ルポ米国発ブログ革命
「ルポ米国発ブログ革命」
池尾伸一 2009/06 集英社 新書 236p
Vol.2 No765★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆
<1>から<2>へと移行してきた当ブログではあるが、このところ一か月ほど休筆することになった。そのままフェードアウトしていく道もあったのだが、やっぱりそれも寂しい。達成すべき地点を明確に確認し得たわけでもなく、ブログとしての機能にけじめをつけれたわけではない。
そう言った意味では、メーリングリストとか、巨大掲示板とか、一連のSNSに対する姿勢とはかなり違う。これらに対しては、個人的にはかなり見切りをつけてしまっている。ところが、ブログという機能は、個人的にもかなりのめりこめる可能性が今でも大きく残っている。
自分自身の中を整理できる、曲がりなりに個人的意見を発信できる、結果としてマス・コラボレーションに参加することができる。その他、いろいろある。そのブログを続けていくに当たって、大事なことは、その表現形態とテーマの選定であろう。IT技術や結果としてのアクセス数の進捗などは、あえて言えば二次的、副次的なことではある。
さて、この「ルポ米国発ブログ革命」であるが、2009年6月発行とはいうものの、ごくごく最新のアップデイトな今日的な話題がルポされているわけではない。
「革命」という言葉にいつもうさんくささがつきまとう。「××革命」「○○革命」。広告のコピーや署名にあふれる「革命」の中身を見ると、「改善」にすぎないか、実際には「○○自体が変わる」ことを指しているにすぎないことが多い。その点でタイトルに革命を付けることには少し迷った。だが、取材を終えた段階では、この表現以外には思い付かなかった。「誰でも世界中の人々に発信できる」ことは政治や行政、そして「第4の権力」といわれるメディアを変貌させ、米国という国の形を大きく変えているのだ。p234
革命、というもともの意味は、新しい革袋に酒をいれることを意味するのだろうし、レボルーションも、re-voltで、つまり天動説から地動説に変換するように、回転軸の大きな変化を意味するのだと思う。そういった意味では、革命という単語はきわめて魅力的ではあるが、そもそもそれだけのチャンスというものは、そうそうあるものではない。
ブログ機能との出会いは、個人的にいえば、小学5年生の時にガリ版印刷に出会い、学級新聞を作って以来の、大きな体験であり、まさにブログ革命と呼ぶことには違和感はない。自由性、可能性、納得感、という意味では、まだまだブログ機能の魅力は色褪せることはない。
シカゴ大学で憲法学を教えるキャス・サステイン教授は、ブログ空間は気を付けないといけないと民主主義の危機に陥れかねない危険もあると警告する。
「人々は、自分の声のこだまを聞くように、ブログでは自分の望む意見しか聞かない傾向が強い。民主主義が危うくなる心配もあるのではないか」、と。
ブログを使った個人による情報発信は、民主主義をどう変えていくのか。議論は分かれ、将来像はまだ見えてこない。
確実なのは、ブログなどの個人発のメディアが既存の政治体制やメディアの体制を揺るがし、新たな政治のうねりを作り始めている、ということだけだ。p32
オバマ--鳩山ラインも、日米民主党をつなぐものであるし、対立すべき自民党も、その名称のなかに大きく民主主義を入れている。しかし、だいぶ前から私自身は、民主主義というものの本来の意味、そしてその可能性と限界性について考えることがあり、いずれは、別な新たなる政治形態が必要になってくるのではないか、と感じている。
もし私の学級新聞における発言が、仮に40名のクラスのうちに一人だとするなら、40分の1の重さを持っていることになるが、地球全体に向けて発信する当ブログの発言力が、仮に70億分の1しかないとすると、それでは、革命どころか、小学生時代よりむしろ後退していることになる可能性さえある。
ブログのよさは、個人的な意見を言えることだ。それは40分の1でもなければ、70億分の1でもなく、1分の1のウェイトさえ持っていればいいのではないか。70億人に届く必要はない。もっとも、4~50人のリピーターさえあれば、6次の隔たりで、理論的には地球上のすべての人々に情報として伝わっていく可能性はあるが、なにもそこまで期待しているわけではない。
「仮に主張が対立している二つのグループがあり、一つの方は正しい事実を主張しており、もう一つはただ人々を混乱させるために間違った主張をしているとしよう。いまのマスコミの報道は「客観報道」「中立性」を言いわけにして、対立する両方の言い分を紹介することで終わっている。しかし、本当にその問題にい関心があるプロのジャーナリストなら、対立する二陣営の主張を踏まえた上で、では真実はどこにあるのか、とさらに材料を集めて記事を書くだろう。いまのマスコミはその努力を怠っていることが多いのではないか。」(ジョシュア・マーシャル) p52
この日本政界の政権交代劇で、久しぶりに新聞を読むようになった。でもまだ宅配の定期購読するわけではなく、コンビニや駅のキヨスクで購入し、あるいは図書館で各紙まとめ読み、という段階だ。週刊誌にも目を通す。あるいはテレビ番組も、裏表、DVDやネット上の動画を通して大体のニュース番組も見てみた。
そしてわかったことは、芸能番組などでは明確にならないことだが、こと政治的なテーマになると、新聞や週刊誌は当然としても、テレビ会社も、かなり意見の違いがあるということである。そして、今回大きな成果は、私の意見とかなり違っているメディアと、このくらいなら私は許容できるというメディアが歴然と存在する、ということだった。
虚偽報道ではないが、ひとつのテーマに対する報道の熱意にかなりの大きな温度差があるし、迫る角度が大きく違う。違って当たり前だと思うが、自分と相入れないメディアの意見を一応聞いては見るが、いつまでもマゾヒステッィックに聴き続けなければならない、ということではないだろう。
「市民は、ブログなどで意見の発表や身の回りの異変を書くなど、最初の警告を発することはできる。だが、税金の無駄遣いの実態や汚職など隠れた事実をじっくり調べ上げるのは、プロの記者でなければなかなかできない。このままの状態が続くならば、権力を監視できるジャーナリストの数は少なくなり、民主主義の基盤も揺らぐ結果になるのではないか」(トム・ローゼンスティール) p180
本書は、かならずしも最新のニュースがまとめられているわけでもなく、アメリカ的特殊性にのっとった形でルポされているので、必ずしも当ブログの参考になるわけではないが、しっかりと地に足をつけた成長を続けている、メディアとしてのブログの存在を確認できた、という意味では、最近にない力強さを感じた。
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