聖アウグスティヌス 告白<2>
<1>よりつづく
「聖アウグスティヌス 告白〈上〉」 <2>
服部 英次郎 (翻訳) 2006/07 岩波書店 文庫 329p 初版1976/06 第25刷1999/05を読んだ
池田晶子は、「私とは何か」、「魂とは何か」、「死とは何か」と問うた。当ブログにおいては、この三位一体に、どうも落ち着きの悪さを感じ、「私は誰か」、「魂は何処か」、「いかに死ぬか」という形で問い直してみた。疑問符の5W1Hの中の、What is ? だけを編愛していては、どうも正しい解が得られないように思えたからだった。
しかし、「私は誰か」や「いかに死ぬか」という古典的な問いかけてに対して、「魂は何処か」という設問の仕方は、ちょっと間に合わせ気味で、きちんと腑に落ちた問いかけにはなっていなかった。たんに三拍子合わせただけ、という嫌いがある。
魂が身体に命令すれば、身体はただちに従うのに、魂がそれ自身に命令すれば、魂は服従を拒む。魂が手に動くように命令すれば、命令と服従とがほとんど区別されないほど容易に実行される。しかもこの場合、魂は魂であり、手は身体であって、両者は同一のものではない。ところが魂が自分にむかって、あることを欲するように命令するとき、それは同一のものでありながら、そのことをなさない。
この奇怪なことは何によるのであるか。また、何のために起こるのであるか。魂がそれ自身に、あることを欲せよと命令する。魂はそれを欲しないなら、命令しないであろう。しかも魂はそれ自身の命令することをなさない。しかし魂は、衷心から欲するのではなく、したがって衷心から命令しない。魂はそれを欲するかぎり、命令し、それを欲しないかぎり、命令するものをなさない。意志はある意欲が存在することを、しかも他の意欲ではなく、それ自身と同一の意欲が存在することを命令する。
それゆえ完全な意志が命令するのではなく、したがってそれが命令するものは存在しない。意志は、完全であれば、意欲の存在することを命令しないであろう。意欲はすでに存在するからである。それゆえ、欲しながら、欲しないということは、奇怪なことではなく、魂の病気である。魂は、真理によって起こされながら、習慣によって抑えられて、全体としてたちあがることができないのである。それゆえ、二つの意志が存在するのは、その一つが完全なのではなく、一方の意志に欠けているものが、他方の意志に具わっているからである。p271
輻輳的に進行する当ブログにおいては、さまざまな言語体系が暗躍し、言語も、アルゴリズムも、表現も、解釈も、あえて統一しないまま、表記し続けている。とくに、精神や、スピリチュアリティ、霊や、魂、などという単語や用語においては、ほとんど野放しの状態である。
だから、ここでアウグスティヌスが語っている「魂」が、たとえば池田晶子が問うところの「魂」と、おなじターゲットを指しているかどうかは定かではない。とは言うものの、当ブログにおいては、当ブログの進行者が、ある程度恣意的にこれらの言語やアルゴリズムを咀嚼してよいものと考えて、少し前にいく。
あまりに卑近な例に過ぎるが、あえて、この、私、魂、死、という三大テーマを、我らがパソコンに置き換えてみたら、どうなるであろうか。私、とは、CPUの速さ、メモリーやハードディスクの容量、ディスプレイの解像度、などに表現される、機能の可能域のことだと、仮定することにする。私は私として存在するとして、そこにはまだなんのコマンドも打ち込まれていない状態だ。ただ、可能性だけがある。
それに比して、死とは、その機能の終り、限界、と考えてみることにする。たとえば、最近私がやったような失敗、つまり、コーヒーをパソコンのキーボードとディスプレイに御馳走してしまう、なんてことは、ごく簡単に想像できる。つねに、死、はやって来ることができる。いや突然やってこないまでも、多くの演算処理をやろうとするとフリーズしたり、新しいアプリケーション・ソフトが動かなかったりする。つまり、いずれは廃棄処分になる。
この、可能性と、限界の間に存在するのが、OSであろうし、さまざまなコマンドであろう。もともとハードウェアはOSに依存するし、OSもまたハードウェアに依存するが、最近は割と汎用性が広くなってきたようである。さまざまなアプリケーションもあり、クラウド・コンピューティングなどの、大きな機能の変化はあれど、そこには何らかの「方向性」がある。この方向性のことを、ここでは、暫定的に魂、と呼びたい。
魂は、私という存在の可能性の中にあって、いつかは極限や終焉としての死を迎えるまでの方向性である、と考えることにしよう。そういった意味においては、「魂は何処か」、「魂は何処に向かうのか」という問いは、必ずしも大きく外れているとは思わない。
