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2009年10月の47件の記事

2009/10/31

脳は「歩いて」鍛えなさい

脳は「歩いて」鍛えなさい
「脳は『歩いて』鍛えなさい」 
大島清 2007/10 新講社 新書 189p
Vol.2 No809★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★☆☆

 散漫なまま特にテーマを絞り込まずに漫然と続いている当ブログであるが、ここに来て、「脳」と「ウォーキング」が不思議に近づいてきたなぁ、と思っていたら、やっぱりこういう本があることに気づいた。この本は2005/05にでた「歩く人はなぜ『脳年齢』が若いか?」が改題・補筆されたものである。

 歩けば脳にも体にもよいのは間違いない。
 だが、たとえば一日一万歩歩かなくてはならないとか、毎日15キロメートル歩かなくてはならない、毎日1時間は歩かなくてはならないなどと、課題を課さないようがいい。
 うつうつとした気分を晴らそうと思って、とりあえず歩こうと思っている人はなおさらだ。いやになったら戻ればいいし、疲れたらバスに乗って帰ってきてもいい。気分が乗らないとき、わたしはそうする。
p47

 いままで万歩計は何個も買った。買うたび張り切って歩くのだが、何かのきっかけでやめてしまう。だいたいは電池切れだったり、ズボンに着ける金具が壊れたりした時がやめ時だった。記録するのも面倒くさい。あるいは、その正確性の低さにうんざりした時とか、やっぱり毎日一万歩は歩けない、と悟った時だった。

 でも今回は、オムロンの「ウォーキングスタイル」というやつで、ただぶら下げるだけだから、ケータイとストラップを一緒につないでおけば、まず付け忘れるということはない。記録も1時間ごとに記録が残り、しかもあとでデータをパソコンに取り込んでグラフ表示もできるすぐれもの。

 さらには体重計と連動すると体脂肪や体年齢まで表示・記録できる。さらまた同じメーカーの血圧計もデータをパソコンに取り込むこともできるので、いままでとはちょっと違った趣向で健康管理に取り込めるかもしれない。なんにせよ、Oshoがいうように、自分の身体に好意を抱き、自分で身体を気づかってみようと思う。

 わたしたちは無意識に歩いているが、一歩を踏み出すごとに、足の筋肉から大量の情報が神経を伝わって、大脳皮質の運動をつかさどる感覚野に届く。脳への情報伝達速度は実に秒速100メートルを超えている。p62

 なにはともあれ、大脳生理学の専門家であり医学博士の京大名誉教授のお話である。襟を正して聞いてみるしかない。

 歩くと「太りすぎ」にも効果がある。p71

 歩くと「腰痛」にもよい。p74

 「高血圧」の人も歩くとよい。p76

 なるほど、なにからかなにまで、至れり尽くせりですね。

 歩くだけで脳の全体が刺激される。p60

 「物忘れ」が気になりだしたら歩き始めよう。p63

 これでは、歩き始めるしか、ございません。

 

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こころでからだの声を聴く<22> 

<21>よりつづく 

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<22> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1
Vol.2 No808★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

8、身体に対する否定的な感情

質問:私は自分のことが好きではありません。とくに自分の身体が。
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 身体について、こうあるべきという一定の観念を持っているなら、あなたは苦しむだろう。身体は、あるべきようにある。この身体こそ、あなたの持ち物であり、神があなたに授けたものだ。身体を使い、楽しんでごらん! 身体に好意を抱き始めたら、身体が変化するのに気づくだろう。 

 なぜなら、自分の身体に好意を抱けば自分で身体を気づかい、その気づかいはすみずみまでに行き渡るからだ。気づかえば、不必要に食べ物を詰め込まなくなる。気づかえば、身体を飢えさせたりしない。身体の要求に耳を傾け、その気配に耳を傾ける---身体は何を望んでいるのか、いつそれを望んでいるのか。 

 気づかい、愛するとき、あなたは身体と調和する。すると、あなたの身体の問題は自動的に解消する。自分の身体を好きでないとしたら、問題が生じる。なぜなら、次第にあなたは自分の身体に無関心になり、無頓着になるからだ。誰が敵に構うだろう? あなたは身体を見ようとしなくなり、避けるようになる。身体のメッセージに耳を傾けるのをやめ、身体をさらに毛嫌いするようになる。 

 だが、問題全体をつくっているのは、あなたなのだ。身体は決して問題をつくらない。問題をつくるのはマインドだ、さぁ、これはマインドの観念だ。自分の身体のイメージに問題を抱える動物はいない。そんな動物はいない。たとえ、カバであっても! 

 彼らは完全に幸福だ。それは、否定的な考えを生み出すマインドがないからだ。そうでないなら、カバは思うかもしれない、「なぜ私はこんな姿なのか?」と。動物には、そのような問題はない。 

 ただ、理想をすてなさい。自分の身体を愛しなさい---これがあなたの身体であり、これが神からの贈り物だ。身体を楽しみ、気づかうといい。気づかうと、あんたは運動をしたり、眠ったりする。あなたは、ありとあらゆる気づかいをする。身体は自分の道具だからだ。ちょうどあなたの車のようなものだ。 

 あなたは車を掃除し、車に耳を傾け、その唸りを聞き洩らさない。こうして調子の悪い箇所があるかどうかわかる。車体が小さな傷を負っても、あなたは気づかうだろう。ちょっと身体を気づかってごらん。すると、身体は完全に美しくなる---それは美しい! 

 身体は実に美しいメカニズムであり、しかも非常に複雑だ。身体はたいそう効率よくはたらくので、70年も機能し続ける。あなたが眠っていても起きていても、気づいていてもいなくても、身体は機能し続ける。しかも、その機能する様はとても静かだ。あなたが気づかわなくても、身体は機能し続ける。あなたのために仕え続ける。人は身体に感謝した方がいい。 

 ちょっと、あなたの態度を変えてごらん。すると6ヶ月もしないうちに、身体の形が変わるのに気づくだろう。それは恋愛のときとよく似ている---あなたは、彼女が突然美しくなるのがわかるだろう。それまでは、彼女は自分の身体を気づかってこなかったかもしれない。しかし恋愛が始まると、彼女は気づかうようになる。 

 彼女は何時間も鏡の前に立つ・・・・・誰かが彼女を愛しているのだから! あなたが自分の身体を愛するとき、同じことが起こる。自分の身体が変わり始めるのがわかるだろう。身体は愛され、気づかわれ、必要とされている。 

 それは、とても繊細なメカニズムだ---人々は身体を粗野に、乱暴に扱っている。ちょっと態度を変えて、違いを見てごらん! OSHO p128~130

<23>へつづく

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2009/10/30

進化しすぎた脳<1> 中高生と語る「大脳生理学」の最前線

進化しすぎた脳
「進化しすぎた脳」 <1>中高生と語る「大脳生理学」の最前線
池谷裕二 2007/01 講談社 新書 397p
Vol.2 No807★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

 最近は乱読の領域を更に広げつつある当ブログではあるが、いつも中心への回帰としてのセンタリングには留意しているつもりである。そういった意味においては、この本は貴重な一冊で、一気に読むのがもったいないので、前半部を少し読み始めて、すこしの間、放っておいたのであった。

 前回読んだ「単純な脳、複雑な「私」 または、自分を使い回しながら進化した脳をめぐる4つの講義」がかなり面白かったので、こちらも読むことに。著者一覧を見ると「海馬 脳は疲れない」がすでに2002/6に出ている。対談者は糸井重里。なるほどすでにアンテナを立てている人たちには早くから注目されていて、あるいはそのような人たちから育てられていた、とも言えるのかもしれない。

 そもそも脳科学がまだ脳を十分に理解できていないのは仕方のないことだと私は思っています。脳はそんなに単純なものではありません。しかし、ここには次元のことなる問題もあるようです。<池谷裕二>という人間が果たして脳科学という学問をきちんと理解しているか----という疑問です。「高校生レベルの知識層に説明して伝えることができなければ、その人は科学を理解しているとは言えない」とは物理学者ファインマンの言葉です。この意味で、今回の一連の脳科学講義は私にとって試金石でsきた。脳科学者の端くれである私が本当に脳科学を理解しているかどうか、その判断は読者に委ねたいと思います。p6

 ファインマンの世界を高校生レベルの理解力で判断するのはそうとうに至難の業のはずである。ましてや脳科学の世界を判断するに、高校生レベルに達しているかどうかさえおぼつかない当ブログではあるが、なんだか未知数の魅力に引きづり込まれていくのは確かなことである。ファインマンはうちの奥さんもゲラゲラ笑いながら読んでたから、たしかにサービス旺盛であるには違いない。

 腕を取ってしまうと脳自身が変わってしまう。つまり、生まれ持った体や環境に応じて、脳は「自己組織的」に自分をつくりあげていく。構造の上では、イルカの脳は本当は人間以上のポテンシャルを秘めているのに、残念ながら「宝の持ち腐れ」でしかなかった、というわけ。
 じゃぁ人間は、十分に脳を使いきっているか? これはどうかな。僕の考えでは人間も「宝の持ち腐れ」になっているような気がする。
p83

 田中伸和の「未来のアトム」でも、たとえば人口頭脳<AI>も、「身体」を持たないと「意識」を持ち得ない、というような結論であったように思う。人間も「進化しすぎた脳」を持ちながら、身体、つまり知性や感性や感情も含む身体と十分にコミットメントしないと、宝の持ち腐れ状態になる、と言っているのだろう・・・か。

 (「呼吸」は)、うん、あるときは意識している。普段は全然意識してないけど、意識して止めようと思えば止められるでしょ。そいう意味では、「呼吸」という行動はちょうど意識と無意識の境目にある不思議な行動だ。なんでだろうね。もしかしたら水潜ったりするときのために意識してとめられなきゃいけないようになっているのかもしれない。もちろん本当の理由は僕にはわからない。
 ただい、面白いことに呼吸はウッと止められるかもしれないけど、死ぬまで止めていると意識でがんばっても、それはやっぱり無理な話。そういう微妙な意識と無意識の境目にあるのが呼吸かなという気がする。
p100

 呼吸ね・・・。なるほど、瞑想の基本は呼吸だ。呼吸を見つめるだけのビパサナのような瞑想がもっとも基本中の基本だ。呼吸がちょうど意識と無意識の境目にある、というのは慧眼だ。

 「心」「意識」を考えるうえで、人間の行動のなかでどこまでが意識で、どこまでが意識でないかと考えるとき、じゃぁ「見る」という行為はどうだろうか? ものが見えている、これは傘、これは服だ・・・・。見るのは意識だろうか?p104

 この辺の「科学」は著者独自のものである場合がある。かなり踏み込んだ知的冒険をおこなっている場合がある。

 たとえば、ここにリンゴが転がっているとしようか。それを見たとき一番先に気づくのは色。色の処理は素早いので、「赤」にはすぐ気づくんだ。その次に「あっ、リンゴだ」とわかる。形だね。そして、最後にわかるのは「転がっている」という動きの情報だ。「色」に気づいてから「転がっている」と気づくまでの時間は早くても70ミリ秒ぐらいの差がある。

 ということは「赤いリンゴが転がっている」と一口に描写してしまったらウソなんだ。なぜなら、それは決して同時の現象ではありえなくて、<転がっている>瞬間の少し直前の<リンゴ>と、そのまたすこし直前の<赤色>が、いまの意識のなかでひとまとめにされて「赤いリンゴが転がっている」ように錯覚しているだけなの。人間は同時にすべてのものを把握することはできないんだ。p125

 私はここを読んでいて、池田晶子「私は何か」「魂とは何か」「死とは何か」の三部作を思い出した。「私」という色。「魂」という形。「死」という動き。「私」という存在に気づき、「魂」という形が見え始め、「生死」の動きに気づく。

 ここまで来て、私の意識(あるいはマインド)はクロスオーバーし、混濁して、しばし、この本を読むのを休んでいる。

<2>につづく

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世界の葬送 125の国に見る死者のおくり方 <1>

世界の葬送
「世界の葬送」 125の国に見る死者のおくり方 <1>
松涛弘道 / 「世界の葬送」研究会 2009/06 イカロス出版 単行本 166p
Vol.2 No806★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 土葬をを目撃したのは、ほんの小さい時、たぶん一回しかないと思う。あの棺桶はサイコロのような立方体に近い形で、道を男たちが担いでいった記憶がある。中には座ったお婆さんが収められていた。昭和30年代のかなり早い時期だった。あの頃はまだ、「らんば」と呼ばれる村の共同墓地があり、墓石は、自然石を半分にしてその平面にひとりひとりの法名が彫りつけてあった。大きな家では、「らんば」はいくつもあり、そして、菩提寺の墓地にも、永代使用の墓地を持っていた。

 昭和50年前後になると、高度成長の波に乗って、墓地も代々墓になり、ナニナニ家の墓、というのが多くなった。あちこちに散らばっていた「らんば」は掘り起こされて改葬され、菩提寺の代々墓に納骨された。「らんば」には、記念碑のような小さな石碑だけが残され、周囲は次第に住宅化され、むかしここが墓地だった、なんて知る人はだんだんすくなくなっている。

 次男として独立した私は、死後どのような送られ方をするのだろうか。長男と一緒に、生家の代々墓に入るという習慣はなく、私は私として墓地を求めることになるだろう。先日散歩していたら、お世話になっている和尚さんと出会った。聞いてみると、墓地には余裕があるらしく、永代使用の最初の費用は7~80万だとか。いずれはいく道だから、自分のライフプランの資金計画にいれておかなければならない。

 ケツをまくって考えれば、所詮、自分は死んでしまったのだから、墓地もなにもいらないと思う。白州次郎のように、葬式無用、戒名無用、というのもカッコイイが、葬儀もいらなきゃ、法名もいらぬ、香典献花はうけつけぬ、というのもなんだか極端だ。

 ただ、私は自分は誰か、と問うた時、それが最終結論ではなかったにせよ、両親の祖先のことを考えた。辿ろうとすると、300年でも500年でも辿ることができたというのはすごいことだと、私は思う。かつて、アフリカ系アメリカ人が、自らの系譜をたどって一冊の本を書いた。その本が「ルーツ」という本になって話題になったことがある。

 墓は送られる側のものでもあろうが、送る側のものでもあろうと思う。もし私に子孫が発生するとしたら、良くも悪くもこの先祖があって自分があるのだな、という目印くらいにはなるような墓石を立てておきたいと思う。散骨も悪くはないし、無縁仏になるようなことが仮にあったとしても、私なら化けて出たりはしないのではないか、と今のところ思っている。

