カラマーゾフの兄弟<6>
「カラマーゾフの兄弟」(3) <6>
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー /亀山郁夫 2007/02 光文社 文庫 541p
Vol.2 No747★★☆☆☆ ★★★★☆ ★★★☆☆
「2人の父の死がはらむ謎。3兄弟の分かれ道!」 腰巻のキャッチ・コピーがなんとも気をそそる。しかし、2、や、3、という数字が持っている素数的な簡略さは、この小説にはない。2が4になり、4が16になる。3は9になり、81になる。いやいやそれ以上にポリフォニー小説の支線は伸びに伸び、ストーリーは、絡まりあっては、始点も終点も分からなくなっていく。
えいと、ばかりに、快刀乱麻を試みて、星型二重四面体という構造体をイメージし、まるで粘土で彫刻をつくる時のように、その骨組に、めくるめく小話のひとつひとつを貼り付けていってはみるが、どうもその構造体をうまく埋めきることはできない。どうしても、部分部分で、骨格が露出する。
しかし、よくよく考えてみれば、真理はくっきりとしたシンメトリーな構造を持つはずもなく、星型二重四面体がもし解決策としての最終的な回答であったとするなら、そこには動きもなく、生命もなく、ただタナトスのたゆたう暗黒の世界となる。
「いつだったか、この詩がぼくの魂から迸(ほとばし)ったことがありましてね、詩というよりも、涙ですよ・・・・自分でこしらえたんです・・・・でも、あのときじゃない、二等大尉のひげを引っぱり回したときじゃ・・・・・」
「なんだって急に、あの男のことを持ちだしたんです?」
「なぜあの男の話を九に持ちだしたか? くだらない! すべてに終わりがきて、すべてが等しくなる、一本、線が引かれて、けりがつく」 第3巻p225 第8編「ミーチャ」
第2巻ではほとんど消えていたドミトリー(ミーチャ)が、第3巻では、ながながと述懐する。周囲にまとわりつく女性群については、なかなか追いかけることができない。というか、どこか興味を失っている。現実にこのような女性群があったなら、はて、私ならどうだろう。どっかで、切れてしまっているので、もう、自らの中の女性像としては考えることができない。実際は男性群もそうだが、なにかのシンボルのごとく、ちょっと現実からかなり遊離したドストエフスキー・ワールドになっている。
ただ、やはり、ここまでくると、ドミトリーとスネギリョフ二等大尉に連なる何かの連なりがあることは大いに察することができる。あるいは、そのように想定していくと、この小説への関心をなんとかようやく維持することができる。
乱雑なシンボルの中からなんとか構造的なものを想像しつつ、その構造的なものを暗示しながら、またその構造が壊され、曖昧にされようとする。そのせめぎあいの中で、謎探しのモチベーションがかろうじて続く。
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