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2009/07/17

私とは何か さて死んだのは誰なのか

私とは何か
「私とは何か」 さて死んだのは誰なのか
池田晶子 /わたくし、つまりNobody 2009/04  講談社 単行本 253p
Vol.2 No717★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 図書館の新着本コーナーの背表紙に「私とは何か」とあれば、まずはこれは借りてこなければならない。借りてきて、一段落して、はて、池田晶子って誰だっけ?と、まずは原点に戻った。たしか漫画家に似たような名前の人がいたようにも思うがちょっと違う。小説家かな、と思って、奥さんに聞こうと思って奥付をみると、著作はたくさんあるが、どうも小説ではなさそうだ。

 池田晶子、って名前は、どういう名前なのだろう。失礼ながら、女性の場合は結婚すると姓が変わる場合も多い。となると、手掛かりはむしろ姓ではなくて名のほうか。晶子、まさこ? なんだか1960年の東京生まれであれば、かなりの女性の名前に「子」のつく最後の世代か。となると、「晶」だけが唯一の手掛かりか。まさこ、と読んで、その表紙のうえに「AKIKO」とあって、初めて、この人は、いけだあきこ、と読むのだとわかった。

 そういえば、知り合いのコピーライターに、この名前を使っている女性がいる。本名は知らないが、姓はごくごくありふれた(失礼)ものらしい。そのために、いかにもそれらしいペンネームを使っている。あれだけおしゃれな人が使っている名前で、しかも晶子をあきこと読んでいる。これって、けっこうおしゃれな名前なのかもしれない。

 で、この人の名前はペンネームなのだろうか。それとも本名なのだろうか。Wikipediaをみると、ご主人は伊藤實というお名前らしいから、結婚したあともペンネームとして旧姓(といういいかたも変だが)を使っていたのだろうか。などなど、日本社会なら、よくありそうなお名前をみながら、はて、あなたは誰ですか? と聞きたくなってきた。

 哲学書を読む楽しみ、たとえばヴィトゲンシュタインのそれのようなものにも、独特のコツがある。ヘーゲルを気合いで読むなら、ヴィトゲンシュタインは間合いで読むのだ。ヘーゲルが朗々たるオペラのソロなら、ヴィトゲンシュタインの呟きは、能の舞台みたいなものだ。どこにどう飛び何が出てくるか、一見予測がつかないようだが、息をひそめて聞いていると、それはそれでうそのない、生理のような論理性がある。生涯、定義について悩みぬいた彼のような人を、定義で読むのは失礼だ。p45

 彼女は、哲学者なのであった。いや、大学で教えている、という意味での哲・学者ではなかったかもしれないが、生涯を哲学したひとりの人間、という意味では、哲学・者だったのだろう、と想像する。

 生涯? そう彼女は、どうやらすでに亡くなっている。2007年2月。膵臓癌だったらしい。「私とは何か さて死んだのは誰なのか」というタイトルが、ここに来て、また一段と違った意味合いに読めてきた。

 自然と比べればこの自分とはなんともちっぽけな、というあの巷間によく聞くあの感慨も、違うと言えば違うのである。自然と自分を比較するとは、自然と自分を別物と見ているに他ならないからである。通常のエコロジー的発想に限界があるのもここである。自分なんてものはいったん死ななけりゃ、わからないことがあるのである。p71

 哲学の、というか、人間の、思索の原点、「死」そして「私」。

 核戦争で地球は粉々、人類は全壊滅、であるとして、その事態をそうとして認識している何者かの意識を想定した刹那、私は地上の「私」を超える。超えて宇宙大に爆散する、その一瞬を、私ははっきりと自覚できる。p33

 詩的な表現だが、本当に「私ははっきりと自覚できる」だろうか。

 それは「意識」だ。誰でもなく、無くなることもできず、在り--続ける普遍的な「意識」だ。これはとんでもないことであるが、事実である。神秘ではあるが、明瞭な意識の型(ロゴス)である。なぜならこころみに、「無」を意識のそこに表象してみよ。「無いもの」を考えてみよ。これは絶対に不可能である。したがって、人類がひとり残らず居なくなっても、意識は無くならないだろう。意識は、生々流転する万物をそこに浮かべて、永遠に在り続けるだろう。そして、それは、いまここに坐っている私の意識である。あなたの意識でもある。p34

