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2009年8月の35件の記事

2009/08/24

地球の法則と選ぶべき未来

地球の法則と選ぶべき未来
「地球の法則と選ぶべき未来」 ドネラ・メドウズ博士からのメッセージ
ドネラ・H.メドウズ /枝広淳子 2009/07 ランダムハウス講談社 単行本 207p
Vol.2 No758★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 著者はすでに2002年に亡くなっている。人類の滅亡の可能性と、人間としての自らの死。どちらが本質的で現実的な問題か。間違いなく、人類滅亡の前に、私個人の死はやってくるだろう。人類や地球が絶滅したあとに、私が存在しているということはないだろう。

村の中には、
300人のキリスト教徒がいます(183人がカトリック、84人がプロテスタント、33人がギリシャ正教です)。
175人はイスラム教、
128人はヒンズー教、
55人が仏教、
47人は精霊を信仰しています。
210人はほかの宗教を信じています(無神論者もいます)。
 p9「世界がもし1000人の村だったら」

 このように、地球人をなになに教徒とカウントしてしまうことには、かなり危険な落とし穴があるだろう。私はこの中のどこに分類されるだろう。仏教だろうか、精霊を信仰している、だろうか、あるいは、ほかの宗教? あるいは無神論? 自分の生い立ちや周囲の文化的環境、あるいは共感度から言っても仏教に分類されることが一番納得感があるだろうか。

 とするなら、私は55/1000の5.5%のグループに分けられることになる。決して小さなグループではないが、必ずしも決定的にメジャーとは言いにくい。

村人同士が話をするのもけっこう大変です。というのも、
165人は中国語を話し、
86人は英語を話し、
83人はヒンディー語またはウルドゥー語を話し、
64人はスペイン語を
58人はロシア語を、
37人はアラビア語を話すからです。

ここに挙げた母国語を話す村人は、全体のたった半数に過ぎません。残りの村人たちが話す言葉は、(多い順に)ベンガル語、ポルトガル語、インドネシア語、日本語、ドイツ語、フランス語と、そしてその他にも200言語もあるのです。 p8「世界がもし1000人の村だったら」

 ひとことで中国語と括ることはできないだろうけれど、これはこれで相当にメジャーだ。16.5%。英語は世界の共通語的な場所にいるが、実際は、母国語として話している地球人は1割に満たない。

28人が生まれ10人が亡くなるので、村の人口は翌年には1018人になるでしょう。
この1000人の共同体では、200人が村全体の収入の4分の3を手に入れます。その一方、村全体の収入をわずか2%を分け合う200人もいます。
自動車を持っているのは70人だけです(その中には、2台以上持っている人もいます)。
およそ3分の1の人は、きれいで安全な飲み水が
手に入りません。
村の大人670人のうち、半数は字が読めません。
 p11「世界がもし1000人の村だったら」

 28人が生まれ10人が亡くなるので、村の人口は翌年には1018人になるでしょう、というところは素直に驚く。毎年1.8%の人口が爆発的に増加していく。「80対20の法則」では、20%の人が80%の利益を独占するということだったが、ここでもまさにほぼ同様の内容が主張されている。

 自動車を持っているのは7%。4人家族に平均で1台とすれば、最高でも25%。驚くほどの低さでもないが、自動車を持たない、持てない人がいることも想像しておく必要はある。たしかに、奥さん用ではあったが、名義上2台の車を持っていたこともあったから、この面から考えれば、地球人としては私は決して弱者側ではない。

 生まれてこのかた、きれいで安全な水が手に入らなかった、ということはない。母方の祖父の家では、豊富な水で和紙を製造していたし、父方の井戸も汲めどもつきぬ水量で、酒造会社がタンクローリーで水を汲みに来ていた。

 字も読める。大体の日本語と、少しの漢語と、すこしの英語。でも大人のうちの半数が字を読めないなんてこと、考えてみることもなかった。

 「世界がもし1000人の村だったら」は、データ的に問題がありそうだな、と思ったり、その取り上げる角度がちょっと変だぞ、と思わないわけではないが、このような形で概観することは、とても大切だと思う。すくなくとも、自らが置かれている立場がいかに恵まれているか、を再認識する必要がある。

 世界がもし1000人の村だったら、5人の兵士、7人の教師、1人の医者がいます。村の歳出総額およそ300万ドル強のうち、18万1000ドルは武器や戦争に、15万9000ドルは教育に、13万2000ドルは医療に使われています。 p12

 教育や医療は絶対に必要だが、武器や戦争にかかる費用は、もうすこし減らすことができないのだろうか。兵士も1000人に5人。正直いうと、意外と少ない気もするし、兵士がまったくいなくなる世界というのも非現実的なことだろう。しかし、それが増え続けていくのではまずいと思う。オバマの「非核」宣言を、うつろな実行不能な虚言にしてはならない。

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2009/08/23

This Is It<2> & The Supreme Doctrine <2>

This Is It<1>よりつづく      
The Supreme Doctrine<1>よりつづく

This_is_it      Supreme_doctrine
「This Is It」 and Other Essays on Zen and Spiritual Experience<2>
著者Alan Watts 出版年1996, 初版1960  出版者 Rider 形態 xii, 140 p. ; 20 cm. 言語: 英語 出版地 London

「The Supreme Doctrine 」<2>
by Hubert Benoit (Author) October 1995 Publisher: Sussex Academic Press; Paperback: 234 pages Language: English 初版1955

 ネイティブ・リーダーならざる当ブログにとっては、日本語以外の文献は決して取り扱いやすいものではない。Oshoベーシックな英語ならなんとか読めても、ちょっと複雑な内容だと、最後まで読みとおすことはできなくなる。ましてや、辞書なしでざっと読んでしまおうとすると、その大略さえよくわからない、ということもある。

 内容がZenであれば、読みこなしてみたい、とは思うものの、どこかチグハグな感触を味わうことも多い。なぜか。いろいろ考えてみたのだが、禅に関する日本語文献と、Zenに関する英語文献には、根本的な、なにか決定的な違いがあるのではないか、と思うようになった。

 禅については、ほとんど初歩的な入門書であったとしても、日本的な文化や、東洋的な枠組みのなかで、常識化していることを基礎として、簡単な文脈で、結構高踏な内容が表現されていることが多くある。

 ところが英語文献においては、ある一定程度のインテリ層を読者像としてイメージしているのか、論理的な組み立てに多くの時間を費やしているわりには、あまり深いところまで論じられていないように思うのだ。

 ルールはあいまいなままに、とにかく近くの広場で、三角ベースの野球を楽しんでしまおうという流れがあるとしたら、もう一方には、やたらとルールブックをひっくり返しながら、延々とその調整に時間をかけているように見える、という流れがある。

 こと、禅やZenについては、この比較は、まさに東洋的であり、西洋的である、という各々の性格がよくでているように思う。西洋的Zen理解には、鈴木大拙などの業績が大きく影響しているので、まずは、彼のロジックなりアルゴリズムを日本語的に理解したうえで、英語的Zen理解を読みこんでいったほうがいいのかもしれない。

 Zen9_2 

 この「This Is It」にしても、「The Supreme Doctrine」にしても、邦訳されていない。英語版にしても、周囲の図書館には見当たらない。国の中央施設から借り出してようやく今回めくることができた。内容うんぬんよりも、これらの文献は、日本人的な関心からは大きく外れているように見える。あるいは、平均的な日本人的信条から考えれば、このような英語文献を喜んでいる日本人というものがいるとすれば、それは、すこしひねくれすぎている、と言えるのではないだろうか。

 20世紀の初めや中盤においては確かに異国情緒的なニュアンスを含みながらZenは愛されたかもしれないが、西洋的Buddhism理解は、Zenよりむしろチベット密教'(Tantra)のほうに大きく流れていっているようだ。それはどちらが正しい、という意味ではなく、単にモダニズムや流行に大きく影響を受けているだろう。Tantraとて、ある一定の時期が過ぎれば、次第にその熱は冷めてしまうに違いない。

 この二冊を同時にめくりながら、そんなことを考えていた。ただ指標としてのこれらの本の持っている存在意義は大きい。日本人が自らの精神性のために読むというというよりは、日本的あるいは東洋的精神性がどのように他の地域の人々に理解されているのか、という確認作業において意味があるように思う。21世紀的なグローバルな地球人スピリットが立ち現れるまで、さまざまな潮流が行きつ戻りつしている。

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復活<1>

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「復活」 <1>
レフ・ニコラェウィッチ トルストイ (著), 北御門 二郎 (翻訳) 2000/03 東海大学出版会 単行本 473p
Vol.2 No757★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 10代からの旧友たちとの食事会も、最近は、それぞれの多忙さの中で年一回と言えども、なかなか集うことが難しくなってきた。今年の春も流れ、昨年もなかなか集まれなかった。ところが昨晩は、急にみんながスケジュールを合わせながら、ホントに久しぶりに集まることができた。やっぱり楽しかったなぁ。

 おたがいの健康の話からはじまり、仕事の話になり、ウツのことにも話題が及んだ。家族のことや、住まいのこと、子供たちの進路、選挙のことや、政治のこと。オバマのことや、戦争のこと。昔の趣味のこと、出版のこと、引っ越しのこと、仕事の話に戻り、人事のことになり、これからのこと、これまでのこと。ネット情報や、両親の介護のことや、互いの住環境のこと。

 実にまぁ、久しぶりに集まって、なんのテーマもないまま、脈絡なく話会う。眠くなって横になる者、後から駆け付ける者、運転代行が来ちゃったから早めに家路につく者。たかだか4~5人の仲間なのに、まぁ、実にバラエティーに富んだ人生を送っているものだ、と痛感する。

 そして、一次会、二次会を経て、個人宅に移動してからの三次会では、なんと、最終的に村上春樹の「1Q84」に話題が及んだのには驚いた。この日のために、話題としてはキチンと仕込んでいたつもりだが、仲間たちの読み込みは、それぞれに鋭い。根っからのハルキストかい、と思うくらいに詳しい。村上春樹は全巻読んでいる、と言われれば、ググっとなって、少しは引くしかないが、それでも、こちらとて、どんな軽めの読書ではあっても、一読者であることには変わりはない。

 こちらだって一家言あるぞ。すでに酔いが回っている頭の脳みその、すこしはまだ残っている活動域をフル回転させて、反論する。だが、どうやら、入歯が合わないせいもあるが、なかなか口が回らない。言いたいことも、言い淀む。誤解を生んだかな、と思うまもなく、突っ込まれ、反論をしようと思っているうちに、別な奴が話題を取ってしまう。 

 なんともはや、あっと言う間の午前様も、かなりの時間まで「1Q84」をめぐって激論となった。ほえ~~。やっぱりすごいな村上春樹。とにかくこれだけみんな別々な暮らしをしているのに、たった一つの小説で喧々諤々、数時間も空間を共有できるんだから。

 バッグの中から下巻を出してきてパラパラめくりながら、上巻はもう読み終わったから、必要だったら、あとで送るよ、とまで言われ、これは幸いと思いながらも、すでに図書館に予約済みだし、立ち読みも終わっているから、うん、大丈夫、と断ったりする。素直に借りればよかったな。

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 さて、Osho「私が愛した本」の「小説(文学)」編も、おおどころトルストイの三部作を残すばかりとなってきた。「復活」「戦争と平和」「アンナ・カレニーナ」。小説が苦手の当ブログではあるが、ここは正面突破しなければ前に進めないというところまでやってきた。

 「カラマゾーフの兄弟」のようにいくつかのヴァージョンの中から、自分にぴったり合いそうな本を選び出して読むのが正しいのだろうが、なにはともあれ、図書館の全集コーナーから、この三部作が揃っているシリーズを借りてきてみた。人生を考える。トルストイを読んでみる。いいチャンスになってくれるといいのだが。

つづく

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2009/08/22

私が愛した本<40>アンナ・カレニーナ

<39>からつづく

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「私が愛した本」 <40>
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p

「アンナ・カレニーナ」

 3番目。レフ・トルストイの「アンナ・カレニーナ」だ。小さいが、この上もなくすばらしい小説だ。私がこのリストにどうしてこの小説を含めるのか、お前たちは不思議に思っているに違いない・・・・私が狂っているからにすぎない。私はあらゆる種類のものが好きだ。「アンナ・カレニーナ」は、私の最大の愛読書のひとつだ。何度それを読んだか思い出すこともできない。その回数のことだ・・・・本の方なら完璧に覚えている。一冊全部を思い出すこともできるよ。

 見なさい! アシュが大きな溜め息をついた。心配になったに違いない・・・・・この狂った人は「アンナ・カレニーナ」を一冊全部話すつもりだ、と。いや、アシュ、大丈夫だ、そのつもりはない。私には他にたくさんしなければならないことがあるからね。いつか話すかも知れないが、今ではない。

 もし私が漂流していて、世界中の何百万という小説の中から一冊を選ばなければならないとしたら、私は「アンナ・カレニーナ」を選ぶだろう。あのすばらしい本があれば、それもすばらしいことだろう。あれは何度も読まれるべき本だ。そうして初めてあれを感じることができる。その匂いを、香りを味わうことができる。あれは普通の本ではない。

 レフ・トルストイは、マハトマ・ガンジーが聖者として失敗したのとまさに同じように、聖者としては失敗した。だがレフ・トルストイは偉大な作家だった。マハトマ・ガンジーは、誠実さの権化としては成功した-----そして永久にその絶頂に止(とど)まるだろう。今世紀においてあれほど誠実だった人を私は他に知らない。彼が手紙に「あなたの誠実なる」と書いたとき、彼は本当に誠実だった。あなたたちが「あなたの誠実なる」と書けば、そんなものはみんな社交辞令にすぎないことはあなたもしていれば、他の誰もが知っているし、また手紙を受け取る相手も知っている。本当に「あなたに誠実」であるのはきわめてむずかしい、ほとんど不可能だ。誠実さ---これこそが人間を宗教的にするものだ。

 レフ・トルストイは、宗教的であろうとしたが、そうはなれなかった。彼は懸命にやってみた。彼の努力は大いに同情する。だが彼は宗教的な人間ではなかった。彼は少なくともあと2、3回の生涯は持たなくてはならない。ある意味では、彼がムクタナンダのような宗教的人間になれなくてよかった。そうであったら私たちは「復活」や「戦争と平和」、「アンナ・カレニーナ」や、その他何十冊というすばらしい、この上もなく美しい本を失っているところだ。そうなっていたら、彼はもうひとりのスワミ・イディオタナンダ以外の何者でもなかっただろう。Osho「私が愛した本」p217

<41>につづく

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2009/08/21

私が愛した本<39> トルストイ「戦争と平和」

<38>からつづく

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「私が愛した本」 <39>
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p

