小説家が読むドストエフスキー
「小説家が読むドストエフスキー」
加賀乙彦 2006/01 集英社 新書 217p
Vol.2 No746★★☆☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆
きちんと探せばたくさんあるのだろうが、いわゆる有名小説には注釈本というものがあり、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」についても、パラッと見ただけでも図書館で数冊はすぐ見つかる。
医学者にしてカトリック信者の著者の注釈も、別段に他の作家たちと大きく違った印象はない。一読者としての当ブログのこの大小説に対する当惑も、別段に、特別なものではなく、読む者の多くが感じるものなのだ、と確認した。
「カラマーゾフの兄弟」にはいくつも邦訳本があり、この注釈本は2006年にでているので、同じ年に出た光文社刊の亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」についても触れているかなと思ったが、残念ながらこちらの注釈本の方が半年早い時期にでていたので、触れていなかった。
他にもドストエフスキーの「死の家の記録」、「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」などにも触れているが、今回は「カラマゾーフ」だけにとどめ、他の作品は割愛した。
これは私の感じなのですが、キリスト教の四つの福音書に書かれた言葉、「大審問官」で書かれたように「何一つ附けたす権利さえ持っていない」という聖書の言葉のなかで、イエスが間違ったことをひと言でも言っているか、発見できるかというと、私は何回読んでも見つけられません。イエスはひと言も間違ったことを言っていない。p207
このような形で断定的に発言されれば、あとは、ご本人の問題だから、他者としてはつけいる筋合いのものではない。
いずれの作品にも犯罪が、とくに殺人が主題になっています。罪の極点を描くことによって、逆に神の愛が描かれいます。罪も愛も、無限定で極端で途方もないエネルギーに満ちています。そしてこの作品群の究極の姿が、まあ総決算が、「カラマーゾフの兄弟」でした。p212
キリスト者からこのようにキリスト教礼賛のドストエフスキー論をを聞かされると、ちょっと辟易としてしまうが、これもまた、一つの読み方である、ということだろう。つまり、小説だから、自分の側に引き寄せて、いろいろ読めるわけである。ましてやこのような重層的なテーマを持っている作品のこと、いずれが正しく、いずれが間違い、ということもなさそうだ。しかし、当ブログは、このように簡単に読んですましてしまうことはできない。
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