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2009年9月の16件の記事

2009/09/30

地球最後の世代

地球最後の世代
「地球最後の世代」 自然が人類に報復しはじめた
フレッド・ピアース /小林由香利 2009/06 日本放送出版協会 単行本 363p
Vol.2 No768★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 私自身が地球上の最後の人間になることはないであろうし、私たちが地球最後の世代になることはないだろう。確実にそうだ、と言うことはできないが、ほぼ間違いなく確実に限りなくそう言える。だが、その危険性は限りなく迫っている。あるいは、その危険性が限りなく迫っている、と考えてみることは、通常、怠惰に流れてしまう日々を送っている私のような人間にとっては、物事の本質を見極めるには、とても有効であろう。

 温暖化に懐疑的だった著者が、世界じゅうの科学者を訪ね歩き、眼の当たりにした地球---それは、一刻の猶予もならぬ危機的状態だった。いますぐ食い止めないと、地球は転換点(ティッピング・ポイント)を超えてしまうだろう。
・・・・私たちは、穏やかな気候の地球に生きる最後の世代になるかもしれない。
表紙見返し

 1951年生まれ。ロンドン在住のジャーナリストで、2001年イギリスの年間最優秀環境ジャーナリスト賞を受賞したという。「ニューサイエンティスト」誌の編集長でもあったという著者のレポートは、ひとつひとつが実際の現象を取材しており、科学的(なんだと思う)な考察が加えられている。

 本書のタイトルを「地球最後の世代(The Last Generation)」としたのは、人類が絶滅寸前だと考えているからではなく、安定した気候に近い状態のなかで生きていける最後の世代であることはほぼまちがいないからだ。p340「結論 もうひとつの地球」

 ひとつひとつの事象にはコメントし続けることはできないが、地球環境の変化、というなら、いたるところに見つけることができる。そして危機感を叫ぶ声はあらゆるところから聞こえてくる。だが、解決策となると、なかなか具体的な良案は少ない。

 みんながやるなら私もやります、というだけでは、本当の解決さくにはならないだろう。G20の中で、20分の1の責任だけを負う、ということではなく、誰もが、1分の1、として、自分の生き方のなかで、アースコンシャスな生き方を選びつづけていくことが大切なはずだ。

 過去には、私たちは何かまちがったことをして環境を破壊しても、杖を手にしてどこかよそへ行くことができた。移住はつねに人類最大の生き残り戦略だった。今ではもうほかに行くところがない。新たなフロンティアは存在しない。大気はひとつだけ、地球はひとつだけだ。p344

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2009/09/29

モッタイナイで地球は緑になる

モッタイナイで地球は緑になる
「モッタイナイで地球は緑になる」
ワンガリ・マータイ /福岡伸一 2005/06 木楽舎 単行本 279p
Vol.2 No767 ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

 CO2を減らすには、単に排出を制限するだけではなく、緑を増やせば、CO2が減るのだ。ワンガリ・マータイさん、ケニアのグリーンベルト運動で2004年度のノーベル平和賞を贈られた。このような実践の人には、どんなことを言っても歯が立たない。絶対の説得力の前にひれ伏すしかない。

 しかし、それにしても、先進地域でたくさんのCO2が排出され、発展途上地域でこのような活動が行われている、ということに、いささかならず後ろめたい気分になる。1990年比で25%のCO2削減、などという目標は、どこか机上の御託にすぎないのではないか、と気色ばんでしまう。 

 世界に平和をもたらすただ一つの方法は環境を守っていくことです。見の回りの環境を育み、資源を責任ある方法で、持続可能に、平等に管理していくことが求められているのではないかと思います。ワンガリ・マータイ p266

 政治家たちが語る環境問題は、どこか国際的なゲームに陥ってしまっており、お互いの駆け引きで、地球の存続をもてあそんでいるかのようだ。本当の心から地球環境に危機感を持って、それに対する的確な施策が必要になっているはずなのだが。

 今回は「もったいない」という言葉にも出会いました。ごみを減らす、限られた資源を繰り返し使う、リサイクルするということが、まさに「もったいない」の真髄だと思うんですが、これを日本発の国際的なキャンペーンにしていくことができるんじゃないかと思います。資源を効率的に、責任ある方法で管理し、将来の世代に受け継いでいく。「もったいない」を、一人ひとりが実践すれば大きな力になるはずです。私はこれから世界へ向け、この言葉を発信していくつもりです。ワンガリ・マータイp268

 もったいない、という言葉を心から言える日本人はどれほど残っているだろうか。このような言葉があったことすら知らないで育ってしまった世代もあるに違いない。なにはともあれ、1/1の一人の人間として、いのちあるものを十分生かし、自らのいのちも十分生かされていく生き方が求められている。

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2009/09/28

女たちよ、勝間和代を目指すのはやめなさい

しがみつかない生き方
「しがみつかない生き方」 「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール
幻冬舎新書

香山リカ 2009/07 幻冬舎 新書 204p 
Vol.2 No766★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★☆☆☆

 書店をのぞいてみると、茂木健一郎と勝間和代の最新刊がやたらと目につく。この人たちが今、世間で大活躍中なのか、私が勝手に気にしているのか。どちらも当たっているだろう。しかし、この2人に共通することは、気になるのに、なかなか読めない、というところだ。茂木は「意識」というテーマに絞って、なんとか読み進めてみようとは思うのだが、以前としてはかばかしい成果はない。

 茂木はともかくして、勝間にいたってはどうにもならない。毎回、手には取って読んではみるのだが、まったくお手上げだ。接点がない。最初に勝間を知ったのは、娘夫婦たちの会話の中からだった。彼らがどう思っているかはともかくとして、なんであれ、私の子供たち世代には大人気の存在らしい。

 ということは、勝間読書層として、世代としての私は、そのマーケティングの対象になっていないことが容易に予想される。そう決めつけられると、むしろ、逆に読んでやろうと思いだしたりするのが、私の悪い癖である。しかしながら、彼女の本にはお手上げであることには変わりない。

 さて、先日、週刊誌(週刊朝日9/25 p122を読んでいて、香山リカの本のキャッチコピー「女たちよ、勝間和代を目指すのはやめなさい」についての、コラムを見つけた。記事は幻冬舎新書の「しがみつかない生き方」を紹介していたのだが、その腰巻にこのコピーがついていることを、すこし揶揄ぎみに評論しているのだった。

 香山リカについては、当ブログでも何冊か読んでみたのだが、実はこちらもなんだかよくわからない。共感すべきポイントがよくわからないまま、いつかは彼女の本を読破してやろうと思っているのだが、いまだにどうにもならない。

 せっかくのチャンスだから、この「しがみつかない生き方」を読んでやろうと図書館を検索したら、なんと100人に及ぶ先約が入っている。こんな新書、それほど待って読むほどでもないと、書店に行って立ち読みしようと思ったが、これもまたなかなかモチベーションがあがらない。まぁ、なにはともあれ、立ち読みで目を通しておいた。

 そんなことを考えていたら、今夜からNHKで「知る楽選 仕事学のすすめ 勝間和代 働く女性 課題克服仕事論<全4回>」というものが始まった。今夜は第1回。本を読むよりテレビ番組をみるほうが楽だなぁ、と思いつつ、見た。4回見たら、彼女の全体像がすこしわかるかもしれない。

 しかし、どうも野次馬根性は刺激されるけど、私が世代を超えて(笑)、彼女のファン(カツマー、とかいうらしい)になることはなさそうだ。これは私の次の世代の話題なのだ。次の世代がこのような社会的関心を持っている、ということを理解することは無駄ではないが、自分のテーマを深めずに、あちこちにふらふら視線を振っているのは、ナントカの冷や水で、まぁ、無理してフォーカスしていく必要もなさそうだなぁ、というのが結論だった。

 最近は、新聞を読んだり、雑誌に目を通したりするが、結局、自分の意見にかなり近いオピニオンを展開しているメディアはかなり限られていた。でも、まったく存在しない、というわけではないので、自分と意見が合いそうなメディアを愛していけばいいのだろう。

 幅も必要だが、深さも必要だ。いや、今は、深さこそが必要だ。もっと深いところへ、と感じることが多いこのごろだ。

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2009/09/27

ルポ米国発ブログ革命

ルポ米国発ブログ革命
「ルポ米国発ブログ革命」
池尾伸一 2009/06  集英社 新書 236p
Vol.2 No765★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

<1>から<2>へと移行してきた当ブログではあるが、このところ一か月ほど休筆することになった。そのままフェードアウトしていく道もあったのだが、やっぱりそれも寂しい。達成すべき地点を明確に確認し得たわけでもなく、ブログとしての機能にけじめをつけれたわけではない。

