三祖信心銘<1>
「禅家語録 2」
世界古典文学全集 36B 西谷 啓治 , 柳田 聖山 1984/01 筑摩書房単行本: 523p
「三祖信心銘」<1>
三祖僧燦は、「続高僧伝」にその名が見えるにもかかわらず、その伝記を欠いていたために、8世紀より9世紀の始めにかけて、達磨以来の伝統が確立されると、南北の各派でにわかに顕彰運動がもりあがり、各地に塔碑が再建される。105p 大森曹玄
当ブログにおいて、三祖僧燦については、Osho「私が愛した本」のなかからOshoが僧燦に触れたところを抜粋しておいたし、Oshoがまるまんま僧燦を語った「信心銘」についても触れたので、ここは静かにスルーしようかな、と思っていた。しかし、当ブログも、全著書について、その典籍を探し出し自前のコメントをつける流れになってきたので、さて、この原本はどこにあるのか、と気になりはじめた。
いざ探し始めてみれば、実にすぐそばにあって、先日読んだばかりの「禅家語録2」の、しかも2番目に掲載されていた。
至道の大道は、すぐそこにあって、かれこれと七面倒くさいものではない。ただ選り好みさえしなければ、それでよいのである。選り好みをすると、好きなものは愛し、いやなものは憎む念が起こって心の鏡がくもる。それさえなければ、至道はきわめてはっきりと包みかくすこともなく現れてくる。
けれども毛筋一本ほどでも分別の念があると、至道か邪道か、天と地ほどの差を生ずる。だから、至道を目の前に見たいと思うなら、順とか逆とか、善とか悪とか、二元対立の見がすこしでもあってはいけない。p105 僧燦
漢文があり、読み下し文がある。そして現代文があるのだが、今は現代文をさらさらと読んでいるだけの自分がちょっと物足りない。それでは、現代文に翻訳してくれたひとのセンスに依存していることになる。もっと漢文自体を読めるほどの力が必要だ。いやいや、原文自体、もともと僧燦の手になる文ではないかもしれない。その指ししめすところを読む必要があるのだ。云々。
至道にたどりつこうという初心でありながら、またまた脇道の泥沼に突っ込んでいる。
英訳に、プライス氏のThe Believing Mind(Zen and Zen Classics, vol, 1 1925)、鈴木大拙氏のOn believing in mind(Manual of Zen Buddhism, 1957)、アーサー・ウエレイ氏のOn Trust in the Heart(Buddist Texts through the Ages, 1954)があり、他にも独訳もある。この作品は、現代欧米の人々のあいだに人気があるらしい。p105 大森
独訳はともかくとして、チャンスがあれば、英訳本の存在くらいは確認したいものだと思う。
いくら二段組みとは言え、見つけてみれば、漢文、読み下し文、現代文、解説を入れてもわずか8ページの実にコンパクトな文章である。
信ずる心と、信ぜられる対象とは、相対する二つのものではない、信ぜられる対象はそのまま信ずる心である。こうして決定した信心不二、不二信心の世界は、文字や言葉で表現できないし、また過去・現在・未来というような相対的な時間もない絶対的の境地である。それが至道そのものといってよい。p112僧燦
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