本の中では、もっとも長く私といる本の一冊と言える。現在は第三版だから、初版のこの聖書は古くなっているかもしれない。
この「山上の垂訓」と言われる部分は、「マタイの福音書」のなかにある。5章~7章、特に5章3節~10節、と「私が愛した本」の巻末の記してある。
この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとにきた。
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子供と呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。「マタイ」5.1~5.10
これだけ分厚い聖書の中で、この部分だけが素晴らしくて、他の部分がそうではない、という言われは、聖書全部を読んだことがない私にはわからないし、また私の言葉としては言うことができない。他の部分もだいぶ興味深く読んだことがあるからだ。
ここに来てアラン・ワッツのことを思い出した時、キリスト教のことを考えた。ワッツは一度、キリスト教の聖職者であったことがある。生活のためにその職についた、とも言われるが、はて、それはどうか。もしそれが本当なら、その後のワッツの行動も、そのようなレベルで考えなくてはならないし、最終的にZenに辿りついたとしても、割り引いて考えなくていけなくなるからだ。
たしかにワッツには、相当にちゃめっけがあり、あるいは生活のために、その特異なライフスタイルを維持したともみられるところがあるので、そのように距離をもって考えてみる必要があるだろう。とにかく、ワッツがその才能をキリスト教の聖職者という立場で一度開花したことを記憶しておく必要はある。
林語堂は、中国にあり、祖父の代からキリスト教の聖職者の家系にうまれ、一度キリスト教を否定(批判?あるいは疑問視?)しながら、結局は、晩年になって、キリスト教に戻っていった。Oshoがワッツを絶賛し、林語堂を批判するそのポイントは、必ずしも人間性そのものや著した書物の質の高低によるものではないだろう。要はキリスト教に戻っていったのか、そこから離れて大きく歩み出したのか、というところにあるようだ。
「ニューエイジについてのキリスト教的考察」において、バチカンの教皇庁は、いわゆるニューエイジと言われる精神的動向とキリスト教の距離感について考察し、その対処方法を考えている。「Three Pillars of Zen」や「Let go!」、あるいは「Zen Flesh, Zen Bones」を読んでいると、これらキリスト教圏と思われる世界でZenに対する関心が高まっていった経緯というもの背景にあるものは、一体なんであるのか、問い直すことになる。
「僧侶と哲学者」は、チベット密教と西洋哲学、というちょっと視点が違った立場からの考察だが、いずれに西洋における精神性の見直しが近年盛んに行われたということは事実だ。だが、それはキリスト教や西洋哲学だけの限界性、ということを意味はしないだろう。チベット密教(タントラ)にせよ、伝統的な禅の世界にせよ、現代のグローバルな地球人の登場により、十全な形での精神性をカバーすることに限界性がでてきていることは間違いないのだ。
タントラもあり、スーフィーもあり、ハシッド、Zen、Tao、そしてまた、聖書もある、というレベルで、キリスト精神も忘れずに汲み取られなければならない。
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためにだと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。「マタイ」5・17
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