ネットじゃできない情報収集術
「ネットじゃできない情報収集術」
漆原直行 毎日コミュニケーションズ 2009/03 新書 215p
Vol.2 No716★★★☆☆ ★★★☆☆ ★☆☆☆☆
ネットじゃできない情報収集術、というキーワードで現在の当ブログの状況を考えてみると、まず、ユベール・ブノアの「至高の教義」とアラン・ワッツの「This Is It」について、どのようにして情報を集めるか、という課題が思いつく。
ブノアの「Let Go!」は図書館に通いながら、ちらちらと眺め続けている。この本は国の中枢機関から転送されてきたものだ。現在は私が独占して読んでいるが、まもなくその期限はきれる。他の図書館にもありそうなものだが、現在のところ、私が読む方法としては、この手段が唯一の方法だ。
ブノアの本のスタイルは私の得手なスタイルではない。ちょっと小難しいし、それに英文だ。なかなか読書はすすまない。であるなら、彼には類書はないのか、と調べてみると、ないこともないが、日本ではあまり一般的ではない。古書店回りなどもしてはみるが、そうそう簡単に犬棒式に出会うとは限らない。ネットオークションなどにもでていない。ここはまた図書館にリクエストをだして、どこからか探してもらうことになるのだろうが、とにかくネットじゃできない情報は山とある。
アラン・ワッツについての情報収集は始めたばかりだが、それでもお目当ての「This Is It」については思わぬ苦戦をしている。これだけ有名な本なのだから、もっと簡単にでてきてもよさそうなのだが、なかなか読めない。
ワッツの他の本なら、結構ある。手にとれる範囲のものは順次めくってみようと思っているが、それでも、本当は一体私は何を知りたいのか、というところが明確になってこないと、本当の情報収集にはならないことになる。
でもよくよく考えてみる。読書することって、情報収集なのか? たとえばOsho「私が愛した本」のなかの「小説(文学)」編などは、一部を除いて情報が集まらないなんてことはない。本のダイジェストも溢れているし、本自体も、図書館まででかけるまでもなく、わが家の廊下に大量に横積みされているではないか。ひょいと一つまみするだけでそのものが手にはいる。
でもなかなか気がすすまない。他人の読書文を読んでも面白くない。いや、むしろ他人に下手な影響を受けるよりは、読むのを後回しにしたほうがいい。いずれ読もう、そう思ってきたが、ついにその時が訪れず、現在まで手付かずになってしまった本が結構ある。
さて、「東洋哲学(インド)」編などは逆に読みたいけど、そもそも情報がない、という本が多い。その本が存在しているのかどうかさえわからない。これはネットじゃできないのだ。現在のところお手上げだ。まだよくよく煮詰めて考えてはいないけれど、他の部分が進んだあとは、いずれこの部分に着手しなければならない。
もっとも、まったく手がないわけではない。すでに、これらの本をすべて集めたという人が存在しているわけだから、それらの人たちから情報をもらえばいい。どうしても読みたければ、その人から借りればいいだろう。そういう最終的なセーフティネットは確保してある。だが、それは最後の最後の手段として、とにかく自力で進んでみようと思う。
「ネットじゃできない情報収集術」。1972年生まれの記者さんが書いたこの新書本の意味するところは、私の連想とはちょっと違うところにあるようだ。つまりは、彼よりもさらに年下の、場合によっては「デジタル・ネイティブ」とさえ呼ばれる若い世代の、ネットありきのなかで育った青年層へ向けてのメッセージである、だろう。この本に書かれていることなど、私にとっては当たり前のことだけど、ひょっとすると、若い層には、当たり前じゃぁないのかも知れない。
先日、浅田次郎の講演会を聞いた時、彼はこんなことを言っていた。日本語を縦書きしよう。日本の文字は縦書きするようにできている。自分の手で文字を書こう。手で書かないと書けないようになる。自分の書いたものを、声を出して読んでみよう。
なるほどな、とは思う。しかし、現在のところ、当ブログからしてこのように横書きで、しかもキーボードをたたき続ける、というスタイルになっている。たまに葉書などを書いたりすると、本当に字が下手になっている自分にぎょっとすることがある。最近、老眼もすすみ、食事の時に、箸がぽろりとテーブルに落ちるときもあるので、単にパソコンやインターネットだけが悪いわけではなくて、他にも原因は求めることができるが、それでもやはり浅田次郎の言わんとするところもわかる。
だが、容易なデジタルVSアナログ論争などには引きづり込まれたくない。情報収集術はまだまだ純化される必要がある。集合知とやらも、道半ばだ。もうすこしその道行を確認しないことには、結論はでない。結論はまだまだ先だけれども、結局は、当ブログにおける最終目的は、インターネット上の集合知ではないことは、最近とみにはっきりしてきている。
「ネットじゃできない情報収集」。それはネット依存度をすこし低くしましょう、という意味であろうが、実際には、「情報収集」が外に向かっている限り、結局は、それほど大きな意味をもたない。本当は、情報収集の目を内側にむけなければならないのだ。それはもう「情報収集」とは言わないのだが、とにかくそちらにシフトしなければ、ネットそのものも生かされないことになる。
「クオリア再構築」で島田雅彦は、「もっと素朴で、人が潜在的に持っている力を引き出してくれるような装置」が必要だと言っている。こんな持って回ったような言い方をしなくても、何が必要なのかは、すくなくとも彼には分っているはずだ。ただ、あとはやるかやらないか、だけであり、そんなことを書いたりしゃべったりして他人の視線にさらすかどうかは、別問題だ。彼らの売文稼業につきあうのもほどほどにしなければいけない。
ということで、この本もダイレクトにわが心に響くような本ではなかったが、この世にアクセルとブレーキがあってこその自動車なのだ、ということを再確認した一冊だった。
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