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2009/08/19

不死鳥<2>

<1>よりつづく
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「不死鳥」(フェニックス) (上) <2>
D.H.ロレンス (著), 吉村 宏一 (翻訳) 1984/01 山口書店 単行本 602p

 前回は、とにかくこの本があることを確認し、その分厚さに呆れかえって、なにはともあれ、メモするだけにとどめておいた。さて、他の本も一巡して落ち着いたところで、落ち着いてこちらのほうも再びめくってみようかな、という気分になってきた。

 しかしながら、あいも変わらず、Oshoがやんわりと「こういうものはめったに書かれることがない・・・・何十年に一度、あるいは何世紀に一度しか書かれない・・・・。」とほめちぎっているが、そんな簡単に読み込めるような本ではない。上下2巻で翻訳者が15~6人もいる、ということだけでもただ事ではない。この本は、D・H・ロレンスの作品群を、E・マクドナルドが編纂して1936年に出版されたものだ。

 ひとことで「不死鳥」とはいうものの、はて、Oshoはこの本の何処を強調して言っていたのであろうか。ざっとみたところ、作品群をまとめたものだが、単品としての「不死鳥」という代表作が収められている、ということでもなさそうだ。この作品群全体を「不死鳥」というのだろうし、であるとするなら、作品というより、作者であるD・H・ロレンスその人全体の活動なり人生を、Oshoは注目すべきである、と語っているのであろう。

 これが大審問官の要約した人間の本性である。イエスが不適格と言われるのは、キリスト教が人間にとって、大多数の人間にとって、実践するにはあまりにも難しすぎることを説いているからである。キリスト教を体現できたのは、ほんの少数の「聖人」、あるいは英雄だけである。それ以外の人々にとっては、人間はどうにも引くことのできない荷をつけられた馬同然である。「もし汝が人間をそんなに尊敬しなかったら、人間にそんなに多くを要求しなかったであろう。そして、そのほうが真の愛というものに近いだろう。というのは人間の負担も軽いであろうから。」p389「大審問官」

 「カラマーゾフの兄弟」の新訳に先日ようやく目をとおし終わったところだが、やはりこの大審問官についての言及は、おおいに関心が引かれる。このように、他の作家たちの作品との関連のなかで、この「不死鳥」は折に触れて、長期間にわたって、読まれ続けていくべき本なのであろう。

 D.H.ロレンスの「精神分析と無意識」についても、Oshoは最大限の評価をしているが、ひとつの作品として、あの一冊を考えるというより、多くの作品をもつロレンスの中の、ひとつの切り口として、あそこから入ることの可能性を語っていたのだ、と理解すべきだろう。 

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  なんとかドストエフスキーの2冊をめくったところで、当ブログは、これから、トルストイの三つの作品を読み込む予定になっている。「復活」「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」・・・・・。ふ~~・・・・・。タイトルを見ているだけで、ため息がでる。でも、ここを突破すれば、すこしは楽になる。いずれは、「東洋哲学(インド)」編も一巡しなければならないので、そこにたどり着くための下準備としては、大変重要なところになる。

 これらの大きな小説は、読んだか、また、読んでないか、ということだが話題になり、人生の中で何度も読み返すチャンスがおとずれないようであるが、最初から最後まで読みとおすことが前提とされる小説と違い、このD・H・ロレンスの「不死鳥」は、大冊ではあるが、多くの小品が編纂されている本なので、必ずしも、上下巻を一気に読む、という必要はなさそうだ。

 読めるところから読んでいけばいいだろう。しかし、小説のように一回読めば、それでOKというものではなくて、人生をかけて読み「続けて」いくという作業が必要になってくるように思われる。ぱらぱらめくるだけでも、意味深いセンテンスがあちこちに含まれている。

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