カラマーゾフの兄弟<5>
「カラマーゾフの兄弟」(2) <5>
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー /亀山郁夫 2006/11 光文社 文庫 501p
下男スメルジャコフの図地反転したものが、あえて父親フョードルだと解釈するとするなら、三男アレクセイに対応するのはゾシマ長老ということになろう。とすると、次男イワンに対応するのが「大審問官」ということになるか。さらには、長男ドミトリーに対応するとなると、この第2巻までのところ、二等大尉スネギリョフということになるだろうか。
「大審問官」というのは、必ずしも小説のなかの登場人物とは言い難いが、語られる量的にも意味的にも、重要な位置を占める。この大審問官、ゾシマ長老、スネギリョフ大尉という三角形をイメージし、その上に父親フョードルを置いて、正四面体をイメージすると、この小説のなかの構造的骨格のひとつには成り得ると思う。
この小説全体に、三人、あるいは三角関係という構図はたくさんでてくる。三人の母親、三人の女性、三人の女性家族など、さまざまな局面で、いつくつもでてくる。それを意図して作者が描いたというより、そのような位置的関係で理解していかないと、全体がバラバラとなってしまい、ひとつのまとまった宇宙観(小説的世界)として把握できないことになる。
いや、把握できない訳ではないが、便宜上、そのようにして理解していったほうが、いいのではないか、という、一読者としての推理に過ぎない。
たしかに彼らは、夢とも幻ともつかぬものをわたしたち以上に持っている。公正な社会を作ろうと考えてもいるが、キリストをしりぞけてしまえば、結局のところ、世界じゅうが血の海となるよりほかはない。なぜなら、血は血を呼び、剣を抜いた者は剣によって滅びるからだ。そして、もしキリストの約束がなければ、彼らは、地上の最後の二人になるまで、たがいを滅ぼしあうだろう。それにこの最後の二人は、自分の傲慢さからたがいを鎮めることができず、ついには最後の一人が相手を滅ぼし、あげくの果ては自分をも滅ぼすことになるのだ。柔和で謙虚な人々のためにいずれこのようなことは終わる、というキリストの約束がなければ、それは現実のものとなっていただろう。p449 第2巻 第6編 「ロシアの修道僧」 ゾシマ長老の最後の述懐
まるで、カリール・ジブランの「預言者」を連想させるような部分であるが、発表年代を考えれば、むしろこちらのほうが元祖であろうか。それにしても、どこかに感情移入しながら、読み進めようとするのだが、どこにも依拠できず、彷徨してしまう我が精神は一体どうしたらいいものか。
プロ(肯定)----アリョーシャ、ゾシマ長老、キリスト
コントラ(否定)----イワン、大審問官、悪魔
つまり、このプロとコントラの戦いとは、<三対三の登場人物による戦いの構図>をなしているということだ。では、作者はこの小説で、最終的にはどちらに軍配を上げようとしていたのか。どちらかに軍配を上げることは、ポリフォニー小説としての構造を根底からくつがえすものとなるのか。これこそが、少なくとも方法上から見たこの小説の、最大の問題点である。p501「読者ガイド」モノローグか、ポリフォニーか----方法上、および構成上の問題点
ゾシマ長老→キリストは首肯するしかないとして、大審問官→悪魔、とすることは、ちょっとおかしい。それはあくまでキリスト側からの価値判断であり、別な、イワン→大審問官側からの積極的意味のある言葉が選ばれなくてはならない。それに、肯定、否定の、二価値判断からさらに逃れるための第3極、つまりは、懐疑----ドミトリー、二等大尉スネギリョフ、(人間?)・・・ともいうべきものを据えなくてはならない。そしてまた、第4極として、フョードル、スメルジャコフの系列も、他の三極に対峙すべく、同等価値感として、されなければならないだろう。
4巻構成のうち、ここで第2巻が終わった。今後、これらを踏まえて、展開が進むことだろう。
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