 さて、この本「125の国に見る死者のおくり方」というのも極端な調査だが、さまざまな地域のしきたりや文化の壁を乗り越えて、一列に「世界の葬送」を並べてみると、なかなか面白いものだと、思う。ヒンズー教や仏教は火葬、キリスト教とイスラム教は土葬、という大きな流れがあり、水葬、風葬など、地域の特性によって行われている。チベットの鳥葬なども、地域の特性や宗教観から考えれば、実に合理的にできていると思われる。

 パプアニューギニアの「葬送としてのカニバリズム」p69も相当に興味深い。これは伝統として行われていたわけではなく、せいぜい半世紀の間おこなわれていただけでだという。もともとヨーロッパ人がフォア族の人々に人肉食をすすめた、という説もあるらしい。貴重なタンパク源としての影響補給の意味合いもあったらしい。しかし、脳などを食べると、狂牛病に近いような症状もでたようなので、やはり「共食い」は、近親相姦と同じく、どこか自然界に反する行為ということになろう。

 即身成仏やエジプトのピラミッドの中に収めれたミイラ。あるいは「社会主義指導者たちの遺体保存」p122なども興味深い。世界各国、地球各地、各民族、各宗教、地域、宗派、しきたり、思想、さまざな「死」の迎え方があり、「死者」の送り方がある。

 最初、ちょっと異様な本だなと思ったが、こうして網羅的に一列化して「葬送」を見つめてみることも、グローバル化した現代なら、時には必要になることもあろう。本書は実に貴重だと言える。部分部分は想像してみることもできるが、並べてみると、実に多彩で多様な人間社会が営まれていることがわかる。それにしても、どの国に於いても葬送があり、どの人間においても「死」は等しくやってくる。

<2>につづく

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2009/10/29

森の診療所の終の医療

森の診療所の終の医療
「森の診療所の終の医療」 
増田 進 (著) 2009/9 講談社 単行本 222p
Vol.2 No805★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 「森」繋がりで、ここまでやってきた。図書館の新刊本コーナーに並んでいる何冊もの本の中に、いくつか「森」をテーマにしたものがあったから、ついでというと失礼だが、一緒に借りてきた一冊である。この本のタイトルだけを読めば、最初は人里離れた森の中にあるホスピスの話かな、と思っていた。

 しかし、これは例の全国に知れわたった岩手県・沢内村の医療体制を長年に渡って支えてきた地域医療の先駆者・増田進医師の、自叙伝にも近い医療の現場からのレポートであった。この数年開いているペンションを借用した「緑陰診療所」は確かに森のなかにあるようだが、長年にわたって勤務した沢内村や田老町は、他に医療機関がない、というような無医地域だった。

 「終(つい)の医療」というタイトルからすると、ホスピスとして活動しているのだろうか、と思ったが、決してそうではない。自らの医療者としてついに辿りついた医療、という意味でもあろうし、出世や金もうけや保険や制度、法律などに縛られた医療ではなく、真正面から人間に向かう究極の医療、という意味合いが込められているのだろう。

 その増田医師が辿りついたのは鍼治療を中心とした自由診療の小さなオアシスともいうべき医療センターであった。もともと外科が専門だった彼にしてみれば、鍼治療へと繋がっていったのも不思議ではないが、体を治すだけではなく、人間と向き合う、といういみでは、やはりこの人には、西洋医学より、東洋医学のほうが似合っていると、あとから思った。

 沢内村に赴任して、最後の仕事が死亡診断書を書くことだったというから、必ずしもホスピスにつながらないわけではない。もともと沢内村には医者はおらず、村人が死亡すると、死人を背負って、遠くの医者のところまで行って死亡診断書を書いてもらっていたという。村役場の要請も、まずはそのような不便からの解放であったようだ。

 その出会いのなかから増田医師の人生がつづくわけだが、そもそも、この方は、いわゆる「医師」ではないのかもしれない。なにか他の存在が、とりあえず「医師」という職業・立場を取って、生きている、という感じがする。それでは、その、他の存在、とはどんな存在なのだろう。それは人を愛し、愛されることを知っている人、ということになろうか。そして、真実であろうとする。医療界の現場にあって、医療の不正を鋭くレポートする。

 実際に会ってみると、意外と気楽な男だと感じるに違いない。私は、十字架を背負ったキリストでもなければ、理想に燃えたヒューマニストでもない。ただ、こういう医療をやっていて楽しい。
 私は、田舎でやっている医療こそ医者らしい医療で、楽しいということを、ほかの医者や医学生にわかってもらいたい。田舎の医療は誰でもできることだし、力む必要は何もないのだ。
p183

 その道をしっかりと歩んできた人だけが言える言葉であろう。

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森はあなたが愛する人を守る

森はあなたが愛する人を守る
「森はあなたが愛する人を守る」
宮脇昭 /池田明子 2009/10 講談社 単行本 215p
Vol.2 No804★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 この本はタイトルからイメージするよりはるかに真面目で科学的な本である。かつ実践的でもある。森とはなにか、森の本来の姿とは何か、森がなくなるとどうなるのか、森が増えるとどうなるのか、などが具体的に書かれている。そして、森をどう作るのか、どうすれば森は作れるのか、実際にどのようにして森が作られたかなどが、丁寧に具体的に書かれている。

 見かけ上の緑、飾りの緑だけではなく、いのちを守る緑が必要だということです。いま最も大事なのは、生きているあなたの、あなたの家族の、恋人のいのちを守る本物の森です。p22

 必ずしも真摯なる自然愛好者ならぬ、やや不届き者の一読者でしかない私には、この「本物の森」なるものという言い回しが気になってしまう。

 豊かな森とはどういう森をいうのでしょうか。それは垂直的には高木、亜高木、低木、下草などがそれぞれ層をなし、また平面的にはまわりを「マント群落」「ソデ群落」と呼ばれる林緑群落が取り囲んでいる森、すなわち土地本来のおもな樹種と数十種の構成種からなる多様性に富んだ多層群落の森のことです。p82

 そう言われてみれば、私なんぞ、生まれてこの方55年、本当の豊かな森なんぞ、みたことも聞いたこともないのかもしれない。すくなくとも、これが本物だ、と意識したことなぞない。

 いま、私たちの生活域には緑が多いように見えますが、そのほとんどはニセモノといえます。芝生に外来種の成木がぽつんぽつんと植えられている都市公園などの緑は、一見モダンで恰好よく見えるかもしれませんが、その語源である公園景観(パルクランドシャフト)は、実は荒野を表しています。p116

 たしかに都市の中には、ちょっと気がつくと決してふさわしいとは言えない植物群が植えてあることがある。工事業者のための道路やダムがあるように、造園業者や都市設計業者のための公園?と思ってしまうような、実に不自然な自然があることは確かだ。

 本来の森が伐採されたりしてできた裸地には、いっせいにセイタカアワダチソウやオオアレチノギク、ダンドロボロギクなど帰化植物が大繁茂します(刈り跡群落)が、またあっという間に消えてしまいます。その後に、陽性(日向を好む)のパイオニア樹種ともいわれる早世樹(早く育つ種類)のキイチゴ類などの低木が生息し、ついでエゴノキ、ミズキ、コナラなど落葉樹が樹林を形成するようになります。伐採、枝打ち、下草刈りなど定期的な人間活動の影響で、遷移の途中相である落葉広葉樹林の段階で足踏みしているような状態が里山の樹木林です。p116

 高橋敬一がいうような、足尾銅山やビキニ環礁、チェルノブイリなど、「人間が自分の手で人間が住めないようにしてしまった土地」にこそ自然な森が復活するのかと思うと、ちょっとぎょっとする。それでは一体、本物とか、豊かとは、誰が一体判断しているのか、ということになる。結局は、人間の視点から考えてみた場合の価値判断であり、結局、愛する人を守る「森」は、人間にとってよい「森」ということになる。

 この本では、以上のような視点から、行政やボランティアなどに訴えかけながら、ある種のムーブメントとしての森づくりが語られている。高橋敬一ならずとも、その真摯な発想や具体的な効用を認めつつも、結局は人間の側からの勝手な自然界へのリクエストであり、思い上がった「共生」なのではないか、と、ややニヒルな気分にならないこともない。

 わが家のネコの額よりさらに狭い庭にも、何本かの木が植えてある。ヒイラギやコノテカシワ、小さな樅の木、などに交じって、二本のビワの木がある。これは植えたのではなく、実生の木だ。つまり、スーパーで買ったビワを食べたあと、他の生ごみと一緒に庭に埋めておいたビワの種が自然に発芽したのだ。

 思ったよりはやく成長し、桃栗三年柿八年とは言うけれど、いつの間にかわが家では夏の風物詩として、毎年、大量のビワを収穫することができる。これは外来種であるかいなか、を考えたことはなかったが、本物の森、豊かな森、という範疇から考えると、すこし邪道であるのかなぁ、と、考えてみたりする。

 そのほか、子どもたちが小さい頃に、人口100万の都市に水を供給しているダムの上流の伐採あとに植樹したことがある。地元の放送局が主催したバスツアーで楽しいイベントだったが、あれから20年も経過して、いつか機会があったら、あのはげ山がどれほどの森に成長したか、見に行ってみたいとも思う時がある。

 また、仕事で関わるある企業では、マングローブの植樹活動を行っている。決して悪いことではないだろう、程度の認識ではいたが、はて、この本の著者のような視線で身の回りをみなおしたら、きっと「偽物」だらけなのだろうな、と思う。

 ただ、私は、運動や義務のような活動としての森づくり活動からは、やや距離を置いて眺めていたいと思う。ヘッセの「庭仕事の愉しみ」のような、ひそやかな個人的な営みとしての自然とのふれあいも捨てがたいのではなかろうか。

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小さな生きものたちの不思議なくらし

小さな生きものたちの不思議なくらし
「小さな生きものたちの不思議なくらし」 
甲斐信枝 (著) 2009/9 福音館書店 A5単行本: 160p
Vol.2 No803★★★☆☆ ★★★★★ ★★★★☆

 「『自然との共生』というウソ」「昆虫にとってコンビニとは何か?」の科学者としての高橋敬一の視線に比較すれば、同じ身近な自然の小さな生き物たちへ向ける喜寿を超えられた絵本作家のまなざしは、また違った趣きがある。

 私は幼いお子さんに、動物と植物の生態の違いの大本を、知識の力を借りずにやさしくお伝えしたいと願って、この絵本を作りました。p125

 この「知識の力を借りずに」というところに心打たれる。各章に挟まれるごく自然な身近な風景は、ともすればデジカメ画像で済ませてしまいそうだが、実はよくよく書き込まれている。もし目の前の風景をこれほどこまかく書きとるとしたら、どれほどの時間、その風景の前に立ち続ける必要があるだろう。

 ましてや、一瞬で過ぎ去る蝶や虫たちが、ずっとそこにとどまっているわけではない。デリケートな観察力とイメージ力が問われる。それでもなお、一枚の絵としてひとつの風景を成り立たせているのは、この絵本作家のトータル力のなせる技だろう。

 こうしてミノガはメスを求めて交尾をくりかえし、短い一生を終えるのだそうです。しかし、メスの痛ましい最後に比べればまだしもというべきでしょうか。成虫になっても観のの外に出ることなく交尾を終ったメスは、まもなく蛹(さなぎ)の殻と自分のからだの狭いすきまに卵を産みはじめます。三千くらいもの卵でからだじゅうを埋めつくされているメスは、卵をうみだすたびに少しづつ萎んでいき、産み終えるころにはすっかり萎(しな)びて小さくなってしまいます。それでもすぐには死なず、数日たってなお生きて動いているのを見るのは、世にも痛ましい限りです。p90

 老絵本作家は、顕微鏡も望遠鏡も使わず、採集も解剖もしないが、目の前の自然をこまかく丁寧に、それこそまるでハイビジョンカメラで見つめているかのようだ。

 草や虫たちの季節になると、私は、虫や野の草を観察したり写生したりするために、しばしば洛外の田園を歩きます。春を無邪気に謳歌する陽気なタンポポに比べ、立ち姿のどこやらに哀愁を含むノゲシに出会うと、ふと、動くことのできない草の哀しみを思うのです。「草も私たちと同じ生きもの同士、動くことのできない身の上を、ある日ひそかに託(かこ)ちもしようか」。そして今更、動物と植物の生態の違いのさまざまに思いを至し、創造の巧みに感動するのです。p125

 この本は著者の長い活躍の40年にわたる間に書かれた文と絵がまとめられている。著書も30冊以上に及ぶ。こちらの本からは、ファーブルではなく、どことなくホイットマンに通じる何かがあるように思った。

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2009/10/28

昆虫にとってコンビニとは何か?