青年アウグスティヌスは、カルタゴやローマにあって、マニ教とカトリックの、互いのネガティブ・キャンペーンを見比べているようだ。4世紀に生きた彼の周囲には、まるで、この二つしか存在しないかのようだ。コカ・コーラとペプシ、しかない。この二つから一つを選べ、という自らに課したテーマに誠実に取り組んでいく。
それはまるで、マックやウィンドウズか、と言った、かつてのOS論争にやや近い。最初は熱烈なマック派だったが、やがてウィンドウズの汎用性を見直した、などといった赴きさえある。しかし、この二つの選択肢だけしかないことに、その狭さを感じざるを得ない。
いまや、パソコンのOSの世界は、この他にリナックスや他のOSなども広く知られるようになったし、自分自身だけのOSを作ろう(実際は限りなく難しいが)という動きさえある。もちろん、マックでウィンドウズ・アプリケーションを動かすようなこともできるようになってきているので、必ずしも二律背反で、二者択一ではなくなっているのだが、アウグスティヌスの魂は、この二者択一の間で揺れ動き、やがて30代になって、カトリックに宗旨替えをする。
まぁしかし、目的や、方向性、にかなっているなら、OS選びは最初の悩みであり、必ずしも、のちのちの限界性にはそれほど影響はない。サーバーとして使うのか、デザイナーが特殊な画像ソフトを使いたいのか、あるいはクラウドにつなぐための端末なのか。
そしてわたしたちの話が、官能の快楽はどんなに大きくあろうとも、またどんなにまばゆく物体の光で輝こうととも、あの永遠の生活の楽しさに比べると、比較にならないのみではなく、語るにも値いしないように思われるという結論に到達したとき、わたしたちは「存在するもの」に対してますます激しい熱情をいだいて立ち上がり、段階的にすべての物体的なものを通りすぎ、そこから日と月と星とが地上を照らす天をも通りすぎた。p314
当ブログでは、魂、という単語よりは、スピリット、スピリチュアリティ、という単語を愛してきた。魂、という語感にはやや物質的な重量が加わり、スピリットやスピリチュアリティには、やや物質から解き放たれた軽さが感じられる。しかし、私、と、死、の間にあっては、これらの二つの単語はかなり近いものだ。かたやアプリケーションといい、かたやコンテンツ、という、という程度の親近性がある。
しかし、私という意識の中を飛び交う、魂のスピリチュアリティは、方向性を持ってはいるが、ついには死という最終地点、今ここ、という、永遠の地平に辿りつく。だから、「魂は何処へ向かうのか」という問いは、「魂は何処か」という問いに集約される。私、魂、死、という三つの側面を持つ、人間に課せられた秘密は、パソコンに比することで、理解はしやすくなるが、本質的な意味においては、もともと比較することのできるようなものではない。
4世紀のローマに生きたアウグスティヌスは、時代の選択肢の中で、カトリックという神学を学んでいくのだが、21世紀に生きる地球人たちには、単なる二つの潮流のネガティブ・キャンペーンの何れを選択するか、という簡素な図式の中にはいない。潮流という意味では、ありとあらゆる宗教性、スピリチュアリティ、精神運動の濁流の中にある、と言っても過言ではない。
アウグスティヌスのような、極めてシンプルな二者択一を目指すとすれば、21世紀の地球人たちは、古いものか、新しいものか、という、二律背反の中から選ばなくてはならない運命に立ちいたっている。古き伝統に逃げ隠れるのか、新しい可能性に賭けるのか。
かつてドメステッィクな成長を遂げたNEC・PC98シリーズのように、より大きな標準に合わせて開いていかなくてはならないOSがある。これを標準基準の覇権争いのようなものと考えてはならない。マックかウィンドウズか、と言った論争に明けくれているうちに、まったく新しい形でリナックスが立ちあがってきたように、古きものは古きよきものとして残りながら、やがて新しいものに明け渡していかなくてはならないのだ。
オバマの非核宣言を、危ういあやふやなものだとする批判もある。しかし、それがいかに危ういものであったとしても、それ以外の何を支持すればいいのか。退路を断って、新しいものに賭けなければならない時がある。今は、その時だ。
4世紀のアウグスティヌスは、その時代において、もっとも新しい思潮に触れて、自由な青年の一人として大いに考え、大いになやみ、そして決断した。21世紀の地球人たちも、もっとも新しい潮流に触れ、大いに悩み、大いに考え、そしてやがて決断する。
| 固定リンク
「47)表現からアートへ」カテゴリの記事
- 村上春樹『1Q84』をどう読むか<2>(2010.01.14)
- 村上春樹の「1Q84」を読み解く<1>(2010.01.05)
- 1Q84 <4>(2010.01.05)
- 1Q84 <3>(2010.01.02)
- 謹賀新年 2010年 元旦(2010.01.01)
コメント