 そう言った意味では、メーリングリストとか、巨大掲示板とか、一連のSNSに対する姿勢とはかなり違う。これらに対しては、個人的にはかなり見切りをつけてしまっている。ところが、ブログという機能は、個人的にもかなりのめりこめる可能性が今でも大きく残っている。

 自分自身の中を整理できる、曲がりなりに個人的意見を発信できる、結果としてマス・コラボレーションに参加することができる。その他、いろいろある。そのブログを続けていくに当たって、大事なことは、その表現形態とテーマの選定であろう。IT技術や結果としてのアクセス数の進捗などは、あえて言えば二次的、副次的なことではある。

 さて、この「ルポ米国発ブログ革命」であるが、2009年6月発行とはいうものの、ごくごく最新のアップデイトな今日的な話題がルポされているわけではない。

 「革命」という言葉にいつもうさんくささがつきまとう。「××革命」「○○革命」。広告のコピーや署名にあふれる「革命」の中身を見ると、「改善」にすぎないか、実際には「○○自体が変わる」ことを指しているにすぎないことが多い。その点でタイトルに革命を付けることには少し迷った。だが、取材を終えた段階では、この表現以外には思い付かなかった。「誰でも世界中の人々に発信できる」ことは政治や行政、そして「第4の権力」といわれるメディアを変貌させ、米国という国の形を大きく変えているのだ。p234

 革命、というもともの意味は、新しい革袋に酒をいれることを意味するのだろうし、レボルーションも、re-voltで、つまり天動説から地動説に変換するように、回転軸の大きな変化を意味するのだと思う。そういった意味では、革命という単語はきわめて魅力的ではあるが、そもそもそれだけのチャンスというものは、そうそうあるものではない。

ブログ機能との出会いは、個人的にいえば、小学5年生の時にガリ版印刷に出会い、学級新聞を作って以来の、大きな体験であり、まさにブログ革命と呼ぶことには違和感はない。自由性、可能性、納得感、という意味では、まだまだブログ機能の魅力は色褪せることはない。

 シカゴ大学で憲法学を教えるキャス・サステイン教授は、ブログ空間は気を付けないといけないと民主主義の危機に陥れかねない危険もあると警告する。
 「人々は、自分の声のこだまを聞くように、ブログでは自分の望む意見しか聞かない傾向が強い。民主主義が危うくなる心配もあるのではないか」、と。
 ブログを使った個人による情報発信は、民主主義をどう変えていくのか。議論は分かれ、将来像はまだ見えてこない。
 確実なのは、ブログなどの個人発のメディアが既存の政治体制やメディアの体制を揺るがし、新たな政治のうねりを作り始めている、ということだけだ。
p32

 オバマ--鳩山ラインも、日米民主党をつなぐものであるし、対立すべき自民党も、その名称のなかに大きく民主主義を入れている。しかし、だいぶ前から私自身は、民主主義というものの本来の意味、そしてその可能性と限界性について考えることがあり、いずれは、別な新たなる政治形態が必要になってくるのではないか、と感じている。

 もし私の学級新聞における発言が、仮に40名のクラスのうちに一人だとするなら、40分の1の重さを持っていることになるが、地球全体に向けて発信する当ブログの発言力が、仮に70億分の1しかないとすると、それでは、革命どころか、小学生時代よりむしろ後退していることになる可能性さえある。

 ブログのよさは、個人的な意見を言えることだ。それは40分の1でもなければ、70億分の1でもなく、1分の1のウェイトさえ持っていればいいのではないか。70億人に届く必要はない。もっとも、4~50人のリピーターさえあれば、6次の隔たりで、理論的には地球上のすべての人々に情報として伝わっていく可能性はあるが、なにもそこまで期待しているわけではない。

 「仮に主張が対立している二つのグループがあり、一つの方は正しい事実を主張しており、もう一つはただ人々を混乱させるために間違った主張をしているとしよう。いまのマスコミの報道は「客観報道」「中立性」を言いわけにして、対立する両方の言い分を紹介することで終わっている。しかし、本当にその問題にい関心があるプロのジャーナリストなら、対立する二陣営の主張を踏まえた上で、では真実はどこにあるのか、とさらに材料を集めて記事を書くだろう。いまのマスコミはその努力を怠っていることが多いのではないか。」(ジョシュア・マーシャル) p52

 この日本政界の政権交代劇で、久しぶりに新聞を読むようになった。でもまだ宅配の定期購読するわけではなく、コンビニや駅のキヨスクで購入し、あるいは図書館で各紙まとめ読み、という段階だ。週刊誌にも目を通す。あるいはテレビ番組も、裏表、DVDやネット上の動画を通して大体のニュース番組も見てみた。

 そしてわかったことは、芸能番組などでは明確にならないことだが、こと政治的なテーマになると、新聞や週刊誌は当然としても、テレビ会社も、かなり意見の違いがあるということである。そして、今回大きな成果は、私の意見とかなり違っているメディアと、このくらいなら私は許容できるというメディアが歴然と存在する、ということだった。

 虚偽報道ではないが、ひとつのテーマに対する報道の熱意にかなりの大きな温度差があるし、迫る角度が大きく違う。違って当たり前だと思うが、自分と相入れないメディアの意見を一応聞いては見るが、いつまでもマゾヒステッィックに聴き続けなければならない、ということではないだろう。

 「市民は、ブログなどで意見の発表や身の回りの異変を書くなど、最初の警告を発することはできる。だが、税金の無駄遣いの実態や汚職など隠れた事実をじっくり調べ上げるのは、プロの記者でなければなかなかできない。このままの状態が続くならば、権力を監視できるジャーナリストの数は少なくなり、民主主義の基盤も揺らぐ結果になるのではないか」(トム・ローゼンスティール) p180

 本書は、かならずしも最新のニュースがまとめられているわけでもなく、アメリカ的特殊性にのっとった形でルポされているので、必ずしも当ブログの参考になるわけではないが、しっかりと地に足をつけた成長を続けている、メディアとしてのブログの存在を確認できた、という意味では、最近にない力強さを感じた。

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オバマのグリーン・ニューディール<2>

<1>よりつづく 
オバマのグリーン・ニューディール
「オバマのグリーン・ニューディール」  <2>
山家公雄 2009/04 日本経済新聞出版社 単行本 237p
Vol.2 No765★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 著者の知人のITの専門家は、米国におけるバッテリー、電気自動車の盛り上がりについて、次のような乾燥を口にした。「この動きは、かつてエレクトロニクス業界、IT業界で、大型コンピュータからパソコンへ、アナログからデジタルへ移行した際に生じた動きと似ている。モジュール化、標準化の動きを思い出させる。部品化が標準化して、そこで競い合い、組み立ては誰にでもできるようになるのではないか。そうすると、劇的にコストが下がる可能性がある」  p005

 単に政治問題とか、高い倫理観の目標ばかりが取り上げられると辟易してくるが、インターネットやパソコンなどの話題とリンクさせた形で環境問題を考えることは、わかりやすく、ワクワクしてくるものがある。

 オバマ大統領は、「2020年までにCO2の増加率を1990年比でゼロに抑える」としている。温暖化問題に真剣に向かい合うものと評価される一方で、欧州からは甘い目標との批判も出ている。この一見緩く見える目標には、石炭を活用しつつエネルギーシステムを変えることで排出を削減していくという狙いも透けて見える。p087

 国連において鳩山新首相はこのレベルでいえば、マイナス25%を宣言したわけだが、そのくらいのインパクトは必要だろう。2007年にノーベル平和賞を受賞したアル・ゴアだったが、その著書「不都合な真実」が大きな話題になったが、その温暖化問題の解決策として、原子力発電所の建設推進を大きく主張したところに、かなりの矛盾が存在していた。本当のグリーン・ニューディールとはどこにあるのだろう。

 コンピュータ時代、IT化の進展は、この傾向に拍車をかける。パソコンやコンピュータ制御(IT化)された情報家電は、直流を使用する。IT化におり、デジタル化された膨大な情報をストックする「バックアップセンター」が続々と整備されているが、これが大量の電気を消費する。p104

 グーグルのデータセンターが多く建設されていることが知られている。実際には分散化されて、米国のどこに建築されているかは秘密にされているようだが、これらの膨大なデータをストックしておくために、発熱設備が次々と建築されているのだ、これは大きな問題だ。

 当ブログもロクでもない記録を残すだけならわずかに数冊の帳面で済むだろうに、ブログという形態を取っているために、この発熱に加速をかけているのである。もちろん、用意で無駄な検索も発熱現象に加担していることになる。これからは、利用者も十分その編も考えていかなくてはならなくなるだろう。