昆虫にとってコンビニとは何か?
「昆虫にとってコンビニとは何か?」
高橋敬一 2006/12 朝日新聞出版 全集・双書 232p
Vol.2 No802★★★★☆ ★★★★★ ★★★☆☆

  「『自然との共生』というウソ」という本がちょっと気になったので、こちらの本もめくってみることにした。手にとってみれば、なるほど、たしかにこの本のタイトルを何処かで見たことがあるぞ、と思った。「昆虫にとってコンビニとは何か?」・・・なるほど、うまいタイトルをつけるものだ。このタイトルだけで、なんだか書いてある内容が脳裏に浮かんできそうだ。いや、自分ならこういうことを書きそうだぞ、と創造性もくすぐられる。

 こちらの本は、「昆虫にとって***とはなにか?」というシリーズで28項目に渡ってまとめられている。コンビニばかりでなく、ペットの糞、ゴルフ場、ファーブル、昆虫マニア、戦争、人間の性欲、などが槍玉にあがる。すべてが生物学者としての視線から書かれているが、それはまるで昆虫目線で書かれているので、なるほどと思うことが多い。

 前著のようなアイロニーとペシミズムはぐっとおさえられているが、人間社会に対する冷徹な目は依然として鋭い。「昆虫にとって生まれてきた目的とはなにか?」、「昆虫にとって人間の持つ価値観とは何か?」など、最終大団円にちかづくと、やはりこの人の本質が露わになり、読者としてはグっと構えたくなる。

 往々にして科学者たちは、時間と空間のスケールを極端な割合で引用する癖がある。一個の人間にしてみれば、大体測れるのは100年程度のこと。生まれたばかりの少年ならば、10年と言うスパンでも想像しにくい。あるいはそれを想像することは意味をなさない場合もある。

 宇宙の無限大の広がりや、いつかはやってくる地球や宇宙の死を、一個の人間のスケールで測ることは所詮無意味なのではないか。生活空間と宇宙空間では比較のしようがない。一個の人生と、宇宙の生と死を混同しながら説明すること自体、ちょっとしたペテンなのではないか。

 科学に遊ぶのもいいし、悠久の時間の流れに思いを馳せるのも構わない。しかし、結局、人間は人間のスケールしか持たないのではないだろうか。現代なら、せいぜい空間的な広がりはこの地球だろう。この空間とこの時間の中に生きる地球人としての生命軸を全うすれば、物事は足りるような気がするのだが。

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「自然との共生」というウソ

「自然との共生」というウソ
「『自然との共生』というウソ」 
高橋敬一 2009/04 祥伝社 新書 194p
Vol.2 No801★★★★☆ ★★★★★ ★★★☆☆

 全編アイロニーとペシミズムに彩られた一冊。

 変わることができないのなら、たとえ人間でも滅びるしかない。そしてそれこそすべての生物が受け入れてきた宿命である。
 この地球上で綿々と繰り返されてきた進化という「絶滅と誕生の物語」を、人間も受け継ぎ、次の生物へ引き渡そうとしている。人間による環境破壊が、知らず知らずのうちに新しい進化を推し進めているのだ。
 私たち人間もまた、進化という物語の中で生まれ、他の生物の進化を推し進め、そして消えていく、無数の登場人物の一人にすぎないのだという認識こそ、今、何よりも必要なのではないだろうか。
p150

 著者は、冒頭で、足尾銅山、ビキニ環礁、チェルノブイリなど、「人間が自分の手で人間が住めないようにしてしまった土地」を取り上げ、人間が住まなくなったおかげで、むしろ自然は野生の王国と化し、自然本来の姿に戻ったのではないか、と考える。自然とはなにか、人間とはなにか、共生とはなにか、が問われる。

 自分の死を常に真正面に見つめて生きるかどうかで、個人の生き方は大きく変わってくる。人間は死に方を定めることによって、初めて生き方を定めることができるのだ。
 同様に、人間という種も自らの死に方を定めることによって初めて、自らの生き方を定めることができるようになる。
 人間が、人間という種の死を見つめて生きることがもし可能となるならば、私たちの社会のあり方もまた、近い将来、大きく変わっていく可能性はあるだろう。
p164

 農学部を卒業したあと農林水産省に入省。試験場や研究センター、研究所を経て44歳で退職。パラオ共和国などボランティアとして滞在した。農学博士という科学者のひとりである。科学者である著者は、科学者たちに期待しつつも、期待できない現状に嘆く。

 この本は功罪半ばで、評価に窮す。主に東京新聞出版局「岳人」に2008/1~12に連載された文章に加筆訂正が行われている。著者の全体像を知るには、他の著書も合わせ読まなければならないだろう。

 その上でストレートに現在の印象を残しておく。このような「哲学」に至った著者は今後どうするのだろう。結局は自殺への美学へと導きだされていくのではないだろうか。あるいは、自殺願望者たちの自らの目論見の正しさを裏付けするものとして、有用な「哲学」になるやもしれない。

 巻頭にパウロ・コエーリョの言葉を引用し、全編、科学的データやルポを採用しながらも、結局は、科学とは別な結論へと流れていく。科学者としての著者は科学に絶望し、人間としての著者は人間に絶望する。宗教に望みを持つほどでもなく、またそれを軽視する。人間としての幸福や歓喜、達成感なども、著者においては、単なる愚かさの象徴とさえなる。

 この本は読むべき価値はあるが、重視すべき価値はない。
 

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道路整備事業の大罪 道路は地方を救えない

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「道路整備事業の大罪」 道路は地方を救えない
服部圭郎 2009/8 洋泉社 新書 221p
Vol.2 No800★★★★☆ ★★★★☆ ★★★☆☆

 普段からあまりまともに政治的な話題に取り組んでいるわけでもないので、細かいことは分からないが、それでも最近の鳩山政権は、かなり亀井静香に揺さぶりをかけられているように思う。民主党に期待をして投票した有権者は、議席数でいえばわずか100分の1の国民新党のこの「活躍」をどう見ているのだろう。

 もっとも、自民党政権時代においても、連立の他党の閣僚がやたらと目立ったことは確かだった。このような夾雑音は民主党としても織り込み済みなのかどうか。少なくとも、亀井静香のルサンチマンがやたらと目につくこの頃である。

 さて、本書において、「道路」とは、高速道路や国道など国が関わる道路行政のことであろうし、「地方」とは、地方行政や地方経済ということになるだろう。大筋で本書の趣旨は山崎養世の「日本列島快走論」にも通じるところもあり、また八ッ場ダムなどのコンクリートものからの脱却問題ともつならなるところがある。

 個人的には、近くの生活道路はほとんどこれでいいと思っているし、近くに信号機さえ一か所増やしてもらえば、それ以上余計なリクエストはしないでもいいと思っている。むしろ、むかしの凸凹道やカエルが鳴いていた田んぼ道が懐かしいとさえ思う。だが、まだつながっていない高速道路は早く繋がらないかなぁ、と首を長くして期待して待っている区間もいくつかある。

 ただ、ETC1000円の旅などで、他所を走って思うことはいろいろある。高速道路の対面交通の話題があったが、あれも70キロ制限がついている限り、危なくて走れない、というものでもない。無人地域にムダとも思える広い道路が二本ついているのを見たりすると、はてこれは何のため、と考えたりもする。

 道路は地域住民のためばかりではなく、道路業者のためでもあるわけだから、一概にムダとばかりも言えないが、なるほど「道路は地方を救えない」という考え方にも一理ある。だが口当たりのいいキャッチフレーズだけで全てを解決するわけにはいかない。

 本書で書いたことは、学術的に見れば試論の域を出ないレベルである。だが道路を整備することで地方が活性化するというのは早計な考えである。p213

 このような「試論」が「政策」となり、実際に実施さえるには幾多の変遷があり、その本質はどこかに消え去ってしまうことがよくある。この本の主張は、地方が栄えるとは、人が栄えることであり、道路や車社会からの脱却こそ、より地方経済も栄えるということであろう。

 コンクリートから人へ、というメッセージとともに民主党が行おうとしている政治は、これから日本に何をもたらすのか、予断はできない。少なくとも自民党政権下では行われえなかったような政策が意欲的に試みられることだろう。しかし、実験的な短期間だけの試みならば、実質的な成果を上げることなく、「失敗」に終わる「実験」も多く出てきそうだ。

 むしろ、開腹手術の途中に政治がかわり、そのまま放置されてしまような事業もいろいろ出てきそうで心配だ。まずはともあれ、安定した雰囲気の中で、透明化した議論を踏まえて、確実な「改革」が進行していくことを期待する。 

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2009/10/27

第3次オイルショック 日本経済と家計のゆくえ

第3次オイルショック
「第3次オイルショック」 日本経済と家計のゆくえ
永濱利廣 /鈴木将之 2008/11 平凡社 新書 203p
Vol.2 No799★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★☆☆☆

 すでに一年前にでた本であり、すでに旧聞に属する話題が中心となっている。時事ネタはすぐイキが悪くなる。原油価格の高騰に激動した日本社会は、この夏の政権交代劇を受けて、これからの経済見通しはどうなるのか、息をひそめて見守っている、というところではないだろうか。

 オイルに関連する話題はたくさんある。代替エネルギーとしてのグリーン・ニューディール。エコカー、太陽光発電、ハイブリット車の台頭、高速道路の土日割引や一部を除く無料化の方向。ガソリン税の引き下げ、などなど。国民ひとりひとりにとってみれば、最終的な損益はプラスかマイナスかよくわからない話が続く。

 こんな時にはよくどさくさにまぎれてトンデモない出来事が裏でひっそりと進行していることがよくある。目をぱっちり広げて、いたずらに被害者側に回るような事態だけは避けなければならない。

 脱コンクリート、脱化石燃料が叫ばれて久しい。だが、まだ本当の次のステージが見えてこない。米国オバマ大統領や鳩山政権がスタートした本年は、流動的な話題がたくさんあり、その全体像を総括する時期には至っていないが、大きく変わる可能性はまだまだ十分残されている。

 オイル問題も、ひととおり目を通しておく必要がある。

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金融大狂乱 リーマン・ブラザーズはなぜ暴走したのか

金融大狂乱
「金融大狂乱」 リーマン・ブラザーズはなぜ暴走したのか
ローレンス・G.マクドナルド /パトリック・ロビンソン 2009/09 徳間書店 単行本 399p
Vol.2 No798 ★★☆☆☆ ★★☆☆☆ ★☆☆☆☆

 どのような名門企業であろうと、どのような歴史と栄光に輝く企業であろうと、リーマン・ブラザーズという企業が日本にニュースになった時には、すでに汚濁にまみれたペテン企業になっていたのではないか。すくなくとも、どのような経済アナリストたちが誉めたたえようと、一般的な日本人から見れば、眉唾な企業であったはずである。

 その後、サブプライマルローン債権の販売にかかわる一連の出来事で見事に破滅した。その経過はすでに広く報道されているところであり、巨視的な見方をすれば、ただそれだけのことであったに過ぎない。

 この本においては、内部にいた人間が、より詳しく記録しているだけであり、その「ストーリー性」に大きな違いはない。しかし、この本をめくっていて思うのは、ひとつの出来事に対して、あまりにストーリー性を求め過ぎているのではないか、ということだ。

 本来できごとのひとつひとつには、なんの物語性はない。ただ事実が事実としてあり、物事が時系列に起き続けているだけであり、恣意的にそこにストーリー性を求めなければ、膨大な事実関係のデータが残るだけである。

 にもかかわらず、その中から特定のストーリーを創りだすというのは、あまりにアメリカ流のエンターテイメント過ぎるのではないか、と感じる。ましてやこのような「事件」をまるでエンターテイメントとして楽しむような姿勢には、共感しえない。少なくとも、この本から一体、何を学べというのだろうか。 

 この本を読んだだけでは「なぜ暴走したのか」という正しい解答はでてこない。もともとが暴走することになっていた、としかいいようがない。つまりこの本からは「再発」を防ぐ手立てなど思いもつかない。つまり企業形態がそもそもそのような特質があるのであり、そもそもがいずれは姿を消さなければならない運命にあったのである。

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国際金融入門 新版

国際金融入門新版
「国際金融入門 新版」
岩田規久男 2009/07 岩波書店 新書 236p
Vol.2 No797 ★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

このテーマのような本は得手ではないが、仕事柄基本的な知識は知っているつもりでいる。この本はもともと1995年4月に出たものであるが、昨年のリーマン・ブラザーズの破綻し世界恐慌が起こったことを契機に大幅に書き換えられて、「新版」として再販された。

 基本中の基本であれば、この本に目を通しておけば、ひととおりの国際金融の仕組みや制度、歴史について把握していることになり、専門家でもないかぎり、それ以上の範囲拡大をはかる必要もないだろう。

 ただ、もう少し実際にどのような本が出ていて、どのようなことが描かれているのか、知っておきたい、という野次馬根性はある。

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「世界大不況」は誰が引き起こしたか 米国「金融エリート」の失敗

「世界大不況」は誰が引き起こしたか
「世界大不況」は誰が引き起こしたか」 米国「『金融エリート』の失敗
ジョン・カシディー /松村保孝 2009/09 講談社 単行本 208p
Vol.2 No797 ★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 最近ある取引が成立した。ちょっと前に、古書店で珍しい本を見つけ、意外に安い値段だったので2冊組本を購入しておいた。それぞれ数百円だったが、すでに出版元にも在庫がない。一般的な本でないのだが、好事家たちには人気があり、ネット上においてかなりの高額で売買されている。かつて、この本については当ブログで触れたこともあった。

 その書き込みを見た見知らぬ方から、譲ってくれないか、という問い合わせがあった。おや、とは思ったが、もともと資料として必要かなと思っていただけで、永遠に所有しようと思っていたわけではない。申し出にそって手放すことにした。相手も正価の何倍もの買値を提示してきていた。

 そこで、ネットの流通価格を見ると、なんと、もっともっとかなりの高額であることがわかった。古書として数百円で購入したものであるが、キチンとした流通サイトでも2万弱の値段がついている。びっくりしたものの、はて、その値段ではネットで購入したほうが早いと判断されてしてしまうかもしれないと思い、その半値を返答した。

 相手の言い値より倍になったが、ネット価格よりは半値だ。その結果、この取引は見事に成立し、私の手元には差し引き1万弱の現金が残った。いつもはネットオークションなどもほとんど買い手ばかりを演じている私ではあるが、今回ばかりは、売り手として手元に利益が残ったということである。

 逆の現象もある。訳あって、Win98時代のノートパソコンを5台ほど所有している。Win2000をインストールすれば、まだまだ使える人気機種で、ほとんどをネットオークションで落札して使ってきた。かなり大好きな機種なので、もともと30万ほどしたパソコンが、数万で手に入るという快感はたまらなかった。

 しかし、新機種に替えたためにそろそろ古いパソコンは処分しようかな、とネットオークション出品のため流通価格を調べてみて、愕然となった。数か月前までは少なくも数千円、うまく行けば小一万で流通していたはずのこの機種が、一段と底値になっていた。どうかすると、100円でも売れ残っているのである。

 これを売ればなんとか小遣いの足しになるはずと見込んでいたわが目論見はみごとにはずれてしまった。私は、これらの中古パソコンの売り時を間違ってしまったようだ。いまじゃ、処分料を追加して引き取ってもらわなければならない(笑)。もっとも、これらはまだまだ使えるので、他の使い道を考えようと思う。

 とまぁ、こんな頓珍漢な生活を送っている私にとっての、損得勘定は、せいぜい数千円から数万円と、なんともつつましいものであるが、売り手と買い手がある限り、これらの取引が成立する社会の自由は守られなければならない、とは思う。

 自由、平等、友愛、という、やや古びた言葉が、鳩山政権の成立とともに復活してきたが、ここで言われるところの「自由」の象徴的な出来事がグローバル金融の世界で起こっていたことであろう。いや、現在も懲りなく続いている。

