論理哲学論考
「ウィトゲンシュタイン全集」(1) 論理哲学論考
ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン 初版1975/04 大修館書店 全集・双書 411p 1993年発行第9版を読んだ
Vol.2 No753★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆
巻頭の20頁ほどにあたる「序文」を1922年にバートランド・ラッセルが書いている。
論理学の難問と一見論駁不可能な理論の欺瞞性とについて豊富な経験を持つ者の一人として、私は、単に誤りの点が見出せないというだけの理由だけからでは、当の理論の正しさを確信できないことを知っています。しかしどの点においても明らかな誤りを含んでいない論理学の理論を構成したということは、非常に困難で重要な仕事を達成したということです。p22「序文」バートランド・ラッセル
「論理哲学論考」を1918年に書きあげていたウィトゲンシュタインは、このラッセルの序文が気に食わないために、序文なしで発行しようと自ら動いたが、成功しなかった。たしかに、このプログラムはバグがないから素晴らしい、と絶賛されているようで、そのプログラムがなんのために働くのかが、いまいち理解されていないようにも思う。
まるでスピノザの「エチカ」を連想するような文頭に数字を配した「論理哲学論考」は、最初から、スピノザのスタイルを模したとさえ言われているのだから、当然の連想であろうか。一行一行、アルゴリズムを駆使して膨大なコンピュータ・プログラムを書きあげる現代の論理学的マイスター達の仕事ぶりを連想する。ウィトゲンシュタインが現代に生きていたら、絶対にコンピュータ・プログラミングに関心を持ったはずだと思う。
私の努力が他の哲学者のそれとどの程度一致しているかを、私は判断するつもりはない。勿論、この書物に私が記したことは個々の点では新しさを主張しうるものではない。それに、私が考えたことを以前考えた人がいるか否かは、私にはどちらでもよいことなので、私は拠り所を陳述しないのである。p26 「序文」ウィトゲンシュタイン
1889年生まれのウィトゲンシュタイン、29歳の1918年のことであった。
この書は当ブログにおいては、Osho「私が愛した本・西洋哲学編」の中に位置し、あるいは、茂木健一郎の「意識とはなにか」ブックガイドの一冊でもあり、単体としても「ウィットゲンシュタイン入門」の文献案内の一冊としてもおっかけの対象となっている。まさに、ウィットゲンシュタインがウィットゲンシュタインであるための最大重要な一冊のひとつとなっている。
この論文は、たぶん種々のヴァージョンがあるだろうし、全集に納められているこの稿がどの程度に定番として定着しているのかはわからない。しかし、全集としても版を重ねていることや、93年版には「別冊付録」として32頁ほどの小冊子がついており、黒崎宏が「ウィットゲンシュタインの生涯」という20頁ほどの原稿を寄せているところから、かなり興味深い版であることは間違いない。黒崎宏には「ウィトゲンシュタインから道元へ」など何冊かの関連本があり、いずれも興味深い。
Oshoも「ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタインは本当に愛すべき男だった。」と語っている。
それにしても「私が考えたことを以前考えた人がいるか否かは、私にはどちらでもよいことなので、私は拠り所を陳述しないのである。」というウィトゲンシュタインの言説には、ちょっと耳が痛い。当ブログは、延々と多くの書を読み、その拠り所を明確にしておくべく、ハイパーリンクを張り続けているからである。当ブログは、まるで、私が考えることなど、すでに誰かが考えてしまったことである、ということを証明するために書き続けている、とさえ思える。
もし、ウィットゲンシュタインが、人生後半において二つ目の大きなピークである「哲学探究」を出すことになったとすれば、彼の天才が、人生前半における、バグのないプログラムを書く能力を冴え渡らせすぎたから、ということができる。
4・115 哲学は語りうることを明晰に描出することによって、語りえぬことを意味するであろう。 p54
一旦は小学校の教師を6年も勤めながら、その職を辞し、ウィーンに戻ってきた。その頃、彼は修道院に庭師をしながら、真剣に修道院に入ろうと考えた(別冊付録p10)ということである。
この様な側面があるところに、彼の人間的魅力があるのであり、また彼の弱さがある。しかし、この弱さこそ、無機質な論理の世界が満たしてくれない、人生の魅力でもある。バグなきプログラムは最高形態ではなく、あらゆるアルゴリズムは常に破綻を含んでいなくてはならない。