トルストイ「戦争と平和」

 5番目----レフ・トルストイの本をもう一冊。世界文学における最大の作品のひとつ「戦争と平和」だ。最も偉大というだけでなく、最も大冊でもある・・・・・何千ページだ。あの手の大冊を私以外に読む者があるのかどうか私は知らない。ああいう本はあまりにも大きく、あまりにも広大で、人を尻込みさせる。だがトルストイの本は、巨大でなければならない。それは彼の咎ではない。「戦争と平和」は、人類の意識の全歴史だ・・・・・その全歴史だ・・・・・2、3ページで書くわけにはいかない。たしかに何千ページを読むのは大変だが、もしそれができたら、その人は別世界に運ばれる。古典というものの味わいを知ることになる。そうだ、あれは古典だ。Osho「私が愛した本」p189

<40>につづく

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2009/08/20

私が愛した本<38> トルストイ「復活」

<37>からつづく

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「私が愛した本」 <38>
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p

トルストイ「復活」

 三番目。ヘフ・トルストイの「復活」だ。その全生涯を通じて、レフ・トルストイはイエスを問題にした。それも一通りのこだわりようではなかった。それゆえにこのタイトル「復活」がある。そしてレフ・トルストイは、本当に途方もない芸術作品を生み出した。これは私のバイブルだ。絶えずトルストイの「復活」を持ち運んでいた若い頃の自分の姿が、今でも目に浮かぶ。父までが心配したほどだ。

 「本を読むののはいいが」と、ある日父は言った。「どういうわけで一日中その本を持ち歩いているんだね? 読み終わったんだろ」
 私は言った。「うん、読んだよ。それも何回もね。でもこれはいつも持っているつもりなんだ」。

 村中の誰もがそのことを、私が「復活」という本をいつも持ち歩いているということを知っていた。彼らはみんな、私のことを気違いだと思っていたし、気違いのことだから何をするやらわかったものではないと考えていた。だが私はなぜ一日中「復活」を持ち歩いていたのか?------それも日中だけでなく、夜中までも。この本はベッドの傍に置いてあった。私は愛していた・・・・・レフ・トルストイの書き方は、イエスの全メッセージを再現する。彼は、イエスの使徒の誰よりもはるかに成功している。トマスは除くが----彼については、この「復活」のすぐ後に話すつもりだ。

 特にバイブルに入っている四福音書は、イエスの精神をすべて取り逃がしている。「復活」の法がはるかにいい。トルストイは本当にイエスを愛していた。そして愛は魔法だ。とりわけ、人が誰かを愛すれば、時間は消えるからだ。トルストイがあまりにイエスを愛したために、ふたりは同時代人になった。その隔たりは大きい。二千年だ。だがトルストイとイエスの間でそれが消える。こういうことはめったに起こらない。実に実に稀なことだ。私があの本を持ち歩いていたのはそのためだ。私はもうあの本を携行をしてはいない。だが、今でもそれは私のハートの中にある。Osho「私が愛した本」p185

<39>につづく

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2009/08/19

不死鳥<2>

<1>よりつづく
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「不死鳥」(フェニックス) (上) <2>
D.H.ロレンス (著), 吉村 宏一 (翻訳) 1984/01 山口書店 単行本 602p

 前回は、とにかくこの本があることを確認し、その分厚さに呆れかえって、なにはともあれ、メモするだけにとどめておいた。さて、他の本も一巡して落ち着いたところで、落ち着いてこちらのほうも再びめくってみようかな、という気分になってきた。

 しかしながら、あいも変わらず、Oshoがやんわりと「こういうものはめったに書かれることがない・・・・何十年に一度、あるいは何世紀に一度しか書かれない・・・・。」とほめちぎっているが、そんな簡単に読み込めるような本ではない。上下2巻で翻訳者が15~6人もいる、ということだけでもただ事ではない。この本は、D・H・ロレンスの作品群を、E・マクドナルドが編纂して1936年に出版されたものだ。

 ひとことで「不死鳥」とはいうものの、はて、Oshoはこの本の何処を強調して言っていたのであろうか。ざっとみたところ、作品群をまとめたものだが、単品としての「不死鳥」という代表作が収められている、ということでもなさそうだ。この作品群全体を「不死鳥」というのだろうし、であるとするなら、作品というより、作者であるD・H・ロレンスその人全体の活動なり人生を、Oshoは注目すべきである、と語っているのであろう。

 これが大審問官の要約した人間の本性である。イエスが不適格と言われるのは、キリスト教が人間にとって、大多数の人間にとって、実践するにはあまりにも難しすぎることを説いているからである。キリスト教を体現できたのは、ほんの少数の「聖人」、あるいは英雄だけである。それ以外の人々にとっては、人間はどうにも引くことのできない荷をつけられた馬同然である。「もし汝が人間をそんなに尊敬しなかったら、人間にそんなに多くを要求しなかったであろう。そして、そのほうが真の愛というものに近いだろう。というのは人間の負担も軽いであろうから。」p389「大審問官」

 「カラマーゾフの兄弟」の新訳に先日ようやく目をとおし終わったところだが、やはりこの大審問官についての言及は、おおいに関心が引かれる。このように、他の作家たちの作品との関連のなかで、この「不死鳥」は折に触れて、長期間にわたって、読まれ続けていくべき本なのであろう。

 D.H.ロレンスの「精神分析と無意識」についても、Oshoは最大限の評価をしているが、ひとつの作品として、あの一冊を考えるというより、多くの作品をもつロレンスの中の、ひとつの切り口として、あそこから入ることの可能性を語っていたのだ、と理解すべきだろう。 

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  なんとかドストエフスキーの2冊をめくったところで、当ブログは、これから、トルストイの三つの作品を読み込む予定になっている。「復活」「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」・・・・・。ふ~~・・・・・。タイトルを見ているだけで、ため息がでる。でも、ここを突破すれば、すこしは楽になる。いずれは、「東洋哲学(インド)」編も一巡しなければならないので、そこにたどり着くための下準備としては、大変重要なところになる。

 これらの大きな小説は、読んだか、また、読んでないか、ということだが話題になり、人生の中で何度も読み返すチャンスがおとずれないようであるが、最初から最後まで読みとおすことが前提とされる小説と違い、このD・H・ロレンスの「不死鳥」は、大冊ではあるが、多くの小品が編纂されている本なので、必ずしも、上下巻を一気に読む、という必要はなさそうだ。

 読めるところから読んでいけばいいだろう。しかし、小説のように一回読めば、それでOKというものではなくて、人生をかけて読み「続けて」いくという作業が必要になってくるように思われる。ぱらぱらめくるだけでも、意味深いセンテンスがあちこちに含まれている。

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2009/08/18

聖アウグスティヌス 告白<3>

<2>からつづく
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「聖アウグスティヌス 告白〈下〉」 <3>
服部 英次郎 (翻訳) 2006/07 岩波書店 文庫 302p 初版1976/12 第22刷1997/07を読んだ
Vol.2 No756★★★☆☆ ★★☆☆☆ ★★☆☆☆

 正直に告白しておこう。この本を読むのはつらい。上下2巻なので、なんとか上巻は読み進んだが、下巻はさらにアクグスティヌスの「本性」があらわになり、読み進めるのがつらい。いや、読むこと自体は、むしろ上巻よりさらにストレートな物言いになり、スラスラと読むことができる。そして、アウグスティヌスがそのように考えた、ということは4~5世紀の人でもあり、歴史的な書物としては、当然と言えば当然、というところがある。

 しかし、読み進めていくにつれて、普段の生活の中ではあまり意識することがなかった、周囲のクリスチャンの人々を、折に触れて思い出してしまうことには、ちょっと辟易した。現代は信仰の自由があり、誰がどのような信条のもとに生きているかは、こちらへの押しつけが強かったり、あまりに狂信的である、ということを知らずに済むなら、なんの問題もなく付き合っていける。

 ああ、それなのにそれなのに・・・。アウグスティヌスを読みながら、あの人、この人、いろいろな周囲のクリスチャンを思い出してしまった。ひとことでキリスト者と言っても、さまざまな流れがある。カトリック、プロテスタント、カルト的集団、無教会派、実にさまざまな流れがある。この人々の、その精神的な契機はさまざまあり、、もちろん一つ事でないことは分かる。しかし、一旦、主、とか、キリスト、とか、天、とかいう用語に面した時の、彼らの心がどのように動いているのか、そんなことは普段は考えたことはないのだが、それを想像すると、なんとも、文庫本を一冊読み進める、という簡単な行為さえ、できなくなった。視線が宙をさまよう。

 もうここに一人一人をメモすることは止めよう、そして、いちいち思い出すのもやめよう。彼らの人生には彼らの人生がある。それらのドラマやカルマやテーマがそれぞれにあるだろう。ここは軽くスルーしてしまおう。少なくとも、アウグスティヌスの徹底した「告白」は、微に入り、細に入り、心の動きを描いているので、あれこれ想像力を刺激してくれる。

 Oshoがどのように言っているのか、気になるが、これがなんとも長文だ。別建てで転記しておこうかと思ったり、部分引用でとどめようか、と思ったり、こちらのほうもなんとも方針が定まらない。

 これは本当ではない。どんな人間にもあらゆる罪を犯すことはできない。どんな人間にも、神自身さえ、そんな能力はない。神など言うにも及ばない・・・・当の悪魔でさえ、アウグスティヌスが告白しているように悪を楽しむにはどうしたらいいのか、と考え始めるに違いない。アウグスティヌスは誇張している。Osho「私が愛した本」p216

 本当のことを言えば、もうアウグスティヌスのことは、もうどうでもいい。だが、どうも私の中に喚起された身近なキリスト者たちが、なんだかモゾモゾと動き出して始めてしまった。忘れていたかった。知らないままでいて構わなかった。無視しておこう、と思っていた。なんだか、でも、それはまずいのではないか、と、罪悪感さえうごめきだした。

 「告白」は、嘘の傑作だ。それは嘘でいっぱいだ。だがこの男は、自分の仕事をほぼ完璧にやった。私がほぼというのは、誰かがその仕事をもっとうまくやる可能性は常に存在するからだ。だが彼はそれを99パーセント完璧にやった。他の誰かに、もうあまり余地は残されていない。Osho「私が愛した本」p217

 聖書や教義が、壮大なフィクションであるとしても、それを真実として受け入れ、その世界にハマり切るほどに、彼らはみずからの「罪」にさい悩まされていたとして、それしか解決方法はなかったのか。そして、その壮大なフィクションで問題は解決したのか。

 ガンになってから、教会で葬式を上げてもらうために、クリスチャンになった人。子育てや夫婦関係に悩んで教会に通うようになった人。知らず知らずにカルト的な人間関係を拡大していった人。圧力的な父親の存在に反抗するように教会活動に専念する人。ホスピストとして教会経営の病院で亡くなった人。職場として関係施設に就職した人。結婚式のために、聖職者に式を上げてもらった人。幼稚園や大学、学校施設がたまたまキリスト系だったとして、軽く利用する人。クリスマスだからと言って、ケーキを売る人、食べる人。いろいろいていいのだろう。

 だが、どうも私の中で撹拌されて浮上してしてきてしまった友人知人たちが、なんだか落ち着く場所もないまま、浮揚し始めてしまった。この結末、どうなるのだろう。

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2009/08/17

死ななくてすむ人間関係の作り方

死ななくてすむ人間関係の作り方
「死ななくてすむ人間関係の作り方」 無理しないで生きるための心理学
諸富祥彦 2009/07 アスペクト 単行本 200p
Vol.2 No755★★★☆☆ ★★☆☆☆ ★★☆☆☆

 著者の本は、

「フランクル心理学入門」 1997/04

「<むなしさ>の心理学」 1997/09

「<宮台真司>をぶっとばせ!」 1999/1

「トランスパーソナル心理学入門」 1999/08

「トランスパーソナル心理療法入門」  2001/7

「さみしい男」 2002/07

「子どもよりも親が怖い」 2002/10

「人生に意味はあるか」 2005/05

「死ななくてすむ人間関係の作り方」 2009/07

などを読んできたので、積極的に著者を読み込んできたように錯覚していたが、よくよく見てみれば、その91冊の著書のうち、目を通したは、ごくごくわずか、1割にも満たないものだった。決して面白くないわけではないのだが、とことん追っかける気になれなかったのは、本質的なものを含んでいるようにも思うだが、どことなく薄味なところが、読書としてはちょっと歯ごたえがなさすぎる、と感じたからだろうか。

 1963年生まれ。時代体験が私より一回り下だ。カウンセリングと言ったり、トランスパーソナルと言ったりするが、いまいち食い込みの角度が違う。教育家向けに書かれた本も多いので、そうなると、当ブログからはどんどん距離ができていく。

 同じ日本におけるトランスパーソナル紹介でも、 吉福伸逸ほど思い込みがひどくもなく、安藤治ほど医学の方向へ偏ってもいない。かなりとっつきやすい存在ではあるのだが、どこか器用すぎて、なんとなく口の巧みな浮気な男のイメージがなくもない。

 そう考えると、オタクの人たちはすばらしい。彼らは周囲にどう思われようとおかまいなく、自分の好きなことに没頭して毎日を過ごしています。だいたい単独行動ですが、幸せそうです。オタクの人で「死にたい」と言う人に、私は会ったことがありません。
 人からどう思われてもかまわない。自分さえ楽しければいい。そう思えれば、人は死のうとはしないものです。
p44

 死が悪であって、自殺は最悪、という立場を、当ブログは取らない。「死にたい」という思いを持つことをマイナスとは考えない。むしろ、「死」を考えない人は、どこか一味足らないようにさえ感じる。

 著者の言葉の部分だけを切り取って、コメントを加えることは、ちょっとフェアではないのだが、それでも、全体的に目を通したときに、本質的で現実的で、多くの読者を獲得していそうな存在ではあるのだが、どこか、まったく決定的にごまかされているような気がする。

 それはなぜか。著者は、読者を説得しよう、としているからである。たくさんの可能性があるよ、と言いつつ、そういう意見を押し付けてくるような感じがする。可能性を提示しつつも、それについてクライエントがどう思うのか、どう考えるのかを、引き出すことには積極的ではない。すくなくとも、本における著者の口ぶりは説得口調だ。いわゆるセールマンだ。

 多くの方とカウンセリングを通して感じるのは、日本社会は”大きな物語”を喪失してしまった。日本国民の多くはどこを目指していいのか途方に暮れ、とまどっているのだということです。p180

 危ない、危ない。こういう口調は、まんまとひっかけるための導入部であったりする。

 少し前にSMAPが歌ってヒットした歌に「ナンバーワンでなくてもいい。君はオンリーワンなんだから」という意味の歌詞がありましたが、あれだってよく聴いてみると「オンリーワンでいいけれど、みんな前向きで、希望を持って生きなくちゃいけない」ということです。そんな画一的なボジティブさを押し付けているように思われて、なんだかそこに、とても違和感を感じるんです。p98

