臨済録
「禅語録」 世界の名著 18 <3>
1978/08 中央公論新社588p
「臨済録」(臨済のことば)
臨済・・・・・中国語の呼び方ではリン・チー、日本語では臨済(リンザイ)だ。私は日本語の臨済を選ぶ。臨済の方がより美しく、美的だ。「臨済録」こそはダイナマイトだ。たとえば彼は、「馬鹿者、仏陀を信ずる者よ、仏陀など捨ててしまえ! そんなもの捨てない限り、仏陀に会うことはない」と言う。臨済は仏陀を愛しているからこそ、こう言っている。彼はこうも言った。「ゴータマ・ブッダ」という名を使う前に、その名前が実在でないということを思い出せ。仏塔(パゴダ)の中にいる外側の仏陀は、本当の仏陀ではない。仏陀はお前の中にいる。その仏陀にお前はまったく気付いていない。その仏陀のことをお前は耳にしたこともない。それこそが真の仏陀だ。お前が内側に入れるように、外側の仏陀を捨てよ」と。臨済は、「仏教などない、仏説などない、仏陀などいない・・・・」と言う。しかもいいかね、臨済は仏陀の敵だったわけではない。仏陀の道を歩む者、仏陀の弟子だったのだ。
禅の花を中国から日本にもたらしたのは臨済だ。臨済が禅の精神を日本語の世界に移した。言語だけではない、生け花、陶器、庭、そのほか何やかや、日本文化そのものに移した。ひとりの男、たったひとりの人間が、一国の生活を変容した。 Osho「私が愛した本」p130
Oshoには別途、臨済を題材にした講話「臨済録」がある。Oshoの表現には、日本人の私からしてみたら、それはちょっとオーバーな、という部分も無きにしもあらずだが、Oshoの講話はこのようにメリハリが効いたトーンが続くので、歴史の学問でもなく、論理学的整合性でもなく、ひたすらOsho講話として拝聴するに限る。
「臨済録」はこちらの「禅語録」にも、あちらの「禅家語録1」にも入っているのだが、100ページほどの決して重い読み物ではないが、より現代文風の軽さをもっているこちらの「禅語録」に収録されている方を読んでみた。
三人の修行僧
先生はある修行僧にたずねられた。
「どこから来たか」
僧はすぐにどなる。先生は会釈して坐らせる。僧は何か答えようとする。先生は相手をなぐりつける。
先生は、修行僧がくるのを見ると、払子をつったてた。
僧はおじぎをする。先生はたちまちなぐりつける。
また、僧がやってくるのを見て、先生は今度も払子をたてる。僧は目もくれぬ。先生はやっぱりなぐりつける。 p199 臨済録
なんとまぁ、忙しいもんだ。なぐる、ける、どなる、ひっぱたく、まるで暴力教室だ。あるいはプロレスリングかK1かと思わせるほどのシーンがつづく。これが臨済禅と言われるもので、取り方を間違えば、精神性とはまったく違う解釈さえしかねない。これらの方法が、現代でも通じるものかどうかはわからないし、物語そのものを歴史的事実と捉えてしまうこともどうかと思う。ただ、このような形で臨済禅は愛されてきた。
黄金の粉
侍従はある日、先生を訪ねた。先生といっしょに僧堂に入ってきてたずねる、「堂内の坊さま方は、お経を読みますか」
先生、「経を読むことはない」
侍従、「禅を修行しますか」
先生、「禅を修行をすることはない」
侍従、「お経も読まない、禅も修行しないで、いったい何をするのです」
先生、「まるまる、かれらを仏にならせ、祖師とならせる」
侍従、「黄金の粉は高貴でも、眼に入ればくもりになるのを、どうなされる」
先生、「てっきり貴下は俗人とばかり思っていましたがね」 p211 臨済録
このような経典は文字ばっかりを追ってはいけないだろうが、この箇所においては、たしかにThree Pillars of Zenなんてものは、一発で蹴っ飛ばされる。TeachingやPractice なんてものはぶん投げられ、いきなりEnlightenmentと付き合わされる。いやそのEnlightenmentとやらさえ、ぼろくずと一緒に打ち捨てられる。
怖ろしい本である。
星の数ほどある仏教書のうちで、人間の自由と価値を、これだけ大胆に、これだけ明快に語ったものも少ないであろう。一字一句、人を奮起させずにおかぬ迫力に溢れる。それが禅の本質だと言うなら、この本はもっとも禅の名にふさわしい。古来、諸録の王者とされる所以である。「禅家語録1」p307「臨済録」秋月龍珉
ひとつの法灯とされるものでも、実に多面的で、そのバラエティさに圧倒される。ここで展開されているものは、「法句経」で語られるような清浄の世界ではない。自由闊達な、野放しにされた人間性だ。まさにLET GO!だ。
祖師や仏の師となる
質問、「どういうのが真実の仏であり、真実の法であり、真実の道でしょうか。どうかお示しください」
先生、「仏とは、われわれの心が浄らかなことであり、法とは、われわれの心の輝きであり、道とは、どこもさえぎられないで、浄らかに光ることだ。三つはそのまま一つであり、いずれも空しい名前にすぎず、実体があるわけではない。正常に道を修めている男なら、刻々に心のとぎれることはない。(後略)p268「臨済録」
三つになく、一つになく、なにもなく、そして、途切れることもない。
翠峰をたずねる
翠峰のところにやってこられた。翠峰がたずねる、「どこから来られた」
先生、「黄檗から参りました」
翠峰、「黄檗はどういうことを弟子たちに教えているか」
先生、「黄檗は教えることが何もない」
翠峰、「どうしてないのか」
先生、「あるとしても、言葉でいいあらわしようがありません」
翠峰、「とにかくいってごらん」
先生、「一本の矢がはるか西の空をとんでいます」 p283「臨済録」
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