5・631 思考し表象する主体は存在しない。
もし私が「見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体についても報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないであろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろ重要な意味では存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるだろうからである。 p96
池田晶子は「私とは何か」と問うた。しかし、私はこの問い自体が間違っていると思う。問いが正しくなければ、正しい答えは得られない。正しい問いは「私は誰か」でなくてはならない。ウィトゲンシュタインが、ここで発している、主体や、私の身体、という言葉は、「私」という意識、というものに置き換えて行かれなければ、正しい解はでてこない。
6・4312 人間の魂が時間的に不死であること、従って死後も魂が永遠に生き続けること、はいかなる仕方でも保証されていないだけではない。なかんづくこの仮定が、人がいつもこれによって解決したいとすることを、全然果たさないのである。私が永遠に生き続けることによって謎が一体解決するとでもいうのか。今度こそはそもそもこの永遠の生が、現在の正と全く同様に謎めいていないのか。時間空間の中での生の謎の解決は時間空間の外にあるのである。
(解決されるべきものは決して自然科学の問題ではない。) p118
池田晶子はふたたび「死とは何か」と問う。当ブログは、ふたたび、この問い方を訂正する。「死とは何か」が問われるべきではなく、「いかに死ぬか」だけが正しい問いだ。いかに死ぬかが問われれば、解として、いかに生きるかが提出されてくる。
6.53 本来哲学の正しい方法は、語られうることと、従って自然科学の命題、従って哲学とは何の関係もないこと、これ以外の何も語らない、というものである。そして他の人が形而上学的なことを語ろうとする時はいつも、彼が自分の命題の或る記号に何も意味を与えていないのを、彼に指摘してやる、というものである。この方法は彼には不満足であろう。彼は我々が哲学を教えているという感情を抱かないであろう。この方法が唯一厳密に正しい方法なのである。p119
アルゴリズムが破綻しているからと言って、その向こうには何もない、と考えてはならない。その向こうにもごく当たり前の世界があるのである。地平線の向こうには何もないとか、水平線のかなたにはなにもない、と思ってはならない。それは、見ている視点があることを忘れている。地平線まで行けば、さらに向こうに地平線が見えるのであり、水平線のかなたには、さらに大きな大海原がある。
7 話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない。p120
不可能な事を語る必要はない。しかし、そもそも不可能なことを問うこと自体、不要なのだ。不要な解のために不要な問いを発する、という無駄を省けば、語られないことはない。
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コメント
ENIさん
貴重なページご紹介ありがとうございました。この頁は私は初めて訪問しましたが、たしかにこの小森さんだと思って私のほうは対応しております。
ただご本人にはリアルではお会いしたことはございませんので、確認はできません。
(◎´∀`)ノ
いつも貴重な意見なり紹介をもらっています。
当ブログへのメールは<1.0>からは可能なようです。
http://plaza.rakuten.co.jp/bhavesh/
こちら<2.0>のほうのメールは、まだ設定していませんでした。そのうち考えます。
投稿: Bhavesh | 2009/08/14 13:35
おはようございます、Bhaveshさん。
時折り訪れては、興味のある記事を読んでいます。
それとコメント欄での貴重なやり取りも!
それで貴重な情報を下さっている小森さんという方。
この方なのでしょうか。
http://homepage2.nifty.com/kkomori/
グルジェフ関係の本を専門にされているようですが。
もしまずかったらコメント削除してください。
メールアドレスを調べてたのですが分からなかったので
コメント欄で失礼しました。
投稿: ENI | 2009/08/14 11:49