 「世界に一つだけの花」のなかに「君はオンリーワンなんだから」という歌詞があっただろうか。「僕ら」という一人称はあったと思うが、「君」という二人称はなかったと思う。実は、著者に感じる違和感はここにあった。「そんな画一的なボジティブさを押し付けているように思われて、なんだかそこに、とても違和感を感じるんです。」というコメントは、むしろ、当ブログから著者に対して贈りたいコメントだ。

 著者は「君」に語りすぎる。「僕ら」や「私」に語ったとしても、「君たち」視線を意識しすぎている。そこが、この本を読んでいて感じるキュークツさだし、ひょっとすると、著者自身が自らに感じている違和感なのではないか、と察する。

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2009/08/16

聖アウグスティヌス 告白<2>

<1>よりつづく
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「聖アウグスティヌス 告白〈上〉」 <2>
服部 英次郎 (翻訳) 2006/07 岩波書店 文庫 329p 初版1976/06 第25刷1999/05を読んだ

 池田晶子は、「私とは何か」「魂とは何か」「死とは何か」と問うた。当ブログにおいては、この三位一体に、どうも落ち着きの悪さを感じ、「私は誰か」、「魂は何処か」、「いかに死ぬか」という形で問い直してみた。疑問符の5W1Hの中の、What is ? だけを編愛していては、どうも正しい解が得られないように思えたからだった。

 しかし、「私は誰か」や「いかに死ぬか」という古典的な問いかけてに対して、「魂は何処か」という設問の仕方は、ちょっと間に合わせ気味で、きちんと腑に落ちた問いかけにはなっていなかった。たんに三拍子合わせただけ、という嫌いがある。

 魂が身体に命令すれば、身体はただちに従うのに、魂がそれ自身に命令すれば、魂は服従を拒む。魂が手に動くように命令すれば、命令と服従とがほとんど区別されないほど容易に実行される。しかもこの場合、魂は魂であり、手は身体であって、両者は同一のものではない。ところが魂が自分にむかって、あることを欲するように命令するとき、それは同一のものでありながら、そのことをなさない。

 この奇怪なことは何によるのであるか。また、何のために起こるのであるか。魂がそれ自身に、あることを欲せよと命令する。魂はそれを欲しないなら、命令しないであろう。しかも魂はそれ自身の命令することをなさない。しかし魂は、衷心から欲するのではなく、したがって衷心から命令しない。魂はそれを欲するかぎり、命令し、それを欲しないかぎり、命令するものをなさない。意志はある意欲が存在することを、しかも他の意欲ではなく、それ自身と同一の意欲が存在することを命令する。

 それゆえ完全な意志が命令するのではなく、したがってそれが命令するものは存在しない。意志は、完全であれば、意欲の存在することを命令しないであろう。意欲はすでに存在するからである。それゆえ、欲しながら、欲しないということは、奇怪なことではなく、魂の病気である。魂は、真理によって起こされながら、習慣によって抑えられて、全体としてたちあがることができないのである。それゆえ、二つの意志が存在するのは、その一つが完全なのではなく、一方の意志に欠けているものが、他方の意志に具わっているからである。p271

 輻輳的に進行する当ブログにおいては、さまざまな言語体系が暗躍し、言語も、アルゴリズムも、表現も、解釈も、あえて統一しないまま、表記し続けている。とくに、精神や、スピリチュアリティ、霊や、魂、などという単語や用語においては、ほとんど野放しの状態である。

 だから、ここでアウグスティヌスが語っている「魂」が、たとえば池田晶子が問うところの「魂」と、おなじターゲットを指しているかどうかは定かではない。とは言うものの、当ブログにおいては、当ブログの進行者が、ある程度恣意的にこれらの言語やアルゴリズムを咀嚼してよいものと考えて、少し前にいく。

 あまりに卑近な例に過ぎるが、あえて、この、私、魂、死、という三大テーマを、我らがパソコンに置き換えてみたら、どうなるであろうか。私、とは、CPUの速さ、メモリーやハードディスクの容量、ディスプレイの解像度、などに表現される、機能の可能域のことだと、仮定することにする。私は私として存在するとして、そこにはまだなんのコマンドも打ち込まれていない状態だ。ただ、可能性だけがある。

 それに比して、死とは、その機能の終り、限界、と考えてみることにする。たとえば、最近私がやったような失敗、つまり、コーヒーをパソコンのキーボードとディスプレイに御馳走してしまう、なんてことは、ごく簡単に想像できる。つねに、死、はやって来ることができる。いや突然やってこないまでも、多くの演算処理をやろうとするとフリーズしたり、新しいアプリケーション・ソフトが動かなかったりする。つまり、いずれは廃棄処分になる。

 この、可能性と、限界の間に存在するのが、OSであろうし、さまざまなコマンドであろう。もともとハードウェアはOSに依存するし、OSもまたハードウェアに依存するが、最近は割と汎用性が広くなってきたようである。さまざまなアプリケーションもあり、クラウド・コンピューティングなどの、大きな機能の変化はあれど、そこには何らかの「方向性」がある。この方向性のことを、ここでは、暫定的に魂、と呼びたい。

 魂は、私という存在の可能性の中にあって、いつかは極限や終焉としての死を迎えるまでの方向性である、と考えることにしよう。そういった意味においては、「魂は何処か」、「魂は何処に向かうのか」という問いは、必ずしも大きく外れているとは思わない。

 青年アウグスティヌスは、カルタゴやローマにあって、マニ教とカトリックの、互いのネガティブ・キャンペーンを見比べているようだ。4世紀に生きた彼の周囲には、まるで、この二つしか存在しないかのようだ。コカ・コーラとペプシ、しかない。この二つから一つを選べ、という自らに課したテーマに誠実に取り組んでいく。

 それはまるで、マックやウィンドウズか、と言った、かつてのOS論争にやや近い。最初は熱烈なマック派だったが、やがてウィンドウズの汎用性を見直した、などといった赴きさえある。しかし、この二つの選択肢だけしかないことに、その狭さを感じざるを得ない。

 いまや、パソコンのOSの世界は、この他にリナックスや他のOSなども広く知られるようになったし、自分自身だけのOSを作ろう(実際は限りなく難しいが)という動きさえある。もちろん、マックでウィンドウズ・アプリケーションを動かすようなこともできるようになってきているので、必ずしも二律背反で、二者択一ではなくなっているのだが、アウグスティヌスの魂は、この二者択一の間で揺れ動き、やがて30代になって、カトリックに宗旨替えをする。

 まぁしかし、目的や、方向性、にかなっているなら、OS選びは最初の悩みであり、必ずしも、のちのちの限界性にはそれほど影響はない。サーバーとして使うのか、デザイナーが特殊な画像ソフトを使いたいのか、あるいはクラウドにつなぐための端末なのか。

 そしてわたしたちの話が、官能の快楽はどんなに大きくあろうとも、またどんなにまばゆく物体の光で輝こうととも、あの永遠の生活の楽しさに比べると、比較にならないのみではなく、語るにも値いしないように思われるという結論に到達したとき、わたしたちは「存在するもの」に対してますます激しい熱情をいだいて立ち上がり、段階的にすべての物体的なものを通りすぎ、そこから日と月と星とが地上を照らす天をも通りすぎた。p314

 当ブログでは、魂、という単語よりは、スピリット、スピリチュアリティ、という単語を愛してきた。魂、という語感にはやや物質的な重量が加わり、スピリットやスピリチュアリティには、やや物質から解き放たれた軽さが感じられる。しかし、私、と、死、の間にあっては、これらの二つの単語はかなり近いものだ。かたやアプリケーションといい、かたやコンテンツ、という、という程度の親近性がある。

 しかし、私という意識の中を飛び交う、魂のスピリチュアリティは、方向性を持ってはいるが、ついには死という最終地点、今ここ、という、永遠の地平に辿りつく。だから、「魂は何処へ向かうのか」という問いは、「魂は何処か」という問いに集約される。私、魂、死、という三つの側面を持つ、人間に課せられた秘密は、パソコンに比することで、理解はしやすくなるが、本質的な意味においては、もともと比較することのできるようなものではない。

 4世紀のローマに生きたアウグスティヌスは、時代の選択肢の中で、カトリックという神学を学んでいくのだが、21世紀に生きる地球人たちには、単なる二つの潮流のネガティブ・キャンペーンの何れを選択するか、という簡素な図式の中にはいない。潮流という意味では、ありとあらゆる宗教性、スピリチュアリティ、精神運動の濁流の中にある、と言っても過言ではない。

 アウグスティヌスのような、極めてシンプルな二者択一を目指すとすれば、21世紀の地球人たちは、古いものか、新しいものか、という、二律背反の中から選ばなくてはならない運命に立ちいたっている。古き伝統に逃げ隠れるのか、新しい可能性に賭けるのか。

 かつてドメステッィクな成長を遂げたNEC・PC98シリーズのように、より大きな標準に合わせて開いていかなくてはならないOSがある。これを標準基準の覇権争いのようなものと考えてはならない。マックかウィンドウズか、と言った論争に明けくれているうちに、まったく新しい形でリナックスが立ちあがってきたように、古きものは古きよきものとして残りながら、やがて新しいものに明け渡していかなくてはならないのだ。

 オバマの非核宣言を、危ういあやふやなものだとする批判もある。しかし、それがいかに危ういものであったとしても、それ以外の何を支持すればいいのか。退路を断って、新しいものに賭けなければならない時がある。今は、その時だ。

 4世紀のアウグスティヌスは、その時代において、もっとも新しい思潮に触れて、自由な青年の一人として大いに考え、大いになやみ、そして決断した。21世紀の地球人たちも、もっとも新しい潮流に触れ、大いに悩み、大いに考え、そしてやがて決断する。

<3>につづく

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2009/08/15

聖アウグスティヌス 告白<1>

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「聖アウグスティヌス 告白〈上〉」
服部 英次郎 (翻訳) 2006/07 岩波書店 文庫 329p 初版1976/06 第25刷1999/05を読んだ
Vol.2 No754★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 謙遜もいいし、謙譲の美徳もいいだろう。だが、慇懃無礼という言葉もある。いくら<神>に対してとは言え、どうしてここまで、へり下らなくてはいけないのだろう。アウグスチヌスの生きた4世紀のローマ時代のことだから、ストレートには理解できないし、時代変遷とともに編集された部分もあるのだろうが、かと言って、疑問は疑問として残る。

 若くしてカルタゴやローマに学び、一時はマニ教に心酔した。しかし29歳のときに回心する。編集の妙味もあるのだろうが、青年アウグスティヌスは、なかなかの好青年である。純粋に物事を考え、純粋に行動する。時には青年らしい放埓さもないではない。しかし、それは後年において語ったがゆえに、放埓サイドにあるように見えるだけで、決して人の道から外れたようなものではない。

 ここまで謙遜されるところの<神>=主は、どれほど偉いのだろう。神が完全無欠な絶対である、という仮定は仮定としてそれでいいだろう。しかし、そこを強調して、自らを謙遜しまくるところに、すこし嘘が、強欲さが、表れてしまっているようにも見えなくもない。

 「主よ、あなたは偉大であって卑しいものをかえりみ、高ぶるものを遠くから見分けられる」が、あなたは「悔い改めた心」でなければ近づくことができず、あなたは高ぶるものによっては見出されないからである。<上>p132

 キリスト教の名において、たくさんのことが行われている。地球上の半分はキリスト教によって染め上げられている、と言っても過言ではない。だが、将来に渡って、地球全域がキリスト教に心酔するということはあり得ないだろう。何処かに致命的な欠陥がある。その道において<救われた>人々は、それはそれでいいだろう。しかし、どこかに過剰な排他的な狂信がある。

 当ブログのOsho「私が愛した本」のジャンル分けにおいて、キリスト教編はあまり多くはなかったが、よくよく見てみると、小説(文学)編などに暫定的に振り分けたものの中には、もろにキリスト教関係の本が多い。ドストエフスキーなどもそうだろうし、このアウグスティヌスも、もとともが小説(文学)として振り分けておいたこと自体が間違いであろう。「キリスト教神秘主義」編(暫定版) などというものも作ってはみたが、いまいちしっくりこない。いずれはあの168冊を、キリスト教側から眺め直してみることが必要になるのではないだろうか。

 「キリスト教」とは何か。いや、この問い自体は、哲学的に捉え始めたら答えに行きつくことはないだろう。当ブログとしては、自分にとってキリスト教はどのような関わりがあるか、自分の人生においてそれは避けて通れない問題なのかどうか、あたりに想いを巡らしておくことにとどめておく方がいいのではないだろうか。

<2>につづく

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2009/08/14

論理哲学論考

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「ウィトゲンシュタイン全集」(1) 論理哲学論考 
ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン 初版1975/04 大修館書店 全集・双書 411p 1993年発行第9版を読んだ
Vol.2 No753★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 巻頭の20頁ほどにあたる「序文」を1922年にバートランド・ラッセルが書いている。

 論理学の難問と一見論駁不可能な理論の欺瞞性とについて豊富な経験を持つ者の一人として、私は、単に誤りの点が見出せないというだけの理由だけからでは、当の理論の正しさを確信できないことを知っています。しかしどの点においても明らかな誤りを含んでいない論理学の理論を構成したということは、非常に困難で重要な仕事を達成したということです。p22「序文」バートランド・ラッセル

 「論理哲学論考」を1918年に書きあげていたウィトゲンシュタインは、このラッセルの序文が気に食わないために、序文なしで発行しようと自ら動いたが、成功しなかった。たしかに、このプログラムはバグがないから素晴らしい、と絶賛されているようで、そのプログラムがなんのために働くのかが、いまいち理解されていないようにも思う。

 まるでスピノザの「エチカ」を連想するような文頭に数字を配した「論理哲学論考」は、最初から、スピノザのスタイルを模したとさえ言われているのだから、当然の連想であろうか。一行一行、アルゴリズムを駆使して膨大なコンピュータ・プログラムを書きあげる現代の論理学的マイスター達の仕事ぶりを連想する。ウィトゲンシュタインが現代に生きていたら、絶対にコンピュータ・プログラミングに関心を持ったはずだと思う。

 私の努力が他の哲学者のそれとどの程度一致しているかを、私は判断するつもりはない。勿論、この書物に私が記したことは個々の点では新しさを主張しうるものではない。それに、私が考えたことを以前考えた人がいるか否かは、私にはどちらでもよいことなので、私は拠り所を陳述しないのである。p26 「序文」ウィトゲンシュタイン

 1889年生まれのウィトゲンシュタイン、29歳の1918年のことであった。

 この書は当ブログにおいては、Osho「私が愛した本・西洋哲学編」の中に位置し、あるいは、茂木健一郎の「意識とはなにか」ブックガイドの一冊でもあり、単体としても「ウィットゲンシュタイン入門」の文献案内の一冊としてもおっかけの対象となっている。まさに、ウィットゲンシュタインがウィットゲンシュタインであるための最大重要な一冊のひとつとなっている。

