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2009/10/30

進化しすぎた脳<1> 中高生と語る「大脳生理学」の最前線

進化しすぎた脳
「進化しすぎた脳」 <1>中高生と語る「大脳生理学」の最前線
池谷裕二 2007/01 講談社 新書 397p
Vol.2 No807★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

 最近は乱読の領域を更に広げつつある当ブログではあるが、いつも中心への回帰としてのセンタリングには留意しているつもりである。そういった意味においては、この本は貴重な一冊で、一気に読むのがもったいないので、前半部を少し読み始めて、すこしの間、放っておいたのであった。

 前回読んだ「単純な脳、複雑な「私」 または、自分を使い回しながら進化した脳をめぐる4つの講義」がかなり面白かったので、こちらも読むことに。著者一覧を見ると「海馬 脳は疲れない」がすでに2002/6に出ている。対談者は糸井重里。なるほどすでにアンテナを立てている人たちには早くから注目されていて、あるいはそのような人たちから育てられていた、とも言えるのかもしれない。

 そもそも脳科学がまだ脳を十分に理解できていないのは仕方のないことだと私は思っています。脳はそんなに単純なものではありません。しかし、ここには次元のことなる問題もあるようです。<池谷裕二>という人間が果たして脳科学という学問をきちんと理解しているか----という疑問です。「高校生レベルの知識層に説明して伝えることができなければ、その人は科学を理解しているとは言えない」とは物理学者ファインマンの言葉です。この意味で、今回の一連の脳科学講義は私にとって試金石でsきた。脳科学者の端くれである私が本当に脳科学を理解しているかどうか、その判断は読者に委ねたいと思います。p6

 ファインマンの世界を高校生レベルの理解力で判断するのはそうとうに至難の業のはずである。ましてや脳科学の世界を判断するに、高校生レベルに達しているかどうかさえおぼつかない当ブログではあるが、なんだか未知数の魅力に引きづり込まれていくのは確かなことである。ファインマンはうちの奥さんもゲラゲラ笑いながら読んでたから、たしかにサービス旺盛であるには違いない。

 腕を取ってしまうと脳自身が変わってしまう。つまり、生まれ持った体や環境に応じて、脳は「自己組織的」に自分をつくりあげていく。構造の上では、イルカの脳は本当は人間以上のポテンシャルを秘めているのに、残念ながら「宝の持ち腐れ」でしかなかった、というわけ。
 じゃぁ人間は、十分に脳を使いきっているか? これはどうかな。僕の考えでは人間も「宝の持ち腐れ」になっているような気がする。
p83

 田中伸和の「未来のアトム」でも、たとえば人口頭脳<AI>も、「身体」を持たないと「意識」を持ち得ない、というような結論であったように思う。人間も「進化しすぎた脳」を持ちながら、身体、つまり知性や感性や感情も含む身体と十分にコミットメントしないと、宝の持ち腐れ状態になる、と言っているのだろう・・・か。

 (「呼吸」は)、うん、あるときは意識している。普段は全然意識してないけど、意識して止めようと思えば止められるでしょ。そいう意味では、「呼吸」という行動はちょうど意識と無意識の境目にある不思議な行動だ。なんでだろうね。もしかしたら水潜ったりするときのために意識してとめられなきゃいけないようになっているのかもしれない。もちろん本当の理由は僕にはわからない。
 ただい、面白いことに呼吸はウッと止められるかもしれないけど、死ぬまで止めていると意識でがんばっても、それはやっぱり無理な話。そういう微妙な意識と無意識の境目にあるのが呼吸かなという気がする。
p100

 呼吸ね・・・。なるほど、瞑想の基本は呼吸だ。呼吸を見つめるだけのビパサナのような瞑想がもっとも基本中の基本だ。呼吸がちょうど意識と無意識の境目にある、というのは慧眼だ。

 「心」「意識」を考えるうえで、人間の行動のなかでどこまでが意識で、どこまでが意識でないかと考えるとき、じゃぁ「見る」という行為はどうだろうか? ものが見えている、これは傘、これは服だ・・・・。見るのは意識だろうか?p104

 この辺の「科学」は著者独自のものである場合がある。かなり踏み込んだ知的冒険をおこなっている場合がある。

 たとえば、ここにリンゴが転がっているとしようか。それを見たとき一番先に気づくのは色。色の処理は素早いので、「赤」にはすぐ気づくんだ。その次に「あっ、リンゴだ」とわかる。形だね。そして、最後にわかるのは「転がっている」という動きの情報だ。「色」に気づいてから「転がっている」と気づくまでの時間は早くても70ミリ秒ぐらいの差がある。

 ということは「赤いリンゴが転がっている」と一口に描写してしまったらウソなんだ。なぜなら、それは決して同時の現象ではありえなくて、<転がっている>瞬間の少し直前の<リンゴ>と、そのまたすこし直前の<赤色>が、いまの意識のなかでひとまとめにされて「赤いリンゴが転がっている」ように錯覚しているだけなの。人間は同時にすべてのものを把握することはできないんだ。p125

 私はここを読んでいて、池田晶子「私は何か」「魂とは何か」「死とは何か」の三部作を思い出した。「私」という色。「魂」という形。「死」という動き。「私」という存在に気づき、「魂」という形が見え始め、「生死」の動きに気づく。

 ここまで来て、私の意識(あるいはマインド)はクロスオーバーし、混濁して、しばし、この本を読むのを休んでいる。

<2>につづく

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