聖アウグスティヌス 告白<1>
「聖アウグスティヌス 告白〈上〉」
服部 英次郎 (翻訳) 2006/07 岩波書店 文庫 329p 初版1976/06 第25刷1999/05を読んだ
Vol.2 No754★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆
謙遜もいいし、謙譲の美徳もいいだろう。だが、慇懃無礼という言葉もある。いくら<神>に対してとは言え、どうしてここまで、へり下らなくてはいけないのだろう。アウグスチヌスの生きた4世紀のローマ時代のことだから、ストレートには理解できないし、時代変遷とともに編集された部分もあるのだろうが、かと言って、疑問は疑問として残る。
若くしてカルタゴやローマに学び、一時はマニ教に心酔した。しかし29歳のときに回心する。編集の妙味もあるのだろうが、青年アウグスティヌスは、なかなかの好青年である。純粋に物事を考え、純粋に行動する。時には青年らしい放埓さもないではない。しかし、それは後年において語ったがゆえに、放埓サイドにあるように見えるだけで、決して人の道から外れたようなものではない。
ここまで謙遜されるところの<神>=主は、どれほど偉いのだろう。神が完全無欠な絶対である、という仮定は仮定としてそれでいいだろう。しかし、そこを強調して、自らを謙遜しまくるところに、すこし嘘が、強欲さが、表れてしまっているようにも見えなくもない。
「主よ、あなたは偉大であって卑しいものをかえりみ、高ぶるものを遠くから見分けられる」が、あなたは「悔い改めた心」でなければ近づくことができず、あなたは高ぶるものによっては見出されないからである。<上>p132
キリスト教の名において、たくさんのことが行われている。地球上の半分はキリスト教によって染め上げられている、と言っても過言ではない。だが、将来に渡って、地球全域がキリスト教に心酔するということはあり得ないだろう。何処かに致命的な欠陥がある。その道において<救われた>人々は、それはそれでいいだろう。しかし、どこかに過剰な排他的な狂信がある。
当ブログのOsho「私が愛した本」のジャンル分けにおいて、キリスト教編はあまり多くはなかったが、よくよく見てみると、小説(文学)編などに暫定的に振り分けたものの中には、もろにキリスト教関係の本が多い。ドストエフスキーなどもそうだろうし、このアウグスティヌスも、もとともが小説(文学)として振り分けておいたこと自体が間違いであろう。「キリスト教神秘主義」編(暫定版) などというものも作ってはみたが、いまいちしっくりこない。いずれはあの168冊を、キリスト教側から眺め直してみることが必要になるのではないだろうか。
「キリスト教」とは何か。いや、この問い自体は、哲学的に捉え始めたら答えに行きつくことはないだろう。当ブログとしては、自分にとってキリスト教はどのような関わりがあるか、自分の人生においてそれは避けて通れない問題なのかどうか、あたりに想いを巡らしておくことにとどめておく方がいいのではないだろうか。
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