 この論文は、たぶん種々のヴァージョンがあるだろうし、全集に納められているこの稿がどの程度に定番として定着しているのかはわからない。しかし、全集としても版を重ねていることや、93年版には「別冊付録」として32頁ほどの小冊子がついており、黒崎宏が「ウィットゲンシュタインの生涯」という20頁ほどの原稿を寄せているところから、かなり興味深い版であることは間違いない。黒崎宏には「ウィトゲンシュタインから道元へ」など何冊かの関連本があり、いずれも興味深い。

 Osho「ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタインは本当に愛すべき男だった。」と語っている。

 それにしても「私が考えたことを以前考えた人がいるか否かは、私にはどちらでもよいことなので、私は拠り所を陳述しないのである。」というウィトゲンシュタインの言説には、ちょっと耳が痛い。当ブログは、延々と多くの書を読み、その拠り所を明確にしておくべく、ハイパーリンクを張り続けているからである。当ブログは、まるで、私が考えることなど、すでに誰かが考えてしまったことである、ということを証明するために書き続けている、とさえ思える。

 もし、ウィットゲンシュタインが、人生後半において二つ目の大きなピークである「哲学探究」を出すことになったとすれば、彼の天才が、人生前半における、バグのないプログラムを書く能力を冴え渡らせすぎたから、ということができる。

4・115 哲学は語りうることを明晰に描出することによって、語りえぬことを意味するであろう。 p54

 一旦は小学校の教師を6年も勤めながら、その職を辞し、ウィーンに戻ってきた。その頃、彼は修道院に庭師をしながら、真剣に修道院に入ろうと考えた(別冊付録p10)ということである。

 この様な側面があるところに、彼の人間的魅力があるのであり、また彼の弱さがある。しかし、この弱さこそ、無機質な論理の世界が満たしてくれない、人生の魅力でもある。バグなきプログラムは最高形態ではなく、あらゆるアルゴリズムは常に破綻を含んでいなくてはならない。

5・631 思考し表象する主体は存在しない。
 もし私が「見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体についても報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないであろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろ重要な意味では存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるだろうからである。
 p96

 池田晶子は「私とは何か」と問うた。しかし、私はこの問い自体が間違っていると思う。問いが正しくなければ、正しい答えは得られない。正しい問いは「私は誰か」でなくてはならない。ウィトゲンシュタインが、ここで発している、主体や、私の身体、という言葉は、「私」という意識、というものに置き換えて行かれなければ、正しい解はでてこない。

6・4312 人間の魂が時間的に不死であること、従って死後も魂が永遠に生き続けること、はいかなる仕方でも保証されていないだけではない。なかんづくこの仮定が、人がいつもこれによって解決したいとすることを、全然果たさないのである。私が永遠に生き続けることによって謎が一体解決するとでもいうのか。今度こそはそもそもこの永遠の生が、現在の正と全く同様に謎めいていないのか。時間空間の中での生の謎の解決は時間空間の外にあるのである。
(解決されるべきものは決して自然科学の問題ではない。)
 p118

 池田晶子はふたたび「死とは何か」と問う。当ブログは、ふたたび、この問い方を訂正する。「死とは何か」が問われるべきではなく、「いかに死ぬか」だけが正しい問いだ。いかに死ぬかが問われれば、解として、いかに生きるかが提出されてくる。

6.53 本来哲学の正しい方法は、語られうることと、従って自然科学の命題、従って哲学とは何の関係もないこと、これ以外の何も語らない、というものである。そして他の人が形而上学的なことを語ろうとする時はいつも、彼が自分の命題の或る記号に何も意味を与えていないのを、彼に指摘してやる、というものである。この方法は彼には不満足であろう。彼は我々が哲学を教えているという感情を抱かないであろう。この方法が唯一厳密に正しい方法なのである。p119

 アルゴリズムが破綻しているからと言って、その向こうには何もない、と考えてはならない。その向こうにもごく当たり前の世界があるのである。地平線の向こうには何もないとか、水平線のかなたにはなにもない、と思ってはならない。それは、見ている視点があることを忘れている。地平線まで行けば、さらに向こうに地平線が見えるのであり、水平線のかなたには、さらに大きな大海原がある。

7 話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない。p120

 不可能な事を語る必要はない。しかし、そもそも不可能なことを問うこと自体、不要なのだ。不要な解のために不要な問いを発する、という無駄を省けば、語られないことはない。

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2009/08/13

The Supreme Doctrine <1>

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「The Supreme Doctrine 」<1>
by Hubert Benoit (Author) October 1995 Publisher: Sussex Academic Press; Paperback: 234 pages Language: English 初版1955
Vol.2 No752★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 このユベール・ブノアという男----私は彼の第一作「手放し(レット・ゴー)」については触れたことがある。実際はあれは彼の2番目の著書だった。「手放し」を書く前に、彼はもう一冊「至高の教義」とよばれる本を書いていた。この本も加えておきたい。さもなければ、それに言及しなかったことで私はひどく辛い思いをするだろう。それは途方もなく美しい本だ。だが読むのはむずかしい。そして理解するのはもっとずっとむずかしい。だがブノアは、それを可能なかぎり簡明にするために最善を尽くした。Osho「私が愛した本」p96

 この本を読み解くのが難解かどうかを考える前に、この本に取り組む当ブログの体制づくりがむずかしい。手身近な図書館にはこの作者の本はなく、数少ない可能性である大手公立図書館から転送してもらい、最寄りの図書館に通って、館内閲覧という形で読まなければならないからだ。

 寝そべらないと本を読めない体質に加え、読み慣れない英文であり、ま分厚い。話題作りで、ちょこちょこっと目を通しておく、というやり方では、この本を読んだことにはならない。だが、せめての救いは、テーマ自体が、Zenや東洋思想についての考察であること。そして、著者の思考形態が、どこか図式的であり、かならずしも観念的でないところ、である。

 この本が最初に出たのは1955年。現在55歳の私が生まれた翌年ということになる。日本語文献であろうと、自分の得意のジャンルであろうと、自分が生まれた当時の本を読むとなると、やはりかなりな時代的なギャップを感じることになる。

 当時の出版状況も違っていたし、本の持つ意味合いも違っていた。世界の情報網の在り方も、全く違ったものであった。インターネットが発達し、交通がグローバル化し、図書館利用が実に簡便になった21世紀とは雲泥の差があったはずの時代の本である。思考そのものの質自体になんら遜色はないにしても、その本を取り巻く周りの環境はまったくちがっているはずだ。

 半世紀前なら、西洋人おけるBuddhismと言えば、たしかにZenSatoriTaoと言った、ステロタイプの東洋思想のなかにあったことは想像できる。しかし、20世紀後半、その歴史的背景の騒動もありながら、かなりの勢いでチベット密教(タントラ)が勢いを伸ばしたため、21世紀的西洋社会の仏教理解はほとんどチベット密教一辺倒とも言われる。

 その様な時代変化を経験する前の、20世紀前半的西洋的仏教理解の代表格の一人がこのユベール・ブノアである、ということのなるのだろう。形としては理路整然としており、やや異国情緒的な扇情的な感性は抑えられているものの、西洋哲学的な何処までも透徹した理論性を排し、未知なる神秘性に訴えようとする意図はありありと見受けられる。

 

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<2>につづく

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This Is It <1>

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「This Is It」 and Other Essays on Zen and Spiritual Experience <1>
著者Alan Watts 出版年1996, 初版1960  出版者 Rider 形態 xii, 140 p. ; 20 cm. 言語: 英語 出版地 London
Vol.2 No751★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 アラン・ワッツは20数冊の著書を持つ多作な作家だが、邦訳されているのは、当ブログが確認しているところでは、わずかに2冊と、かなり少ない。まるで日本人に人気がない、ということではないのだろうが、この作家の位置がいまいち日本の読者からすると、微妙なところにあり、ストレートに受け入れることができない、ということなのだろうか。

 ワッツの動画も結構流通している。

 『This is it』は途方もない美と理解の作品だ・・・・しかも光明を得ていない人間が書いたものだ。だからこそますます評価される。Osho「私が愛した本」p129

 この本は1960年にでている。ワッツがZenBuddhism、TaoSatoriといったテーマで書いた小さなエッセイ集たちが、小さな本としてまとめられている。日本という風土に生まれ、日常的に触れている「仏教的」雰囲気と、ワッツ達、「東洋かぶれ」とも見えるZenびいきの連中の言には、大きな開きがある。

 かたや墨絵的で保守的で、融通が利かない頑固爺さん的であり、かたやサイケデリックでカウンター・カルチュラルで、まったく型破りなヒッピーのにおいがする。この二つの流れが、互いに禅を語り、仏陀を語り、悟りを語る。同じことのはずなのに、何かが大きく違う。

 日本の仏教はどこかドメステッィクで内向的だ。あまりにありふれていて、その本来の意味など、どっかに忘れされてしまい、ただその器だけがゴロゴロと転がっている感じさえする。いや、それはイメージであって、内部的にはさまざまな工夫もされているし、進化もしている。だが、数千年に渡る文化や伝統が、大きく舵を切る、ということはそう簡単なことではない。

 それに比して、ワッツたちのBuddhismやZenやSatoriは、どこかハイブリットだ。つまり、欧米文化の中に、東洋精神を植えようとする、異種混合作業だ。エコカーとしてのハイブリッド自動車もまだまだ人気先行で 、本当の実績を上げるまでには至っていないが、地球人スピリットとしての、ハイブリッドZenも、すくなくとも、ワッツがこの本を出した50年前には、話題先行型のムーブメントであり、実質的な精神性がどこまで深化したかは、本当は定かではない。

 話題性があったればこそ、西欧ではワッツはアイドル的存在に成りえたし、表面的であるがゆえに、日本(や東洋など)では、いまいちキワ物としての色モノ的位置を脱しきれなかった。しかし、彼(ら)が位置した価値は決して小さくない。ワッツが後半生を過ごしたエサレンなどを中心としたスピリチュアル・ムーブメントの盛り上がりも20世紀的な大きなイベントだった。

 21世紀において、ワッツ達の一連の存在はそろそろ古典的な位置に後退し、本当の意味での、ハイブリッドな地球人スピリットが浮上して来なければならない時代になっている。まったく角度は違うが、すでにアメリカにはアフリカ系大統領・オバマが登場している。日本とて、墨絵的な箱庭的な世界にとどまってはいない。いまやクール・ジャパンだ。形や文化、伝統などを超えた、まったく新しい、まったく包括的な、より真実な、人類が歩み出す必要がある。

 ワッツたちが残した業績は大きい。日本人たちにはその価値がいまいちわからない。彼らの東洋かぶれは、いまいち底が浅いように見える。それではまだまだ理解が足らないような中途半端さを感じる。だが、それはそれで大きな意味を持っている。ともすると、伝統や日常のなかに埋没してしまい、曖昧化してしまう東洋文化を、ふたたび視覚化し、浅いところまで引き上げてくれた。あらためて認識させられることが多い。

 この本、小さくて読みやすく、分かりやすい。欧米人にとってはいまだに目新しく、再刊が続いていることも理解できる。しかし、ワッツ本人は、やっぱり生まれ変わって、この21世紀の地球人としてそのワークを継続する必要があろう。かつての色モノ的なハイブリット・スピリチュアリティが、地球上の本当のコモンセンスになる時代は、まだ来ていない。

<2>につづく

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2009/08/12

Maxims for Revolutionaries

Shaw
「Man and Superman」
George Bernard Shaw (著), Dan H. Laurence (編集), Stanley Weintraub (序論) 2001/1/2  出版社: Penguin Classics; New Ed版"288p 言語 英語,
Vol.2 No750★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

「Maxims for Revolutionaries」

 
The golden rule is that there are no golden rule. p251
黄金律がないのが黄金律だ。

 「革命家のための金言(Maxims for Revolutionaries)」は、「Man and Superman」の中の、「The Revolutionarist's Handbook」とともに巻末につけ加えられている。15頁ほどにごくごく小さな金言たちがまとめられている。

 警句家とも、皮肉屋ともとれる、名言の数々がバーナード・ショーの作品には多く見られるが、この本もまた、一句一句が、生きている。生き過ぎて、皮肉のための皮肉とさえ、取られかねないが、まっとうな意味をとらえてもらえるなら、短い一句一句が、重い存在となってくる。

Liberty means rosponsibility. That is why most men dread it. p252
自由は責任を意味する。だからこそ、たいていの人間は自由を怖れる。 

A learned man is an idler who kills time with study. p253
学問した人間は、勉強によって時間を費やす怠け者である。

Happiness and Beauty are by-products. p258
幸福と美は副産物にすぎない。

Economy is the art of making the most of life. The love of economy  is  the root of all virtue. p258
経済は大半の人生をつくる術である。経済の愛はあらゆる美徳の根源である。

The fatal reservation of the gentleman is that he sacrifices everything to his honor except his gentility.p259
典型的な紳士たるの条件は、上品な体面を保つことのほかは、すべてを自己の名誉のために犠牲にすることである。

Home is the girl's prison and the woman's workhouse. p262
家庭は少女の監獄であり、婦人の感化院だ。

 Osho「私が愛した本」の中に「革命家のための金言」として紹介されている。古いヴァージョンのMan and Supermanには、この金言集は含まれていなかった。

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カラマーゾフの兄弟<11>

<10>よりつづく

カラマーゾフの兄弟(5(エピローグ別巻))
「カラマーゾフの兄弟」(5)(エピローグ別巻)) <11>
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー /亀山郁夫 2007/07 光文社 文庫 365p

 巻末の「読書ガイド」込みとは言え、443p+501p+541p+700p=2185p、2千頁を超える大書を読み進める勢いで、最後のエピローグは読むべきではないだろう。訳者が、わずか55頁のエピローグを、最後の別巻として、独立させたところにその意義が感じられる。

 3章*4巻=12章でひとまず終了しておいて、ちょっと一息ついて、クールダウンしたところで、最後のエピローグをゆったりとした気分で読む。これだけの短い文章だと、何回か、ゆっくり読みたくさえなる。これが第4巻の巻末についていたら、あの勢いで、一気に読んでしまうことになるので、なにか、読んでいる意味が違ってきそうだ。

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 「カラマーゾフの兄弟」を検索すると、埴谷雄高の「死霊」がヒットする。友人と雑談していて分かったことだが、どうやらかの有名な小説「死霊」は、「大審問官」の思索をもとにした観念的な小説的であるという。なるほど、大体の位置関係が分かってきた。つづけて、そちらも読んでみたいとも思ったが、すでに、別な図書が届いている。既定のスケジュールで、当ブログなりのプログラムをすすめていくしかない。