 ここまでクリアな意識をもつには、さて、どうすればいいだろう。

 私の周囲には、自ら神秘主義者を名乗る友人がいないので、世の「神秘主義者」という人の考えがどのようであるのか、正確には把握できないが、オウムのようなのをその典型と思えばいいのだろうか。それなら、私は、あれとは違う。なぜなら私は、マルクスを信奉したことがないように、神もまた信仰したことがないからである。ただし、考えたことはある。いや、常に考えていると言ってもいい。神秘について考えるために、人は神秘主義者である必要はない。ただ素直な心であればいい。p170

 麻原集団事件の直後の1996年の文章であり、しかも未発表のままに終わった文章だから、割り引いて考えなければならない。しかし、ここにはなにかの萌芽がある。「神秘について考えるために、人は神秘主義者である必要はない。ただ素直な心であればいい。」 素敵なフレーズだが、ちょっと違う。「素直なこころ」という言葉で、彼女、池田晶子が意味したところを、自らの意識のなかでイメージしてみる。

 素直な心でみてみれば、本物の哲学者、思想家、宗教者は、おしなべて「神秘主義者」と言えるのではないか。釈迦もイエスも、ソクラテス、プラトンも、傲然たるままに、はたと口を噤んでいるところが必ずやどこかにある。道元、あの完璧なる論理性こそ神秘主義の真骨頂、あれほどあからさまにわからないとわかるなら、これ以上明らかな認識はないと言える。p171

 さぁ、あとは、それをみずからの内にどうみるかだ。

 以前なら、「意識」と言ったはずのところを、覚えず「魂」と言っている自分に気がついている。
 私がものを考える仕方は、誰か他の哲学者が使用した単語や用語を考えることから始めるのではなく、自分がじいっと感じ考えているそこに、そうとしかあり得ないものとして与えられる言葉を信じる、そういう仕方である。それはもうずうっとそうだったし、またその仕方で大きく誤ったことがないという少なからぬ自信もあるしで、この微妙な変化は、なにか大きな地殻変動の前触れかもしれないと、いっそう自分の感覚に耳をそばだてているこの頃である。
p176

 池田晶子は、ちょこっとプロフィールをみただけだが、いいところのお嬢さんでもあったようだ。小さな時から教育環境が整えられ、できる子だったのだろう。美人だし、コリー犬を飼っていた。そして亡くなったいまでも、こうして夫を中心とした人々によって、「わたくし、つまりNobody賞」が創設され、NPOまで作られている。幸せな家庭生活をイメージする。

 謎。
 エニグマ。
 絶対的理解不可能。

 地の縁に立ち、宇宙の暗黒、沈黙の闇に向かい耐えきれず問う、問いかける、「私とは何なのか-----」。
 問いは、ありもしない宇宙の際限に吸い込まれ消え、木霊は返らず、あるいはおそらくは、ありもしない際限であるところの私からの木霊として、それは返ってくるだろう。「私とは何なのか---」。
 p209

 巻末の著作一覧を見ると、すでに30冊以上の単行本がでているようだ。奥さんに聞いてみたところ、彼女の中学校にも「14歳からの哲学」が入っているようだ。どのような形で、種々の出版が続いているのか知らないが、この「さて 死んだのは誰なのか」シリーズは3冊組である。この「私とは何か」は講談社から、「魂とは何か」はトランスビューから、「死とは何か」は毎日新聞社からでている。

 なにか、「池田晶子」が再編集されている途上のようでもあり、彼女への愛がそうさせているようでもある。

 一番わかりやすいのは、自分が死ぬということを考えること。明日は必ず死ぬという状況になってみれば「自分の人生なんぞや」と、すこしは考えるかもしれない。p222

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