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2009/07/20

池田晶子『死とは何か』 さて死んだのは誰なのか <1>

死とは何か
「死とは何か」 さて死んだのは誰なのか<1>
池田晶子 /わたくし、つまりNobody 2009/04 毎日新聞社 単行本 254p
Vol.2 No722★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 「私とは何か」「魂とは何か」と来て、「死とは何か」と来た。三部作の遺作集を編集するにあたり、当事者たちは、この語呂のよさでWhat is でまとめたものの、生前の著者の言葉ではなかったのではないか、と思う。しかし、かと言って、こうまとめられたことについて、ことさらご本人も不本意ではないだろう。

 当ブログにおいて、それは「私は誰か」、「魂は何処にあるか」、「いかに死ぬか」という問いに直されなければならない、と提案した。少なくとも、統一感を持たせるためにだけ「~とは何か」で括ってしまうことには共感できない。

 茂木健一郎が、いいところまでいくのだが、結局「科学者」であろうとし、末永蒼生が、いいところまでいくのに、「芸術家」であるところに逃げようとするのに似て、池田晶子は、いいところまでいくのだが、結局は「哲学者」であろうとする。そこのところに、限界が生まれる。

 死ぬということはどういうことなのか。これが精神にとっての最大の謎である。
 それは、有史以前、人類以前の宇宙それ自身の謎として、精神を惹きつけてやまない謎である。だからこそ、我々は、いついかなる時、いかなる場所においても、それについて思考し、思索し、可能な限りの遠くまで、想像力を巡らせてきたのである。
p10

 「死とは何か」と哲学的に問われる限り、答えはでない。問い自体が間違っているのである。死は厳然として、ひとりにひとつづつ付与されているかぎり、人はそれを体験するしかない。あとは、「いかに死ぬか」を問うことしかない。いかに死ぬか、を実行できるとすれば、それは死の体験の後ではなく、死の前に問うしかないのだから、「いかに死ぬか」の答えは「いかに生きるか」の答えでしかない。

 ヴィトゲンシュタインという哲学者は、「月に行ったことがないとは断言できない」ことを思い悩んだ断章を遺しているが、こういった、あやうく、また、ある種厳しい感覚は、ひとり考えて日を移ろうことの多い私にもまた親しいものである。 p14

 この本もまた、著者が亡くなったあとに、1992年から亡くなる直前の2007年1月までの、各種メディアに発表されたものを中心として、未発表原稿をはさんで、アトランダムにまとめられたアンソロジーである。そうである限り、論調が一定しないし、深みがかならずしも著者の求めたレベルまで降りていっていない嫌いはある。

 「死」とは何か。まず、それを考える必要があります。死体は存在しますが、死は言葉としてしか存在しません。誰ひとりとして、死を見たことがない。死体から「死」を取り出すことはできません。誰にも死とは何かが分からないのに、分からないものについて法制化することには、最初から無理がありました。p24

 「死」の前に、「私」が問われ直される必要がある。「私」は誰か、が問われたあとに、いかに「死」ぬか、が問われなくてはならない。「私とは何か」、「死とは何か」、というテーマでは、答えは一切出ないだろう。

 「生きている」ということは、当然「死んでいる」ということの反対です。死がなければ生はないのだから、生とは何かを知るためには、死とは何かを知らなければならない。しかし、現に生きている私たちに、どうして死を知ることができるでしょう。死とは何かがわからないのに、どうして生とは、生きているとはどういうことか、わかっていると言えるでしょうか。生きているとは、人生とは、いったい何なのでしょうか。p28

 たいへん失礼な言いかたながら、彼女はお転婆とも、ジャジャ馬とも表現できそうな、自由闊達な性格をお持ちだったようで、また、それを周囲も愛してきた気配がある。しかし、本当に、自由だっただろうか。まったく、͡個となって、ひとり存在しただろうか。すくなくとも彼女は、「哲学者」であることをよしとした。自由の境地に遊んでいるようでいて、実は、「哲学」という手のひらの中を飛び回っているにすぎなかったのではないか。

 生き方がわからない、死に方がわからないと思い悩む人々よ、あなたは生きることの何を、死ぬことの何を、あらかじめ信じていたというのか。生きるに甲斐あり、死ぬに甲斐ある、そのように求められる行き死にの形とはしかし、そのように求められるそのことにおいて、充分に凡庸なものではないのか。 p30

 これは第三者に対する問いかけではなく、彼女が彼女自身に問いかけた問いであったはずである。

 何事も執着しないことが、何事も楽しむおそらく最後の秘訣です。禅の達人は、一切がただ可笑しくて、月を見ても呵々大笑するというではないですか。p45

 ここで、あえて「禅の達人」の喩えをださなくてもよい。すくなくとも、池田晶子、あなたは「呵々大笑」していただろうか。翻って、それは、それを問うている、私自身への問いとなる。