 第5巻の100頁ほどに渡る「ドストエフスキーの生涯」を読むと、あらためて、なるほど、と思いあたることがいろいろ出てくる。このような作家の人生を知らなければ、その作品の機微も充分理解できないことになる。

 同時代のロシアにはびこる自殺病から人々を救うため、一作家として何かを語らなくてはならない。何らかの救いの道を提示しなければならない。そうしたぎりぎりの想いから紡ぎだされた物語が、おのずからの自伝的色彩を強く帯びていたことはある意味で当然のことだった。なぜなら、自分を語るしかないこと、しかもおのれの「死と再生」の物語を示すことしか道がないということこそ、絶望の深さの表れだからである。第5巻p133「ドストエフスキーの生涯」

 4部からなる小説と、最後のエピローグ+解題がセットとなった、この新訳「カラマーゾフの兄弟」は、この第5巻が面白い。小説そのものは、どうも、コピーが繰り返されて、すこしピンボケになった写真を見ているような曖昧さも残る。ところが現代的に、21世紀的に、2007年的に解説されるドストエフスキーは、際立ってすくっと立ちあがってくるようなリアリティがある。

 もちろん、小説そのものより、解説のほうがおもしろいなんてことがあってはならないし、それでは、一読者として、かなりのサボりすぎというものだろう。それでは、小骨を取ってもらって魚を食べている幼児のようなものだ。まっとうにキチンと読むべきだろう。またの機会もあろう。

 さて、この様な長編小説をネット上のブログの中で読むという行為はいかがなものであろうか。ましてや、必ずしも今日的ではない古典を、ブログに書いてみたとて、実際のところ、アクセス数はぐっと減ったように思う。もちろん、頓珍漢な読書感にあきれ果てたというアクセス者もいるだろうが、それでもやはり、なにかがちょっと違うかな、と思う。

 大審問官は言う。「この地上には三つの力がある。ひとえにこの三つの力だけが、こういう非力な反逆者たちの良心を、彼らのために永遠に打ち負かし、虜にすることができるのだ。そしてこれら三つの力とは、奇跡、神秘、権威なのだ」 第5巻p305 「解題」

 たしかに大審問官については大いにひっかかる。イワンの口を借りて語られる大審問官の言は、もうすこし注意深くに再読されるべきだろう。

 何よりもあたしは、グローバル化と呼ばれる時代に、最後まで一気に読み切ることのできる「カラマーゾフの兄弟」の翻訳をめざしたかった。勢いが、はずみがつけばどんなに長くても読み通すことができる、そんな確信があった。 第5巻p360 「解題」亀山郁夫

 たしかに、新潮社版の「カラマーゾフの兄弟」を40年ちかく枕元に置きながら、今まで読み切ったこともなく、ましてや公然と小説嫌いを宣言している私が、いろいろな行きさつがあったといは言え、この光文社版で、「一気に読み切って」しまったのだから、翻訳者の意図はまんまと成功したことになる。

 とくに彼は、完全に「グローバル化と呼ばれる時代」を意識していたのである。この本を読書ブログとして、おたおたしながらも、読み通すことになったのは、必然であったかもしれない。感謝を込めて、評価しなおしておく。

Vol.2 No745★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

<12>につづく 

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2009/08/11

カラマーゾフの兄弟<10>

<9>よりつづく 

カラマーゾフの兄弟(4)
「カラマーゾフの兄弟」(4) <10>
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー /亀山郁夫 2007/07 光文社 文庫 700p

 「じつのところ」と彼はつづけた。「こうしてとつじょ、ロシアじゅうに悲しい名前を知られることになったカラマーゾフ一家とは、何でしょう。わたしは少し大げさすぎるかもしれませんが、思うにこの家族の光景には、現代ロシアの知識人階級に共通する、ある基本的な要素が見え隠れしているます。むろんすべての要素ではなく、『小さな水滴に映る太陽のように』ごくごく小さな形でありますが。いずれにしても何かが映っている、何かが現れているのです。第5巻p517

 これは、裁判における誰かの証言である、というより、ドストエフスキー本人の言葉であろう。この小説のなかに、なにかの全ロシア的な(つまり全人間的な)、「ある基本的な要素」を盛り込もうとしたことは確かだ。

 一読者としての私にとっては、「自殺」という形が、思わぬ方向でやってきたが、遅かれ早かれ、この「基本的な要素」は登場せざるを得ないと思っていた。しかし、あえていうなら、もうひとつの「死」がある。それは社会的な死だ。病死、事故死、他殺、自殺、自然死、さまざまな死の形はあれど、社会的な死も、大いに語られねばならない。

 この小説の中で、登場人物をひとりひとりイメージするために、自分の身近に存在する実在の人物にそのストーリーを演じさせながら、ここまで読み進めてきた。その作戦はわりとうまくいった。まったくイメージできない、などということはない。ここまで生きてくれば、たいがいの人物像と出会っている。大体、リアリティを持って想像することができる。

 しかし、もしこの小説の中に、もし自分も登場していると仮定して、もっとも親近感を感じる登場人物、もっと感情移入できる役柄、そういうものを探し続けている自分に気付いていたが、ついぞここまで、これは私だ、という人物とは出会わなかった。

 しかし、敢えていうとするなら、キャラクターや思想、行動にはかなりな違いがあるが、この小説を読んでいると、次第次第に、自分はある立場に追いやられていることに気づく。それは、ドミトリー(ミーチャ)という、被告人にして、無実を訴え続けている哀れな男の立場である。この哀れさ、このアンビバレンツな立場に、いつの間にかすり沿うように押しやられている自分に気づく。

 この巻、第4巻である。3章*4巻で、全12章、ここで、この小説の結論が出るはずだった。しかし、裁判としての結論は結局でなかった。いや、小説としては、ここで終わっていいのだろう。裁判の結論は、ある種、どうでもいいのだ。だって、すでに父親殺しの犯人さがし、としては、すでにスメルジャコフが自白してとうに自殺してしまっているのだから。すこしは、曖昧さを残したまま、その余韻のなかに消えるののが、小説というものだろう。

 訳者は、彼がこの小説に対していだいていた厳密な構成感覚をできるだけ忠実に伝えたいと願って、あれえて四分冊の形式をとり、それぞれの巻がそれぞれの部に相当するように工夫した。しかし、エピローグにちては、むしろ訳者なrにの独自の考えにしたがって、別巻として扱うことにした。第4巻p678 「読者ガイド」亀山郁夫

 このような造本構成は、おおいに成功していると思う。すくなくとも、一読者としての私にとっては、このような形がフィットしている。他の本が3分冊などになっていることを考えると、この4部+1という形は、一番、理にかなっているように思う。

<11>につづく

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2009/08/10

カラマーゾフの兄弟<9>

<8>よりつづく

カラマーゾフの兄弟(4)
「カラマーゾフの兄弟」(4) <9>
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー /亀山郁夫 2007/07 光文社 文庫 700p

 これだけ有名な古典的な大小説について、ネタばれなどという心配はないだろうから、さっさとここは、思いついたことだけをメモしていく。

 第4巻前半まで読み進めていて、この小説に「不足」しているのは、「自殺」であるし、その「死」の要素が明確になっていないのは次男イワン----大審問官ラインであった。しかし、第4巻を3分の2まで読み進めてみると、実際に自殺したのは、下男スメルジャコフであったが、やっぱり、その事実を突きつけられたのは、イワンその人だった。第4巻の大団円、そして第5巻のエピローグにおいて、さて、イワンはどうなっていくのかまだ予断を許さないが、しかし、予想は当たらずとも遠からずの範囲にあった。

 「11月初め。フョードル殺害犯として逮捕されたミーチャのまわりで、さまざまな人々が動き出す。アリョーシャと少年たちは病気のだちを見舞い、イワンはスメルジャコフと会って事件の「真相」を究明しようとする。そして裁判で下された驚愕の判決。ロシアの民衆の真意とは何か!」 第5巻 裏表紙 キャッチコピー

 第4巻は、例によって3編構成だが、この巻一冊だけでなんと700ページある。通常なら、この長さのなかに小説の2つや3つも軽く入ってしまうほどだ。なんでまたこれほどまでに、微に入り細に入り感情過多の表現を続けなくてはならないのか、いまだに疑問ではあるが、そろそろこの小説をひととおり目を通す位置まできた。

 ここまでくれば、なんとかあとは結末への関心を維持しながら、なんとか最後まで読み切ることはできるであろう。各巻末の読書ガイドも役立ったが、それぞれの解説本にも助けられた。Oshoの「私が愛した本」168冊のほぼ頂点に位置している本でもある。当ブログとしては、この小説をさけては通れないという、義務感、いやいや、目標地点でもあった。

 この小説が終わっても、まだトルストイの3冊が残っているので、それを考えると、ちょっと気は思いが、それでも、すこしは小説というやつをなんとか読みとおすコツみたいなものをひとつつかんだ気がする。

1)翻訳本は、最新版を採用すべし。

2)解説本は適時活用すべし。

3)読むなら、間髪をいれずに一気に読むべし。

4)登場人物はメモして、何度も確認すべし。

5)四の五の言わず、ひたすら頁をめくるべし。

6)一期一会。そうそう読み返す機会もないだろう。心して読むべし。

7)ひたすら浸るべし。

<10>につづく

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2009/08/09

カラマーゾフの兄弟<8>

<7>よりつづく 

カラマーゾフの兄弟(4)
「カラマーゾフの兄弟」(4) <8>
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー /亀山郁夫 2007/07 光文社 文庫 700p
Vol.2 No749★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 ゾシマ長老の自然死、フョードルの被殺人、という二つの「死」に対応させるとするなら、スネギリョフ二等大尉にとっての息子(イリューシャ)の「死」が登場してくるだろう。そして、3、ないし、4、というシンボル数から考えると、もうひとつの「死」が必要となる。そして、対応構造から考えると、次男イワンにまつわる「死」ということになる。

 イワンの図地反転としての「大審問官」はもともと昔の存在であるし、「死」を超越している雰囲気がある。姿を消しているイワンにまつわる「死」となると、そして他の3つの「死」とは別なスタイルの死となると、あと残るは「自殺」ということになるか。

 星型二重四面体は、4つの頂点が2組あるので、8つの頂点となるが、この小説もそうだが、ドストエフスキーは12という数字にこだわった。もし、もうひとつの正四面体があるとするなら、この小説の登場人物から考えれば、一群の女性群ということになるだろう。一読者としての好みもあったが、19世紀のロシアの環境を考えるとしかたないのかもしれないが、作者の描く女性観には、いまひとつ納得感がない。 

グルーシェニカ・・・・妖艶な美人。フョードルの死後、ミーチャと愛し合う。

カテリーナ・・・・知的な美人。ミーチャの元婚約者。

リーザ(リーズ)・・・・ホフラコーワ婦人の娘。アリョーシャとの婚約を解消。

ニーノチカ・・・・イリューシャの姉。

ホフラコーワ婦人・・・・町の裕福な未亡人。  「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」 p12より抜粋

 この女性群が構成するだろう、四面体というものは、今はあまりイメージできないが、暫定的に、線を引いておけば、

父フョードル----グルーシェニカ

長男ドミートリー ----カテリーナ

次男イワン----ホフラコーワ婦人

三男アレクセイ----リーザ(リーズ)

ということになるのだろうか。ニーノチカ・・・・イリューシャの姉は、一群の少年たちに属するのか、あるいは、スネギリョフ大尉家の中におけるさらに小さな四面体の構成要素となるのであろうか。それにしても、正四面体が3つ存在するとなると、簡素な星型二重正四面体ということでないことになる。組み込み方を再考する必要がある。

<9>につづく

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謎とき『カラマーゾフの兄弟』

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「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」 
江川卓 1991/06 新潮社 全集・双書 302p
Vol.2 No748★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★☆☆

 もともと殺人事件を解決する探偵推理小説のスタイルを採用している限り、この小説は最初から謎かけからはじまり、謎解きに終わるのだが、登場人物が一通り説明されてしまえば、あとは、事件がおき、そして犯人探しが始まる。

 しかし、もともと超有名な小説であるだけに、もう犯人は誰か、ということはすでにわかっているわけだから、あえてさらに解かれるべき「謎」などなさそうなのだが、これだけ輻輳している小説であるだけに、深読みしようとすれば、あれこれ想像力が刺激されてくることはまちがいない。

 こちらの解説本の作者の名前はどこかの球団で野球ボールを投げていた御仁と同じようだが、もちろん別人だ。ロシア文学研究家だ。裏表紙では、「あの」埴谷雄高が「世界はじめての試み」と、こちらもちょっと大げさな感じの推薦文を書いている。

 「磯野家の謎」でもあるまいが、「へ理屈と軟膏はどこにでもつく」とはいうものの、あんまりあれこりいじるのもどうかなぁ、と思う。光文社刊「カラマーゾフの兄弟」の各巻末についている「読書ガイド」のような、読書を推進するための副読本のようなものならともかく、こちらは、全部を読みきったあとに、しかも自分なりに全体を玩味し得たあとに、きりっとまなじりを決して、読むべきような本であるようだ。

 「3と13の間」p111などという一節も、ともすれば、駄弁に過ぎないような部分でもあるし、そういえば言えなくもない、という程度のことで、読み方、楽しみ方としては、通常の小説の読み方をちょっと逸脱しているようにさえ思う。それにそんなことにいちいち引っかかって小説を読むべきなのだろうか、とも思う。

 これを自然界や、偶然に身の回りに起きた出来事をまとめたり、感じたりするときに、そう感じるのは構わないが、小説を書く側と、読む側が、乳繰り合っている図は、私はあまり好ましいものとは思わない。ただ、すでにこの小説が生まれて130年も経過しているわけだが、たったひとつの文章を、130年の年代を超えて、多くのいっぱしの大人たちが、ああでもない、こうでもないと、蘊蓄を傾けてきたとするなら、それはそれで、小説というもののひとつの重要な価値にもなるのかな、と、思う。

 もともとテキストに則して言えば、この「カラマーゾフ万歳!」は、「アレクセイ・カラマーゾフ万歳!」ということである。彼を慕う「12人ほど」の少年たちが、彼とともに「イリューシャ」をという不幸な少年を愛し、ともに彼を葬った。この記憶をいつまでも持ち続けようという少年たちの意思がこの言葉を叫ばせるのである。p278

 おっと、まだ最後まで読んでいない状態で、あまりこちらの解説本ばかり読んでしまうことはよくない。ちいさな刷り込み状態がおこる。この本は、ほどほどにしておいて、あとでまたじっくり読もう。

 それにしても、カトリック嫌いだったというドストエフスキーが、その多くのシンボリズムをキリストやキリスト教に求めざるを得なかった、というところに、この小説の人気もあるのだろうし、限界もあるのだろうと思う。

 13年後に、12人「ほど」の少年たちと立ちあがってくるアレクセイ。なるほど「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」誘惑にかられるのもわかる気がする。

