2030年メディアのかたち
「2030年メディアのかたち」
坪田知己 2009/09 講談社 単行本 254p
Vol.2 No787 ★★★★★ ★★★★★ ★★★★☆
な~んだ、2030年の話か、と思うが、いや待てよ、2030年だって、あとわずか20先のことだ、それほど荒唐無稽な未来の話ではない、と思い直す。今から20年前とは、ちょうど平成の年代が始まった頃で、インターネットの前時代的兆候が表れている時代だった。パソコンネットワークなどが盛んに登場してきていた時代だ。考えてみれば、あれから、あっと言う間の20年間だったのではないか。
1949年生まれの著者も感動したというアルビン・トフラーの「第三の波」(1981)以来、30年近く経過しているのである。10代や20代の若者たちにとってはともかくとして、すでに50代の後半に突入したわが世代にとって、この20年はごくごく最近のことだ。とするなら、これからの20年だって、それほど予測不可能な未来永劫の話ではない。ごくごく近いうちにやってくる、現実的な話である。
「多対一のメディア」、別の言い方をすれば「マイメディア」。これこそが究極のメディアなのです。我々はメディア社会の客体から主体へと変身できる道具を手に入れるのです。
”究極のメディア”が具現化するのは、10年先以上になると思います。2030年には、そのかたちはかなり明確になっていると思います。それまで起こることは、すべて、この究極のメディアへのマイルストーンにすぎないのです。p4
本書における著者の言説はほとんどそのまま許容的に読み進めることができる。だが、本当の意味で2030年が見えてきた、という実感はない。
1981年当時、本のヒットと関連して、NHKテレビで「第三の波」の特集番組を放映した。その時、私が画面にくぎ付けになったのはエレクトロニック・コテッジという実態だった。
一人の青年が森のなかのログハウスに住んでいる。その姿はまるで修行僧か長髪のヒッピー風。ログハウスの中にあるコンピュータに向かいソフトウェアを練り上げる。出来上がると、それをフロッピーデスクにダウンロードし、リュックを背負って自転車で、森の中にある泉へと向かう。そして、そこには、自家用水上飛行機があり、そこから青年は自分で操縦して飛び立ち、都会へと向かう。青年は都会にあるコンピュータ会社にそのソフトウェアを納入するのである。
この映像がとてもかっこよかった。今ではなんだか笑える話だが、こんな未来がやってくるかもしれないと思った。もっとも、現在なら、つくったソフトウェアはフロッピーデスクになんかに収まりはしない。とてつもなく膨大なものになっている。そして、現代におけるソフトウェア納入は、なにも水上飛行機に乗って都会にいく必要もあるまい。インターネットにさえ繋がっていれば、瞬時に納入できるはずだ。森の中で有線で繋がっていなければ、無線でも可能ではないか、という時代になっている。
もっとも、現在は、一般的なソフトウェア労働は、ひとりで水上飛行機を所有できるほどの高賃金の労働ではなくなっている。かぎりなく過酷な労働とさえ考えられている。もちろん、やりようによっては限りなくクリエイティブな仕事ではあるし、高利益を生む仕事ではあるが、昔、描かれたようなおとぎ話のような状態にはない。
かくいう現在の私の労働環境も、まさに職住一致のエレクトロニック・コテッジにおけるワークになっていると言える。極端なことを言えば、ネットブックが一台あれば、仕事は完結する。営業、業務、納品、経理、すべてに於いて、ネットブック一台で完結する。1981年に夢見た私の「第三の波」は、いまならすでに完了したとさえ言える。
ただ、それは極限すれば、ということであって、もちろん人に会わなければならないし、電話もかけなければならない。車で走ることも必要だし、銀行に入金する必要もある。郵便もださなければならないし、デジカメを活用する必要もでてくる。
ネットやITは限りなく進化するだろう。しかし、ここに来て思うのは、ネットやITの進化に比して、人間社会は思ったほど進化していない、ということだ。法律の問題があり、金融の問題がある。コンテナとしてのネット社会機能は十分発達しているが、旧来の人間社会はついてきていない。今後社会が追いついてくる、という問題ではなく、コンテナとしての科学がいくら進んでも解決できない問題が残る。あるいは、科学が進めばこそ、解決できない問題が明確になってくる、と言える。