 この本はタイトルからイメージするよりも、内容は極めて人間的なストーリーが展開されている。アメリカの週刊誌「ニューヨーカー」に掲載された記事が何本かまとめられ、伝説的なトレーダーなどの姿が興味深げに描かれている。いわく、ヘッジファンド・マネージャー、メリルリンチ前会長兼CEO、Fed(連邦準備制度)議長・・・・。

 公的な仕事風でもあり、理性を求められる仕事でもあるようでもあるが、結果としてはネコに魚の番をさせているようなもので、ネコに魚の番を頼んだほうが悪い、ということになる。自由社会のひとつの結末である。しかし・・・、それでいいのか。「平等」や「友愛」側からの照射が必要とされる。

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2009/10/26

ウィキペディア・レボリューション 世界最大の百科事典はいかにして生まれたか

ウィキペディア・レボリューション
「ウィキペディア・レボリューション」 世界最大の百科事典はいかにして生まれたか
アンドリュー・リー /千葉敏生 2009/08 早川書房 新書 443p
Vol.2 No796 ★★★★★ ★★★★★ ★★★★☆

 当ブログでは「クラウド・コンピューティング」というカテゴリを作ってネット関連の書き込みを入れておいたが、最近「クラウドソーシング」という別概念があることを知った。日本語においては同じ「クラウド」というカタカナになってしまうが、片やCloud Computing(雲の上のコンピューター)であり、片やCrowdsoucing(群衆の知恵)であり、まったく意味は違う。当ブログとしては、肩入れしたいのは、当然のごとくマルチチュードと通底しそうなクラウドソーシングの方である。

 混乱するといけないので、今後、当ブログとしては、この二つの言葉をきっちり使い分けして行こうとは思うが、この混乱(笑)に乗じて、当ブログとしてのカテゴリ名を「クラウドソーシング」と変更することにする。その方がなんだか楽だ。

 この本の中にもクラウドソーシングの単語がしばしば登場するし、ある意味では、この本はまさに、そのクラウドソーシングそのもののウィキペディアに焦点をあてている。ウィキペディアについてはもう繰り返すこともあるまい。当ブログでも何冊かペラペラとめくってきた。

「ウィキペディア完全活用ガイド」 2006/12

「ウィキノミクス」2007/06

「グーグルとウィキペディアとYouTubeに未来はあるのか?」 2008/06

「ウィキペディアで何が起こっているのか」  2008/09

 なんでもかんでもレボリューションと名付ければいいものでもないが、カウンターカルチャーとしてのコンピューティングの流れのを汲むものとして、確かにインターネットからフリーソフトウェア、リナックス、のあとにくる大きな成果物のひとつはウィキペディアだ。社会全体、インターネット社会全体の中でのと言えばおこがましくても、少なくとも「百科事典」の中でのレボリューション、ということでいえば、たしかにこれはレボリューションそのものだ。

 日本語版ウィキペディアの大きな欠点は、登録ユーザーが少ないため、ウィキペディア・ユーザーの国際コミュニティや、全プロジェクトを取りまとめる非営利のウィキペディア財団への参加が少ないことだ。p285

 グローバルなプロジェクトであるウィキペディアだが、言語圏におけるそれぞれの事情がある。アメリカ版と英国版など、おなじ言語と思われるものでも、米語と英語の違いがある。ましてや政治的な体制の違いがあり、中国やアフリカなどの、それぞれのお国柄の違いが表れていて、なかなか興味深い。いずれは全体としてゆるく繋がり、均質的な部分を維持しつつも、それぞれの違いを際立たせていくことになるのだろう。

 日本のオンライン活動に大きな影響を与えているサイトに、「2ちゃんねる」がある。2チャンネルは、匿名の投稿で有名なサイトである。日本のウィキペディア編集者があえてユーザー名を登録しようとしない理由のひとつとして、自分の身元を明かさない2ちゃんねるの「完全な匿名性」の普及が挙げられることが多い。p284

 ネット上の匿名性はメリットでもありデメリットでもある。日本には2ちゃんねるがはびこってしまったがゆえに、ネット上にいかにも日本的な陰湿な文化が育まれている、と考えることもできる。そういう意味では、現在の日本のSNSである「mixi」独り勝ち状況も、あとあと考えると、メリットとデメリットが生まれてきそうだ。かつて日本のパソコン界にNECの98シリーズが大きく幅を利かせたことがあったが、あのようなドメステッィクな踊り場状態が生まれている。

 本書は、アメリカのサイエンスライターの手による本のほとんどがそうであるように、微に入り細に入り書き込まれ過ぎていて、やや冗漫なところがある。日本の「新書」ならこの3~4分の1の分量で、さっさと本論だけ書いて済ましてしまうだろう。そうでないところがいいところでもあるし、悪いところでもある。

 ウィキだけじゃなくて、パソコンやインターネットの歴史の中から生まれたウィキぺディアというものを理解したければ、この本はうってつけであるが、もうすでにその概略を知っている読者にとっては、また同じ内容のストーリーに付き合わされることになる。

 かくいう私もウィキぺディアにIDを登録してはいるが、読者としての活用ばかりで、書き手としての参加はこれからである。ウィキペディアにかぎらず、クラウドソーシング、としてのグローバルなネット社会への参加は、決してうまく行っているとは言えない。模索中。これから乗り越えられるべき課題は大きい。

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2009/10/25

内臓脂肪がぐいぐい減る歩数計ウォーキング

内臓脂肪がぐいぐい減る歩数計ウォーキング
「内臓脂肪がぐいぐい減る歩数計ウォーキング」
フィールファインプラザ 2008年04 アスキー・メディアワークス /角川グループパブリッ サイズ: 新書 189p
Vol.2 No795 ★★★★☆ ★★★★☆ ★★★☆☆

 このところ、なんとなく健康が優れない。いくつかの原因がある。通っていたプールが社会保険庁の管理だったので、最近閉鎖になったこと。ボランティア活動で続けていた河原清掃を最近はやっていないこと。そして、何といっても自らの老齢化。最近の健康診断の数値的にみてもいまいち不健康な自分を確認する。正式な医師の診断を受ける前に、すこしは自分なりに改善計画をたてておかなくてはなるまい。

 なにはともあれ、白髪もほとんどなく、なんとなく童顔のジャニーズ系(←ウソ)なので、若いと周囲からおだてられることが多いので手抜きになっているのだが、実はかなり身体は老齢化している。体年齢は実年齢より10才ほど先を行ってしまっているかのようだ。

 ダイエットやウォーキングは、かつてこの10数年ほど、飽きるほど(実際飽きたがw)チャレンジをした。数か月から半年はモチベーションを維持するのだが、気がついてみれば、毎回毎回もとの黙阿弥。結局、大きく振れた振り子が極限状態になったところで、また新たなるダイエット計画がスタートする、ということになる。

 今回も新しいプロジェクトが必要になってきたようだ。しかし、年々、残された作戦は少なくなりつつある。どうもいまいち、どの作戦も納得がいかない。今年はどうしようか、というところで、さっそく近くの家電店に行ってみた。

 で、そこで見かけたのが、パソコンと連動できる血圧計。血圧計も兄弟から借りて何カ月も継続して記録してきたが、これが一定程度安定すると、すぐ飽きてしまう。だいたいに於いて、膨大になってしまうデータの管理が面倒くさい。だからやめてしまう。やめてしまうと、管理が行きとどかなくなり、結局不規則な体調になっている。そのことが検査結果で分かり、また健康チェックに逆戻り、ということを繰り返してきた。

 今回のこのパソコン連動型血圧計はなかなか具合がいい。もちろん、日に何度かは計測しなくてはならないが、メモが必要ない。プリンターでいちいち打ち出すのではなく、USBコードでつないで、パソコンで一括管理するのである。これがなかなかすぐれもの。本体も小さく、外出時も携帯して測れるから、あとは帰宅して、パソコンにデータを読み込んでおく。具体的な対策はなかなか進まないが、まずは記録するだけでもダイエット効果はあるはず。

 そしてさらに追加したのが、同じ医療機器メーカーの体重計。おなじみの体重計だが、これが結構誤差があり、あまり励みにはならない。温泉などに備え付けてあるものは、すこし数値が控えめにでるようにしているのではないか、と疑うほど、ぐっと減る時がある。自宅で測りなおすと、むしろ増えていたりする。いちいちがっくり来る。

 今回そろえた体重計は、体脂肪計とか、体年齢とかもでる。しかもこれが歩数計と連動して、パソコンにデータを取り込めるところが味噌である。いちいちペンを持って記録しなくていいばかりか、数週間単位で記録できる。あとは、まとまったものをパソコンで管理すればいいのだ。

 あまり直視したくないわが体形だが、すこし目先を変えて、なんとか今回も健康管理チェックにチャレンジしょうかな、と思う。

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2009/10/24

はじめて出会う平和学―未来はここからはじまる

はじめて出会う平和学
「はじめて出会う平和学」 未来はここからはじまる
児玉 克哉 (著), 中西 久枝 (著), 佐藤 安信 (著) 2004/12 有斐閣 単行本: 300p  
Vol.2 No794 ★★★★☆ ★★★★★ ★★★★★

 執筆陣は違うが、内容的には「新・平和学の現在」とほぼ同じ。かたや現状のレポート的であるのに比して、こちらは、よりカリキュラム的である、と言ったらいいだろうか。この本の著者たちは、1959年生まれ、1957年生まれ、1958年生まれと、若い。少なくとも、「戦争を知らない子どもたち」の世代であり、第二次世界大戦を体験していないし、もちろん、直接的な戦争責任はなさそうだ。

 しかし、彼らは「平和学」を自らのメインのライフワークとして位置づけ、真正面から取り組んでいる。

 平和学は、学問のための学問ではなく、希望を創るための学問であるべきである。この意味において、平和学の実践性は、平和学が平和学であるための重要なポイントである。p9「平和学を学ぼう」

 本書は、いかにもカリキュラムらしく、各章のあとに演習問題がついている。興味深いので抜き書きしておく。

第1章 演習問題 p32

1)ナチス・ドイツがユダヤ人を大量虐殺した理由について考えてみよう。いったい何があの大虐殺を生んだのだろうか。

2)ラウル・ワレンバーグ、杉浦千畝、コルベ神父の生き方についてさらに詳しくしらべてみよう。

3)人権擁護の国際NGOにはどのようなものがあり、どういった活動をしているか調べてみよう。

第2章 演習問題 p53

1)アメリカがヒロシマとナガサキに原爆を投下した理由は何であろうか。考えられるものを挙げて、どれが本当に重要であったかを議論しよう。

2)広島・ナガサキでの被爆以外での核による被爆者にはどのような人がいるのか、調べてみよう。またそうした被爆者の現状についても調べ、考えてみよう。

3)広島と長崎への原爆投下以降約60年ものあいだ、核爆弾は実際には使用されなかった。なぜ使用されなかったと思うか。


第3章 演習問題 p71

1)日本はなぜアジアの国を侵略したのか。どうしたら避けられたと思うか。

2)冷戦時と冷戦後の武力紛争の特徴を比較しよう。

3)世界の紛争に対して国連はどのような役割を演じてきたか、冷戦時と冷戦後で違いがあるか、具体的に調べてみよう。

第4章 演習問題 p88

1)ガルトゥングのいう構造的暴力にはどのようなものが含まれるだろうか。考えられるものを挙げてみよう。

2)冷戦時代における資本主義世界での「中枢」国と「衛星」国、社会主義世界における「中枢」国と「衛星」国について具体的に挙げたうえで、それらの役割について考えてみよう。

3)平和学とエコロジー(環境学)、フェミニズム(女性解放学)との類似点を考察してみよう。

第5章 演習 p108

1)南北問題が紛争の構造的要因の1つとされる。なぜ南北問題が発生するのか。どうしたら解決できるだろうか。

2)紛争と開発は相互に関係しているといわれる。具体的事例を調べてみよう。

3)人間の安全保障論は人間中心の開発論を基礎に生まれたとされる。人間の安全都は具体的にどのようなことなのか考えてみよう。

第6章 演習問題 p126

1)日常生活にどのようなジェンダー差別があるか。またそれらは、戦時中、戦争後にどのような強化されるか。

2)女性のエンパワーメントは、なぜ紛争防止になるのか。本章にでてくる以外の事例を調べなさい。

3)紛争後の社会が復興し、平和な社会に移行するためには、どのような社会のしくみがつくられるべきか、日本の戦後復興を例に、そのメカニズムを分析してみよう。

第7章 演習問題 p145

1)外国人にも参政権のある国はどれだけあるだろうか。また日本における参政権議論は現在どういう状態にあるのだろうか。

2)日本で生活している外国人にはどういう国籍の人がいるか調べてみよう。

3)外国人が多くなるとよくなる点はどういうことが考えられるだろうか。単一的民族国家といわれた日本が多民族化していく意義について考えてみよう。

第8章 演習問題 p165 

1)難民を保護する国際的なしくみはどのようなものであるか、その意義と限界は何か。

2)日本の難民保護政策にはどのような問題があるか調べてみよう。

3)難民問題を解決するにはどうしたらよいか、身近なことでできることはないか考えてみよう。

第9章 演習問題 p184

1)日本における酸性雨の被害はどの程度になっているのだろうか、現状をしらべてみよう。

2)日本の風力発電の現状を調べ、今後の可能性について考察してみよう。

3)国際的な環境保護NGOにはどのようなものがあるかを調べてみよう。日本にある環境保護NGOについてもどのような活動をしているか調べてみよう。

第10章 演習問題 p207

1)日本が抱える国境問題、つまり北方領土、竹島、尖閣列島について調べてみよう。日本政府と相手政府との主張の相違はどこにあるのか。

2)カシミール問題の歴史的な背景について調べてみよう。

3)日本の専守防衛政策とはどういうものか。歴史的背景や現在の意義と問題点について議論しよう。

第11章 演習問題 p225

1)現在の紛争や戦争の特色は何か。それらは、冷戦時代の紛争や戦争とどう違うのか。

2)アフガニスタンの復興への道は、何が条件になると考えられるか。また、その条件はどのようにしてつくりうるか。

3)パレスチナ問題は、なぜ解決が困難なのか。アメリカの中東政策が冷戦期、冷戦後どのように変わったか、また何が変わらなかったのか、調べてみよう。

第12章 演習問題 p244

1)PKOはどのような背景ではじまったのか。その意義と限界を考えてみよう。

2)国連の抱える過大はどのようなものであるか。どういう解決がありうるだろうか。

3)国際機関における日本の役割を具体的に検討してみよう。

第13章 演習問題 p259

1)日本に事務局を置く国際NGOのなかで、国連と協議資格を持つものには何があるだろうか。

2)オタワ・プロセスで重要な働きをした国際NGOの地雷禁止国キャンペーンについてさらに詳しく調べてみよう。どのような活動をしたのだろうか。どのような人が入っていたのだろうか。

