池田晶子 『魂とは何か』 さて死んだのは誰なのか<1>
「魂とは何か」 さて死んだのは誰なのか<1>
池田晶子 /わたくし、つまりNobody 2009/02 トランスビュー 単行本 255p
Vol.2 No719★★★☆☆ ★★★★★ ★★★★☆
「私とは何か」が3冊組の1冊だと分かり、しかもその1冊目に魅力を感じたとしたら、他の2冊も目を通したくなるのは当然の流れであろう。
「私とは何か」、「魂とは何か」、「死とは何か」。この3つの言葉を並べてみて、なにか、ひとつの違和感がある。これらの言葉使いは、生前の池田晶子自身の言葉使いだったのだろうか。それとも、死後つくられたNPO「わたくし、つまりNobody」の関係者による編集なのであろうか。
私は「私は誰か」という問いのほうに長く親しんできた。「私は何か」という問いは、初めてと言っていい。ラマナ・マハリシ以来、この問いは「私は誰か」と問われるのが伝統というべきものではなかろうか、なんてひとりごちる。
Who am I なら分かるが、What is I(Me)と問うのには、すこしく時間がかかってしまいそうだ。そしてこの問いの行きつくところは、すこし(あるいはとても)違ったところに行ってしまうような気がする。5W1Hでなら、「私」を問う疑問詞は、「Who」がもっとも適当なのではないだろうか。
とするなら、「魂」もまた「魂とは何か」と問われるべきものはないのではないか、という仮説を立てたい。Whatがだめなら、あとはWho Where Why Whenが残っているが、Whoは「私」に譲ったから、他のものにしたい。Whyも合いそうだが、これはどれにでもフィットしそうだ。あまりに哲学的すぎる。Whenもちょっと違うとすれば、あえて「魂」に似合うのはWhere、「魂とは何処か」と問うことではないか。まずは一つの仮説。
そして、3つ目の「死」について考える。そもそも「死」とは何か、という問いかけ自体おかしいのではないか。愛とは何か、朝ごはんとは何か、歩くとは何か。「死」は相対的なものとしてあるものではない。絶対的に存在しているものだ。「死」が何なのかを理解しても、なんの役にもたたない。朝ごはんが何なのかを理解する前に、まずは、朝ごはんを食べることが先決だろう。
「死」には、5Wは似合わない。「死」にはHowが似合いそうだ。「How to Die」。「死」に対する問いかけは、「いかに死ぬか」しかないのではないか。
「私は誰か」、「魂は何処にあるか」、「いかに死ぬか」、と自分なりの言葉に置き換えて、その坐り具合を確かめてみる。
<世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。そして私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握するのである> ウィトゲンシュタイン「草稿1914-1916」 p8
「ポスト・オウムの<魂>のために」と題された最初の文章の最初の引用句がヴィトゲンシュタインであった。別途、ヴィトゲンシュタインを読みたくなってきた。
ただ、このポスト・オウム、という言葉使いはいただけない。そもそもポストする必要はないし、オウム、という単語で何事か特定の団体を連想するようなことは避けたほうがいい。当ブログでは、この言葉がオムマニパドメフムというマントラのなかに深く込められてきた意味を愛する。
この本は旧版「魂を考える」を「大幅増補改訂」したとされるもので、改訂したのが本人でないとすれば、本人の意図しなかった方へ改悪されている可能性もなくはない。だが、そこまでは一読書子としては推理力が及ばないので、今後は、この本が現在の「池田晶子」なのだと想定して、読み進めることにする。
わからない!