 我々米国人は、節約とか省エネとかを、自らの意思で実行することは苦手だ。日本人みたいに、「もったいない」という意識は強くない。しかし、儲かるとなると話は別だ。具体的にある行為をすると儲かる、お金を使わなくてもいい、セーブマネーできるとなると俄然積極的になる。スマートとかエコといったって、もうかるかどうかのところを刺激してもらわないと、行動には結びつかないということだ。その意味では、スマートメーター、スマートグリッドは、実に米国的な省エネのやり方だと思う。p227

 この部分は「米国人が独白する形」をとった著者の思い描く未来の米国人だが、ひさしぶりに「もったいない」がでてきた。こちらもノーベル受賞者であるケニヤの女性活動家のワンガリ・マータイ女史が、「MOTTAINAI」を世界の流行語にし、私たち日本人にも現在の自分たちのライフスタイルを振り返らせるチャンスを作ってくれた。

 アメリカ風であれ、日本風であれ、エコなライフスタイルは歓迎である。

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2009/09/26

オバマのグリーン・ニューディール<1>

オバマのグリーン・ニューディール
「オバマのグリーン・ニューディール」 <1>
山家公雄 2009/04 日本経済新聞出版社 単行本 237p
Vol.2 No765★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 1990年に比較して25%のCO2を2020年までに削減するとは、どういうことなのであろうか。産業形態や社会的インフラ全体の見直しを意味するのだから、ダイレクトにひとりひとりのライフスタイルをマイナス25%変える、ということではないだろう。

 しかし、90年頃の生活を思い出してみることも悪いことではない。もう20年前のことだ。当時の我が家の暮らしは現在のそれとは、かなり違う。当時は、平屋の築30年の賃貸住宅に住んでいて、使っていたのは井戸水だった。トイレも汲み取り式だった。

 エアコンもなかったし、台所に温水器もなかった。当時幼稚園から小学低学年の子供たちは、ひとつの部屋の二段ベットに押し込んでいたし、小さなものだが庭には畑があって、ちょっとした野菜なら作ることができた。

 でも車は二台あり、走行距離に対する燃費の割合は、極めて効率が悪かった。まったく無頓着であったせいだが、現在の4倍の燃費だった。テレビも二台あって、一台は韓国製のブラウン管だったので、確かにCO2排出量の面から考えれば、必ずしも効率的ではなかった。

 全体としてみれば、かなり質素な生活で、収入も少なかったが、子どもたちもまだ教育費がかかる前の段階だった。だから、無駄がなかったわけでもないが、ぜいたくをしていたわけではない。20年が経過するなかで、次第にライフスタイルが変わってしまっていたが、子供たちが独立していなくなって、老夫婦2人の暮らしに戻ってみれば、当時のあの生活に戻れ、と言われれば、戻れないわけではない。

 あの当時よりさらに25%のCO2を削減する、ということはどういうことを意味するのか。もちろん、車は一台にする。車の使用は最小限にして、徒歩や自転車、公共交通機関を活用する。生活の中の家電品を節電型にする。不要な電気はこまめに消す。

 25%を削減することは不可能なことではない。もし、それが達成できなければ、地球が破滅するといわれれば、我が家は率先して、それを実行しよう。だが、問題は、それを実行するのは、社会全体だ、地球全体だ、ということだ。

 我が家だけが削減したとしても、それは環境全体としては、なんの意味にもならない。それが、地球全体のことにならなければならない。発展途上国もあるだろうし、成長過程のプロセスにある家族もあるだろう。増えるべきところは増やさなければならないし、増やさなければならないところは、おおいに増やさなければならない。

 とすると、減らすことができるところや、減らすべきところは、25%削減だけでは、全体としては達成できないことになる。さしずめ我が家などは50%削減を要求される可能性がある。もっとも、家族が4人から2人に減ったのだから、それは不可能ではない。独立した子供たちが排出するCO2が増加したとしても、死亡した身内も何人もいるので、それはプラマイゼロと考えよう。

 さて、本当の問題はこれからだ。エネルギーの使用を半分に抑えるだけではなく、その作業のプロセスを、社会全体の活性化のためのきっかけにしようというところが大切なのだ。卑近な例でいえば、燃費の悪い車をエコカーに変える。ブラウン管テレビを、薄型省エネテレビに買い替える。太陽光パネルを各家が装備するようにする、などなど。それを産業活性化のきっかけにしよう、というところだ。

 まずエコカーを考えると、本当にエコロジーなのかどうかは疑問だ。買い替え需要が進んでいるのは、緊急的な減税や補助金とか、家計にエコノミカルである、というだけでは、本当のエコではない。我が家などでは、10年間使っているリッターカーを乗り続けたほうが、CO2削減の意味では、はるかにすぐれている。

 地デジで新しいテレビを買うことも、必ずしもエコではない。省エネ型と言われながら、結局はみんな、大画面のテレビを買っており、全体としての消費量は25%削減どころか、増加一方の現象がまだまだ続く可能性がある。

 太陽光発電パネルもまだまだ本気度が低い。10数年前の我が家の建て替え時にも大いに検討した。当時でも補助金がでていたのだが、それでも200万円ほどかかり、それを月単位に直せば、個人負担は一般の電線を使ったほうが安かった。メンテナンスの必要経費もかかるだろうし、当時は、余剰電力の買取制度もなかった。

 数年前に、隣家で太陽光発電パネルを屋根に上げた。電力も買い取ってもらっているらしいが、その採算については、くわしく聞いたことはない。むしろ、勤務先のノルマ達成のために、しかたなく自分でも購入した、というのが実態のようだ。

 CO2排出量、1990年比で25%削減は、我が家では可能だ。家族減少も手伝って、25%どころか、50%削減だって、決して不可能ではない。協力すべきところは、まだまだ協力できるだろう。しかし、社会全体、地球全体が、そのムードを醸し出さないと、一軒の家が質素な暮らしを始めたというだけで、意味がない。

 社会全体、地球全体の本気度が、まだまだ伝わってこない。

<2>につづく 

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2009/09/25

「核兵器ない世界を」安保理で決議採択

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「核兵器ない世界を」安保理で決議採択
NHKテレビニュース9月24日 23時39分

国連安全保障理事会の首脳会合が24日、日本時間の24日午後10時半すぎからニューヨークの国連本部で始まり、「核兵器のない世界」を目指して核軍縮などに取り組むとする決議を全会一致で採択しました。

安保理の首脳会合はアメリカのオバマ大統領の呼びかけで開かれたもので、決議案は、開会のあと、直ちに採決にかけられ、非常任理事国となっている日本の鳩山総理大臣など安保理のメンバー15か国の首脳によって全会一致で採択されました。採択された決議では、「核兵器のない世界」を目指して、▽核保有国が核軍縮を進めるとともに、▽テロリストの手に核兵器が渡らないよう核の監視と管理を進めること、さらに▽原子力の平和利用の促進などが盛り込まれています。採択のあと、議長を務めるオバマ大統領は「この歴史的な決議は、核兵器のない世界に向けたわれわれの決意をたしかにするものだ。これからの12か月がきわめて重要だ」と述べ、各国と協力し、今後1年間、核の問題に集中的に取り組む決意を示しました。安保理が核軍縮をテーマに首脳級の会議を開くのは今回が初めてで、「核兵器のない世界」を目指す姿勢を明確に打ち出したことで、核軍縮に弾みがつくことが期待されます。

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 そろそろ新聞も面白くなるなぁ、と、さっそく新聞店へ購読の申し込みの電話を入れた。ところが、なんと、入社したての新人の店員が対応し、自分ではわからないので伝えておく、とのこと。こちらも客ヅラして偉そうに電話番号も教えてやったのに、結局きのう中には連絡がなかった。

 そもそも2年半も、せっかく購読勧誘のセールスにきてくれたのに、ずっと断り続けていたから、あちらも、ちょっとスレているのかもしれない。あるいは、どんどん購読者が減少して、経営の危機に面しているか。

 インテリが作ってやくざが売ると言われる日本の新聞。ネット時代を迎えていよいよ終焉を迎えつつあるのか、などとはちょっと大げさだろうが、せっかく、こちらがその気になったのに、セールスに来てくれないのも、ちょと困る(笑)。

 いいですよ、そちらがその気なら、こちらにも手がある、とばかり、きのうは近くのコンビニまで行って新聞を買った。まぁ、この手もあるな。購読するには、どうせ半年間の予約をさせられるし、なかなか解約しにくくなる。コンビニ買いなら、毎朝散歩がてらに歩いて行けば、ほんの数分の距離とは言え、メタボ対策のひとつにもなる。それに、その日によって、銘柄(笑)を変えることもできるし。

 ということで、ひさしぶりに朝刊を広げた。全国紙には、系列ではない週刊誌の広告も大々的に載っていて、見出しがこれまた仰々しい。それにまぁ、あいもかわらず新閣僚のあらぬスキャンダルの連発。あの雑誌はどっちかというと、たしかに自民党よりだったしな。その気持ちがわからないわけでもない。