3)インターネットが地球的なレベルでの市民活動に与える影響について考えてみよう。どういう変化が起きているだろうか。今後どういうことができると思うか。

終章 演習問題 p277

1)日本にある平和ミュージアムにはどのようなものがあるだろうか。どこにあり、どのような展示や活動をしているのだろうか、

2)日本でのNGOが提供しているスタディツアーにはどのようなものがあるだろうか。どのようなプログラムが組まれていて、どのくらい費用がかかるかなどについても調べてみよう。

3)参加型学習の問題点や課題は何だろうか。困難さや欠点などを挙げてみよう。また、どのようにそれらを克服することが考えられるだろうか。

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2009/10/23

新・平和学の現在

新・平和学の現在
「新・平和学の現在」
岡本三夫 /横山正樹・編 他6人共著 2009/09 法律文化社 単行本 264p
Vol.2 No793 ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

 寡聞にして「平和学」というものが存在していることを知らなかった。なんだか「平和」と「学」がぴったりマッチしているとは言い難い感じがした。「サザエさん学会」とか、「と学会」とか自称するものがたくさんあるから、なんでもかんでも、語尾にシャレで「学」をつければ、それなりに、知の遊びができるのかもしれない。

 でも、はて、平和・学、とは、ちょっとシャレで自称することは通常ならはばかれるのではないか。そう思ってページをめくり始めたのだが、これが実に大真面目な本で、すでに数十年の歴史があり、実際に大学などで教えられている立派な学問であった。

 平和の実現には平和の種が蒔かれ、育成されねばならないが、そのためには平和研究の充実が重要である。平和研究が解決をめざしているこれらの課題を研究と教育の視点からカリキュラム化したものが平和学(Peace Studies)であり、欧米では小学校レベルから大学レベルまで広く見られる現象である。p5「平和研究のカリキュラム化」

 本来、教育とは押し付けられるものではなく、引き出されるものであると思うが、未来において、地球人がもし義務教育のカリキュラムを組むとしたなら、この平和学こそ、ぜひとも採用されなければならないだろう。

 不可解なのは、どういうわけか、日本の大学には平和学部や平和学科がいまだに生まれていないことである。英国、米国、カナダ、ドイツ、オランダや、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、フィンランド等スカンディナビア諸国の大学には平和学部や平和学科があり、平和学を専攻して、平和学の分野で学士・修士・博士の学位を取得することができる。卒業生たちは広く政治、経済、外交、教育などの分野においてはもとより、ユネスコなどのさまざまな国連機関、テレビ、ラジオ、新聞などのマスコミ分野、NGO関係の諸分野で働いており、他分野の卒業生と互角の、あるいは彼女ら・彼ら以上の、社会的貢献をしている。p21「平和学部創設の必要性」

 この本はタイトルに「新」とうたっているところからわかるように、旧版は1999年に出版されている。今年の9月に大幅に改訂されたものであり、また2005年には姉妹編の「平和学のアジェンダ」が出版されている。機会があったら、そちらにもあたってみたい。

 従来の理解では、平和とは単に戦争・紛争のない状態のことだった。それに対してガルトゥングは、平和を暴力の不在とおき、次のように論じた。
 人間あるいは人間集団の、身体的、あるいは精神的な自己実現の現状が、その人たちの潜在的な実現可能性以下に抑えられるような影響を受けているならば、そこには暴力が存在する。暴力とは、実現するはずのものと実現したもの、あるいは達成されるべき状態と現実の差異の原因と定義される。暴力とは実現可能性と現実との差を拡大し、また、この差異の縮小を妨げるように作用する。
p45「暴力の不在としての平和」

 この本は、平和学の「現在」がまとめられているのであり、平和学そのもののカリキュラムではない。だから実際の学問としての内容はわからない部分も多いが、大いに刮目すべき点が多く語られている。こういう学問があったことを知って多いに感動した。当ブログが例年やっている年半期ごとの「新刊ベスト10」というシリーズがあるが、、この本は、今年後半のベスト本の一冊として記録しておきたい。

 「・・・ジェンダー、フェミニズム、エコロジーの観点から『核文明社会』を批判し、『核のない世界』と『共生』への道筋を見いだすことが21世紀の平和学の課題であるといっても過言ではない」と臼井久和は『平和学』という編著書の終章でいっているが、平和学が、臼井論文にあるキーワードを共有しつつ、いわば「制度疲労」状態にある現代社会へのオルタナティブを追求しつつあることは確かである。p259「おわりに---『ソフトパワー』の時代がやってくる」

 平和学はかなり学際的であり、網羅的であり、実際的である。しかし、逆に非実用的なもの、たとえば脳科学的な抽象概念などを注意深く排除してしまっている感じもしないわけではない。当ブログとしては、これら二つの視点の融合の可能性を考えながらも、今後もこれらのテーマに関心を寄せ続けようと思う。

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2009/10/22

今さら聞けないクラウドの常識・非常識

今さら聞けないクラウドの常識・非常識
「今さら聞けないクラウドの常識・非常識」
城田真琴 2009/10 洋泉社 新書 221p
Vol.2 No792 ★★★★★ ★★★☆☆ ★★☆☆☆

 「今さら聞けない」とか「サルにもわかる」とか、10年前ならパソコン関係書物のタイトルとしてはかなり闊歩したコピーではあったが、ここに来て、ましてやクラウド・コンピューティングの解説書として書かれているとすると、はて、中身も陳腐なのではないか、と思ってしまう。

 この10月にでたばっかりだし、クラウド・コンピューティングも話題と言えば話題である。まして、レポートされている内容は、最新のものであろう。しかし、クラウド・コンピューティングという概念は、どこか陳腐なのではないか、とはてな?マークがつく。

 巨大コンピュータが中心に鎮座ましまして、末端がつながる、というのがもともとのコンピューターの姿だった。その姿を根本から変えたのがインターネットだった。集中から分散へ。限りなく分散されれば、一個人としての自由度は限りなく拡大する。分散されればこそ一個人のもとにコンピュータはやってくる。

 もともとスタンド・アロンであったパーソナル・コンピュータは、日本で最初マイ・コンピュータという形で工作キットとして販売されたように、それは限りなく個人的なものだった。それだからこそ爆発的な流行になり、周辺機器も激安化した。

 そして、それがインターネットとして繋がったがゆえに、さらに実態化した。新しい形で展開したパソコンの世界だったが、ここに来て、ひとつひとつのパソコンを単に入力端末として劣化させて、中央コンピュータを巨大化しようというのが、クラウド・コンピューティングの実態だ。またまたモンスター・サイエンスが首をもたげ始めたのではないか、と私なら違和感を持つ。

 最近、ウィニーの開発者が高裁で無罪を勝ち取った。検察側が控訴して最高裁判所にまでいく争いなので、最後の結論がでるまで、その動向が注目されるが、当ブログとしては、このウィニーのようなP2Pシステムに一筋の光を見る思いでいる。P2Pがどのように使われ、どのような「非合法」的傾向性があるのか知らない。あるいは技術的な疑問点もどのようなものがあるのかは知らない。しかし、一元的ななし崩し的なクラウド・コンピューティング化は拒否したい。

 この本はそのクラウド化の「メリット」ばかりを連呼する陳腐なセールスマン風情であるが、「クラウドの衝撃」のようなしっかりした関連本を持っている著者は、その「デメリット」についても書いている。いわく・・・

1)セキュリティ

2)プライバシー

3)データの保管場所が不明

4)ネットワークの待ち時間

5)相互接続性

6)信頼性   p152~159

 よく一長一短と言われるが、私には一長九短に思える。ここに書かれている「デメリット」の方がはるかに「メリット」を上まわる。著者は、クラウドの身近なサンプルとして、Googleのg-mailから話を展開するが、私はそもそもこのg-mailには登録しているが、個人としては、このメール機能を活用していない。その理由は、ことごとく、上の1)~6)に連なるデメリットによる。

 自分が関わる企業が、数年来に社内の端末をすべてハードディスクのないパソコンに切り替え、100%自社クラウド化すると発表した。関連事業を営む身としては、その影響を受け、関連業務は今後限りなくクラウド化するだろう。その「メリット」は確かにある。一定条件つきなら、これが100%の正解だ。

 しかし、個人として使うパソコンは、もっと自由度があっていい。数万台とも数百万台とも言われるクラウド会社の巨大サーバー群は、税金の安い立地条件を求めて、徘徊しはじめているという。サーバーの熱を冷ますため、寒冷地が好まれ、グリーンランドとか北海道が候補地になっているともいう。

 クラウドを運営する側ではそれは正しい論理だろうが、発熱量は全体として変わらないので、それは最終的なソリューションにはならない。地球の温暖化を加速する。

 クラウド・コンピューティングに対して、以前として当ブログは懐疑的である。集中・巨大化の「伽藍」パワーの再結集のように見えるクラウド化。だが、時代はこれでは終わらないだろう。分散・自立化である新たなる「バザール」派の回復を待ちたい。

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2009/10/21

オバマ大統領がヒロシマに献花する日<1>

オバマ大統領がヒロシマに献花する日
「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」 相互献花外交が歴史和解の道をひらく<1>
松尾文夫 2009/08 小学館 新書 220p
Vol.2 No791 ★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 高校を卒業したばかりの時、ヒロシマに行ったことがある。バックパッキングのヒッチハイク日本一周旅行の途中に寄ったのだった。小さなテントを平和公園の中に張り、数日過ごした。もう37年前のことだ。思えば、それは1972年、終戦後27年目のことだった。

 あの時でさえ、すでに私たち若い世代は「戦争を知らない子どもたち」を自称していた。それのに、あれからさらにダブルスコア以上の日時が過ぎても、ヒロシマの惨禍は消えずに残っている。

 私の住んでいる、自分が生まれ育った町の名前がカタカナ書きになって世界に有名になることはない。だが、この町にもたくさんの戦争の悲話がうず高く積まれている。決して大きな話題になることはないが、それでもいまだに体験者たちは、鮮明に当時の話を苦悩を込めて語る。地球上の最も悲劇的な出来事でもあったヒロシマで、何が起こったのか、正直言って、私には想像さえできない。

 あの旅で、ナガサキにもオキナワにも行った。あの時の18才の少年として見た体験は、一訪問者としての小さな体験ではあったが、いまだに記憶に鮮明にある。何事が起きたのか。確かに、その事が起きた時、そこに私はいなかった。確かにそれは私が生まれる前のことで、一人の人間として、何事もし得ないような、虚無感を持つしかなかった。

 2009年秋以降にも実現する可能性があるオバマ大統領の初めての日本訪問の際に、あるいは日本政府が主催を提案している2010年以降の軍縮会議に参加する際などに、広島訪問、献花が実現するのではとの期待が一気に高まっている。内外の識者の間にも支持の声がひろがり、「世界の核軍縮促進のために強力で象徴的な行為だ。広島、長崎訪問をオバマ大統領に促す書簡を送るし、すでにアメリカ政府には伝えてある」(ロルフ・イケウス・ストックホルム国際平和研究所会長、2009年5月2日付「毎日新聞」)といった具体的な発言も出はじめた。p25

 「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」。なんという詩的なひびきだろうか。実現すれば、まさにオバマ大統領に贈られた2009年ノーベル平和賞にまさにふさわしいシンボリックなイベントになるだろう。しかし、物事は必ずしも、メルヘンティックなハッピーエンドで終わると限らない。

 同時に、日本側は、このアメリカ大統領の「広島の花束」に対応して、首相が「真珠湾の花束」でこたえねばならない、というのが私の提案である。場所は、アメリカ人にとって、あの戦争のシンボルとしての彼らの記憶から消え去ることのない真珠湾攻撃の現場、今もアメリカ兵1177人の遺骨が眠り、油が浮き出す戦艦アリゾナ残骸上に建つアリゾナ記念館しかない。p9

 被害者意識としての日本にしてみれば、アメリカ大統領が広島に献花するということは、ぜひしていただきたいことだ。しかし、加害者意識として、真珠湾のアリゾナ記念館を思い出す日本人はどのくらいいるだろうか。

 「戦争を知らない」戦後生まれの私たちでさえ、太平洋戦争のことなどよく分からなくなっている。私たちよりさらに若い年下のオバマ大統領に、個人としてのどのような責任があるというのだろうか。

 真珠湾には行ったことないけれど、グアムに行ったときに、戦争の痕跡を見せられたことがある。あれから64年も過ぎて、なお、人類は、その惨状を理解できず、ぬぐいきれない暗い記憶にかきむしられている。

 著者は1933年生まれで現在76歳。

 太平洋戦争の敗戦から60年の夏を迎えた2005年8月、私は、あの戦争の悲惨さと愚かさを経験した最後の世代の一人としての思いを込めて、日本とアメリカの世論に対し、日本語と英語の両方で一つの提案をした。p8

 オバマはアメリカ大統領としてヒロシマに行くのではないだろうか。鳩山は日本の首相として初めて真珠湾を訪れ献花するのではないだろうか。そうあってほしい。すでに消えつつある前世代の犯した過ちであったとしても、同じ地球に生きる人間同士として、それは美しい光景のように思う。

 だが、それは単にセレモニーになってしまうだけなら、偽善の上塗りになってしまうだろう。それは未来に向かっての重い決断と、新しい時代への宣言にならなければならない。

 著者は、本書において、たくさんの戦争について語る。そして献花しあう必要があるのは、必ずしも日米間だけでないという。中国や韓国、北朝鮮、その他、周囲の国々との相互の献花が必要だと語る。

 「相互献花外交が歴史和解の道をひらく」

 この提案を重く受け止める必要がある。

<2>につづく

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新版 民主党の研究

新版 民主党の研究 (平凡社新書)
「新版 民主党の研究」 
塩田 潮 (著) 2009/07 平凡社 新書  358p pages
Vol.2 No790 ★★★☆☆ ★★★☆☆ ★☆☆☆☆

