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2009/07/25

地下室の手記

地下室の手記
「地下室の手記」 
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー /安岡治子 2007/05 光文社 サイズ: 文庫 285p
Vol.2 No725★★☆☆☆ ★★★☆☆ ★★☆☆☆

 世間から軽蔑され虫けらのように扱われた男は、自分を笑った世界を笑い返すため、自意識という「地下室」に潜る。世の中を怒り、憎み、攻撃し、そして後悔の念からもがき苦しむ、中年の元小官吏のモノローグ。
 終りのない絶望と戦う人間の姿が、ここにある。
裏表紙 紹介コピー

 ロシアの小説というと、やたらと言い回しが長ったらしいし、ストーリーが長すぎる。物語の展開を追うどころか、登場人物の名前が覚えきれずに、いつも挫折するのだが、この小説は打って代わって、読むだけなら、極めて読みやすい。

 1.5世紀前の小説だが、ごくごく最近、日本語に翻訳しなおされているから、実に今日的感覚で読める。一人称も、「シーシュポスの神話」は「ぼく」だったが、こちらは「俺」である。鋭意的な新訳のおかげで、私でもロシア小説が読める。

 現在、日がな一日パソコンの前に座って、インターネットだけで世界と繋がっているオタクや引きこもりの数は増える一方だという。そういう人たちも、地下室の住人と同様、本当は生身の人間と繋がりたいと、「生きた生活」を渇望しているに違いない。そういう時代であるからこそ、「地下室の手記」のアクチュアリティは一層増していると思われる。p284「役者あとがき」

 「パジャマのままパソコンの前に座るブログ・ジャーナリスト」を標榜する当ブログとしては、ちょっと気になる評論ではあるが、別に当ブログは「引きこもって」いるわけでもないし、「地下室」にこもってばかりいるわけでもないので、ここは速やかにスルーしよう。┐( ̄ヘ ̄)┌

 しかしまぁ、ここまで引きこもると、現代人としては、ちょっとおちょくってみたくなるものだが、やはりすでにウッデイ・アレンが「肥満質の手記」というパロディを書いているらしい。それを動画化したものでもないかなと検索したが無かった。

 6番目・・・・。私はいつもこの本について話したかったのだが、時間がなくてこの本は見逃すことになるだろうと思っていた。計画はしなかった。いつもの通り、私は無計画で行く。私は50冊だけ話すつもりでいた。だがその補遺がやってきて、それが延々と続き・・・・またもや50冊になった。だがそれもでもまだたくさんのすばらしい本が残っていて、補遺の補遺をはじめなければならなかった。そういうわけで、今度はこの本について話すことができる。それは、ドストエフスキーの「地下室の手記」だ。

 これは、その作家と同じくらいに、実に不思議な本だ。ただの手記にすぎず、デヴァギートのノートのようなもので、断片的なものだ-----表面的には何の関連もなにいのだが、生き生きとした底流では深く関連しあっている。これは瞑想すべき本だ。私にはこれ以上は言えない。

 これは最も無視された偉大な芸術作品のひとつだ。これが手記----それも、瞑想的でない者には関係もなさそうな----に過ぎず、小説ではないという単純な理由で、これに注目する者はいないようだ。だが私の弟子たちにとっては、それは大変な意味を持ちうる。その中に隠された宝が見つかるだろう。Osho「私が愛した本」p205

 後半の女性との絡みがなかなかドラマチックでもあるが、どこにでもあるありふれた話のようであり、これに瞑想しようと思っても、はて、と戸惑うことも本当だ。まずはドストエフスキーの一連の作品のなかから、見直してみる必要もあろう。

 本書とは直接関係ないが、ウッデイ・アレンのパロディでも張り付けて、バランスととっておく。 

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