カラマーゾフの兄弟<10>
「カラマーゾフの兄弟」(4) <10>
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー /亀山郁夫 2007/07 光文社 文庫 700p
「じつのところ」と彼はつづけた。「こうしてとつじょ、ロシアじゅうに悲しい名前を知られることになったカラマーゾフ一家とは、何でしょう。わたしは少し大げさすぎるかもしれませんが、思うにこの家族の光景には、現代ロシアの知識人階級に共通する、ある基本的な要素が見え隠れしているます。むろんすべての要素ではなく、『小さな水滴に映る太陽のように』ごくごく小さな形でありますが。いずれにしても何かが映っている、何かが現れているのです。第5巻p517
これは、裁判における誰かの証言である、というより、ドストエフスキー本人の言葉であろう。この小説のなかに、なにかの全ロシア的な(つまり全人間的な)、「ある基本的な要素」を盛り込もうとしたことは確かだ。
一読者としての私にとっては、「自殺」という形が、思わぬ方向でやってきたが、遅かれ早かれ、この「基本的な要素」は登場せざるを得ないと思っていた。しかし、あえていうなら、もうひとつの「死」がある。それは社会的な死だ。病死、事故死、他殺、自殺、自然死、さまざまな死の形はあれど、社会的な死も、大いに語られねばならない。
この小説の中で、登場人物をひとりひとりイメージするために、自分の身近に存在する実在の人物にそのストーリーを演じさせながら、ここまで読み進めてきた。その作戦はわりとうまくいった。まったくイメージできない、などということはない。ここまで生きてくれば、たいがいの人物像と出会っている。大体、リアリティを持って想像することができる。
しかし、もしこの小説の中に、もし自分も登場していると仮定して、もっとも親近感を感じる登場人物、もっと感情移入できる役柄、そういうものを探し続けている自分に気付いていたが、ついぞここまで、これは私だ、という人物とは出会わなかった。
しかし、敢えていうとするなら、キャラクターや思想、行動にはかなりな違いがあるが、この小説を読んでいると、次第次第に、自分はある立場に追いやられていることに気づく。それは、ドミトリー(ミーチャ)という、被告人にして、無実を訴え続けている哀れな男の立場である。この哀れさ、このアンビバレンツな立場に、いつの間にかすり沿うように押しやられている自分に気づく。
この巻、第4巻である。3章*4巻で、全12章、ここで、この小説の結論が出るはずだった。しかし、裁判としての結論は結局でなかった。いや、小説としては、ここで終わっていいのだろう。裁判の結論は、ある種、どうでもいいのだ。だって、すでに父親殺しの犯人さがし、としては、すでにスメルジャコフが自白してとうに自殺してしまっているのだから。すこしは、曖昧さを残したまま、その余韻のなかに消えるののが、小説というものだろう。
訳者は、彼がこの小説に対していだいていた厳密な構成感覚をできるだけ忠実に伝えたいと願って、あれえて四分冊の形式をとり、それぞれの巻がそれぞれの部に相当するように工夫した。しかし、エピローグにちては、むしろ訳者なrにの独自の考えにしたがって、別巻として扱うことにした。第4巻p678 「読者ガイド」亀山郁夫
このような造本構成は、おおいに成功していると思う。すくなくとも、一読者としての私にとっては、このような形がフィットしている。他の本が3分冊などになっていることを考えると、この4部+1という形は、一番、理にかなっているように思う。
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