 「新版」とはいうものの、オリジナルは2007/12にでたものであり、改訂版が2009/06にでたものの、政権交代どころか、鳩山民主党のスタートもおぼつかない地点であったので、この8月の総選挙で「政権交代」が現実化する前の状況を描写する時点で終わっている。

 政権交代が実現してみれば、民主党が掲げた「マニュフェスト」の実行に向けて、各論的なドタバタ劇が続々と報道されており、「政局的」な話題はすっかり引っこんでしまった。現在の自民党ではなんとも情けないし、社民、国民新党なども、ひたすら個人プレーにたよって存続を図っている段階だ。公明、共産は、相変わらずのスタンスを維持しながらも、影が薄れてしまっていることは間違いない。

 この本はひたすら「政局」的視点からのレポートであり、全体としては漠然とながら、一般的な国民でも理解していることを、ひとつにまとめてコンパクトに提供しているだけである。巻末に掲げられている60数冊の参考資料を一冊一冊読み込んでいけば、さらに克明に日本政治の民主党にまつわる政局を理解するには資するところ大きいだろう。

 だが、この本を読んでいると、結局は、鳩山、管、小沢、などを中心とした政局ばかりが中心になっていて、「政策」論がほとんどない。いざ、政権交代が実現してみると、八ッ場ダム、高速道路無料化、子ども手当、沖縄基地問題、羽田ハブ空港化、年金問題、消費税、郵政問題、地球温暖化、CO2削減、などなどの、個別的な「民主党」についてはほとんど「研究」されていない。

 「リベラルは愛である。私はこう繰り返し述べてきた。ここでの愛は友愛である。(中略)自由主義と市場経済の釈迦的公正・平等。つきつめて考えれば、近代の歴史は自由か平等かの選択の歴史といえる。自由が過ぎれば平等が失われ、平等が過ぎれば自由が失われる。この両立しがたい自由と平等を結ぶかけ橋が、友愛という精神的絆である」
 鳩山が著した前掲の「わがリベラル・友愛革命」と題する冊子にこんな一文がある。
p54 「違う星から『宇宙人』」

 アントニオ・ネグリ&マイケル・ハートの「<帝国>」において、マルチチュードが獲得すべきは、憲法、貨幣、武器、であるとされている。かつて鳩山由紀夫の政治哲学を揶揄して中曽根康弘は「ソフトクリームみたいなもの。甘くておいしいが、夏が終われば溶けてなくなる」p30と言ったとされる。これに反して、のちに鳩山は、芯ができてアイスキャンディーくらいにはなった、と反論したとされるが、なにはともあれ、「友愛」の一言だけで、政治の世界が片付くとはとても思えない。

 国連を中心として、未来的に世界政府が樹立される日が来るとして、「友愛」精神は重要だとしても、憲法、貨幣、武器、についての視点をキチンと確立しておかないことには、本当の現実的な話にはならない。いずれもが避けて通りたくなるようなテーマではあるが、直面しなければならない。

 沖縄問題を考えるとき、「武器」を考えなくてはならない。「すべての武器を楽器に!」と唱えて参議院議員になった沖縄のロック歌手がいたが、はて、このスローガンでコンサートしただけでは問題の解決にはならない。残念ながら、「武器」は無くならない。少なくとも無くなっていないし、無くなる傾向もない。オバマも核兵器削減を宣言したが、それは増えすぎている傾向に抑制をかけようというだけである。

 国民の多くは、民主党の政権交代を支持している。少なくともこれから4年は民主党政権が続くはずだ。いや続いて欲しい、と願っているのがほとんどだろう。なぜなら、いままであまりにも自民党の末期的症状がひどすぎたからだ。だが、「寄せ集め」政党の民主党の先行きは決して安泰ではない。つねに分裂や自滅の可能性は残っている。

 しかし、まずは安定政権の中で、ひとつひとつの政策の是非について、じっくりと議論・実行し、成果が挙げられるべきであろう。

 いまや政党としてのガバナンスもないと酷評される自民党だが、国会での両院支配という多数に支えられていただけで、党自体が具有していたと見られた政党としての政権担当能力は、実は幻であった。その点だけ見れば、同じように民主党が両院支配を実現すれば、自民党並みの政権担当能力を発揮するのは困難ではないだろう。p343

 小沢一郎は、「国民が主権者としてできる行為は、唯一選挙だけなんだから。選挙こそが民主主義の根幹だよ」と言ったとされる。本当だろうか。あとは数的に参院も抑えてしまえば、「民主主義」は完成するのか。この辺はなんとも怪しい。

 この本にはインターネットグーグルも、ウッドストックジョン・レノンも、オバマCO2削減問題も、瞑想も、脳科学もでてこない。ひたすら日本の政局の話だ。それ以上なにを望むのか、と言われればそれまでだが、しかし、当ブログの中でこのような本を読むとすれば、いかにこの本から「ひとつの世界政府」につながり、新しい「黄金の未来」へと続いていくか、という可能性をさぐるためだ。

 そういった意味では、日暮れて道遠しの感はぬぐえない。加藤和彦が亡くなった。仔細は分からないが、この世で、もうやりたいことはもうなくなった、という心境にだけはなりたくない。このたった一つの地球に生きる、この地球人たちにとって、やりたいこと、やらなければならないことは、まだまだ残されている。

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2009/10/20

単純な脳、複雑な「私」 または、自分を使い回しながら進化した脳をめぐる4つの講義

単純な脳、複雑な「私」
「単純な脳、複雑な『私』」 または、自分を使い回しながら進化した脳をめぐる4つの講義
池谷裕二 2009/05 朝日出版社 単行本 414p
Vol.2 No789 ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

 20年前に卒業した母校で、著者が後輩の高校生たちに語る、脳科学の「最前線」。
 切れば血の吹き出る新鮮な情報を手に、脳のダイナミズムに挑む。
 かつてないほどの知的興奮が沸き上がる、4つの広義を収録。
 裏表紙

 茂木健一郎の「心を生みだす脳のシステム」もそうだが、どうも脳科学というと、興味はそそられるのだが、いまいち納得感がない。あちらはすでに8年前に出た本だが、こちらはごく最近出された本なので、いくらか読みやすいかな、と思っては見たが、はてさて・・・・。

 たしかに、僕も職業について質問されて「脳科学をやってます」と答えると、結構多くの人から「え? じゃあ、私の心とか全部読めちゃうんですか」なんて訊かれるんだよね。もちろん答えは「はい、そんなの全部お見通しさ!」だよね・・・・ってなはずはなくて、残念ながら心は読めないんだな(笑)。

 むしろ、研究者は普段、実験室にこもって、世間や人々から隔絶された世界で仕事をしているから、かえって人付き合いが苦手で、空気を読めないタイプも少なくない。僕もそんなタイプかも。

 僕も脳科学をやる前は、やっぱり君と同じように、脳科学は心理学とか哲学といった分野に近い学問なのかなと思ってた。けど実際やってみたら、サイエンス、それもバリバリの理系の仕事なんだというのがわかってきた。もし脳科学だけで人の心が読めたら、カウンセラーとか、よく当たる占い師に転職したら儲かりそうだね。でも、そういうわけにはいかなかった(笑)。p92

 なるほど、そうであったか。脳科学そのものに対する理解ができていなかったな、と反省。

 幽体離脱なんていうと、オカルトというか、スピリチュアルというか、そんな雰囲気があるでしょ。でもね、刺激すると幽体離脱を生じさせる脳部位が実際にあるんだ。つまり、脳は幽体離脱を生み出すための回路を用意している。

 たしかに、幽体離脱というのはそんな珍しい現象じゃない。人口の3割ぐらいは経験すると言われている。ただし、起こったとしても一生にい1回程度。そのぐらい頻度が低い現象なんだ。だから科学者の対象になりにくい。

 だってさ、幽体離脱の研究がしたいと思ったら、いつだれに生じるかもわからない幽体離脱をじっと待ってないといけないわけでしょ。だから現実には実験にならないんだ。つまり、研究の対象としては不向きなのね。

 でも、研究できないからといって、それは「ない」という意味じゃないよね。現に幽体離脱は実在する脳の現象だ。それが今や装置を使って脳を刺激すれば、いつでも幽体離脱を起こせるようになってきた。 p175

 こんな場所ばっかり抜き書きしたら、この本の本質を捻じ曲げかねないが、著者の前書「進化しすぎた脳」2007あたりと合わせて読まないと、著者がいわんとするところの、本当のところは見えてこないかも。

 脳科学者のやっていることは、そんな必然的に矛盾をはらんだ行為だ。だから脳科学は絶対に答えに行き着けないことを運命づけられた学問なのかもしれない。一歩外に出て眺めると、滑稽な茶番劇を演じているような、そういう部分が少なからずあるんじゃないかなと僕は思うんだ。p399

 なんだかへんなところばっかり目についてしまったが、本著全体の理解の前に、なんとか、自分の立ち位置と、本著をつなげようとすると、こんなところに何とかリンクを張っておくことがまずは必要だと思う。

 最近の茂木健一郎の一連の著書は、どこか「滑稽な茶番劇」のなかに開き直ってしまって、本質的なところからどんどん遠ざかっているようにさえ感じている。脳科学というジャンルでは、茂木とこの池谷はどのような関係になっているのか知らないが、茂木(1962生)より若い分だけ、池谷(1970生)のほうがまだ新鮮で素直な感性が残されているように感じる。

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2009/10/19

心を生みだす脳のシステム 「私」というミステリー <2>

<1>よりつづく

心を生みだす脳のシステム
「心を生みだす脳のシステム」 「私」というミステリー <2>
茂木健一郎 2001/12 日本放送出版協会 全集・双書 277p
 
 正直に書いておこう。はっきり言ってこの本、面白くない。なんだか、私の脳には入ってこない。いくら読んでも共感できる部分が少ない。テーマ自体は相当に面白いはずだし、リクエストしてから手に届くまで楽しみにしていた本ではある。なのに、なぜか、放りだしたくなるほど、面倒くさい感じがしてしまう。・・・・・ なぜなのだろう。

 1)勉強不足で書いてあることが理解できない。

 2)まったく関心のないことが書いてある。

 3)書いてあることがウソくさい。

 4)著者に信頼を置いていない。

 5)アプローチの方向が違い過ぎる。

 6)結局、何もわかっていないのではないか、という疑惑を持っている。

 7)テーマ自体が本質的に成立しないものに挑戦している。

 などなど、いろいろな理由を考えてみる。

 1)勉強不足で書いてあることが理解できない。
 勉強不足であることは否めないが、同じ時期の同じような傾向にあるだろう、田中伸和の「未来のアトム」を読んだ時のような興奮やリアリティがない。実際にアトムのようなロボットを作ろうとする田中の試みに対して、茂木の試みには目に見える「成果物」がない。あえていうなら、茂木健一郎というソフトを、ハードとしての社会がどのように実体化するか、という実験を行っているようではあるが、田中の試みがほぼ可能性がないように、茂木の「本当の試み」も、実は失敗し、実現不可能な隘路に入り込んでいるのではないか。

 2)まったく関心のないことが書いてある。
 心や私というテーマは多いに関心はあるのだが、そのテーマを脳科学の様なレベルに落としこまれると、自然とこちらのハートが閉じる。リナックスのアルゴリズムは読めなくても、それを空いているパソコンにインストールしては、「実態」としてのリナックスを味わえるような形で、茂木健一郎を、なにかのハードに落とし込んで、とりあえず「使ってみる」ということができない。

 3)書いてあることがウソくさい。
 ウソということもできないが、ホントウ、と納得することもできない。実験するセットを持っていない。脳を切り開いてみることもできなければ、電極をつけてグラフに表すこともできない。カエルだろうがゴリラだろうが、あるいは本物の人間であろうが、専門家がこうだ、と言っているだけでは、強引なセールスマンが勝手に怒鳴り散らしているだけと同じだ。

 4)著者に信頼を置いていない。
 たしかに、一読者として著者に関心を持ったのは、どうして茂木健一郎はこれほど「売れているのだろう」という疑問からだ。売れっ子過ぎる。他のライバルたちは何をしているのか。茂木健一郎の独り勝ちだ。だけど、本当にそれだけ面白くて、真実をついたものだろうか。疑問は残る。

 5)アプローチの方向が違い過ぎる。
 茂木の処女小説「プロセス・アイ」などに目を通すと、なんだかとても共感するし、世代は若干違うが、社会的な体験も同時的に共有しており、感性もかなりすり寄って身近に感じることができる。しかるに、脳科学のニューロンだの前頭葉だのとなってくると、どうもいけない。読者としてのこちら側にその原因があるとしても、本当にこの人がこのテーマに取り組むときに、「脳科学者」という立場で取り組むのがベストなのかどうか、不思議な思いが残る。

 6)結局、何もわかっていないのではないか、という疑惑を持っている。
 究極の真理が「不可知」なものであるとすれば、「結局、何もわかっていない」のは正しい。しかしながら、茂木は「何も分からない」というところまで、自らのメソッドを純化していない。クオリアとやらの概念を乗り回してあちこち散歩するのはいいが、結局、世界に果てはない、という結論に達していない。ソクラテスの無知の知に至っていない。

 7)テーマ自体が本質的に成立しないものに挑戦している。
 本書のタイトル「心を生みだす脳のシステム  『私』というミステリー」というテーマはどうであろうか。著者は結論として、なにか言うべき結論を持っているだろうか。本質的に落とし所に落ちているだろうか。納得できる地点にいるだろうか。本人が納得し、周囲のものも納得できるような雰囲気になっているだろうか。

 以上、そんなことを考えながら、ぺらぺら、めくってみる。

<3>につづく

 

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鳩山由紀夫と鳩山家四代

鳩山由紀夫と鳩山家四代
「鳩山由紀夫と鳩山家四代」 
森省歩 2009/09 中央公論新社 新書 186p
Vol.2 No788 ★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★☆☆☆

 鳩山家は「日本のケネディ家」とも呼ばれる。
 そう呼ばれる理由は二つある。
 一つは、両家がいずれもリベラルなイメージを放つ政治家の系譜であること。もう一つは、両家とも一族が莫大な遺産を相続、保有してきた資産家の系譜であるということだ。
 リベラリストと資産家の系譜。この二つが「名門」としての鳩山家とケネディ家の共通点である。
p168

 民主党政権が成立してから、おびただしい量の鳩山個人にまつわるニュースがばらまかれている。幸婦人や鳩山会館など、そしてその父や祖父、さらには曽祖父についても語られるが、はて、現在のところは全体的に好意的に報道されている。首相就任一カ月しか経過していないハネムーンの時期と言えるだろう。