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カラマーゾフの兄弟<7>

<6>よりつづく

カラマーゾフの兄弟(3)
「カラマーゾフの兄弟」(3) <7>
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー /亀山郁夫 2007/02 光文社 文庫 541p

 思えば、この小説を読んでおくことによって、19世紀のロシアの文化について、すこしは分かるようになる。殺人事件の「予審」と言っても、現代の私達が考えるような裁判員制度のようなものではない。もっと牧歌的なものだ。他の風物詩や人間関係についても、ブラヴァッキーやグルジェフ、ウスペンスキーなど、19世紀のロシアと関係のありそうな人々を考えてみるのも価値あることだ。

 もともとこの小説は新聞だか雑誌に連載されたものだから、もともと流行小説であったはずで、大衆に受け入れられるように書かれている。そこにはスキャンダルも必要だろうし、お高くとまって形而上的なお話ばかりでは話題になることも少なかっただろう。当時は、文庫本5冊を重ねて一気に読んでやろう、などというスタイルではなかったはずだ。

 だから、毎回毎回、なにごとかのストーリーの盛り上がりが必要になり、毎回毎回、感情移入過多ともいうべき恋愛小話が延々とつづく。これもまた、当時のロシア社会の影響もあっただろう。21世紀の小説なら、過剰なポルノグラフィーのような表現が刺激的に採用されるが、当時のロシアでは、このようなスキャンダルの在り方が、小説としての「商品価値」を維持するための最小限の装置だったのかもしれない。

 予審においてドミトリーは自らの立場や意見を発言する充分な時間と機会を与えられる。ずいぶんと多弁だ。それでもなお弁明しきれずに、護送されることになる。その際においても、多弁すぎるほど多弁だ。実際に事件なら、これほど自由に発言することなどできなかったであろう。いや、そこは小説だから、それが可能だ、ということなら、なら、事実や現実から大きく離反した小説とは一体なにか、ということになる。

 第4巻においてここまでドミトリーが描かれれば、あとははてさて、残るは、スメルジャコフの言い分やいかに、ということになってきた。

<8>につづく

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2009/08/08

カラマーゾフの兄弟<6>

<5>よりつづく 

カラマーゾフの兄弟(3)
「カラマーゾフの兄弟」(3) <6>
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー /亀山郁夫 2007/02 光文社 文庫 541p
Vol.2 No747★★☆☆☆ ★★★★☆ ★★★☆☆

 「2人の父の死がはらむ謎。3兄弟の分かれ道!」 腰巻のキャッチ・コピーがなんとも気をそそる。しかし、2、や、3、という数字が持っている素数的な簡略さは、この小説にはない。2が4になり、4が16になる。3は9になり、81になる。いやいやそれ以上にポリフォニー小説の支線は伸びに伸び、ストーリーは、絡まりあっては、始点も終点も分からなくなっていく。

 えいと、ばかりに、快刀乱麻を試みて、星型二重四面体という構造体をイメージし、まるで粘土で彫刻をつくる時のように、その骨組に、めくるめく小話のひとつひとつを貼り付けていってはみるが、どうもその構造体をうまく埋めきることはできない。どうしても、部分部分で、骨格が露出する。

 しかし、よくよく考えてみれば、真理はくっきりとしたシンメトリーな構造を持つはずもなく、星型二重四面体がもし解決策としての最終的な回答であったとするなら、そこには動きもなく、生命もなく、ただタナトスのたゆたう暗黒の世界となる。

 「いつだったか、この詩がぼくの魂から迸(ほとばし)ったことがありましてね、詩というよりも、涙ですよ・・・・自分でこしらえたんです・・・・でも、あのときじゃない、二等大尉のひげを引っぱり回したときじゃ・・・・・」
 「なんだって急に、あの男のことを持ちだしたんです?」
 「なぜあの男の話を九に持ちだしたか? くだらない! すべてに終わりがきて、すべてが等しくなる、一本、線が引かれて、けりがつく」  
第3巻p225 第8編「ミーチャ」

 第2巻ではほとんど消えていたドミトリー(ミーチャ)が、第3巻では、ながながと述懐する。周囲にまとわりつく女性群については、なかなか追いかけることができない。というか、どこか興味を失っている。現実にこのような女性群があったなら、はて、私ならどうだろう。どっかで、切れてしまっているので、もう、自らの中の女性像としては考えることができない。実際は男性群もそうだが、なにかのシンボルのごとく、ちょっと現実からかなり遊離したドストエフスキー・ワールドになっている。

 ただ、やはり、ここまでくると、ドミトリーとスネギリョフ二等大尉に連なる何かの連なりがあることは大いに察することができる。あるいは、そのように想定していくと、この小説への関心をなんとかようやく維持することができる。

 乱雑なシンボルの中からなんとか構造的なものを想像しつつ、その構造的なものを暗示しながら、またその構造が壊され、曖昧にされようとする。そのせめぎあいの中で、謎探しのモチベーションがかろうじて続く。

<7>につづく

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2009/08/07

ドストエフスキイの生活

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「ドストエフスキイの生活」 
小林秀雄 1964/12 新潮社 文庫 625p 改版 2005/04  64年版を読んだ
Vol.2 No746★★☆☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 小林秀雄についてはなにも知らない。茂木健一郎「脳と仮想」が第4回「小林秀雄賞」を受賞したとか、白州次郎&正子の孫である白洲信哉は小林秀雄の孫でもある、という下世話な話題を2・3知っただけで、ご本人がどのような業績をあげ、どのような人生を送った人なのか、知らない。

 しかし、ここ数日はカラマーゾフ色に染まっている当ブログだが、ブログ全体の中でのこの数日の書き込みの位置を確認するためにも、カラマーゾフ繋がりで、小林秀雄という人の作品に触れておくのも意味あることに思える。

 表題のごとく、三分の二がドストエフスキーの「自伝層」について書かれているわけだから、ここを読めばよいのだが、今はカラマーゾフ繋がりなので、巻末ちかい「カラマアゾフの兄弟」p219と題された50ページ程の評論をめくって終りにし、他の部分は今回は割愛する。

 言うまでもなく、イヴァンは、「地下室の手記」が現れて以来、十数年の間、作者に親しい気味の悪い道連れの一人である。ラスオオリニコフ、スタヴロオギン、ヴェルシオフ達、確かに作者は、これらの否定と懐疑との怪物どもを、自分の精神の一番暗い部分から創った。誰が生んだのでもない、作者のよく知っている生みの子達だった。p229

 「地下室の手記」は先日読んだ。数日前に読んだだけなのに、あの小説を読んだときは、その作者のことなんかあまり考えていなかった。今になって、ああ、「カラマーゾフの兄弟」と同じ作者だった、と気付く程度のことであり、わずかにその繋がりの中に、何事か、ひとつふたつの感慨が生まれてくる程度である。

 だから、この大作家についての作品をもっと量的に読みこんで、なお、周辺を理解してから、この小林秀雄の評論も読むべきであろうが、いまはその余裕はない。ただ、断片的なうつろな記憶を綴っていけば、なるほど、と思えることもいくつかでてくる。

 ここで再び問題となるのは、大審問官はイヴァンの掌中にある人物だし、イヴァンはドストエフスキイに操られている人間に過ぎない、という面倒なところで、その点を曖昧にして置くと評家は羂(わな)にかかる。羂は慎重に狡猾に仕掛けられているのであって、それは前にも書いた通り、「大審問官」の劇詩を読む読者は、キリストを選ぶか大審問官を取るか、二者択一のジレンマに追い込まれるというからくりにある。p250

 当ブログでは、まだ全4巻のうち、第2巻まで来たところだから、ここで小林が言っていることと対応しているかどうかわからないが、すくなくとも、キリストVS悪魔、のような二価値判断は極力避けたいと切実に思う。このからくりは、一読者としては、かなり窮屈な思いがする。ただ、ドストエフスキー自身は、この二つの価値に対して、第3の、第4の価値観を置いているように思う。

 小説の登場人物を指して、この人物はよく描かれているとかいないとか言われるが、そういう極く普通な意味で、ドミトリイは実によく描かれてた人物である、おそらく彼ほど生き生きと真実なる人間の姿は、ドストエフスキイの作品には、これまで現れた事はなかったと言ってもいいだろう。p256

 たしかにこれまでのところ、アレクセイとイワンの登場頻度に比して、ドミトリー(ミーチャ)がいまひとつ注目されていないところが、不満であったが、ということは、この小説後半においては、この愛すべきカラマーゾフ家の長男が、もっと生き生き登場してくる、ということなのだろう。

 なるほどイヴァンも詩人だが、ミイチャの様な天稟(てんぴん)の詩人ではない。ミイチャには、文才がない、要らない。彼の馳駆する素材は、言葉ではなく生活だ。彼は世間のしきたりなぞには凡そ無関心に、好むがままに、衝動の赴くがままに、生活を創って行く。p259

 思えば、ドストエフスキーは、科学者でもなければ、神秘家でもない。いわゆる小説作家としての芸術に属する類の人間だ。イワンや、アレクセイに共感を示すより、むしろ、このドミトリーにこそ、「自伝層」を重ねていたのではないか、と現時点でも私はそう思う。翻訳者・亀山郁夫説なら、イワンの存在も気になるところだが、もしイワンVSアレクセイの論争に決着が着くとするなら、そもそも、この「カラマーゾフの兄弟」という小説は一体なにか、ということになってしまう。決着はつかないのであろう。

 小林秀雄のこの50ページ程の小論文は(未完)となっている。これだけの長編小説に対して、これだけの小さなスペースでは描き切れなかったのだろうが、それでも、小林がこの小説と、この作家を、どのように見ていたかの片鱗はよくわかる。

 この本、他の項にもいろいろ興味深いことが書かれている。再読を要す。

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カラマーゾフの兄弟<5>

<4>よりつづく 

カラマーゾフの兄弟(2)
「カラマーゾフの兄弟」(2) <5>
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー /亀山郁夫 2006/11 光文社 文庫 501p

 下男スメルジャコフの図地反転したものが、あえて父親フョードルだと解釈するとするなら、三男アレクセイに対応するのはゾシマ長老ということになろう。とすると、次男イワンに対応するのが「大審問官」ということになるか。さらには、長男ドミトリーに対応するとなると、この第2巻までのところ、二等大尉スネギリョフということになるだろうか。

 「大審問官」というのは、必ずしも小説のなかの登場人物とは言い難いが、語られる量的にも意味的にも、重要な位置を占める。この大審問官、ゾシマ長老、スネギリョフ大尉という三角形をイメージし、その上に父親フョードルを置いて、正四面体をイメージすると、この小説のなかの構造的骨格のひとつには成り得ると思う。

 この小説全体に、三人、あるいは三角関係という構図はたくさんでてくる。三人の母親、三人の女性、三人の女性家族など、さまざまな局面で、いつくつもでてくる。それを意図して作者が描いたというより、そのような位置的関係で理解していかないと、全体がバラバラとなってしまい、ひとつのまとまった宇宙観(小説的世界)として把握できないことになる。

 いや、把握できない訳ではないが、便宜上、そのようにして理解していったほうが、いいのではないか、という、一読者としての推理に過ぎない。

 たしかに彼らは、夢とも幻ともつかぬものをわたしたち以上に持っている。公正な社会を作ろうと考えてもいるが、キリストをしりぞけてしまえば、結局のところ、世界じゅうが血の海となるよりほかはない。なぜなら、血は血を呼び、剣を抜いた者は剣によって滅びるからだ。そして、もしキリストの約束がなければ、彼らは、地上の最後の二人になるまで、たがいを滅ぼしあうだろう。それにこの最後の二人は、自分の傲慢さからたがいを鎮めることができず、ついには最後の一人が相手を滅ぼし、あげくの果ては自分をも滅ぼすことになるのだ。柔和で謙虚な人々のためにいずれこのようなことは終わる、というキリストの約束がなければ、それは現実のものとなっていただろう。p449 第2巻 第6編 「ロシアの修道僧」 ゾシマ長老の最後の述懐

 まるで、カリール・ジブランの「預言者」を連想させるような部分であるが、発表年代を考えれば、むしろこちらのほうが元祖であろうか。それにしても、どこかに感情移入しながら、読み進めようとするのだが、どこにも依拠できず、彷徨してしまう我が精神は一体どうしたらいいものか。

 プロ(肯定)----アリョーシャ、ゾシマ長老、キリスト
 コントラ(否定)----イワン、大審問官、悪魔
 つまり、このプロとコントラの戦いとは、<三対三の登場人物による戦いの構図>をなしているということだ。では、作者はこの小説で、最終的にはどちらに軍配を上げようとしていたのか。どちらかに軍配を上げることは、ポリフォニー小説としての構造を根底からくつがえすものとなるのか。これこそが、少なくとも方法上から見たこの小説の、最大の問題点である。
p501「読者ガイド」モノローグか、ポリフォニーか----方法上、および構成上の問題点

 ゾシマ長老→キリストは首肯するしかないとして、大審問官→悪魔、とすることは、ちょっとおかしい。それはあくまでキリスト側からの価値判断であり、別な、イワン→大審問官側からの積極的意味のある言葉が選ばれなくてはならない。それに、肯定、否定の、二価値判断からさらに逃れるための第3極、つまりは、懐疑----ドミトリー、二等大尉スネギリョフ、(人間?)・・・ともいうべきものを据えなくてはならない。そしてまた、第4極として、フョードル、スメルジャコフの系列も、他の三極に対峙すべく、同等価値感として、されなければならないだろう。

 4巻構成のうち、ここで第2巻が終わった。今後、これらを踏まえて、展開が進むことだろう。

<6>につづく

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2009/08/06

カラマーゾフの兄弟<4>

<3>よりつづく

カラマーゾフの兄弟(2)
「カラマーゾフの兄弟」(2) <4>
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー /亀山郁夫 2006/11 光文社 文庫 501p
Vol.2 No746★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 まず、父親フョードルがカラマーゾフの始まりだ。

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 そして、そこに3人の子供がいる。長男ドミトリー、次男イワン、三男アレクセイ。この三人があたかも正三角形を形成しているかのようだ。

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 小説の中では、この三人が等間隔でそれぞれに独立しながらも依存しあう関係にある。この正三角形の頂点に、父親フョードルを頂けば、それは正三角錐(正四面体)となろう。

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 この正三角錐が、この小説のひとつの次元の核を成しているとしても、この重層的な長編小説にはさらにさまざまなシンボルが登場する。まずは、4人目の子供、下男スメルジャコフだ。彼は4人目というより、次元をひとつ違った所にいる。3人兄弟に対比するなら、それは4つ目の頂点、つまり下向きにできた正三角錐の頂点ともいえる。
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 この上向きの正三角錐と、下向きの三角錐を合わせれば、正6面体となり、これもまたひとつの核と成り得るモデルである。ちょうど父親フョードルと下男スメルジャコヌが対応しているとこも面白い。ヒョードルが「実」なら、スメルジャコフは「虚」とでもしておこう。
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 さて、このヒョードルとスメルジャコフが対応しているような形で、長男ドミトリー、次男イワン、三男アレクセイにも、それぞれに、実vs虚、あるいは表vs裏、とでもいうような存在があるのではないか。図地反転する存在があるはずだ。

