大聖釋尊
「大聖釋尊」
エドウヰン・アーノルド著 1908(明治41年)/10 佛教圖書出版協會編. - 東京 : 佛教圖書出版協會
Vol.2 No733★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆
「亜細亜の光輝」は第2篇までしか訳出されていないが、こちらは残りの第8篇まで完訳されている。
六春秋の末遂に
仏成道の大光明、
放ち玉ひし聖地をば
探らん人は底樋なき
恒河につゞく千花園
その西北に位して
緑したゝる群峯の
麓に歩行運ぶべし
尼連禅、莫波那、二條の
渓流こゝに湧き出でつ
広葉のそよぐマハー樹や
奇奔珍木の生ひ茂る
谷間を廻り野辺に来て
落合ふ河はファルガなり。
河岸の岩根に瀬を緩め
夕日に赤き般荼婆山、
山の裾野を潤ほしつ
伽耶の城下に澱むなり。p385 「第六篇」
全編がこの調子なので、現代人としては、ざっと読み下すことはできないが、じっくり読めば、これがまた味わい深い。どこまでが英語の原典にあり、どこからが、当時の邦訳のプロセスにおいて付加されたイメージなのかは定かではないが、単なる人物伝でも、プロフィールでもない。
東洋人とて、現代人とて、ゴータマ・シッダルダの生涯をどれほど知っているかというと、心もとなくなってしまうことがある。ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」にしたところで、それはヘッセのひとつの小説に過ぎない。
実にこのようにして、東西文化の交流が起こり、東洋が西洋理解をすすめたように、西洋もまた東洋理解を徐々に推し進めたのだった。21世紀においては、地球人としてのひとつのヒューマニティを語ることができるけれども、ここまで来るに至ったプロセスには、たくさんのステップがあったことがわかる。そして、それはそれほど昔からではなく、ごく最近になって、ようやくその速度を始めたこともわかる。
少なくともここに書かれているゴータマ・シッダルタは、かなり美化されてはいるけれども、神格化されて、視線を上げるのもはばかれるというほど聖人化されてはいない。神々しくはあるけれど、人間ブッダがかいま見える。
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