 しかし、民主党候補に投票した人々のほとんどは、「鳩山由紀夫」に投票したわけではない。自民党への幻滅や、民主党への期待、そして「政権交代」というイベントに投票したのである。ここで、突出して鳩山由紀夫についてのニュースが報道されるのは、仕方ない面もあるだろうが、白けてこのニュースを見ている有権者も多いに違いない。

 名誉と財力、そして権力-----。あらゆる点で、名門・鳩山家は、戦後日本の新支配階層を代表する特権階級と言っていい。p54

 民主党の代表は、数か月前までは小沢一郎だった。あるいは民主党を設立して以来、共闘を組んできた管直人。この両人が民主党の代表になっていた可能性も大きい。もしそうだったとすれば、かなり雰囲気の違った「民主党」政権になっていたに違いない。

 「フランスの旗印は、自由と平等と友愛の三つであった。それが三色旗になっている。戦後の日本は、自由と平等を学んだが、友愛を忘れた。みんなが自由を叫び、平等を叫ぶだけであったら、必ず闘争が起こる。本当の自由も成立しない。ストライキが頻発しているのは、三つのなかの一つが欠如しているためである。友愛という、自由と平等を結びつける紐帯なしに真の民主主義はあり得ない。三つがなければだめ。今の日本にはひとつ欠けている」p177 鳩山一郎 1952

 ふたを開けてみれば、政権交代した民主党とは、新しい自民党ではないのか、と、してやられたな、と舌打ちしている人々も多いに違いない。しかし、今のところは、「マニュフェスト」にある政策を実行しているうちは、有権者の大方の支持を取り続けることはできるだろう。ただ、***よりまし、というプロセスを経て、より明確な責任的立場に立たされた時に、その真価を問われるだろう。

 友愛。その言葉、その哲学は、必ずしも明確ではない。国際的会議の場でも多く語られた「YOU-AI」フィロソフィー。その実態とは何か。自由、平等、と比肩されるとこころの「友愛」。「みんなと仲良くするのが友愛なら、まず自民党や北朝鮮と仲良くすればいいじゃないか」と揶揄されたりしているが、まずはお手並み拝見といきたい。

 <ほとんど毎日、女房と本棚の一部を小さな神棚にして神に感謝することをやっています。感謝することです。
 ファミリーと国民に健康を与えてくれていることに感謝します。これから自分自身の思いで精一杯やりますから、どうぞ支えて下さいみたいなお祈りを大体毎日やっています。内容は言うもんじゃないんですけれどね。あとは瞑想を唯一の健康法として1日に20分。でもなかなか時間が取れないんですが。
 なんにも考えないでマントラを唱える。意味のない言葉を唱えているうちに頭の中が無になる。その考えない時間を持つというのが頭をスッキリさせて健康にさせる>
p91 鳩山由紀夫 2002

 このコメントは、この本の中でもかなり特異な部分だが、「宇宙人」の異名をとる新首相の側面を語る貴重な文章だ。

 <「気」のように、目には見えない科学的に解明もされていないけれど、さまざまな現象を起こすものが実際にあります。<中略>自分が政治家になった以上は、そういうものに国として目を向けて欲しいという思いがありますから、「気の研究会」や「人間サイエンスの会」をつくって、気に触れてもらったりしています。そこで「あなたはここが悪い」などと気功家に指摘されているうちに、自分の中のかたくな部分を変えていこうとする人が現れるのではないかと思いまして。実際、そういう現象を感性で理解できる人は増えていると思います> p91 鳩山由紀夫 2008

 なにも宇宙人にまで超越して行ってしまう必要はないが、地球人的感覚を忘れないでほしい。そういえば、民主党のスローガンでもある「コンクリートから人へ」は、ひょっとすると、麻生セメント・グループがバックアップする麻生太郎への皮肉であったかと、今になってそのユーモアセンスに気付く。

 さて、それでは、「人へ」と言った場合、その「人」とはなにか。決して高見の見物を決め込まないで、このチャンスに当ブログも考えてみたい。

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2009/10/18

2030年メディアのかたち

2030年メディアのかたち
「2030年メディアのかたち」 
坪田知己 2009/09 講談社 単行本 254p
Vol.2 No787 ★★★★★ ★★★★★ ★★★★☆

 な~んだ、2030年の話か、と思うが、いや待てよ、2030年だって、あとわずか20先のことだ、それほど荒唐無稽な未来の話ではない、と思い直す。今から20年前とは、ちょうど平成の年代が始まった頃で、インターネットの前時代的兆候が表れている時代だった。パソコンネットワークなどが盛んに登場してきていた時代だ。考えてみれば、あれから、あっと言う間の20年間だったのではないか。

 1949年生まれの著者も感動したというアルビン・トフラーの「第三の波」(1981)以来、30年近く経過しているのである。10代や20代の若者たちにとってはともかくとして、すでに50代の後半に突入したわが世代にとって、この20年はごくごく最近のことだ。とするなら、これからの20年だって、それほど予測不可能な未来永劫の話ではない。ごくごく近いうちにやってくる、現実的な話である。

 「多対一のメディア」、別の言い方をすれば「マイメディア」。これこそが究極のメディアなのです。我々はメディア社会の客体から主体へと変身できる道具を手に入れるのです。
 ”究極のメディア”が具現化するのは、10年先以上になると思います。2030年には、そのかたちはかなり明確になっていると思います。それまで起こることは、すべて、この究極のメディアへのマイルストーンにすぎないのです。
p4

 本書における著者の言説はほとんどそのまま許容的に読み進めることができる。だが、本当の意味で2030年が見えてきた、という実感はない。

 1981年当時、本のヒットと関連して、NHKテレビで「第三の波」の特集番組を放映した。その時、私が画面にくぎ付けになったのはエレクトロニック・コテッジという実態だった。

 一人の青年が森のなかのログハウスに住んでいる。その姿はまるで修行僧か長髪のヒッピー風。ログハウスの中にあるコンピュータに向かいソフトウェアを練り上げる。出来上がると、それをフロッピーデスクにダウンロードし、リュックを背負って自転車で、森の中にある泉へと向かう。そして、そこには、自家用水上飛行機があり、そこから青年は自分で操縦して飛び立ち、都会へと向かう。青年は都会にあるコンピュータ会社にそのソフトウェアを納入するのである。

 この映像がとてもかっこよかった。今ではなんだか笑える話だが、こんな未来がやってくるかもしれないと思った。もっとも、現在なら、つくったソフトウェアはフロッピーデスクになんかに収まりはしない。とてつもなく膨大なものになっている。そして、現代におけるソフトウェア納入は、なにも水上飛行機に乗って都会にいく必要もあるまい。インターネットにさえ繋がっていれば、瞬時に納入できるはずだ。森の中で有線で繋がっていなければ、無線でも可能ではないか、という時代になっている。

 もっとも、現在は、一般的なソフトウェア労働は、ひとりで水上飛行機を所有できるほどの高賃金の労働ではなくなっている。かぎりなく過酷な労働とさえ考えられている。もちろん、やりようによっては限りなくクリエイティブな仕事ではあるし、高利益を生む仕事ではあるが、昔、描かれたようなおとぎ話のような状態にはない。

 かくいう現在の私の労働環境も、まさに職住一致のエレクトロニック・コテッジにおけるワークになっていると言える。極端なことを言えば、ネットブックが一台あれば、仕事は完結する。営業、業務、納品、経理、すべてに於いて、ネットブック一台で完結する。1981年に夢見た私の「第三の波」は、いまならすでに完了したとさえ言える。

 ただ、それは極限すれば、ということであって、もちろん人に会わなければならないし、電話もかけなければならない。車で走ることも必要だし、銀行に入金する必要もある。郵便もださなければならないし、デジカメを活用する必要もでてくる。

 ネットやITは限りなく進化するだろう。しかし、ここに来て思うのは、ネットやITの進化に比して、人間社会は思ったほど進化していない、ということだ。法律の問題があり、金融の問題がある。コンテナとしてのネット社会機能は十分発達しているが、旧来の人間社会はついてきていない。今後社会が追いついてくる、という問題ではなく、コンテナとしての科学がいくら進んでも解決できない問題が残る。あるいは、科学が進めばこそ、解決できない問題が明確になってくる、と言える。

 著者は、一般的な表現として、ブログやSNS、RSSリーダーなどを好意的に過大評価するが、最近の私は必ずしもそうではない。ブログはこのように書き続けているし、RSSリーダーも少しは活用している。しかし、SNSは最近あまり興味をもてなくなってきた。

 私も人並みに10個ほどのSNSに参加しているが、活用しているのはほんの一部。最近では、日本におけるSNSの草分け「キヌガサ」が11月13日にそのサービスを終了することを発表した。他のSNSも、必ずしも有効に活用されているとばかり思えない。ひとり勝ちのmixiとて、かつての二フィティ・フォーラムみたいな終焉を迎えることになる可能性はゼロではない。

 なぜなら、ITが進化しても、それを活用するヒューマン・ウェアが十分に開発されていないからだ。「セカンドライフ」のような新しいサービスが、インターネットの次代の旗手になるかな、と期待した面があったが、最近の私はこの点に関しても悲観的だ。

 現在のITやインターネット技術は、テーマ性を失っているのではないだろうか。メディアの在り方や、情報や金融の進化ばかりが取り上げられるが、本当にそこに解決すべきテーマがあるのだろうか。

 私はかつての日本の農業の機械化の現実を思い出す。人力や畜力にたよっていた日本農業に耕運機が登場したのは、ちょうど東京オリンピックの頃だ。高度成長期の農村からは次第に青年たちの姿が消えていった。第二次産業の発達で、若者たちは誰もが都会を目ざしたからだ。そこには耕運機を初めとする、あらゆるタイプの農業機械が開発され、営農効果を挙げた。

 しかし、現在の日本の農業はどうであろうか。これからさらにもっと高度に機械化することは可能であろう。田植機や刈り取り用のコンバインに限らず、あらゆる機械をつくりだし、モンスター農機具を田畑に放つことは、技術的にはあり得る。しかし、すでに、日本の農業は枯れてしまっている。

 現在のインターネットやメディアを考えた場合、私は、象徴的にこの日本農村のことを思う。ある程度のところで、モンスター・インターネット技術は止まってしまっていいのではないか。いや、止まるべきであろうし、止まらなければ人間はいなくなるだろう、ということだ。

 いま、人間社会が直面している問題は、戦争をなくすことであり、核兵器をなくすことだ。自給できる食料を確保し、貧困の格差を小さくし、識字力を高めなければならない。医療や教育の機会を均等にし、地球全体が環境とともに生きていくライフスタイルを確立しなければならない地点に来ている。

 そのような問題に立ち向かうための道具としてのネットやメディアはぜひとも必要だが、人間たちの歩みを無視した技術だけが先行する事態はさけなければならない。モンスター技術としての原子力も、実際には人間のコントロールを離れつつある。

 2030年におけるメディアのかたちについて、おおむね私はこの本に賛成だ。学校で使う教科書としても間違ってはいないと思う。しかし、半面でしかない。当ブログでいえば、コンテナばかりが強調されて、それに引きづられた中途半端なコンテンツ論で終わってしまっているという感想を持つ。

 むしろ当ブログが期待したいのは、コンシャスネス側からみた場合のコンテンツ論だ。人間はどう生きるべきなのか。私とは誰か。いかに死を迎えるのか。魂はどこから来てどこにいくのか。そのようなコンシャスネス側からコンテンツに降りていった場合、インターネットを初めとするコンテナはどのように支えてくれるのか。それらの点についての考察が、この本では全般的に薄い。

 現在、「情報」という言葉に引きずられすぎているという面も目立ちます。情報が主役なのか、人間が主役なのか、本末転倒の議論も多いと感じます。
 どうしてそうなってしまったのか。
 明らかに、技術革新が急すぎて、われわれがついていくことが困難になっているのが原因です。
 この本の目指すところは「人間の目線から事態の全貌を捉え、その進行方向を見定めよう。そして将来に対応できるビジョンを持とう」ということです。
p241

 科学は十分に発達してく必要があるが、暴走させてはならない。盲信は不可だ。それを十分に活用する文化や文明が必要であろうし、時代や地域性を超えたスピリチュアリティが問われなければならない。その意味では、この本は半面でしかなく、2030年を描いているとは、とても言えない。

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終身刑の死角

終身刑の死角
「終身刑の死角」 
河合幹雄 2009/09 洋泉社 新書 190p 
Vol.2 No786 ★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★☆☆

 裁判員制度の話題がでてから、もし自分が指名されたら、喜んで参加してみようと思っていた。大体において、裁判ってよくシステムが分からないし、なんでもやってみよう精神から考えれば、そのようなチャンスは少ないのだから、手を挙げてまで参加できないか、とさえ思っていた。

 しかし、その裁判制度がこの8月からスタートし、さまざまな角度から取材が進み、情報が提供されてくるにつれて、はて、これはそうそう簡単なことではなさそうだぞ、と思い始めた。単なる興味本位や一時的な野次馬精神で関わることは相当に危険だ。いまでは、もちろん指名されれば積極的に参加するつもりでいるが、指名されなかったら、むしろ、ほっと胸をなでおろす、という心境になるのではないか、とかなり変化している。

 9月に発足した鳩山・民主党政権の初代法務大臣は千葉景子「死刑廃止を推進する議員連盟」に参加している。この問題に深く首を突っ込んだことのない当ブログとしては、最高刑罰としての「死刑」について、うかつにコメントを加えることは差し控えるべきだろう。

 ただ、麻原集団などによる凶悪犯罪を同世代に抱え込んだ現代日本に生きる私たちは、この問題から決して目をそらすことはできない。被害者の立場に立ってみれば、理不尽な理由で事件に巻き込まれ、大きく人生を狂わされたわけだから、加害者側への厳罰を期待するのは当然のことのように思える。