 それにひさしぶりに開いてみると、やっぱり見たくもない広告のオンパレード。新聞の定期購読はやっぱりやめようかな。うんざりする。読みたい時に、コンビニや駅のスタンドで買えばいいかな。

 そういえば、忘れかけていたが、当ブログは、「プロジェクトG.O.D」なるものを展開しているのだった。グローバルなネット社会が出現し、オバマ的な理想主義的な動きがでてきたことに喜びを感じる。ここに来て、非核宣言は、おおいに歓迎したい。スタートしたばかりの日本の民主党政治にも期待する。鳩山「友愛」政治にもおおいに期待したい。

 そして、当ブログとしては、さらに、その上に「意識」の問題を探求したいと思う。科学的な問題が提起され、いずれは解決の糸口が見えてくるかもしれない。そこに人間としてまっとうな生活ができるような社会がつくられることが必要だ。そこまでいくのに、どれだけの時間が必要とされるのだろうか。だが、やはりそちらの方向に歩いていかなくてはならない。

 しかし、それだけではダメだ。科学と政治だけでは駄目だ。さらにそこに意識が必要だ。宗教とか哲学とか思想とか、いろいろ言い方があるだろうが、当ブログでは、なるべく手垢のつかない形での「意識」という言葉を使っていこう。

 山積みの地球上の問題を建設的に解決するための科学。人間として、人間らしく生きるための、政治や教育や芸術。そしてさらに、生命体が一つになって存在している、という意識。今、私達が地球上に生きているのだとしたら、それらを含めて、まずは地球人スピリットと呼んでおこう。これら三つの要素が上手に絡み合ってこそ、それぞれが生かされる。

 暴れん坊のカダフィー大佐が、国連で持ち時間15分のところ、1時間半も演説したという。いいじゃぁないか、どっかの国の国会でも乱闘騒ぎがよくある。欺瞞に満ちた国連憲章をちぎったくらいで腹をたててはならない。まぁ、すこしは「友愛」に満ちて、聞いてみようじゃぁないか。

 北朝鮮もなぁ、いまさら核弾頭をいくらこしらえても時代遅れなんだがなぁ。もうすこし巧くやれば、北朝鮮のみんなも、飢えから解放されるのに。ああ、ずいぶん夢を見させられたり、裏切られたりしてきたものだ。米百俵の話を持ち出して、大向こうの感涙を誘ったのは、どこの国の首相だっけ。彼にだって、裏切られてしまった感がある。

 オバマがなんと言おうと、今年の国連があんばいよく、おいしいことを言おうと、まだまだ油断してはいけない。いままでずいぶん待たされてきたからな。今回のこの非核の方向がいいほうにいきますように。アーメン。あるいは合掌。あるいはアラフー。あるいはがんばろう!!!  おっと、忘れていた。久しぶりに・・・・・

   オンパドフム

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2009/09/24

新閣僚の全データ

週刊朝日 10月2日号
Vol.2 No764★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 政権が代わってから、なんだか政治ニュースがやたらと楽しい。現在は、ネットとテレビが中心だが、他のメディアも気になる。ネットのニュースはあまり期待できない。スキャンダルにしても、テレビだけではちょっとさびしいところがある。もともと2ちゃんねるのようなものは見ていないが、週刊誌のガセネタのほうが、よりリアリティがある。

 通常、テレビのニュース番組は2~3チャンネルが重なることがあるので、リモコンを握りしめながら、あちこち自分の関心のある番組をサーフィンする。だが、それでは見落とす番組があちこち出て来てしまう。

 側で見ている奥さんは、同じニュースを何回も見たくないわ、と、ちょっとボリュームを落としてくれる?、と言って、そのまま視線を落として読書を続けている。確かに、ニュースソースそのものはあまり変わりない。しかし、テレビ局やコメンターによって、いろいろに加工される。ここのところが何とも興味深い。

 テレビがあり、裏番組を一番組だけ録画できるDVDレコーダーがある。それに最近はポータブルナビでワンセグにも録画できるので、なんとか、同時放映の3番組をフルにチェックできるようになった。だが、テレビ番組だけでは、どうも食い足らないことも多い。

 このようにテレビのニュース番組にくぎ付けになったのは、何年か前のライブドアのホリエモン騒動の時。あの時も、裏番組摂りにビディオやDVDは活躍した。あの騒動の陰にはいろいろな可能性があった。ひとつの大きな選択肢を併せ持った、画期的な分岐点にさしかかっていたのである。

 しかし、その後は、当時の自民党政権にうまくかすみとられて、ホリエモンは自滅した。彼個人が自滅した、というばかりではなく、あるひとつの大きな可能性の芽が摘み取られた。その後、日本社会はダッチロールに陥り、つぎつぎと首相が辞任するという体たらくに突入した。

 そのような状況を見ていて、私は政治ニュースを見る意欲が減退した。当時、このブログを始めていたこともあり、ブログ・ジャーナリズムの可能性を感じたこともあり、新聞を購読するのをやめた。もちろん、家族の形態が変わって、新聞が必要なくなった時期が重なっていたからだが、なんとあれから新聞の宅配なしに生活していて、2年半が経過した。

 特段に不便を感じなかったが、ここに来て、ウズウズしている自分を感じる。駅の売店で週刊誌を買う。知人宅に行っては、古新聞を借りてよく読む。ネットじゃぁ得られない上質な(笑)ガセネタを必要としている自分を感じる。

 新聞も、週刊誌も、手元にあれば、ひととおり目を通す。各紙、それぞれの個性がある。その個性もすでに織り込み済みだ。そして、もちろん私とは反対意見が踊っているのを読むのは快適ではない。そして私の意見をそのとおり代弁してくれているメディアというものはそうそうない。

 各論に至るまで納得できるメディアは皆無だ。それでいい。しかし、自分なりにこの新聞、この雑誌とは、かなり意見があう、というお気に入りオピニオン誌を確保することは必要なのではないか。そう考えてみると、やはり、ここは新聞宅配なし暮らしも、そろそろこの辺で打ち切って、紙メディアを生活に取り入れる時がやってきたかな、と思う。

 そう考え始まると、振れ過ぎた振り子は逆に大きく振れるのが私の毎回の悪い癖。どうせ読むなら、全部読みたい。全部読めないまでも、せめて、全国紙、地方紙、経済紙、三紙は読みたい。三紙を読む必要がある。しかし、もちろん、三紙を継続的に購読するには経済的にも無理がある。

 そこで考えたのは、とにかくオピニオン的にも納得できる一紙を購読することにして、あとは図書館に週末にでもでかけてまとめ読むことにする。長いこと新聞には興味を失なっていたので、図書館でもほとんど手にしなかったが、新たなる私なりの図書館利用方法となるか。そう思って、近々新聞の購読の申し込みをすることになるかもしれない。

 さて、「誕生 鳩山内閣 新閣僚の全データ」。18人のそれぞれの閣僚はなるほど、それぞれに立派な人たちだなぁ。「高速無料化が日本を変える」。こちらもなかなか面白い記事だった。

 

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2009/09/23

八ッ場ダム ダムに沈む村

Photo
「ダムに沈む村」
豊田 政子 2005/04 上毛新聞社 単行本 99p
Vol.2 No763★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 ETC1000円の旅で行ってみたいところはいくつかあるが、そのうち群馬県の温泉街を訪ねてみようと思っていた。最近、私にとっては突然の八ッ場ダム問題が表面化し、いままでこの問題があることさえ気がつかなかった。そのダムに沈むことになっていた川原湯温泉というものがあることを知り、ああ、この温泉に泊まるのもいいかな、なんて、ちょっと野次馬な、ちょっと不謹慎な発想が湧きあがってきた。

 さっそくネットで検索してみると、「小さな民宿 雷五郎」のホームページがでてきた。ここの女将さんが書いたという詩集がある。その名も「ダムに沈む村」。ここ一カ月ほど、図書館へ行く回数がめっきり減って、すこし仕事にでも精をだそうかな、と思っていた矢先だが、検索してみると、近くの図書館にもこの本が入っていた。

17歳の 暑い夏の日
学校から帰ると 上がり框で
お祖父さんから「ダム」という言葉を
初めて聞いた
ダムって家もすべてのものが沈んでしまう
恐ろしいことだと
ぼんやり わかった
 p14 「暑い夏の日」から

何年後かに
私の住んでいる村も
対岸の川原畑村も
ダムの湖底に 沈んでしまう

川と共に生活してきた私は
たまらない複雑な気持ちで
一人 何時までも
吾妻川をみつめている
 p32 「吾妻川」より

急な坂を登って 橋を渡り
賑やかな温泉街を通り抜けると
地質ボーリンする音
ダム造りが歩み始めた
初めてその音を聞いたとき
私の体に メスを入れられたような
痛く 重く苦しい気持ちになった
  p36「現実」より