著者は、一般的な表現として、ブログやSNS、RSSリーダーなどを好意的に過大評価するが、最近の私は必ずしもそうではない。ブログはこのように書き続けているし、RSSリーダーも少しは活用している。しかし、SNSは最近あまり興味をもてなくなってきた。
私も人並みに10個ほどのSNSに参加しているが、活用しているのはほんの一部。最近では、日本におけるSNSの草分け「キヌガサ」が11月13日にそのサービスを終了することを発表した。他のSNSも、必ずしも有効に活用されているとばかり思えない。ひとり勝ちのmixiとて、かつての二フィティ・フォーラムみたいな終焉を迎えることになる可能性はゼロではない。
なぜなら、ITが進化しても、それを活用するヒューマン・ウェアが十分に開発されていないからだ。「セカンドライフ」のような新しいサービスが、インターネットの次代の旗手になるかな、と期待した面があったが、最近の私はこの点に関しても悲観的だ。
現在のITやインターネット技術は、テーマ性を失っているのではないだろうか。メディアの在り方や、情報や金融の進化ばかりが取り上げられるが、本当にそこに解決すべきテーマがあるのだろうか。
私はかつての日本の農業の機械化の現実を思い出す。人力や畜力にたよっていた日本農業に耕運機が登場したのは、ちょうど東京オリンピックの頃だ。高度成長期の農村からは次第に青年たちの姿が消えていった。第二次産業の発達で、若者たちは誰もが都会を目ざしたからだ。そこには耕運機を初めとする、あらゆるタイプの農業機械が開発され、営農効果を挙げた。
しかし、現在の日本の農業はどうであろうか。これからさらにもっと高度に機械化することは可能であろう。田植機や刈り取り用のコンバインに限らず、あらゆる機械をつくりだし、モンスター農機具を田畑に放つことは、技術的にはあり得る。しかし、すでに、日本の農業は枯れてしまっている。
現在のインターネットやメディアを考えた場合、私は、象徴的にこの日本農村のことを思う。ある程度のところで、モンスター・インターネット技術は止まってしまっていいのではないか。いや、止まるべきであろうし、止まらなければ人間はいなくなるだろう、ということだ。
いま、人間社会が直面している問題は、戦争をなくすことであり、核兵器をなくすことだ。自給できる食料を確保し、貧困の格差を小さくし、識字力を高めなければならない。医療や教育の機会を均等にし、地球全体が環境とともに生きていくライフスタイルを確立しなければならない地点に来ている。
そのような問題に立ち向かうための道具としてのネットやメディアはぜひとも必要だが、人間たちの歩みを無視した技術だけが先行する事態はさけなければならない。モンスター技術としての原子力も、実際には人間のコントロールを離れつつある。
2030年におけるメディアのかたちについて、おおむね私はこの本に賛成だ。学校で使う教科書としても間違ってはいないと思う。しかし、半面でしかない。当ブログでいえば、コンテナばかりが強調されて、それに引きづられた中途半端なコンテンツ論で終わってしまっているという感想を持つ。
むしろ当ブログが期待したいのは、コンシャスネス側からみた場合のコンテンツ論だ。人間はどう生きるべきなのか。私とは誰か。いかに死を迎えるのか。魂はどこから来てどこにいくのか。そのようなコンシャスネス側からコンテンツに降りていった場合、インターネットを初めとするコンテナはどのように支えてくれるのか。それらの点についての考察が、この本では全般的に薄い。
現在、「情報」という言葉に引きずられすぎているという面も目立ちます。情報が主役なのか、人間が主役なのか、本末転倒の議論も多いと感じます。
どうしてそうなってしまったのか。
明らかに、技術革新が急すぎて、われわれがついていくことが困難になっているのが原因です。
この本の目指すところは「人間の目線から事態の全貌を捉え、その進行方向を見定めよう。そして将来に対応できるビジョンを持とう」ということです。p241
科学は十分に発達してく必要があるが、暴走させてはならない。盲信は不可だ。それを十分に活用する文化や文明が必要であろうし、時代や地域性を超えたスピリチュアリティが問われなければならない。その意味では、この本は半面でしかなく、2030年を描いているとは、とても言えない。
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