「何が」わからないのだろうか。「わからない」と「わかる」、すなわち「無知の知の自覚」は、ソクラテスを起点とする哲学的思考の上がりであり振り出しであり、つまり絶対的な動機である。その意味では、この「わからなさ」は、私にはいまや馴染みが深い。p9
ここでOshoなら、ずばり「探究すべからず」と戒めるだろう。わからないのだ、ということをわかるしかない。
苦手なのだが、なぜ、わざわざ苦手なことを考え始めようとするこの論考なのか。なぜ、<魂>なのか。
数年前まで私はそれを、「意識」と語ることに疑いがなかった。「意識」の一語で、すべては隅なく理解されると思っていたのだ。p10
当ブログは目下のところ「意識」が大きなテーマの一つになっている。しかし「意識」というネーミングに最後の最後までこだわるつもりはない。コンテナ→コンテンツ→コンシャスネスという駄洒落のなかで「意識」というネーミングを使っているだけで、いきなり「魂」でも、実は問題ない。ただし、「魂」はすこし手垢がつきすぎた言葉のようにも思う。
ある時、<魂>の語が来た。おそらく、「言葉の魂の力」によってここに来た。それは、ピタリと、ここにはまった。
あ、納得----。 p11
かつて高橋克巳はウスペンスキーの「超宇宙論」を翻訳するにあたって、psychologyを「魂理学」と訳していた。本来であれば、通例にならって「心理学」とすべきところであっただろうが、その点ばかりではないにせよ、彼の翻訳は「誤訳」として、すこぶる不人気をかこっている。
私は「魂理学」も悪くないと思う。そんなのは早いもん勝ちのネーミング競争なのだから、日本語ではこの言葉が定着しても悪くなかったと思う。そもそも、「哲学」という言葉だって、ギリシア語philosophiaの翻訳として正しいのかどうか、定かではない。
ただし、ここで、池田晶子が、「意識」ではなく「魂」に行きついたことは、自然なながれとして、受け入れることができる。
<魂>というものはない。それは脳のことをいう。
これは科学の立場、科学が扱うものが「物質的存在」に限られる限り、これは当然である。
しかし、意識という「非物質的存在」を脳という物質の機能であるとして、それなら<私>は、どちらに属するのだろうか。「<私>とは何か」と問うて、「<私>とは脳である」と答えているのは、<私>なのか、脳なのか。<私>を脳と同一としているところののその<私>こそが、ここで問われているその<私>なのだから、これは答えになってない。<私>とは何か。 p13
茂木健一郎ばかりが悪いわけでもないだろうが、世は脳ブームである。
近年の脳科学に対する関心の高まり、そして脳科学のさまざまな「成果」を耳にしている人々は、脳科学が、実は深刻な方法論上の限界に直面していると聞いたら、驚くかもしれない。しかし、脳を理解するという人類の試みは、実際絶望的と言ってもよいほどの壁にぶつかっているのであり、その壁が存在すること、それを乗りこえることがきわめて困難であるという事実を、世界中の心ある研究者は理解しているのである。茂木健一郎「意識とは何か」p010
池田晶子という人の本はまだ2冊目だが、なかなか読み進めることができない。読み進めない本の種類はいろいろあって、小難しいものや、意見が合わないもの、最初から高踏すぎるもの、興味がないものなどがあるが、この本はちょっと違う。読み進めていくうちに支線がたくさんありすぎて、読み手としてあちこちに脱線するのである。
一気に読むこともなんら難しい本ではない。しかし、それではもったいない。池田晶子、入魂の3冊なら、こちらも気をしずめてじっくり味わいたい。
最新物理学と古代叡智が手を組んで、それらの神秘が「解明された」と思うのなら、これはあべこべだろう。神秘はいよいよ認識されたのであって、解明されたのでは全然ない。認識とは、常に次なる認識への振り出しであって、決してそこで上がりではない。
あれを上がりと思うことが、じつは少しも神秘と思っているのではない証拠であって、最近盛んなニューエイジ・ビジネス(というのですか)、あれはいかなる勘違いだろう。非常にあざといものを私は感じる。p15
初対面の人となら、15分もいっしょにいれば、だいたいその人のことはわかる。一緒にやっていけるか、距離をおくべきか。だが、気になるひとと意見を合わせようとしたら、1時間は必要だろう。とにかく意見を出し合い、共通の認識をベースして、当面の課題の着地点を確認しあう。
しかし、もっともっと、なにか長期的なチームをつくる可能性のある人となら、最低でも2時間は話し込んでしまうだろう。同じところと、違うところ。そして、その人にないところを、自分が補い、自分にないところを、相手が補ってくれることを確認すれば、まずはその日のミィーティングは終わりだ。そこまでやればヘトヘトだ。次なる展開は、後日に回す、といことになる。
「救われる」べきなのは、本当は、<魂>というこの言葉のほうなのだ。信じ込まれ、貶められ、手垢にまみれて見えなくなったこの言葉を、その正当な位置へと戻してやることなのだ。戻してやるそのことが、「救われる」という言い方で言われるべきことになるのかどうかを、私は知らない。
だからこそ私は、それを、知りたい。p17
私にとって、この人の本は、10ページ読めば、ヘトヘトだ。
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