吹雪の日
次女を背負って長女の手を引き
ダム反対のデモに参加した日
なぜか涙がポタリポタリと落ちたことだけ
はっきり覚えている

あれから40年が過ぎ
私の生まれたこの村は
ダムになることがきまって
今ではあちこちで
調査や測量がはじまっている 
p45「吹雪の日」より

春の畑は 綺麗に耕されて
馬鈴薯を植える
土の上に立つ時
この畑がダムの湖底に沈むのだと思うと
私は たまらなく淋しい
春だというのに
 p69 「春だというのに」より

秋晴れのある日
八ッ場ダムではじめて
村の中ほどにある
一軒の家の
家屋解体がはじまった

村人は少し離れた
三ッ堂石仏群のある高台に
五人 十人と集まって見守った 
p72「家屋解体」より

ダムで解体されて
消えてしまう学校
同級会で集まった12人で
木造校舎を背に
記念写真を一枚写した

そして秋晴れのあの日
むしろ旗を立て
この校庭に決起した
八ッ場ダム建設反対住民大会
ものすごい人数で
熱気を発散させながら壇上へ
今も鮮烈に思い出す
  p76「木造校舎」より

この歴史ある集落は
日々ダム工事が続いて
家はもちろん
山も 川も 谷も 畑も
すべてのものが
消えようとしている

ふるさとが湖底に沈むということは
こんなにも苦しくつらいものなのか
音の中で私は
立ちつくしている
 p83 「音の中で」より

雑木林を一歩出ると
真夏の太陽は照らし
今日もダム工事の音はつづき
この地球上から
また一つ
自然は消えてゆくのだ
 p90「雑木林」より

私の生まれた
ダムに沈む村は
美しい渓谷と
ひなびた小さな温泉場
6月になると仏法僧は鳴き
山に大好きな山野草が
咲きみだれる

ダムに沈む村の家は
今日は一軒
明日は二軒と
解体されて
基礎石だけが
無言で
すべてを物語っている 
p94「ダムに沈む村」より

 

 個人的には、降って湧いたような突然のテーマだから、容易には意見を言うことはできない。もうすこし様子を見たり、できれば自分の足でその地を見てみたい。その上で判断するとしても、当ブログとしては、民主党のマニュフェスト通りの結論になるのが、結局いいのではないか、と思う。

 何千億円という、気が遠くなるような数字と、山間のひとりひとりの質素な暮らし。その対比にただただ驚く。そして、自民党の長期政権下にあっても、なかなか解決できなかった問題だ。仮に、すでにその目的の明確性を失ってしまったダムが出来上がったとしても、その維持費が未知数の障害となる。

 ダムに沈むとされる375の世帯のことばかりではなく、他の熊本の川辺川ダムのほか、建設予定とされる100以上に渡るダムの見直しは、やっぱり必要だろう。

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2009/09/22

21世紀への指導原理 OSHO <5>

<4>よりつづく
21
「21世紀への指導原理OSHO」 <5>
スワミ・パリトーショ 1994/08 壮神社 単行本 465p
 

政治を超える科学

 脱ダム宣言、90年比CO2の25%削減、アジア経済圏における共同通貨の創設など、次から次と民主党政権による新しい政策が表面化している。どこまで現実化できるのか、高見の見物とばかりもいかない。

 長年の自民党政権下における腐敗はうすうす想像できるものの、はてそれをどれだけあぶり出し、どれだけ軌道修正できるものかは、今後の動きを見てみないと計り知れないが、ハラハラドキドキしながらも、期待すべきところはしっかり期待してみたい。

 あるいは、新「抵抗勢力」の出現によって、はて、その「マニュフェスト」をどこまでゴリ押しできるものか。今ははまだハネムーンの時期であり、もうすこし最低でも数カ月が経過しないと、全体像は見えてこない。そんななか、鳩山首相の持論である「友愛」精神の政治とやらはどのようなものか、現実の国際政治の中、どれだけ実現可能性が残されているのか。

 そのようなことを考えているとまたまた「21世紀への指導原理」というフレーズを思い出した。21世紀「への」という段階ではなく、今や21世紀そのものに突入してすでにほぼ10分の1が経過して、21世紀という単語さえ陳腐化してしまったが、すくなくとも、人類は、自らの未来に対する希望を棄ててしまってはいないようだ。

 地球人類が21世紀の新しい世界に脱皮していくために、処理しなければならない問題がここに一つある。

 それは地球人類が従来の意味での政治を超えるということだ。個人でいえば、それはマインドの超越にあたるかもしれない。

 マインドが個人のレベルで心配と好奇心に仕えるように、地球人類のレベルでは大きく分けて「政治」と「科学」の二つの方向に分化する。「政治」とは、いわば物理次元に生存する”肉体の不安”に焦点を合わせたマインド、「科学」とは何処までも宇宙の神秘を探求したい、”魂の好奇心”に焦点を合わせたマインドといえるかも知れない。

 ”死の恐怖”に焦点を合わせた自我(エゴ)が私たちの中心を乗っ取っているように、「政治」が今地球上の全権力を握っているように見える。これまでの地上世界で見る限り、政治の固有の領域は「支配」と「被支配」のゲームだろう。その手段として政治家が使うのは”死の恐怖”に他ならない。

 OSHOは端的に「政治家とは、その欲望のすべてが権力を持つことである人間だ」と言う。その権力は、他の人間に対する権力、者を支配する権力を選ばない。政治家は、人々に対する権力を手に入れようと躍起になっており、科学者は物質に対する権力を手にいれようと躍起になっている。その欲望、その思考は同じであり、ある意味では、両者は共に同じ舟に乗っている、と。

 政治が隷属させようとするのは生きた人間であるのに対して、科学の征服対象は物質だ。その意味では科学は政治ほど暴力的な探究ではない。けれども一方、科学はあまりにも複雑なものに成長してしまって、今や科学者個人がどくりょくで科学を研究することは不可能になってしまった。科学者は政治家の大きな支援を必要とするようになってしまった。科学的な研究課題があまりにも高価なものとなり、豊かな国の政治にしかそれを賄うことはできなくなった。かくて科学者たちは、知らず知らずのうちに政治家の支配下に入ってしまった、と。p400~401 パリトーショ「政治を超える科学」 

 もともと全465pという大冊であるだけでなく、テーマそのものが広範囲にわたるので、この本を一気に読むことはなかなか難しい。ましてや著者が自らの個人史を「舞台裏の独り言」というエッセイとして、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」風に織り交ぜてあるの、この本全体の構成はなかなか分かりにくい。ましてやここから「原理」のような単一な解決方法をポッと抜き出すことは難しい。

 しかしながら、やっぱり、「21世紀への指導原理 OSHO」というタイトルのなかに、著者が言おうとしていること、そして、もともと私達がOSHOというイメージに求めてきたことがずばり表現されている部分がある。

 鳩山内閣は、今度どのような実績を遺していくのか。理系出身の鳩山首相の政治家のスタート地点でのスローガンは「政治を科学する」であったという。そして、祖父の時代から受け継ぐ「友愛」精神とは一体なにか。

 ここはもうすこし、いくつかのイメージをすり合わせながら、これらの政治家を抱える日本社会に生きる現代人の一人として、実際に、自分はなにをし、どう生きるのかを模索することを続けたい。

 

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2009/09/21

大いなる挑戦-黄金の未来 Osho<2> ひとつの世界政府

<1>よりつづく
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「大いなる挑戦-黄金の未来」 <2>
Osho 1988/1 OEJ 単行本 128p

ひとつの世界政府

 『ひとつの世界政府』は、国際連盟によって第二次世界大戦の前に試みられたが、成功しえなかった。それはただの討論クラブだった。第二次世界大戦は、国際連盟のまさにその信頼性を破壊した。しかし、まだ必要性があったために、彼らは国際連合、国連を作らねばならなかった。しかし国連は、国際連盟と同じように失敗だった。またしてもそれは、何の政治力も持たない討論クラブにとどまった。それは何ひとつ実行できない。ただの公式討論クラブにすぎない。

 それを簡単に成功させるには、世界政府にすることだ。すべての国々は、世界政府に軍隊と兵器を引き渡すべきだ。むろん、政府がひとつしか存在しなければ、軍隊も兵器も必要ではない。いったい誰と戦争をしようというのか?