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 とすると、ヒョードルを頂点とする上向きの正三角錐が存在するとともに、スメルジャコフを最下点とする下向きの正三角錐が存在するのではないだろうか。そしてそれが組み合わせると、ひとつの星型二重四面体ができあがってくるように思えてくる。

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 ランダムに投げ出される乱数をなんとか一つにまとめあげようする感性がある。それが邪魔になるときもあれば、それがなくしては、その場を通り過ぎられない場合もある。ひとつの「宇宙観」にまとめあげようとすると、あらかじめ刷り込まれている図式が浮き上がってくる場合がある。ここで星型二重四面体が現れてくるのは、当ブログの場合、ドランヴァロ・メルキゼデクの「古代神聖幾何学」などに首を突っ込んでしまっているせいもあるだろう。

 それにひょっとすると、あれほどかたくなに、あれほど自分流に人類を愛している呪われた老審問官っていうのは、いまも、多くのこういう類まれな老人たちの集団として、まるまる存在しているかもしれないな。それも、たまたま存在していましたなんていう甘っちょろいもんじゃぜんぜんなくてね。不幸で非力な連中を幸せにしてやる、そんな秘密を守る目的ですでに大昔に作られた一宗派として、いわゆる秘密結社として存在しているってわけだ。そう、それはかならず存在してるし、存在してて当然なんだ。おれはふと、こんな気がするんだよ。第2巻 p294「プロとコントラ」

 つづいて結社FMについても書いてあるわけだが、このキーワードでググられると、トンデモアクセス数がいたずらに増えてしまうので、あえて略号で書いておこう。

 つまりFMの根底にも、これと同じ秘密に類した何かがあるんじゃないかとね。カトリックがあれほどFMを憎むのは、FMをライバル視し、ひとつの理念の分断をそこに見ているからじゃないかとね。羊の群れがひとつなら羊飼いも一人じゃなくちゃならないのにさ・・・・。しかし、こうやって自分の思想を擁護していると、おれはなだか、おまえの批判にもまともにこたえられない三文小説家に見えてくるじゃないか。この話はやもうやめにしよう。第2巻p295

 小説で語られる「実」の部分に対して、対応するだろうシンボリズムとしての「虚」の暗示が始まる。

 「ひょっとすると、兄さん自身が、FMなのかもしれない!」と、ふいにアリョーシャは口をすべらせた。「兄さんは神を信じていないんです」彼はそうつけ加えたが、その口ぶりにはすでに、とほうもない悲しみがこもっていた。しかも彼は、兄が嘲るような目でこちらをみているような気がした。第2巻p295

 20歳と24歳の登場人物たちが語る内容としては、すこし重すぎる内容だが、ドストエフスキー自身が55歳当時に書いた小説だとするなら、この登場人物たちの口を借りて語っている「自伝層」ということになろう。そういえば、この家の家長である父親ヒョードルも55歳という設定になっている。

 思えば、私もそのような年代になっている。19世紀のロシアと、21世紀の日本では、555歳のという年齢の意味は違っているだろうが、それにしても、人生の後半、あるいは晩年という意味ではそれほど違ってはいないだろう。そういう意味合いから、もうすこし自分なりにこの小説を自分なりに引き寄せることは可能なはずだ。そういえば、知人に初老になって教会に通い始めた御仁がいることを思い出したが、彼のことについては、別な機会に譲ろう。

<5>につづく

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2009/08/05

小説家が読むドストエフスキー

小説家が読むドストエフスキー
「小説家が読むドストエフスキー」
加賀乙彦 2006/01 集英社 新書 217p
Vol.2 No746★★☆☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 きちんと探せばたくさんあるのだろうが、いわゆる有名小説には注釈本というものがあり、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」についても、パラッと見ただけでも図書館で数冊はすぐ見つかる。

 医学者にしてカトリック信者の著者の注釈も、別段に他の作家たちと大きく違った印象はない。一読者としての当ブログのこの大小説に対する当惑も、別段に、特別なものではなく、読む者の多くが感じるものなのだ、と確認した。

 「カラマーゾフの兄弟」にはいくつも邦訳本があり、この注釈本は2006年にでているので、同じ年に出た光文社刊の亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」についても触れているかなと思ったが、残念ながらこちらの注釈本の方が半年早い時期にでていたので、触れていなかった。

 他にもドストエフスキーの「死の家の記録」、「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」などにも触れているが、今回は「カラマゾーフ」だけにとどめ、他の作品は割愛した。

 これは私の感じなのですが、キリスト教の四つの福音書に書かれた言葉、「大審問官」で書かれたように「何一つ附けたす権利さえ持っていない」という聖書の言葉のなかで、イエスが間違ったことをひと言でも言っているか、発見できるかというと、私は何回読んでも見つけられません。イエスはひと言も間違ったことを言っていない。p207

 このような形で断定的に発言されれば、あとは、ご本人の問題だから、他者としてはつけいる筋合いのものではない。

 いずれの作品にも犯罪が、とくに殺人が主題になっています。罪の極点を描くことによって、逆に神の愛が描かれいます。罪も愛も、無限定で極端で途方もないエネルギーに満ちています。そしてこの作品群の究極の姿が、まあ総決算が、「カラマーゾフの兄弟」でした。p212

 キリスト者からこのようにキリスト教礼賛のドストエフスキー論をを聞かされると、ちょっと辟易としてしまうが、これもまた、一つの読み方である、ということだろう。つまり、小説だから、自分の側に引き寄せて、いろいろ読めるわけである。ましてやこのような重層的なテーマを持っている作品のこと、いずれが正しく、いずれが間違い、ということもなさそうだ。しかし、当ブログは、このように簡単に読んですましてしまうことはできない。

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2009/08/04

カラマーゾフの兄弟<3>

<2>よりつづく
カラマーゾフの兄弟(1)

「カラマーゾフの兄弟」(1) <3>
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー /亀山郁夫 2006/09 光文社 文庫 443p
Vol.2 No745★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 この小説に魅せられた哲学者のヴィトゲンシュタインは、何十回となくこの本を手にし、全文を諳(そら)んじるほど細部を読みこんだとされるが、初めて本書を手にとり、ようやくプールにたどりついた読者のみなさんも、おそらくここに、現代のわたしたちの「生」にかかわる根源的なテーマが、数知れず、惜しみなく示されているとお感じになられたのではないだろうか。第5巻p172

 なるほど、「物語層」、「自伝層」、「象徴層」、という三層構造を意識しながら読み進めてみれば、苦手な小説も読めないこともない。それにしても、あまりに入り組んだ「物語層」で、ここでまだイントロなのだから、そこまで仕掛けいっぱいにしなくてもいいのではないか、と思ってしまう。

 反面、「象徴層」も、やんわりと見えてくる。三人の兄弟に充てられた象徴性、父親、教会の長老、まつわる女性登場人物など、ひとつひとつがゆっくりとキャラクターづけられていく。だがそれもまたあまりにもズバリということではなく、「かも知れない」みたいな曖昧語を使いながら、意味合いを重層化していく。

 それら二つの層に対して、いわゆる作者自身の「自伝層」は、「ようやくプールにたどりついた」一読者として、まだよくわからない。思えば、「地下室の手記」も同じドストエフスキーの作品だが、Oshoは「私が愛した本」の中では、この多作な作家からは、これら二冊を紹介しているにとどまっている。しかも、いずれも多くを語っているわけではない。

 思えば、「物語層」、「自伝層」、「象徴性」、は、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネス、と対応させることも可能であろうし、構造性、機能性、目的性(いまいち適当な言葉がない)、と言いなおすことも可能だろう。あるいは、池田晶子的プロットにすり寄って考えてみるなら、「魂はどこにあるか」「私は誰か」「いかに死ぬか」に対応させることもできるだろう。

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 庭の駐車場に立て懸けた支柱を伝って、奥さんがプランターに植えた二株のゴーヤが、いまを盛りに成長しつづけている。毎日毎日成長している。ツルが伸びるといくつも蝕指を伸ばす。そこに支柱やヒモなどの「構造体」があると、自然とそこに絡みついていく。一段あがっては、さらに左右に長い蝕指を伸ばす。何もないのに、空間に探りをいれていく。

 この小説を読んでいると、このゴーヤの蝕指を連想する。なんとも曖昧な表現を使い、どうとでも取れる多義性の言葉を使いながら、そこの「構造体」があると、うまいことそこに絡みついていく。構造体がないと、空間に延びた小話は、絡みつくところがなく、自然と立ち消えになっていく。

 我が家の子供たちが育った核家族的空間に比べて、私自身が育った大家族は、さらに地域に密着していたので、さまざまな人間模様に事欠かなかった。たとえば、父親のヒョードルのようなキャラクターも、実在の人間としてイメージすることもそれほど難しくない。下男のグりゴーリーやスメルジャコフでさえ、実在した知人とダブらせてイメージすることも可能だ。妖艶な女性群については、やや持ち札が不足するが、分からないわけではない。

 アレクセイ、ドミートリー、イワン。この三兄弟については、やや誇張されているとは言え、わが友人たちのなかに、そのイメージを借りることは簡単なことだ。ゾシマ長老もわかる。ひとりひとりに感情移入していけば、ひとりひとりがまったく他人とは言い難い。作者は一番自分の「自伝層」に近いものとして次男イワンをおいたようだが、私自身は、今のところイワンはあまり好きになれない。アレクセイほど純情でもない。むしろ、ぶっちゃけたドミートリーにより親近感を感じている、というところか。

 美のなかじゃ、川の両岸がひとつにくっついちまって、ありとあらゆる矛盾が一緒にくたになっている。おれはな、アリョーシャ、まったく無教養な男だけど、美のことについてはいろいろ考えたぞ。恐ろしいくらいたくさんの秘密が隠されてるんだ! あまりに多すぎる謎が、地上の人間を抑えつけているんだ。だからその謎を解けというのは、濡れずに水から出ろというのと同じなんだ。第1巻p286

 ゴッホにせよ、ゴーギャンにせよ、ミケランジェロにせよ、美の探究者たちについては、当ブログ目下のテーマの一つである。

 小説としての三層構造の中で、殺人事件がおこり、犯人探しが始まるという構造体があるとするなら、それはそれで探偵小説のような面白さがある、ということになるのであろう。この小説ひとつだけでたくさんの展開が可能であり、深入りすれば、当ブログまるまるこの小説と取っ組み合いすることになるやもしれない。

 しかし、当ブログは、当面、168冊の本にまつわる構造体を追っかけている最中であり、一冊だけにとどまるわけにはいかない。そしてまた、当ブログの全体から見た場合、いつかは、構造体としてその講話者を超えなければならなくなるだろうし、さらには、ブログ自体が、単にひとつの構造でしかない、という、それこそロシア人形の入り子状態の逆プロセスが存在するのであった。

 ポイントはなにか。

 画家のクラムスコイに「瞑想する人」という題のすばらしい絵がある。冬の森が描かれ、その森の道で、このうえなく深い孤独にさまよいこんだ百姓が、ぼろぼろの外套にわらじというなりでひとり立ったままもの思いにふけっているのだが、彼はけっして考えているのではなく、何かを「瞑想している」のである。もしも彼の背中をとんと突きでもしたら、彼はぎくりと身をふるわせ、まれうで眠りから覚めたように相手の顔を見るだろうが、そのじつ何も理解していない。第1巻p339

 巻末には翻訳者による10数ページにわたる「読書ガイド」がついている。ロシアにおける名前の呼びかけ方、ロシア正教会の在り方、異端派と言われる諸派の存在、あるいは作者自身の傾向性などが紹介されている。新訳ならではの配慮がされており、これから小説を読むときには、このような親切な解説があれば、当ブログの小説苦手意識がいくらかでも減少するかもしれないと、ちょっとうれしくなった。

<4>につづく

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2009/08/03

カラマーゾフの兄弟<2>

<1>よりつづく

カラマーゾフの兄弟(5(エピローグ別巻))
「カラマーゾフの兄弟」5(エピローグ別巻)) 
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー /亀山郁夫 2007/07 光文社 文庫 365p
Vol.2 No745★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 以前より手元にある新潮社版を読もうと思っていたが、急きょ変更して、こちらの新しい光文社版を読む進めることにした。訳者は、東京外語大の学長とか。新潮社版は3冊組だが、こちらは5冊組み。5巻目はエピローグになっているが、そのほか「ドストエフスキーの生涯」、「年譜」、そして「解題『父』を『殺した』はだれか」という長文の解説がついている。

 カラマーゾフの兄弟は、しばしば真(イワン)、善(アレクセイ)、美(ドミートリー)の体現者であると言い方がなされるが、右の三層構造に照らした場合、象徴層(二元論)の主人公はアリョーシャであり、物語層(多声性)の主人公はドミートリー、中間部、すなわち自伝層(独白)の主人公はイワンということができる。5巻p224

 ロシアの文学はそもそも名前を覚えにくいのに、さらにまた、多くの登場人物がいる。さらには、同じ人物に対してニックネームまで使っている。ここではカラマーゾフ家の三男アレクセイは、アリョーシャとも呼ばれているので、ますますややこしい。

 それでも、これらの解説やら、「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」をガイド・ブックとしながら、1巻もだいぶ読み進んだ。集中して読めば、一時間に60ページほど読めるようだが、その集中も長くはつづかない。この小説を読了するのにどれだけ時間がかかるのか、計り知れないが、それでも、ここは、小説部門の代表格であるこの本をまずはめくりきるしかなかろう、と覚悟を決めた。

 なるほど、真、善、美、などのシンボリズムを使いながら、さらに三層構造や5巻183pの「物語のダイアグラム」などを参考にしてみると、すこしづつ全体像が見えてきた。図書館には、この他にも「解説本」があったので、別に数冊借りてきた。

<3>につづく

 

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2009/08/02

『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する<2>

<1>よりつづく
『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する
『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する <2>
亀山郁夫 2007/09 光文社 新書 277p

 ここで「物語層」と呼ぶ最下層が、小説全体を駆動させていく物語レベル(筋書き、心理的メロドラマ)の層であるなら、最上層の「象徴層」は、ある意味で、少しむずかしくなるが、形而上的な、「ドラマ化された世界観」とでも呼ぶべき世界である。そしていま、わたしが「自伝層」と呼ぶところの中間部とは、象徴層とも物語層とも異なる次元のドラマを形づくる部分、作者=ドストエフスキーが、みずからの個人的な体験をひそかに露出する部分と考えていただきたい。p102

