『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する<2>
<1>よりつづく
『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する <2>
亀山郁夫 2007/09 光文社 新書 277p
ここで「物語層」と呼ぶ最下層が、小説全体を駆動させていく物語レベル(筋書き、心理的メロドラマ)の層であるなら、最上層の「象徴層」は、ある意味で、少しむずかしくなるが、形而上的な、「ドラマ化された世界観」とでも呼ぶべき世界である。そしていま、わたしが「自伝層」と呼ぶところの中間部とは、象徴層とも物語層とも異なる次元のドラマを形づくる部分、作者=ドストエフスキーが、みずからの個人的な体験をひそかに露出する部分と考えていただきたい。p102
Osho「私が愛した本」の、しかも「小説(文学)」編を読み進めるにあたって、何冊かリストアップされている作品たちを、なんとかゲートインさせることはできるが、ひとつひとつを読み進めるには、それなりに工夫が必要だ。
ここで訳者が言っている三層構造は、考えてみれば、小説が苦手な当ブログが小説読書を進めるうえで、なかなかいいアイディアをくれたと思う。物語層=コンテナ、自伝層=コンシャスネス、象徴層=コンシャスネス、という風に、当ブログなりの尺度に置き換えてみよう。そうすれば、ちょっと面倒そうな長編大作に取り組むに当たって、なにやらすこしはとっかりがでてきたように思う。
すくなくとも、小説=物語層オンリー、という食わず嫌い的な偏見は、そろそろこの辺で捨ておかなければなるまい。
思えば、この「続編」という考え方も、面白い。最近は村上春樹の「1Q84」も1、2、そしてさらにもっと続編がでてくるのではないか、と期待する向きもあるようであるが、実際は、当ブログも、あるなにかの「続編」であり、またその「続編を想像」していると言えなくもない。
カトリックも、プロテスタントも、ロシア正教会も、基本的には「復活」の理想を礎としている。だからといって、一般に死者の物理的な「よみがえり」まで教えることはありえない。ここで言及されている<宗教>とは、むろんロシア正教会の教えでもない。コーリャは、「宗教」を主語にして語っているが、じつはこれもまた受け売りだった可能性がある。p118
思えば、かの168冊のうちの6冊しか「キリスト教編」に振り分けていなかったのだが、「小説(文学)編」に振り分けた本のほとんどは、なんらかの形でキリスト教にかかわっている、と言えなくもない。168冊の中から6冊だけ切り離してキリスト教を考える、というのも偏狭であってみれば、小説というジャンルに押し込めることによって、キリスト教を扱った「本」たちのテーマ性をフィクション=うそつきの世界、と決めつけてしまう当ブログの姿勢は、すこし滑稽なことになる。
少し空想になるが、後者の思想は、「第二の小説」でのイワンがおそらく体現していくはずである。言わんは従来からの主張どおりヨーロッパに向かい、みずからの合理主義哲学を究めようとするにちがいない。あるいは、ロンドンに赴きそのグノーシス主義的な世界観の探究に磨きをかけるのだろうか。ジュネーヴ潜伏する亡命革命家たちと交流を結ぶのだろうか。p128
19世紀の歴史的背景を考えれば、当然ブラバッキーたちの神智学的な流れを意識した動きと見ることもできる。
それとは反対に、アリョーシャは民衆のなかへ入っていくだろう。「人民主義」をとなえたアレクサンドル・ゲルツェンの「ヴ・ナロード」の掛け声にしたがった若い革命家たちと同様、彼もまた地方の村々へと出かけていく。といっても、信仰を捨てたわけではない。むしろ民衆の本質を見極めるための行動である。もしなんらかの「離反」が彼の身に起こるとすれば、それは宗教そのものからの離反というより、ロシア正教、ないし堕落した教会権力からの離反という形をとるのではないか。p128
時代背景はまったく違うが、当ブログとしてはこれらのサヨク的流れをマルチチュードという概念として、現代的に捉えることはできないか、と試行しているところである。考えてみれば、この「カラマーゾフの兄弟」も、たんなる文学的名作として物語としてとらえてしまのではなく、もっとも今日的な押し迫った切実なテーマ、と捉えなおすことも、できないわけではない。いや、それこそが読者の側に渡されている権利でもあり、義務でもあろう。
印象的なのは、その前方を見つめる目の厳しさである。そこには何か内にひめられている凶暴な意志が感じとれるのだが、一般にこの絵のタイトルである「瞑想者」とは、ロシア正教会から分離された異端派の一つである鞭身派(ないし去勢派)に属し、さまざまな幻視状態に陥った信徒たちを指すならわしだった。p159
一読者として、親近感を持ってこのストーリーの中に入っていこうとするならば、いくらでもとっかかりはでてきそうだ。
たとえば、イワン・カラマーゾフの世界観は、グノーシス主義でいわれる「反宇宙的二元論」と呼ばれる理解のうえに立っている。この「反宇宙的二元論」とは、悪や罪といった日敵的なプロセスが存在するかぎり、この世界は認め(られ)ないとする実存的な立場である。p204
27才で皇帝暗殺疑惑で逮捕され死刑宣告を受けたドストエフスキーの「自伝層」から考えた場合、「物語層」で語られるストーリーを、単なるフィクション=嘘とばかりは決めつけることはできない。みずからの置かれている立場で作品を書いていくことによって、どのような「象徴層」へと到達しようとしていたのかを見落とさないようにしよう。
ドストエフスキーの生前の知人にして哲学者ソロヴィヨフは、ドストエフスキーの死後、こう記している。
しかしさしあたりただ一つのことだけを言いたい。つまり、あなたのプロジェクトは、キリスト教の出現以来、キリストの道に沿って人類の精神をはじめて前進させたものであるということ。わたしが、自分の立場からできることは、あなたを自分の師、精神の父と認めることだけです。p231
「物語層」と「自伝層」と、そして「象徴層」の三つの次元がまぜこぜになった抜き書きになってしまったが、すくなくとも、この訳者の「空想」によって、かの小説を読む大きなきっかけができたことは間違いない。
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