 いまでは大国、列強はすべて核兵器で装備されており、その量たるや、もし私たちが望むなら、今でも70個の地球を破壊することができるくらいだ。それだけの核の力をすでに手を入れている。地上の人間を70回皆殺しできる力だ。私たちはまた、地球上のありとあらゆる生物を5000回殺せるだけの毒ガスを持っている。そんなには必要ない。一度で充分だ。しかし、政治家たちはそれを確実にしておきたい。彼らの顔はみんな仮面だ。彼らの言うことと、実際にすることは違う。

 政治家たちは基本的には、その深層で、無能なのだ。それゆえの権力への衝動だ。彼らは自分の弱さを、劣等生を、無力を感じる。彼らは、自分が何者でもないことを知っている。だが、もし彼らが凡庸な大衆に、自分が彼らの要求を満たしてやると説得できたら、それはひとつの相互理解に、取引になる。そこで、大衆は彼らに権力を与える。そして、いったん権力を手に入れると、彼らは約束したことのすべてを忘れる。実際、けっしてそんなつもりはなかったのだ。いったん権力を握ったら、彼らの本当の顔が見える。

 政治家とは、エゴイスト以外の何者でもない。内奥では、彼らは劣等感を感じている。そして、その劣等感を恐れているのだ。彼は何者かでありたい。そうすれば、自分の劣等感を忘れることができるからだ。権力は彼にその機会を与える。何百人という人々が、自分の言いなりになるのを見ることができる。自分はただの人ではない、特別な人間だと、自分を納得させることができる。そして、彼はそんなふうにふるまい始める。彼は権力を誤用し始める。いったん権力を持つと、彼はけっしてそれを手放そうとはしない。権力なしでは、自分の空しさに、劣等感に、無能力さに直面しなければならなくなることを、彼は無意識のうちによく知っているからだ。

 そして、権力はそんな人たちの手に握られている。どこかの頭のおかしい人間がボタンを押し、全人類を、地上の全生命を、終りにすることもありえるのだ。

 国際連合は、形式的な組織から本物の世界政府に転換されなければならない。そして、すべての国々はその軍隊や兵器を引き渡すべきだ。そうすれば、軍事技術を創造的な目的のために使う方法を見い出すことができるだろう。そして軍隊から、何百万という人びとがそのような創造的な仕事のために解放され、各国の政府がすべてその権力のなかに掌握していた科学者たちが、国際連合のもとで、ひとつの統一体になるだろう。

 現存している国々の首相たちは、世界政府のメンバーになり、そして世界政府に参加した国々の首相たちは、機能的にその仕事を続けることになる。彼らは、いかなる実際的な権力も持つことはない。誰かがほかの誰かを侵略するというような問題は起こらないからだ。彼らは、ただ自国の鉄道を走らせたり、郵便局を運営したり、そんなことをするだけだ。

 いくつかの国が、世界政府に参加しないという可能性がある。そういうときは、あたかもその人たちが存在しないかのように、完全にボイコットされなければならない。その人たちとはどんな関係も、どんなコミュニケーションも取るべきではない。なぜなら、その人たちを参加させるにはそれしかないからだ。また、その人たちは世界政府に対立して存続することはできない。その人たちは降参しなければならないだろう。いさぎよく降参した方がいい。そうして、その人たちは自分の政府を持つ。国内の事件に対処するための国内部隊、国内警備隊を持つことになるだろう。しかし、核兵器を造る工場や、不必要な人殺しの訓練に従事する何百人という人びとを抱えることはないだろう。

 世界政府のメンバーは、世界大統領を選ぶ。しかし、世界大統領は、世界政府のメンバーからではなく、外部から選ばれる。そして、ひとつだけ彼に関して完全にはっきりさせておかなければならないことは、彼は政治家ではないということだ。彼は詩人でも絵描きでも神秘家でも舞踏家でもよいが、政治家ではない。それ以外なら何であってもよい。そのようにして、過去における責め苦のすべてであった政治権力を、私たちは滅ぼすことになるだろう。

 いくつかの国が拒否権を持つような、今の国連の在り方は、解消されなければならない。それはまたしても権力闘争(パワートリップ)だ。そしてこれが、多くの問題の原因になってきた。たったひとつの政府が世界全体のために何かの拒否権を持つというそのことが。その代わりに、それぞれの国の大統領が、そのその大学入学資格者や高校卒業者の人口に応じて投票権を持つことになる。

 これは世界の権力構造全体を変えるだろう。そうなれば、細かいことはごく簡単に解決できる。  OSHO  (p22~p24)

<3>へつづく

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2009/09/20

イージー・ライダー

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イージー・ライダー

 先日、眠れないままテレビを見ていたら、NHKBSシネマアーカイブスで「イージー・ライダー」をやっていた。焼酎を飲みながらちょっとだけ見ていたが、いつの間にか眠ってしまったらしい。幸い、ビデオに録っておいたので、何日か経ってもう一度見た。だけどやっぱり、途中で眠ってしまったらしい。

 今年はシルバー・ウィークとやらで5日間の休日が続く。日曜日の今日、午前中の政治番組のビデオをあちこち見た後、ネタ切れになって、またまたこの「イージー・ライダー」を見た。

 それにしても、この時期、NHKもなんでもって「イージー・ライダー」をやるのか、ちょっと分からないが、私の青春時代にとっては欠かすことのできない映画のひとつだ。ちょっと前に、図書館から借りてきたビデオもみた。

 しかしまぁ、この映画も40年前の映画なのか。なんという時代の経過か。何度見ても、複雑な感情が湧きあがる。

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2009/09/19

CFP試験読んで受かる「合格読本」

CFP試験読んで受かる「合格読本」(2009年度版 2)
「CFP試験読んで受かる「合格読本」(2009年度版 2)」
ライフプランニング・リタイアメントプランニング/リスクと保険 DaiーXの資格書
プロFP Japan /ダイエックス出版 2009/06 単行本 273p
Vol.2 No762★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆ 黒

 政権交代で、民主党政権が現実化する中、ブログごっこで限りなくヴァーチャルワールドに逃避していくのは、いかがなものか、というのは、わが内部からでてくる反省である。ましてや最近は、「小説(文学)編」に突入してしまい、もともとこの超苦手領域に飽きていたところなので、現実的な話題に戻ってくるのは、もともとの織り込み済みの予定ではあった。しかし、それにしても、わが身体が素直に反応したのは、見事というべきか、不思議というべきか。

 思えば、アメリカ新大統領オバマも就任演説で、エネルギー、保険、教育、を三大課題に据えると発言した。日米民主党の大きなテーマがここに来て、かなり統一基調になってきたことに、当ブログは素直に期待感を持つ。

1)エネルギー問題
 オバマのグリーン・ニューディール政策の実態がどれほどのものかは、今後の展開をみないと分からないが、鳩山政権も、2020年までに90年度比25%減のCO2排出を目標とする、という宣言は、実現可能かどうかはともかくとして、まずはやろうとしてしていることには賛成できる。

2)保険問題
 日米では、かなりの違いがあるが、アメリカにおける国民皆保険制度の創設と、アメリカにおける年金制度の整備は、プロセスにおいてはかなりの違いはあるが、テーマとしては、ヒト問題であり、ファイナンス問題である、という意味では、かなり重なる部分がある。

3)教育問題
 移民や人種問題を抱えるアメリカに比較すれば、日本における高等学校教育は義務化しているが、さらに上級教育問題になると、返済不要の奨学金制度の不備などで、教育機会の二分化傾向はおおいに修正される必要がある。アメリカにおける教育機会の向上と、日本における子供手当や高等学校の無料化は、どこか連動しているところがあるように思われる。

 これらに加えるところの、オバマの「非核宣言」と、日本の憲法9条問題をリンクさせれば、日米の、今後の課題はかなり一体化した連動テーマになると思われる。

 そんなことを考えていたら、一時中断していた社労士やCFP資格試験を再開してみようかと思い始めた。当ブログを始める前には実際に勉強していたのだが、自民党政権の下では、一つ一つの条文を読んでいくうちに、その欺瞞性が気になって、どうもいまいちやる気が持続できなかった。

 さっそく5年前の教材を引っ張り出してきて、ひととおり眺めてみたが、当然のことながら、かなり古い内容になっている。ここはすこし自らの知識のリフレッシュも兼ねて、最新の情報を仕入れておく必要がある。 

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2009/09/18

ポータブルナビ 最新注目モデルを達人が斬る!

