涙の理由
「涙の理由」 人はなぜ涙を流すのか
重松清 /茂木健一郎 2009/02 宝島社 単行本 253p
Vol.2 No720★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★☆☆
涙の理由、と言えば、私には一つのシステムが思い出される。瞑想中に、ふいに咳がでそうになった時、咳が出ないように押さえていると、次第にその「エネルギー」は上昇してきて、涙腺が刺激され、じんわりと涙がでる。すると、喉につかえた咳はリリースされる。このシステムが医学的に当たり前のことなのか、誰にもおこることなのか知らないが、私にとっては、この無感情な涙が一番象徴的に思い出される。
茂木: 梅田望夫さんと「フューチャリスト宣言」という本を書いた頃に、僕はインターネット礼賛の気分でした。僕は、今でも「Google」や「YouTube」のヘビーでもありますが、最近、インターネットに対する対抗軸を作らないとまずいことになるという直感を持ち始めています。インターネットを捨てるわけではありませんが、インターネットの反対軸に全く違うものを持っていないと、個人の生が浸食されて、人類文明全体が非常にまずい方向にいくのではないかという直感がある。その対抗軸を、ずっと探していたんです。普通に考えると、身体を回復する、自然に触れる、人とのつながりが大事だとか、そういう方向に行く。しかし、この対談を通して、俺は、インターネットへの対抗軸は「自分の涙を持つことだ」と思った。p212
この本は茂木健一郎と、作家・重松清との対談で成り立っており、対談は、2005年の暮れの段階の企画から始まり、2006年3月、4月、5月、2007年4月、そして2008年3月の断続的に続けられた。上の茂木の発言は、2008年3月のこと。「フューチャリスト宣言」が出版されたのは2006年5月。わずか一年足らずで、かなりの意見修正をおこなっているようだ。
茂木の「インターネットへの対抗軸は自分の涙を持つことだ」、という意見には基本的に賛成だ。
もともと小さい時から泣き虫で、いつも兄弟喧嘩で泣いてばかりいた。成長しても、映画を見ても、テレビを見ていても涙を流した。涙もろい自分がちょっと恥ずかしいことが多かった。最近は、老眼が進んでいるからというわけではないだろうが、一段と涙が流れる。大概は嬉しかったり悲しかったりするのだが、何の理由もなく涙が流れることもある。
しかし、私にとっての意味ある涙は、文頭に書いた瞑想中の涙だ。悲しいとか、うれしいとか、感動したとかではない。5の喉のチャクラのリリースにおける涙が一番象徴的だ。
他人の涙で、一番思い出すのは、1991年の六ヶ所村。夏にロックフェスがあり、オプショナルツアーで、核施設建築予定地を回った。その時のツアーリーダーがひげを伸ばした無骨な男性。なんとも頼もしげな猛者だった。
彼は、その地が、縄文人たちの遺跡であることを語った。語っているうちに、彼は泣いた。オイオイと声を出して泣いた。最初なにが起きたのか分からなかった。「縄文人たちの貴重な遺跡を、核施設を作ることで壊してはならない」と、彼は泣いた。
茂木: 今日、重松さんとお話しして、インターネットに象徴される日本、現代の流通や情報化、そういうものに対する対抗軸が涙であるという、大切な発見をしました。しかも、その涙は、安易な借り物の涙ではなくて、自分の人生の一回だけの、生の奇跡の中で、命のパズルがカチッとはまった瞬間に流れる自分だけのかけがえのない涙です。それはひょっとしたら、神様の贈り物かもしれないし、神の許しかもしれない。そういう涙を流せるような、人生を生きようと心がけて、日々を過ごしていくことが、インターネットというものに象徴される、現代の流通化・平板化に対する対抗軸になることが、わかった。 p248
重松清は「その日のまえに」という短編集を出して「泣ける小説」というジャンルの典型と見られているという。重松を前にして、茂木は持ち前のサービス精神で、上の発言をしたようにさえ勘ぐることができる。敢えて、インターネットに「対抗する」こともあるまい。しかし、涙の理由は、不明であっても、涙を受け入れる世界観でなくてはならない。
この本で初めて、2005年茂木は「脳と仮想」で小林秀雄賞を受賞したことを知った。
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