不死鳥<1>
「不死鳥」(フェニックス) (上) <1>
D.H.ロレンス (著), 吉村 宏一 (翻訳) 1984/01 山口書店 単行本 602p
Vol.2 No741★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆
8番目。D.H.ロレンス。いつも彼の本について話したかったのだが、自分の発音が正しいのかどうか心配だった。どうかそれについては笑わないでほしい。綴りがそうなっているから、私はこれまでずっと、それを「フェニックス」と呼んできた。つい今朝がたのことだが、私はグディアに、「ちょっと教えてくれないか・・・・・」と頼んだ-----こういうことは滅多にない・・・・・! 「この言葉はどう発音するんだね?」
「フィーニクスです!」と彼女は言った。
私は言った。「何だって! フィーにクスかね? ところが私は、これまでずっとフェニックスと読んでいた始末だ・・・・・」これが私8番目の本だ、「フィーニクス」。オーケー、少なくとも英語らしく聞こえるように、自分の発音を変えることにしよう。
「不死鳥(フィーニクス)」・・・・これはすばらしい本だ。こういうものはめったに書かれることがない・・・・何十年に一度、あるいは何世紀に一度しか書かれない・・・・。Osho「私が愛した本」p191
とOshoはベタボメだが「こういうものはめったに書かれることがない・・・・何十年に一度、あるいは何世紀に一度しか書かれない」などという、ちょっとオーバーな表現も、そろそろ食傷気味だ。「Osho、ちょっとそれは違うと思います」と言いたくなる。
しかしまぁ、「うちの父ちゃんは日本一だ」とか、「君は世界で一番美しい」とか、「こんなおいしいもの、今まで食べたことがない」などという表現が存在している限り、そしてことが「愛」に関する限り、Oshoが「愛した本」について表現するかぎり、その類として聞いておくことにしよう。別にオリンピックの記録を論議しているわけでもなく、ミス・ユニバースの審査をしているわけでもない。
9番目。D.H.ロレンスのもう一冊の本だ。「不死鳥」は、偉大な素晴らしい本だが、私の究極の選択ではない。私が彼の本で一冊だけ選ぶとすれば「精神分析と無意識」だ。この本はめったに読まれることがない。さて、こんな本を誰が読むだろう? 小説を読む人たちはこれを読みはしないし・・・・精神分析を読む人たちもこれを読むことはないだろう。彼らはロレンスを精神分析家とは考えないからだ。だが私は読んだ。わしは小説家のファンでもなければ、精神分析に夢中でもない。私はどちらからも自由だ。絶対的に自由だ。私はこの本が大好きだ。
私の目は露を溜め始めている・・・・どうか邪魔しないでもらいたい。
「精神分析と無意識」は、これまで、そしてこれからも私が最も愛し、大切にする本の一冊になるだろう。Osho「私が愛した本」p192
「精神神分析と無意識」は一度目を通している。168冊の本になんとか足がかりをつけようと「OSHOのお薦め本ベスト10(私家版)」を作成して、その中で、この本を、とりあえOshoがここまで言うのだからと、特別ランクしておいた。だけど、まぁ、それだけの価値を見つけることはできなかった。
もう私は本を読んでいないが、もし私が再び本を読むことがあったら、これが、私が読む最初の本になるだろう。ヴェーダでもなければ、バイブルでもない、「精神分析と無意識」だ・・・・しかも知っているかね? この本は精神分析に反対している。
D.H.ロレンスは、本物の革命家だった、反逆者だ。彼はジークムント・フロイトよりはるかに革命的だった。ジークムント・フロイトは中級だ。何もそれ以上言うつもりはない。だから待たなくていい。
「中級」という言葉で、私はあらゆる凡庸なもののことを言った。それこそが中級の意味だ。まさに真ん中だ。ジークムント・フロイトは、本当の意味での反逆者ではない。が、ロレンスはそうだ。
よろしい。私やこの涙について心配することはない。時たま涙するのもいいものだ。それにもう長いこと泣いていないからね。Osho「私が愛した本」p192
D.H.ロレンスの「不死鳥(フィーニクス)」。日本語では「フェニックス」と発音しても、誰も笑う人はいない。いや、これが正解だろう。この本も、いざ手にとってみれば、かなり分厚い。しかも上下二冊本だ。
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