 ちょっと考えてみれば気がつくことですが、私たちは、「私は生きている」と普通に言いますが、この「生きている」ということは、いったいどういうことなのでしょうか。「生きている」と言うからには、「やがて死ぬ」とも思っているわけですが、それなら、この「死ぬ」ということは、どういうことなのか。誰ひとりとして死んだ経験はないはずなのに、どうして皆それを知っていることであるかのように思っているのでしょうか。p84

 この問いもまた、彼女が彼女自身に問いかけた問いでなくてはならない。「私たち」が生き、「私たち」が死ぬことなどない。生き、死ぬ、のは「私」だけだ。

 外界の拡張、外界への欲望は、いいかげん、もういいのではなかろうか。人類はそろそろ、そのことの無意味と、内面の意味に、気づいていいのではなかろうか。p109

 彼女は、内面への旅について、人類誕生以来続いてきた系譜を知らない。それは誰にも手が届くところに置かれているが、それは誰にでも手が届く、というものではない。彼女が「哲学」という枠組みを、さらに一歩踏み出して、勇気を持って一人になることができたら、彼女自身がそれに気付いていたはずだ。

 アフリカの小国の不便な暮らしと私は言ったが、じつを言うと、私はそういう暮らしを不便とはちっとも思わないのだ。薪割り、水汲み、飯炊きで終わる一日、しかし、精神の自由は完全に確保されているからである。頭がある限り、その間、頭でものを考えることができるからである。p110

 薪割り、水汲み、飯炊き、これらの体験が彼女にあったなら、もっとこの言葉はリアリティを持って聞くことができたであろう。薪割り、水汲みは、小中学生時代の私の手伝いの日課だった。たしかに、彼女の言うとおり、これらの作業のなかで、意識がクリアになるのは本当だ。でも、割るべき薪もなく、汲むべき水もなく、炊くべき飯もない人々もこの世にはいる。

 死とは、何か。
 じつはこれこそが、人間の「哲学」の最初の問いなのだ。そして、死とは何かを「考える」ためには、とく「哲学」を学ぶ必要はない。誰もが自分で考えられるし、また考えるべきことである。
 そしてまた、この問いに対して考えらえるのも「哲学」だけなのだ。科学には決して答えられない。死とは何かを考え捉えようとして、捉え損ねているのが、あの「死の判定基準」なる苦肉の策であるのを、私たちは見ている。
 p117

 この問いには、科学でも答えることができなければ、哲学にも答えられないことは、彼女は、自らの体験を通じて知ったことだろう。

 考えてもみてください。「私とは何か」と悩むとき、その<私>とは、では何ですか。自分の名前や肉体以外でそれを示せますか。あるいは、「なぜ生きているのか」「どうせ死ぬのに」と悩むとき、<生死>はそれほど確実ですか。死が無なら、無いものを恐れて生きていることになりませんか。p158

 これもまた、彼女が彼女自身に向けて放った問いであろう。実は、この問答ついて、すでにひとつの系譜として、人類は正解しつづけてきている。答えはある。

 「役に立たない」学問の筆頭は、言うまでもなく哲学である。「生きなければならない」と人々が思い込んでいるところ、「何のために生きるのか」と問うからだ。p166

 もちろん、ここは彼女がフェイントを狙った反語である。本当は、もっとも「役に立つ」、もっとも「必要」なのは、哲学である、と思っている。しかし、彼女が本当にこの言葉を自分のものにしていたら、enlightenmentしていたに違いない。

 この「さて死んだのは誰なのか」シリーズの三冊目、「死とは何か」の最後の章は、「死とは何か----現象と論理のはざまで」という10数ページの文で終わっている。語り下ろされたのは2007年1月だから、ほぼ亡くなる一カ月前のベットの上だったのではないか、と勝手に想像する。

 すでに彼女は「死につつ」あった。そして「生きて」いた。この本の中で、池田晶子は、ますます生きている。この最後の文章にも、あちこち、いろいろコメントをつけようとすればできないことではないが、あえてここではそれをすまい。

 この最後の文章は、行間を読まれるべき文章だろう。どうのこうのと、一読書子がブログに書いたとて、どうなる次元でもない。

 読書ブログ、それも、彼女が苦手、あるいは嫌いとまでいったインターネットが大好きな私の目下のテーマは「死」だ。パソコンが嫌いだった彼女が天国から、当ブログを読むことはないだろうが、彼女の三部作を読んで、いろいろ考えたこと、そして、彼女の哲学の存在を知り得たことを感謝している、その念がせめて、天国の彼女にとどきますように。

合掌

<2>につづく

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