特選街 2009年 09月号 [雑誌]

特選街 2009年 09月号 [雑誌]

「ポータブルナビ 最新注目モデルを達人が斬る!」
Vol.2 No761★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 秋の行楽シーズンが始まる。今年はシルバーウィークとやらで、5連休が続く。この春から始まったETC1000円の旅も、この連休には込みそうなので、一足お先に所用を兼ねて、ちょっと一回りしてきた。

 民主党政権ができて、高速道路無料化も待ち遠しいが、やっぱり旅は楽しい。エコカー減税とやらで、プリウスが大人気。今現在申し込むと、納車は来年の7月。なんと9ヶ月待ち以上の状態。国産車の国内販売としては異例の事態。ハイブリット車としては二番手のホンダ・インサイトの陰が一気に薄くなった。

 うちの子どもと同じ年の子供がいる、左隣の家でプリウスを買った。あのワンボックスもだいぶ古くなっていたから、ここでエコ替えは当然であろうと、眺めていたが、なんと、やはりおなじく同じ年の子供をもつ右隣の家にも、中古国産セダンが売られてプリウスがやってきた。

 むむむ、別にタイマン張るわけではないが、心穏やかではない。わがやのリッターカーもすでに10年選手。ここでエコ替えも悪くないかな、とさっそくトヨタのお店へ。そして、なんと「9ヶ月待ち」のご宣託。いやはやスタートするのが遅かった。両隣さんは、販売スタート直後にすぐに申し込んだらしい。それでも納車は今だ。なんと4ヶ月ほどかかっている。

 もともとハイブリッドには関心がある。現在のリッターカーを購入する時も、実は初代プリウスにするかどうか悩んだ。結果としては、「あなたはいつも先物買いをして失敗する」という奥様の言葉にとどめを刺されて、志なかばにして、リッターカーに甘んじた経緯があったのだった。

 いろいろ考えてみる。10年選手とは言え、現在の日本車はよくできている。なかなか壊れない。いや、タイヤのヘタリや、多少のボディの細かい傷さえ気にならなければ、なんの問題もない。これから10年だって持ちそうだ。エコロジーを考えるなら、この車を廃車してしまうのは、天に唾するようなものである。

 この前の高速テストだって、限りなくリッター20キロ近く走った。仮にハイブリッド車にしてリッター30キロ走ったからと言って、ガソリンの消費量の差にすれば微々たるものだ。平均的な家庭用車の走行しかしないわが家のガソリン代は、月6~7千円程度。これが仮に3分の2になったとしても、月に2千円程度が浮くだけの計算だ。

 新しく車を買ったとしても、車両本体のローンに加え、3ナンバーのプリウスの税金や保険料の上昇を加味すれば、現在のほうがはるかに家計にもエコである。ここは宣伝に踊らされずに、待ちの姿勢が肝要であろう。じっくりプリウスのカタログを見ていたら、隣から奥さんが言い放った。

 「3軒並んでプリウスっていうのも、なんだか、かっこ悪いわね」

 結局、このひとことにトドメをさされて、すごすご引き下がるしかなかった。

 そこで関心は、カーナビに移った。次の買い替えの時につけようと思ってきたカーナビだが、結局、車を買い替えないのでいつまでも想像上の存在だった。友人たちのカーナビの使用状況を考えたりしていると、必ずしも必需品ではないなぁとは思っていたが、ここに来て、これからのETC1000円の旅を考えると、カーナビの必要度は高まる一方だ。

 地元の地理なら、人に教えてあげることはあっても、教えてもらう必要はない。だがしかし、先日のETC1000の旅でも、助手席の奥さんが、地図帳を見ながらナビゲーションしてくれたのだが、一か所、反対方向に走り出してしまって、ちょっとロスが発生した。もうここは、カーナビは必需品か。

 ということで、さっそく近所のカー用品店にお散歩。ピンからキリまでいろいろあるが、なにが必要なのかを絞ってみる。

1)知らない土地でのナビゲーション
2)高速道路などの選定
3)ワンセグなどのテレビ

 1)、2)はともかくとして、3)のワンセグは必ずしも必要ではなさそうだ。となると、話は簡単で、実にお安いカーナビが存在している。しかもポータブルだ。そういえば、先日買っておいた「特選街」にもポータブルナビの記事がでていた。

 店から持ち帰ったカタログと見比らべてみてみると、雑誌にでている機種でも、更にお手軽価格になっている。なるほど、この辺が売れ筋か。現品を見定めたうえで、さらに他店も覗いてみて、結局は、すぐ近くのカー用品店で、ワンセグ対応機を購入した。

 取り付けには3~5千円かかるということだったが、ポータブルナビなら自分でも装着できる。店員にあれこれ聞いておいたから、無理なくできた。この差額で、ひとつ上の機種を選んだのだった。

 このポータブルナビ、なかなかかわいい。ちょっとした昔の電卓くらいの大きさだが、車から取り外して室内にも持ち込める。その時はポータブルテレビとして活躍。見ている番組を数時間だけだが録画もできる。メインの番組を茶の間のテレビで見ながら裏番組も見たいという時に役立つ。

 ナビそのもの性能は、現在テスト中。近場のことならナビはいらないが、わざとナビが案内する道を走ってみたりする。遠回りしてしまうことがほとんどだが、なるほど通常ならこちらの道のほうがセオリーなのだろうな、と納得する。

 裏道から裏道へといういつものコースを走りがちだが、表通りを走ってみても、時間にそう違いはないことが分かった。むしろ安定した表通りをゆとりを持って走るほうがいいのではないか。わが裏街道人生を恥じてみる。

 次の遠乗りまでナビの有難さを痛感することはないだろうが、それまではしっかり機能を把握しておきたい。ナビに気を取られて事故を起こしたなんてことでは、笑いごとではない。

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2009/09/17

5万円ミニノート完全攻略ガイド

日経トレンディ増刊 2009年6月号 5万円ミニノート完全攻略ガイド [雑誌]

「5万円ミニノート完全攻略ガイド」 
日経トレンディ増刊 2009年6月号
Vol.2 No760★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 不覚にも、パソコンにコーヒーをご馳走してしまった。こぼしたわけでないのだが、右手に持ったコーヒーカップが手のひらをすり抜けて机の上にポンと落ちた。幸いコップは倒れはしなかったが、大きめのモーニングカップだったので、重量がそれなりにあったらしく、机の上におちた瞬間の衝撃で、なみなみ注いであったコーヒーがカップの上の淵からあふれ出た。

 あふれ出た先は、わがわが愛するノートパソコンのキーボード。それを見ていた奥さんは、それとばかり台所から乾いたタオルを数本投げて寄こした。あわてて吸い取ったタイミングが良かったのか、ブラックだったのが幸いして糖分にやられなかったのが良かったのか、わが愛機の一命をとりとめることはできた。

 しかし、あとから気付いたのだが、ディスプレー部にもコーヒーは飛び散っており、手のひら大にシミができていた。これもうまく乾いたタオルで吸い取ったのでほっと一段落。ところが安心していたのは、本のひとときで、実は、こちらのディスプレーの方が、被害甚大であった。

 なんと、ガラス部なので、乾けばなんとかなるだろうと思っていたが、そうはいかなかった。どうやらこのディスプレー部の内部までコーヒーは到達しており、その部分はコーヒー色に着色されてしまったのである。

 愕然とした。まだ購入して一年しか経過していないのに。しかも、セカンドライフをやるため、と奥さんを説得して、自分としては、かなり吟味した高機能機種を購入したのだ。それが、なんだ、こりゃぁ。さっそく、購入した家電店に電話を入れたが、購入時の「保険」とやらは十分機能せず、修理代はなんと、4~5万かかりそうだという。ドキュ~ン。胸が張り裂けた。

 なに、このような事件は初めてではない。だいぶ前の事となるが、仕事用ノートパソコンに、あろうことか焼酎をご馳走したことがある。あの時は、酔いが回っていたし、そもそも不純な動機でパソコンをいじっていたから、罰が当たったと思って諦めた。あの時は、なんと修理で20万弱取られたのである。とほほ。

 いや、当時はまだノートパソコンは高価なもので、一台単価は50万円以上した。汎用機ならぬ、業務専用機だったので、修理代やむなしということで、なんとかその場を保った。いや、実に苦い経験だった。それにしても、今回のこの事件。この展開にどう結末をつけたらいいのやら。

 「修理に5万円? それって買ったほうが早いでしょう」という奥様のご宣託を受け、わが特捜班はさっそく、巷に言われる「5万円ノート」の探索に入った。まるで、チベット密教の転生グル探索の様相を呈し始めた。

 探してみれば、量販家電店の店頭に並んでいる、いわゆるネットブック、と言うジャンルにそれは該当した。つまり、

1)小さく持ち運びしやすい
2)出先でネットで繋がる
3)安い

という概念である。もちろんデメリットもある。

1)機能が抑えられている
2)周辺機器が限定されている
3)一台目としては不足

 それでも、一時代前に比較すれば、この5万円ノートとうたわれるネットブックの魅力は計り知れない。

1)2台目としてなら、これで十分
2)探せば1万円代からある
3)なんともかわいい

 もちろん0円パソコンというものもあるが、一時のケータイの売り方と同じで、後払いとなる通信費のなかに本体価格が含まれているので、これは結果として高上がりになるので、早々と見切りをつけた。2年間はキャンセルできずに、その間に、本体価格よりも高い通信費を払うことになるので、面白みはない。

