謎とき『カラマーゾフの兄弟』
「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」
江川卓 1991/06 新潮社 全集・双書 302p
Vol.2 No748★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★☆☆
もともと殺人事件を解決する探偵推理小説のスタイルを採用している限り、この小説は最初から謎かけからはじまり、謎解きに終わるのだが、登場人物が一通り説明されてしまえば、あとは、事件がおき、そして犯人探しが始まる。
しかし、もともと超有名な小説であるだけに、もう犯人は誰か、ということはすでにわかっているわけだから、あえてさらに解かれるべき「謎」などなさそうなのだが、これだけ輻輳している小説であるだけに、深読みしようとすれば、あれこれ想像力が刺激されてくることはまちがいない。
こちらの解説本の作者の名前はどこかの球団で野球ボールを投げていた御仁と同じようだが、もちろん別人だ。ロシア文学研究家だ。裏表紙では、「あの」埴谷雄高が「世界はじめての試み」と、こちらもちょっと大げさな感じの推薦文を書いている。
「磯野家の謎」でもあるまいが、「へ理屈と軟膏はどこにでもつく」とはいうものの、あんまりあれこりいじるのもどうかなぁ、と思う。光文社刊「カラマーゾフの兄弟」の各巻末についている「読書ガイド」のような、読書を推進するための副読本のようなものならともかく、こちらは、全部を読みきったあとに、しかも自分なりに全体を玩味し得たあとに、きりっとまなじりを決して、読むべきような本であるようだ。
「3と13の間」p111などという一節も、ともすれば、駄弁に過ぎないような部分でもあるし、そういえば言えなくもない、という程度のことで、読み方、楽しみ方としては、通常の小説の読み方をちょっと逸脱しているようにさえ思う。それにそんなことにいちいち引っかかって小説を読むべきなのだろうか、とも思う。
これを自然界や、偶然に身の回りに起きた出来事をまとめたり、感じたりするときに、そう感じるのは構わないが、小説を書く側と、読む側が、乳繰り合っている図は、私はあまり好ましいものとは思わない。ただ、すでにこの小説が生まれて130年も経過しているわけだが、たったひとつの文章を、130年の年代を超えて、多くのいっぱしの大人たちが、ああでもない、こうでもないと、蘊蓄を傾けてきたとするなら、それはそれで、小説というもののひとつの重要な価値にもなるのかな、と、思う。
もともとテキストに則して言えば、この「カラマーゾフ万歳!」は、「アレクセイ・カラマーゾフ万歳!」ということである。彼を慕う「12人ほど」の少年たちが、彼とともに「イリューシャ」をという不幸な少年を愛し、ともに彼を葬った。この記憶をいつまでも持ち続けようという少年たちの意思がこの言葉を叫ばせるのである。p278
おっと、まだ最後まで読んでいない状態で、あまりこちらの解説本ばかり読んでしまうことはよくない。ちいさな刷り込み状態がおこる。この本は、ほどほどにしておいて、あとでまたじっくり読もう。
それにしても、カトリック嫌いだったというドストエフスキーが、その多くのシンボリズムをキリストやキリスト教に求めざるを得なかった、というところに、この小説の人気もあるのだろうし、限界もあるのだろうと思う。
13年後に、12人「ほど」の少年たちと立ちあがってくるアレクセイ。なるほど「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」誘惑にかられるのもわかる気がする。
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