トマスによる福音書 荒井献
「トマスによる福音書」
荒井献 1994/11 講談社 文庫 335p
Vol.2 No727★★☆☆☆ ★★★★☆ ★★★☆☆
Osho「私が愛した本」の168冊の中、当ブログ独自で選んだ「キリスト教」編の6冊のうち、聖書からの出典が2つ。やや古びた教義先行のキリスト教に対して、常にOshoは厳しいまなざしを向け続けているが、他の文献は、むしろキリスト教としては傍系にあたるものばかりだ。いや、むしろ、現行キリスト教の根幹を揺るがすような文献が敢えて抽出されていると言っても過言ではない。
その中の一冊「トマスによる福音書」は、その道の徒ならざるものにとって他の福音書とどのような違いがあるのか、そもそも福音書とはなにか、さまざまな疑問の源泉に成り得る。当ブログが前回読んだ「聖書の世界」シリーズの中の一冊として、また、その中の一章として、おざなりにめくってみたからと言って、その意味はよくつかめない。
この「聖書の世界」シリーズの中で「トマスによる福音書」を担当していたのが荒井献。その後、「隠されたイエス---トマスによる福音書」(1984)においてその論旨はさらに展開されてたようだ。この「隠されたイエス」というタイトルは、Oshoが「トマスによる福音書」について語った「愛の錬金術」(1981)上下巻のサブタイトル「隠されたきたキリスト」に通じるものがある。
ついでに言っておけば、古書店めぐりをすると、私は比較的この「愛の錬金術」を目にすることが多い。他のOshoの書物がわりと早く足がついてなくなっているのに、この本だけは古書店に複数並んで残っていることが多いようなのだ。私はいままでその理由をあまり深く考えたことはなかったのだが、これは、日本におけるキリスト教があまり普及していないからではないか、と考えるようになった。
つまり聖書を中心としたキリスト教社会における、この「トマスによる福音書」の意味合いと、日本社会における意味合いでは、かなり違ったものがあるに違いないのだ。つまり、日本においてはOshoの「愛の錬金術」は、本当の意味で、まだ読まれていない可能性がある。いや、私自身はそうだ。この本と30年近くいながら、所詮、Oshoがキリスト教にも「おべんちゃら」しているのではないか、などと軽く考えてしまっていた。いや、違う。これは、キリスト教という乾ききった導火線に、Oshoがしかけた爆弾でもあったかも知れない。
荒井献(ささぐ、と読む)の「隠されたイエス」はその10年後、さらにヴァージョンアップして、改訂・増補のうえ、1994年に再刊された。
1945年、エジプトで写本が発見され、「新発見の福音書」として世界にセンセーションをまきおこした。<トマスによる福音書>----異端として排斥されたグノーシス派の立場から編まれた114のイエスの語録集である。新約聖書学・グノーシス主義研究の世界的権威がその語録を精緻に注解し、独自の福音を明らかにした本書は、従来の「正典福音書」のイエス像を一変させることを迫る衝撃の書である。裏表紙 紹介コピー
幸徳秋水は1911年に獄中に消えたわけだから、1945年にエジプトで発見された「トマスによる福音書」を読むことはなかった。しかし、もし彼の手にこの書が渡っていれば、編纂された教義に塗り固められてしまったイエス・キリスト像は、彼の手によって、確実に抹殺されていたかもしれない。しかし、幸徳秋水の基督「教」抹殺論は、新たに、「真」基督蘇生論として立ち現れる必要があったろう。
ムハマンド・アリーは、ジャバル・アッターリフからの落石と思われる巨大な石の周りを掘って、サバッハの採集に熱中していた。その最中に、鍬の先にカチリと当たるものがある。彼は慎重にその周囲を掘り下げてみると、何と、四つの把手のついた、高さ1メートルほどもある大きな素焼きの壺が現れた。この壺は密封されていたので、彼はその中に「ジン」(エジプトの民間で災いをもたらすと信じられている精霊)が封じ込めれているのではないかと恐れ、しばしこれを開けるのをためらっていた。
---しかし待てよ、あるいは金(きん)が入っているかもしれないぞと思い直し、思い切って鍬で一気に壺を打ち砕いた。ところが、中からでてきたものは、羊の皮でカバーされた13冊のコプト語(古代末期のエジプト語)パピルス古写本(コーデックス)であった。これが、いわゆる「ナグ・ハマディ写本」発見の経緯である。p13
1945年の12月、ナイル河から約1000キロ河沿いに南下し、そこからさらに北方へ80キロ河を下ったところにある小さな町ナグ・ハマディでの出来事であるとされる。いわゆるトンデモ本とか偽書の類の登場には、うってつけの舞台装置だが、いままでのところ、この書は「ホンモノ」とされている。
「正典」とは、正統的教会によって結集された----新約聖書についていえば----現行聖書に収録されている27文書のことである。これに対して各個教会において聖文書とみなされていたが、正統的教会による聖書の結集により、「正典」から外された諸文書のことを一括して「外典」という。p88
以上のように、キリスト教の「正統」は右の三基本信条を教義(ドグマ)として成り立ち、これに違反する部分を「異端」としたのであるから、「正統」確立以来の時代(1世紀後半----4世紀)におけるキリスト教の歴史に「正統」「異端」の概念を適用する際しては、当然のことながら慎重でなければならない。p90
これら異端的分派の最古最大のものがグノーシス派である。ただ、同じ「グノーシス派」といっても、それ自体の中に多数の分派があり、それぞれの立場やそれに基づく神話論にはかなりの相違がある。p93
「外典」を「正典」と共に、あるいは後者を超える聖文書として奉じた「異端」は、グノーシス派に限られるわけではない。この他にも、マルキオン派やエピオン派あるいはナザレ派などが存在した。p94
当ブログにおける「トマスによる福音書」は、Oshoの「私が愛した本」168冊の中のひとつとして読み進められる限り、Oshoの「愛の錬金術」とともに読み進められてなくてはならない。そして、当ブログにおける重要なポイントは、それの経典が正・外いずれか、という判断よりは、真実を生きるとはどういうことか、という「私」自身の内なる探究である。
この「御国」あるいは「父の園」の概念は、共観福音書の「神の国」あるいは「天国」に平行するだけに、これを「正典」とした正統的教会の終末思想と批判的にかかわることになる。このことは、すでに「神の国」「天の国」が「父の国」「御国」に言い換えられているところから推察されるのであるが、決してそれにとどまるものではない。
トマス福音書のイエスによれば、それは「待望のうちに来る」ものではない。「ここにある」「あそこにある」といわれるごとき肉眼で見られる存在でもない。----「そうではなくて、父の国は地上に広がっている。そして、人々は(心眼で)それを見ない」だけなのである(113)。あるいは、「あなたがたが待っているもの(死人の安息)は(すでに)来た。しかし、あなたがたはそれを知らない」だけなのである(51)。それなら、「御国」はどこに見出されるのか。p304
そして、バチカンの出した「ニューエイジについてのキリスト教的考察」なども念頭に入れて、この「トマスによる福音書」は再考察される必要があろう。巻末の数十冊に及ぶ詳細な参考文献リストも興味深い。
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