 としてみると、あとは無線LANでつながるスポットが、外部にどれだけあるか、ということが大きなポイントになる。実際に試してみることはなかったが、自分の実務上のことを考えれば、実利は薄い。

 外出時にお手軽にネットにつながる、というコンセプトであるがゆえのネットブックだが、わが生活においては、まだ時期尚早と判断せざるを得ない。結局は、二者択一を迫られることになった。

1)限りなく低価格(一万円代も可)のネットブックを一台購入する
2)5万円の予算枠で、二代目のノートパソコンを購入する

 低価格になればなるほど、キーボードが小さく、わが指が入らなくなることもある。メーカーがいまいち信頼できない。拡張性に問題あり。などなど、不満は噴出する。

 ここは、ネットブックの特性をはるかに離れて、5万円ノートという概念にだけこだわってみれば、これが意外とある。もちろんノート、というにはおぞましいほどの大きさで、ほとんどデスクトップ専用機という様相だが、それでも、周辺機器は充実しており、同じ5万円でも、「小さい」と「多い」に分けた場合、今回は見事「多い」が勝利した。 というわけで、

1)メーカー品である
2)スペックに問題はない
3)安い

という点が考慮されて、ネット販売の一台が当社に一台やってくることになった。税込49800円。現金振り込みを選んだので、振り込み手数料が630円ほどかかったが、まぁ、5万円ノートには違いない。気になる点も残ってはいる。

1)モバイル性が無視されている
2)カラーの選択肢が少ない
3)やっぱりネットブックにも未練

 まぁまぁ、いろいろあるが、いつメインのパソコンがお釈迦様になるか分からない。安心安全のリスクマネジメントの面からも、いつでもバイパスできる2台目の存在は必要不可欠ではある。

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2009/09/16

民主党「組閣の死角」全内幕

週刊朝日 9月25日号 9月14日発売 朝日新聞出版 民主党「組閣の死角」全内幕
Vol.2 No759★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆ 

 ほぼ一か月ほど「休筆」した。あっと言う間の一カ月ではあったが、ブログのことが気にかからなかったわけではない。何か書こうかなと思ってみたり、このまま静かにフェードアウトするのも悪くないな、と思ってみたり。

 「休筆のきっかけは思わぬ形でやってきた。ここ十数年続いていた10代からのポン友たちとの年数度の飲み会が、この一年ほどお休みになっていた。この年代になるとお互いに何かと忙しい。スケジュールを合わせるのが難しくなってきていたのだ。

 今回も突然の集合となったが、同報メールで6人中5人が翌日集まったのだから、むしろ互いにスケジュールを合わせるよりは、にわか幹事がいきなり号令をかけた方が早い、ということにもなりそうだ。

 10の桁を四捨五入すればすでに百歳、などと茶化すのもいいとして、1の桁を四捨五入してもすでに60歳になるわが同輩たち。久しぶりに顔を見合わせてみれば、おいおい、と互いに互いを気遣うほどの老境に入りつつあるように思う。

 ましてや、この「百年に一度」とやらの大不況。街の人波の流れは相変わらずとして、ひとりひとりに降りかかっている状況は半端じゃない。少なくとも、このまま「静かにフェードアウト」などと、明鏡止水の心境にはとてもとてもなれない、お互いの近況だった。

 ひさしぶりに午前まで街をさまよい杯を重ねたうえに、帰りしなに階段から左足を踏み外したのがいけなかった。酔いのせいか、その時はあまり気付かなかったのだが、翌日になってみると、腰が痛い。

 痛いというより、足の先までしびれている。いや足の裏まで何かビーンと繋がっている。これはやばい。数日あけてさっそく飲み仲間その1であるポン友の治療院の世話になることになった。いわゆるぎっくり腰という奴であろう。

 心身ともに、ひさしぶりの「ぎっくり腰」になって、わしも治療院のベットの上で考えた。こんな時代に、ブログなんぞにうつつを抜かしている場合ではないぞ。「この数年で2000冊ほどの本についてブログに書いたよ」、などという自慢話は、飲み仲間たちでさえ、まともには受け取ってくれない。まぁ、他人にとってはどうでもいいことなのだ。

 自己満足、自己欺瞞、そのものではないか。なにか逃避しているのではないか、現実から・・・・。何かから、キミは逃げているのではないか。口のわるいポン友たちも、そこまでは言わなかったが、でも、私自身は、自らの反省として、そのフレーズが何度も何度も湧きあがってきた。

 ときあたかも「政権交代」。このニュースがさらにわが精神的さまよいに加速度を加えた。私もかつては街頭にも立ってビラを配ったり、支持する候補者のポスターを張ったりした浮動的民主党後援者のひとりではある。しかし、この数年来の政治家たちの体たらく、ついには自民党に牛耳られた社会を見つつこの世をおさらばするのか、と、かなりあきらめ気味だった。

 その後の展開は、ある意味、見事というべき「革命的」展開だ。鳩山政権も無事スタートした。いろいろ問題はあるが、現実化する可能性としては、なにはともあれ限界値に近い形で政治が変わろうとしている。

 飲み会仲間のポン友の一人、彼の家族は某女性政治家の金庫番だ。野党から与党に変わって、その立場を十分に生かせるのか。いや活かしてもらわなければ、こちらの清き一票も無駄になってしまう、というものだ。

 そんな社会的きりもみ状態の中で、わがブログは、超苦手領域の「小説(文学)編」にさしかかり、取り組み始めたのは、ドストエフスキーやらトルストイやらD.H.ロレンス。誰の目にも、当ブログがダッチロールし始めることを予測することは容易であろう。

 書かない日が一日づつ続き、一週間になると、あせりとともにちょっとだけ心地よい。それが数週間になると、これもまた新しい日常だ。新しいサイクルが始まっている。そして一か月が過ぎた。

 当ブログ<1.0>もそうであったが、こちら<2.0>になっても、ブログへのアクセスはなくなるものではない。な~んにも書いてなくても、過去ログへのアクセスは常に続く。日々更新を続けている時にはかなわないが、それでも最盛時の6~7割のアクセス数が続くのは驚く。

 Googleなどからやってくる一見さん(ごめんなさい)も相変わらず減ることはないが、それらに交じって、常連さんたちがちょくちょくこちらの様子をうかがいにアクセスしてくれていることには、ちょっとすまないと思う。この辺で近況を報告しておかなくてはな。

 図書館に行く回数はめっきり減った。リクエストしておいた関連図書は、とにかく一度すべてキャンセルした。図書館に行くのは、奥さんのパシリで、彼女のリクエスト本を受け取りに行く時だけ。

 本屋に行っても、どうも魅力的な本がない。新書本コーナーも相変わらずちゃちなコピーで客の視線を争いあっている。ビジネス本コーナーも、いまいち目新しくない。ましてやこの「不況」で話題が暗い。パソコンコーナーも、なんだかなー、と思わざるを得ない。あの「革命的」雰囲気は、今は昔の物語となった。

 今、本屋に行って一番面白いのは雑誌コーナー。それも週刊誌。あれやこれやのゴシップ満載だ。あいもかわらず「週刊誌」している。そこがなんともいい。各誌めくってみると、それぞれの個性があるのは当然として、結局、私は文春でもなく、新潮でもなく、ポストでもなく、朝日がいちばん落ち着くようだ。

 立ち読みばっかりしていて、ちょっと恐縮していたので、今回は週刊誌を一冊購入した。先日から、銀行や歯医者でも何度か週刊誌にお世話になっていた。待ち時間を埋めるにはこれらのアクセサリーが必需品だ。

 それにしても、民主党。これは、ちょっとした、事件、だ。いまさら「1Q84」などで、虚構の世界にはまっている暇がもったいない。村上春樹だって、ひょっとすると、すでに、今回のこの政変劇を舞台に何事かを書き始めているやも知れぬ。

 民主党ももうすこし時間が経過しないと、実態は見えない。いまさら2ちゃんねるなどでゴシップを探るつもりはないが、テレビやラジオのニュースだけでは、裏側どころか、表だって見落とすことが多い。

 ここ当分は週刊誌にお世話になることが多いだろう。いやなに、週刊誌は週刊誌なのだ、とわきまえて付き合えば、たまのゴシップや書き間違いも、それほど気にならない。ガセネタ、ネガティブ・キャンペーンそれもよし。これもひとつの文学、とわきまえれば、週刊誌読みもまた楽しい。トルストイやらドストエフスキーだって、週刊誌レベルと、そう変わるものでもない。

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