 Osho「私が愛した本」の、しかも「小説(文学)」編を読み進めるにあたって、何冊かリストアップされている作品たちを、なんとかゲートインさせることはできるが、ひとつひとつを読み進めるには、それなりに工夫が必要だ。

 ここで訳者が言っている三層構造は、考えてみれば、小説が苦手な当ブログが小説読書を進めるうえで、なかなかいいアイディアをくれたと思う。物語層=コンテナ、自伝層=コンシャスネス、象徴層=コンシャスネス、という風に、当ブログなりの尺度に置き換えてみよう。そうすれば、ちょっと面倒そうな長編大作に取り組むに当たって、なにやらすこしはとっかりがでてきたように思う。

 すくなくとも、小説=物語層オンリー、という食わず嫌い的な偏見は、そろそろこの辺で捨ておかなければなるまい。

 思えば、この「続編」という考え方も、面白い。最近は村上春樹の「1Q84」も1、2、そしてさらにもっと続編がでてくるのではないか、と期待する向きもあるようであるが、実際は、当ブログも、あるなにかの「続編」であり、またその「続編を想像」していると言えなくもない。

 カトリックも、プロテスタントも、ロシア正教会も、基本的には「復活」の理想を礎としている。だからといって、一般に死者の物理的な「よみがえり」まで教えることはありえない。ここで言及されている<宗教>とは、むろんロシア正教会の教えでもない。コーリャは、「宗教」を主語にして語っているが、じつはこれもまた受け売りだった可能性がある。p118

 思えば、かの168冊のうちの6冊しか「キリスト教編」に振り分けていなかったのだが、「小説(文学)編」に振り分けた本のほとんどは、なんらかの形でキリスト教にかかわっている、と言えなくもない。168冊の中から6冊だけ切り離してキリスト教を考える、というのも偏狭であってみれば、小説というジャンルに押し込めることによって、キリスト教を扱った「本」たちのテーマ性をフィクション=うそつきの世界、と決めつけてしまう当ブログの姿勢は、すこし滑稽なことになる。

 少し空想になるが、後者の思想は、「第二の小説」でのイワンがおそらく体現していくはずである。言わんは従来からの主張どおりヨーロッパに向かい、みずからの合理主義哲学を究めようとするにちがいない。あるいは、ロンドンに赴きそのグノーシス主義的な世界観の探究に磨きをかけるのだろうか。ジュネーヴ潜伏する亡命革命家たちと交流を結ぶのだろうか。p128

 19世紀の歴史的背景を考えれば、当然ブラバッキーたちの神智学的な流れを意識した動きと見ることもできる。

 それとは反対に、アリョーシャは民衆のなかへ入っていくだろう。「人民主義」をとなえたアレクサンドル・ゲルツェンの「ヴ・ナロード」の掛け声にしたがった若い革命家たちと同様、彼もまた地方の村々へと出かけていく。といっても、信仰を捨てたわけではない。むしろ民衆の本質を見極めるための行動である。もしなんらかの「離反」が彼の身に起こるとすれば、それは宗教そのものからの離反というより、ロシア正教、ないし堕落した教会権力からの離反という形をとるのではないか。p128

 時代背景はまったく違うが、当ブログとしてはこれらのサヨク的流れをマルチチュードという概念として、現代的に捉えることはできないか、と試行しているところである。考えてみれば、この「カラマーゾフの兄弟」も、たんなる文学的名作として物語としてとらえてしまのではなく、もっとも今日的な押し迫った切実なテーマ、と捉えなおすことも、できないわけではない。いや、それこそが読者の側に渡されている権利でもあり、義務でもあろう。

 印象的なのは、その前方を見つめる目の厳しさである。そこには何か内にひめられている凶暴な意志が感じとれるのだが、一般にこの絵のタイトルである「瞑想者」とは、ロシア正教会から分離された異端派の一つである鞭身派(ないし去勢派)に属し、さまざまな幻視状態に陥った信徒たちを指すならわしだった。p159

 一読者として、親近感を持ってこのストーリーの中に入っていこうとするならば、いくらでもとっかかりはでてきそうだ。

 たとえば、イワン・カラマーゾフの世界観は、グノーシス主義でいわれる「反宇宙的二元論」と呼ばれる理解のうえに立っている。この「反宇宙的二元論」とは、悪や罪といった日敵的なプロセスが存在するかぎり、この世界は認め(られ)ないとする実存的な立場である。p204

 27才で皇帝暗殺疑惑で逮捕され死刑宣告を受けたドストエフスキーの「自伝層」から考えた場合、「物語層」で語られるストーリーを、単なるフィクション=嘘とばかりは決めつけることはできない。みずからの置かれている立場で作品を書いていくことによって、どのような「象徴層」へと到達しようとしていたのかを見落とさないようにしよう。

 ドストエフスキーの生前の知人にして哲学者ソロヴィヨフは、ドストエフスキーの死後、こう記している。

 しかしさしあたりただ一つのことだけを言いたい。つまり、あなたのプロジェクトは、キリスト教の出現以来、キリストの道に沿って人類の精神をはじめて前進させたものであるということ。わたしが、自分の立場からできることは、あなたを自分の師、精神の父と認めることだけです。p231

 「物語層」と「自伝層」と、そして「象徴層」の三つの次元がまぜこぜになった抜き書きになってしまったが、すくなくとも、この訳者の「空想」によって、かの小説を読む大きなきっかけができたことは間違いない。

<3>につづく

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Man and Superman

Man_superman

「Man and Superman」 a comedy and a philosophy
by George Bernard Shaw : with introduction and notes by Y. Okakura (Kenkyusha English classics =
研究社英文學叢書) 出版者 Tokyo : Kenkyusha 出版年 1922(大正11年) /02 大きさ xix, 294 p.
Vol.2 No744★☆☆☆☆ ★★★☆☆ ★★☆☆☆

 「革命家のための金言(Maxims for Revolutionaries)」 を探して、この本を手にとってみたが、目的のものはなかった。どうやらペンギン版の中に収録されているようなので、さっそく、そちらもリクエストした。

 それにしても、この本、大正11年発行である。しおりのようにに挟まれていたのが昭和27年の学生さんの図書館借覧票。なんともレトロである。

 Oshoに言わせれば、バーナード・ショーが恋した少女がアニー・ベサントだった、ということになり、こちらも、なんともレトロなセピア色のクラシック・ラブストーリーが立ちのぼってくる。

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私が愛した本<37> 革命家のための金言

<36>からつづく

Photo  
「私が愛した本」 <37>
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p

「革命家のための金言」

8番目はあまり知られていない本だ。これは知られてもいいはずだ。何しろジョージ・バーナード・ショーによって書かれたのだから。その本は「革命家のための金言」と呼ばれる。この「革命家のための金言」以外の彼のあらゆる本はよく知られている。私のような狂った人間しか、これを選ぶことはありえない。私は彼が書いた他のものはすべて忘れてしまった。すべてごみ、がらくたにすぎない。(略)

 私はジョージ・バーナード・ショーの小さな本「革命家のための金言」を愛している。この本は誰にも忘れられているが、私は忘れていない。私は変わったもの、変わった人々、変わった場所を選ぶ。「革命家のための金言」は、突然ジョージ・バーナード・ショーに降りてきたものらしい・・・・。それ以外では、彼は単なる懐疑家に過ぎなかったからだ。彼は聖者ですらなかった。光明を得てもいなければ、光明を得ることなど考えていない。そんな言葉を聞いたことすらないかも知れない。まったく別な世界に属していた人間だ。

 余談だが、彼はある女性を愛したと言うことはできる。彼はその女性に恋をして、結婚したいと思った。だがその少女は光明を得たかった。彼女は真理を求めたかった。そしてインドへやって来た。その女性こそ、ほかならぬアニー・ベサントだ。ありがたいことに、G・B・Sは彼女を自分の妻になるように説得することができなかった。さもなければ私たちは途方もなく強力な女性を失っているところだった。彼女の洞察、その愛、その知恵・・・・・そうだ、彼女は魔女だった。私は本気で、彼女は魔女(ウィッチ)だったと言っている。あばずれ(ヴィッチ)と言っているのではない。私は魔女(ウィッチ)と言っている・・・・・。「魔女(ウィッチ)」とはほんとうに美しい言葉だ。それは賢いという意味だ。

 この世は男の世界だ。男が賢くなれば、その人は覚者(ブッダ)、救世主(キリスト)、預言者と呼ばれ、女性が賢くなれば魔女と呼ばれる。この不公平を見るがいい。だがこの言葉の元の意味は美しい。

 「革命家のための金言」はこんなふうに始まっている・・・・・第一の金言はこれだ。「黄金律は存在しない。これが最初の規則だ」と。さて、これは小さな言明ではあるが、そこには途方もない美しさがある。「黄金律は存在しない・・・・」。その通り、黄金律というものはない。これが唯一の黄金律だ。残りはこの本で勉強しなければならない。いいかね、勉強しなさい、と私が言うときはいつでも、それについて瞑想しなさいという意味だ。私がそれを読みなさいというときはいつも、瞑想の必要はない、言葉で触れておくだけで足りるという意味だ。 Osho「私が愛した本」p116

<38>につづく

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2009/08/01

Theologia Mystica<2>

<1>よりつづく

Theologia_mystica
「Theologia Mystica」 Discourses on the Treatise of St. Dionysius<2>
Osho 1983/07 Rajneesh Foundation Internatinol 368p 言語 英語,

 "Dionysius is a Christian, and one of the real Christians. It seems Friedrich Nietzche was not aware of Dionysius and his Mystica, otherwise he would not have said that the first and the last Christian  died on the cross two thousand years ago. In fact, there have been a few more Christs in the tradition of Christ. Dionysius is one of the most beautiful of them all." Osho裏表紙

 なるほど、そういうことであったか。「中世思想原典集成3」「キリスト教神秘主義著作集1」、ふたつの「神秘神学」をめくりながら、納得した。

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中世思想原典集成3 ディオニュシオス・アレオパギテス<2>

<1>よりつづく

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「中世思想原典集成3 」後期ギリシア教父・ビザンティン思想<2>
上智大学中世思想研究所 1994/08 平凡社 単行本 975p

「ディオニュシオス・アレオパギテス」

存在を超え、
神を超え、
善を超えている、
三一なるものよ

神としての知恵によって
キリスト教徒を指揮する者よ
神秘なる言葉の、
不可知をも超え、
光も超えた、
このうえない最高の頂へ
われらを導き給え

そこでは
純一なる、
絶対的なる、
不変なる、
神学の神秘が
隠れた神秘なる沈黙の、
光を超えた
闇に隠れていて

このうえない暗闇で
このうえなく光を超えているものを
輝くことを超えて輝かせ
触れることも
見ることも
まったくできないところで
目の見えなくなった知性を
美しさをこえている美しさで
充たすことを超えて充たす
   p447「神秘神学」第1章「神の闇とはどのようなものか。」

 「ギリシア教父の神秘主義」で引用した部分と同じ内容の文章だが、こちらは、より詩文的で、より読みやすく、イメージしやすい。まるで、「般若心経」か「「マハムドラーの詩」を聞いているようだ。

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ギリシア教父の神秘主義

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「ギリシア教父の神秘主義」 キリスト教神秘主義著作集1
谷 隆一郎 (翻訳), 熊田 陽一郎 (翻訳) 1992/11 教文館 単行本 408p
Vol.2 No743★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 
「中世思想原典集成 3」とこの「キリスト教神秘主義著作集1」が ディオニュシオス・アレオパギテスの翻訳であるらしい。これで「天上位階論」、「神秘神学」、「書簡集」、そして、こちらで「神名論」と「「神秘神学」が揃い、あとは「天使の位階論」を残すのみだという。

 これで、Oshoが言うところのディオニシウスの概観は分かり、Theologia Mysticaと呼ばれる「神秘神学」は、二書によって、二通りの翻訳が読めるということになる。

 存在と神と善を超えた三位なるものよ。キリスト教徒の神の知恵において統べる者よ。不知を超えた神秘な言葉の絶頂にまで我々を導いて下さい。そこでは神の言葉の単純・絶対にして不動なる神秘が、秘儀として隠された沈黙の、光を超えた闇において秘め隠されている。この神秘は最も深い闇のなかに最も明るい光を輝かせ、全く触れることも見ることもできない所で、何ものにもまさる美しい光で、視力を失った知性を豊かに充たすのである。p265「神秘神学」第1章「神の闇とはいかなるものか」

 この部分は、かの「中世思想原典集成」のほうでは、もっと詩文のように表現されており、内容にそれほど違いはないが、読み手としてうける印象はかなり違う。

 これで、最初Osho「私が愛した本」168冊のうち、「キリスト教」編に振り分けた6冊を手にとって見たことになるが、さて、これでみてみると、Oshoは単純にキリスト教というジャンルで見ているのではなく、キリスト教神秘主義という傾向をより強く持っているようである。

 それらの影響を受けたというより、Oshoから見た場合、その悟境と共鳴する可能性があるのは、キリスト教「神秘主義」というジャンルということになるだろう。

 さて、そうだとすると、すでに別ジャンルとして作っておいた「神秘主義」編に振り分けておいた「エックハルト」と、「ヤコブ・ベーメ」は、むしろこちらの「キリスト教神秘主義」に移転して来なくてはならないということになろう。そして、林語堂の2冊は、カテゴリーエラーとなり、「その他」編にでも入れておくのが正しい、ということになるかもしれない。あえて、あらたなるジャンルをつくれば、次のようになるだろうか。

「キリスト教神秘主義」編(暫定版)
「山上の垂訓」イエス・キリスト
「ソロモンの歌」     
「トマスによる福音書」      
「ディオニシウス」    
「エックハルト」
「ヤコブ・ベーメ」

 そして、これらの流れは現代のどのようなところへと繋がっているのかを考えた時、いわゆるM・ブラバッキーなどの神智学的なものに流れていったのではなかろうか、と想像する。

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ザノーニ

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「ザノーニ」(1)
エドワード・ブルワ=リットン /富山太佳夫 1985/04 国書刊行会 全集・双書 239p
Vol.2 No742★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 図書館にD.H.ロレンス「不死鳥」を探しにいったら、ちょうどとなりにこの「ザノーニ」があった。ことさらこの本に関心があるわけではないのだが、著者エドワード・ブルワ=リットンには関心を持ってきた。小森健太郎「英文学の地下水脈」の中で、この本のタイトルを発見して、いつかは探してみようとは思ってはいたが、思いもかけずひょっこりと出会ってしまった。

 しかし本当は「来るべき民族」という奴を読んでみたいな、と思っている。いくつかの断片的で、恣意的な紹介は読んだが、それらのことはともかくとして、いつか作品として、ひとつ読んでやろうと思っているが、まだ出会ってはいない。

つづく

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