カラマーゾフの兄弟<3>
<2>よりつづく
「カラマーゾフの兄弟」(1) <3>
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー /亀山郁夫 2006/09 光文社 文庫 443p
Vol.2 No745★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆
この小説に魅せられた哲学者のヴィトゲンシュタインは、何十回となくこの本を手にし、全文を諳(そら)んじるほど細部を読みこんだとされるが、初めて本書を手にとり、ようやくプールにたどりついた読者のみなさんも、おそらくここに、現代のわたしたちの「生」にかかわる根源的なテーマが、数知れず、惜しみなく示されているとお感じになられたのではないだろうか。第5巻p172
なるほど、「物語層」、「自伝層」、「象徴層」、という三層構造を意識しながら読み進めてみれば、苦手な小説も読めないこともない。それにしても、あまりに入り組んだ「物語層」で、ここでまだイントロなのだから、そこまで仕掛けいっぱいにしなくてもいいのではないか、と思ってしまう。
反面、「象徴層」も、やんわりと見えてくる。三人の兄弟に充てられた象徴性、父親、教会の長老、まつわる女性登場人物など、ひとつひとつがゆっくりとキャラクターづけられていく。だがそれもまたあまりにもズバリということではなく、「かも知れない」みたいな曖昧語を使いながら、意味合いを重層化していく。
それら二つの層に対して、いわゆる作者自身の「自伝層」は、「ようやくプールにたどりついた」一読者として、まだよくわからない。思えば、「地下室の手記」も同じドストエフスキーの作品だが、Oshoは「私が愛した本」の中では、この多作な作家からは、これら二冊を紹介しているにとどまっている。しかも、いずれも多くを語っているわけではない。
思えば、「物語層」、「自伝層」、「象徴性」、は、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネス、と対応させることも可能であろうし、構造性、機能性、目的性(いまいち適当な言葉がない)、と言いなおすことも可能だろう。あるいは、池田晶子的プロットにすり寄って考えてみるなら、「魂はどこにあるか」、「私は誰か」、「いかに死ぬか」に対応させることもできるだろう。
庭の駐車場に立て懸けた支柱を伝って、奥さんがプランターに植えた二株のゴーヤが、いまを盛りに成長しつづけている。毎日毎日成長している。ツルが伸びるといくつも蝕指を伸ばす。そこに支柱やヒモなどの「構造体」があると、自然とそこに絡みついていく。一段あがっては、さらに左右に長い蝕指を伸ばす。何もないのに、空間に探りをいれていく。
この小説を読んでいると、このゴーヤの蝕指を連想する。なんとも曖昧な表現を使い、どうとでも取れる多義性の言葉を使いながら、そこの「構造体」があると、うまいことそこに絡みついていく。構造体がないと、空間に延びた小話は、絡みつくところがなく、自然と立ち消えになっていく。
我が家の子供たちが育った核家族的空間に比べて、私自身が育った大家族は、さらに地域に密着していたので、さまざまな人間模様に事欠かなかった。たとえば、父親のヒョードルのようなキャラクターも、実在の人間としてイメージすることもそれほど難しくない。下男のグりゴーリーやスメルジャコフでさえ、実在した知人とダブらせてイメージすることも可能だ。妖艶な女性群については、やや持ち札が不足するが、分からないわけではない。
アレクセイ、ドミートリー、イワン。この三兄弟については、やや誇張されているとは言え、わが友人たちのなかに、そのイメージを借りることは簡単なことだ。ゾシマ長老もわかる。ひとりひとりに感情移入していけば、ひとりひとりがまったく他人とは言い難い。作者は一番自分の「自伝層」に近いものとして次男イワンをおいたようだが、私自身は、今のところイワンはあまり好きになれない。アレクセイほど純情でもない。むしろ、ぶっちゃけたドミートリーにより親近感を感じている、というところか。
美のなかじゃ、川の両岸がひとつにくっついちまって、ありとあらゆる矛盾が一緒にくたになっている。おれはな、アリョーシャ、まったく無教養な男だけど、美のことについてはいろいろ考えたぞ。恐ろしいくらいたくさんの秘密が隠されてるんだ! あまりに多すぎる謎が、地上の人間を抑えつけているんだ。だからその謎を解けというのは、濡れずに水から出ろというのと同じなんだ。第1巻p286
ゴッホにせよ、ゴーギャンにせよ、ミケランジェロにせよ、美の探究者たちについては、当ブログ目下のテーマの一つである。
小説としての三層構造の中で、殺人事件がおこり、犯人探しが始まるという構造体があるとするなら、それはそれで探偵小説のような面白さがある、ということになるのであろう。この小説ひとつだけでたくさんの展開が可能であり、深入りすれば、当ブログまるまるこの小説と取っ組み合いすることになるやもしれない。
しかし、当ブログは、当面、168冊の本にまつわる構造体を追っかけている最中であり、一冊だけにとどまるわけにはいかない。そしてまた、当ブログの全体から見た場合、いつかは、構造体としてその講話者を超えなければならなくなるだろうし、さらには、ブログ自体が、単にひとつの構造でしかない、という、それこそロシア人形の入り子状態の逆プロセスが存在するのであった。
ポイントはなにか。
画家のクラムスコイに「瞑想する人」という題のすばらしい絵がある。冬の森が描かれ、その森の道で、このうえなく深い孤独にさまよいこんだ百姓が、ぼろぼろの外套にわらじというなりでひとり立ったままもの思いにふけっているのだが、彼はけっして考えているのではなく、何かを「瞑想している」のである。もしも彼の背中をとんと突きでもしたら、彼はぎくりと身をふるわせ、まれうで眠りから覚めたように相手の顔を見るだろうが、そのじつ何も理解していない。第1巻p339
巻末には翻訳者による10数ページにわたる「読書ガイド」がついている。ロシアにおける名前の呼びかけ方、ロシア正教会の在り方、異端派と言われる諸派の存在、あるいは作者自身の傾向性などが紹介されている。新訳ならではの配慮がされており、これから小説を読むときには、このような親切な解説があれば、当ブログの小説苦手意識がいくらかでも減少するかもしれないと、ちょっとうれしくなった。
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