ギリシア教父の神秘主義
「ギリシア教父の神秘主義」 キリスト教神秘主義著作集1
谷 隆一郎 (翻訳), 熊田 陽一郎 (翻訳) 1992/11 教文館 単行本 408p
Vol.2 No743★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆
「中世思想原典集成 3」とこの「キリスト教神秘主義著作集1」が ディオニュシオス・アレオパギテスの翻訳であるらしい。これで「天上位階論」、「神秘神学」、「書簡集」、そして、こちらで「神名論」と「「神秘神学」が揃い、あとは「天使の位階論」を残すのみだという。
これで、Oshoが言うところのディオニシウスの概観は分かり、「Theologia Mystica」と呼ばれる「神秘神学」は、二書によって、二通りの翻訳が読めるということになる。
存在と神と善を超えた三位なるものよ。キリスト教徒の神の知恵において統べる者よ。不知を超えた神秘な言葉の絶頂にまで我々を導いて下さい。そこでは神の言葉の単純・絶対にして不動なる神秘が、秘儀として隠された沈黙の、光を超えた闇において秘め隠されている。この神秘は最も深い闇のなかに最も明るい光を輝かせ、全く触れることも見ることもできない所で、何ものにもまさる美しい光で、視力を失った知性を豊かに充たすのである。p265「神秘神学」第1章「神の闇とはいかなるものか」
この部分は、かの「中世思想原典集成」のほうでは、もっと詩文のように表現されており、内容にそれほど違いはないが、読み手としてうける印象はかなり違う。
これで、最初Osho「私が愛した本」168冊のうち、「キリスト教」編に振り分けた6冊を手にとって見たことになるが、さて、これでみてみると、Oshoは単純にキリスト教というジャンルで見ているのではなく、キリスト教神秘主義という傾向をより強く持っているようである。
それらの影響を受けたというより、Oshoから見た場合、その悟境と共鳴する可能性があるのは、キリスト教「神秘主義」というジャンルということになるだろう。
さて、そうだとすると、すでに別ジャンルとして作っておいた「神秘主義」編に振り分けておいた「エックハルト」と、「ヤコブ・ベーメ」は、むしろこちらの「キリスト教神秘主義」に移転して来なくてはならないということになろう。そして、林語堂の2冊は、カテゴリーエラーとなり、「その他」編にでも入れておくのが正しい、ということになるかもしれない。あえて、あらたなるジャンルをつくれば、次のようになるだろうか。
「キリスト教神秘主義」編(暫定版)
「山上の垂訓」イエス・キリスト
「ソロモンの歌」
「トマスによる福音書」
「ディオニシウス」
「エックハルト」
「ヤコブ・ベーメ」
そして、これらの流れは現代のどのようなところへと繋がっているのかを考えた時、いわゆるM・ブラバッキーなどの神智学的なものに流れていったのではなかろうか、と想像する。
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