 <新人類>は、どんな刑務所も持たない。そして、どんな裁判官も、どんな法律家ももつことにはならない。こういうものは、まったく不必要な、社会という組織に巣くう癌細胞のようなものだ。新人類がまちがいなく持つことになるのは、同情心にあふれた科学者だ。ある男性が強姦を犯すということがどうして起こったのかを究明しようとする、瞑想的で、慈愛に満ちた存在だ。彼にほんとうに責任があるのか? 私に言わせるなら、どんな意味でも彼には責任がない。彼が強姦を犯したのは、禁欲主義を教える聖職者たちと宗教、そして何千年にわたる抑圧によるものか---これなら禁欲的な道徳の結果ということになる---あるいは彼が強姦を犯さざるをえないような生物学的に強制するようホルモンを持っていたかのいずれかだ。
 あなたがたは現代社会に生きてはいるが、人類の大部分は現代人ではない。なぜならあなた方は、科学が発見しつづけている現実に気づいていないからだ。教育体系が、あなた方がそれを知ることを妨げている。宗教が、あなた方がそれを知ることを妨げている。政府が、あなた方がそれを知ることを妨げている。
OSHO「新人類 未来への唯一の希望」p55「法と秩序か、愛と理解か?」

 Oshoによれば、人間が十分に進化して、黄金の未来が到来すれば、そもそも犯罪がなくなり、それを裁く法がなくなり、それに携わる専門職がいなくなる。従って、死刑もなければ、牢獄もなくなる。あえて言えば、ごくごく少数に減少してしまった犯罪に対する科学者や、ごくごくシロートの代表である裁判員は残る可能性はあるだろう。ただ、そこには罰はなく、教育が残るということになるだろう。

 ここまで見てきたとおり、全体として犯罪は減ってきている。いまや日本中がとても安全になって、だれがどの時間帯にどこを歩いていても総体として安全であることは疑いがない。河合 p31

 耳を疑うような話だが、実際に統計的に現れている現象としては、日本における犯罪は減り続けているように見える。メディアを通して理解している日本社会は、とてつもなく凶悪犯罪が続発しているように思える。亀井静香金融相などは「親族間の殺人は大企業に責任がある」と日本経団連の御手洗冨士夫会長に噛みついた。政治家としての亀井にはパフォーマンスが大きく含まれているとしても、日本社会に暮らす一般人としての感覚は、むしろ、こちらに近いだろう。しかし、一歩退いて、この本の著者である河合の言に従えば、日本の犯罪事情は大きく異なる。

 本書は、無謀な法案阻止のための緊急執筆としてはじめたが、裁判員のための無期、死刑判断の材料提供も視野に入れたものに変更した。p190

 本書は、死刑と無期の間の刑罰として、終身刑、あるいは「仮釈放なしの終身刑」が議論されるにあたって、その議論の材料を提供している。身近な問題として、死刑、無期などのテーマを深く追っかけたことのない当ブログとしては、著者がどのような意見を持ち、どのような可能性があると考えているのか、さえ、十分に読みとれない。いや、むしろ、読者として読みたくないと、拒否してしまっている。

 最近「福田君を殺して何になる--光市母子殺害事件の陥穽」という本が話題になった。事件自体が大きく報道されたし、被害者側の心情にも大きく情動的に共感する。しかし、死刑制度や少年法から考えた場合、この事件のこの解決はこれでいいのかどうか、と問われれば、正直、答えに窮する。

 当ブログの、未来社会への「マニュフェスト」として、「法と秩序か、愛と理解か?」と問われれば、Oshoのいうところの「愛と理解」を掲げることにする。それを現実化することは至難の技だろうが、これ以上、牢獄が増え続ける未来は、すでに「未来」と言えないだろう。

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2009/10/17

心を生みだす脳のシステム 「私」というミステリー <1>

心を生みだす脳のシステム
「心を生みだす脳のシステム」 「私」というミステリー <1>
茂木健一郎 2001/12 日本放送出版協会 全集・双書 277p
Vol.2 No785 ★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 当ブログ<2.0>も闇雲に再スタートを切ってから、すでに半年が経過した。ブログ・サービスの違いもあり、勝手が違うこともいろいろあったが、まずはそれなりに進んできていると言える。カテゴリも決めずに進んできたが、ここに来て、過去にさかのぼって、カテゴリ別に整理してみると、すでに108に達している分野は二つに達していた。

 科学、芸術、意識を三本柱として、「クラウド・コンピューティング」「ブッタ達の心理学」「意識とは何か」のカテゴリに分類してみると、すでに二つがそれぞれ108エントリーで満杯。新たなるカテゴリ名を必要としていた。

 そこで、「意識とは何か」の後継カテゴリとして「私は誰か」をスタートすることにする。こちらは当ブログのメインテーマではあるのだが、どうもブログとしてはいまいち適合性が低いように思う。テーマとしても、決してお手軽とは言えない。しかし、メインはここだ。

 カテゴリー「クラウド・コンピューティング」は必ずしも「クラウド」にこだわるつもりはないのだが、IT関連で一番目新しそうなネーミングなので、この名前のもとに、最近の技術的なコンテナ的部分をまとめておこうと思う。しかし、当ブログは、一般的なITユーザー以上の見識もないし、大きくここから展開していく可能性はない。しかし、最新の技術革新には、つかず離れず、のんびりと当ブログなりに咀嚼していくカテゴリとなろう。

 カテゴリー「ブッタ達の心理学」はコンテンツの部分だが、ここは、当面「地球人として生きる」「表現からアートへ」という二つのカテゴリに分けて分類していくことにする。既知と不可知の間にある、このエリアの本が一番多く、なんでも書きやすい、ということがあるが、あんまりつきあい過ぎると煩雑になって収拾がつかなくなる場合もある。それはそれとして、その時に修正していくことにしよう。

 さて、「私は誰か」としての一冊目はこの「心を生み出す脳のシステム」が一冊目となる。すでにおっとり刀で茂木健一郎追っかけを始めては見たが、いまいち納得がいっていない。とくに最近の「脳」ブームとやらの中に組み込まれてしまった茂木の本には、特に光ったものは感じない。むしろ、2000年前後にまじめな(?)な研究者としての茂木が、落ち着いて発表した本の方がなかなか面白い。

 2003年に出た「意識とは何か」ブック・ガイドに従って読書をすすめて見ようと思ったが、なかなか進まなかった。それでも、なんとか今回、この本をきっかけとして、またふたたび軌道修正をしようと試みるものである。

<2>につづく

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石原慎太郎よ、退場せよ!

石原慎太郎よ、退場せよ!
「石原慎太郎よ、退場せよ!」 
斎藤貴男 /吉田司 2009/05 洋泉社 新書 191p
Vol.2 No784★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 老害を撒き散らすだけなら退場せよ!
 無責任体質全開の新銀行東京問題、
 花道にしたいだけの東京オリンピック招致、
 差別発言とともに進む社会的弱者切り捨て政策、
 教育現場から教員までもが逃げ出す教育改革、
 そして身内に甘いだけの人事と処世術・・・・・。
 この十年、新自由主義とナショナリズムの波に乗り、
 東京に君臨してきた「小皇帝」石原慎太郎だが、
 「時代に求められた男」の賞味期限はもう切れている!
 表紙見返し

 もともと石原慎太郎嫌いの人は多いのだろうが、直接ここまで露骨に「退場せよ」とまでは言いにくい。本のタイトルとは言え、当ブログの見出しとしてはかなり過激であろう。ましてや、「石原慎太郎よ」と呼びかけるほど親しみも感じてはいない。

 ただ、今回のオリンピック招致失敗にともなう150億円の行方など、気になることは多くある。コペンハーゲンで行われたIOC総会に一緒に行ったのが、すでに野党に下野した自民党の森喜朗・元首相だったのも、なんだか旧態依然としたイメージを残した。サメの脳、と揶揄される元首相だが、それはサメに失礼にならないのか。

 対談者の斎藤貴男は1958年生まれのジャーナリスト。日本工業新聞、プレジデント、週刊文春などで仕事をしてきた。吉田司は山形出身1945年生まれのノンフィクション作家。小川伸介などともに小川プロを結成した。本書は二人の対談形式になっているが、こと石原個人攻撃に限らず、この「小皇帝」を支える歴史や時代背景を、こまかに検討する。

 作家・石原慎太郎、その作品群、それを支えた時代や家系、政治家としての姿、あるいは弟の映画スター・石原裕次郎に、特別な感情を持っている世代なら、この本はそれなりに面白かろう。表と裏、隠されてきた話や、思わぬ視点からの再点検。しかし、当ブログのような「地球人」というカテゴリから石原慎太郎を見た場合、その接点を見つけることは、相当に難しい。

 斎藤 何もわからないくせに、人気取りのためなら何でもやってみせるから、ああいうことになる。止められない都庁の役人たちも役人失格です。まあ、選挙であれだけの票を獲て信任を得たということだから何をやっても許されると思っているんでしょうね。事実、都民はそうしちゃたんだから。石原に何をされても仕方ないのも現実です。新銀行の内部なんて、石原の人間性が凝縮されたようなところですよ。p123

 この辺のあたりが一般的な石原に対する見方だろう。なんとも下衆で、手に負えないイメージがつきまとう。

 斎藤 ・・・オリンピック招致のための予算について言えば、55億円かかるとIOCに報告しています。ところが、世論が盛り上がらないので、どんどん上積みされて、いつの間にか150億円くらい負担することになっているようです。都の官僚にしてみれば、石原の機嫌を損ねたら自分の立場が危ないということですから。p126

 この本は今年の5月にでたものだが、この10月のIOCでの2016年リオデジャネイロ・オリンピック決定のニュースを待つまでもなく、東京でのオリンピックは、いまいち説得力のない大きなムダづくりに見えていたことは間違いない。

 斎藤 昨年、石原は北京オリンピックに招かれたでしょう。チベット問題をタテに中国はオリンピックを開催する資格がないと言っていた人が、そのチベットでの生々しい暴動と弾圧がまたしても発生したすぐあとに、ですよ。あの開会式をすごいすごいと、べた褒めしたんだよね。
 所が、帰ってきたら記者会見で、くだらんと言い出した。(略)2016年のオリンピックを東京に招致するためには中国を怒らせるわけにはいかないというだけでは説明できない。強い相手にひたすらおもねり、隠れてコソコソ陰口をたたく。キツネみたいな人ですね。
p164

 昨年勃発したFREE・TIBETムーブメントに即反応した当ブログとしては、この辺あたりの石原の言動もまるで納得がいっていない。今回だって、衆議院選挙前は、ひたすら悪口を言って鳩山批判を繰り返していた人物が、政権交代したあとの国連安保理の演説で株を挙げた鳩山を、IOCの開催地決定戦にひっぱりだした。そして、招致戦に敗北したあとは、国の後押しが足らなかったと、自分を棚に挙げて国を批判する。どこまでも懲りない性格だ。

 吉田 大東京主義の時代というのは、東京が世界都市になって、地方は全部寂れていくわけですよね。基本的には夕張化する。すると日本という国はあるけど、東京が日本の中心というよりも、東京一国主義みたいなものになる。当然、東京「単独主義」ってゴーマニズムが出てくるよな、米国ブッシュ政権の時代みたいな。つまり、石原慎太郎があの「暗愚の帝王」と呼ばれたジョージ・ブッシュ化しつつあるのが、いまのトーキョーじゃないんでしょうか(笑)。p178「石原慎太郎への退場勧告」

 このあたりの感覚はまったく同感だ。ただ、この現象は石原ひとりで起きているものではない。それをささえているトーキョー人たちがいる。

 斎藤 石原本人はもはやどうでもいいと思います。どんな人であっても差別してはいけない。わざわざ権力の座に据えた方が悪い。落とす選択肢があったんですから。実際、都民は責任とらされて、自分たちの血税を、あの人の遊びと利権のために使われているんですからね。次の選挙でちゃんと落としてやらないと。批判を承知で言うけど、石原都政に本気で怒れないとしたら本物の奴隷ですよ。p188

 地球人や地球人スピリットという視点から見直したら、トーキョーもまだまだ素晴らしい可能性が残されている。しかし、旧態依然とした石原やそれを支える都民がいるかぎり、すでに未来を失っているのが、今の東京だ。

 

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2009/10/16

ウッドストックがやってくる<2>

<1>よりつづく

ウッドストックがやってくる
「ウッドストックがやってくる」<2>
エリオット・タイバー /トマス・J.モンテ 2009/08 河出書房新社 単行本 309p

 その夏の終わり、大勢の人たちがとうとう立ち去ってしまうと、ぼくらは<エル・モナコ>を閉鎖し、そのシーズンの営業を終えた。しかし、ぼくは心の底で知っていた。自分がどこに行こうと、なにをしようと、ぼくはウッドストックをそこに連れていくだろうと。ウッドストックはこの世界を変えなかったかもしれない。けれど、ぼくの人生は大きく変えた。いまでもぼくは、絞り染めのシャツを見たり、ウッドストックに出演したバンドの曲を聴くと、微笑まずにはいられない。p291

 この本はもともとフィスティバルとしての「ウッドストック」をレポートしたものではないので、その全体像は見えないが、そもそもその全体を把握できている者などいないだろう。その膨大なひとつひとつなど把握しようがない。著者は、現地の当事者として、個人として、私人として、そして極めてナイーブに当時を振り返っている。

 この本に書かれていることは、当ブログとしては容易には納得できない点が多くある。ゲイ、ドラッグ、人種問題、環境からみた場合などなど、現在のセンスから考えれば、とても公言できないことが多くある。しかし、それらひとつひとつが「愛と平和の祭典」の中に呑み込まれていく。

 40年前のことだ。映画にもなったらしい。ことほど左様に、この後のコンサートやカウンターカルチャー、若者文化に「ウッドストック」が与えた影響は計り知れない。ジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョップリン、サンタナやザ・フー、CSN&Y、CCR、ジョーン・バエズ、グレイトフル・デッドなどなど、数え上げたらきりがない綺羅星たちが出演した。

 私はこれだけ大きなイベントに参加したことは勿論ないが、同じ傾向の延長線上にあるイベントやコンサート、シンポジウムなど、さまざまな企画に参加した。規模は限りなく小さく、その影響は限りなくローカルなことがほとんどではあったが、著者が感じたようなドキドキ感はつねに味わってきた。

 ながながと練りに練った企画より、著者が体験したような、たった一カ月の期間に、降って湧いてきたというようなハプニング的イベントのほうが、よりお祭り性が強く、興奮度が高いと思う。70前後の政治的集会、75年前後のカウンターカルチャーのイベント、82年に感じたオレゴン州のフィスティバル、91年の六ヶ所村や、環境心理学シンポジウム、98年の沖縄の米軍軍事演習の国内移転に反対するコンサート、2002年のPTA役員として体験した甲子園体験、そして数えきれないさまざまな小さな体験があった。

 これらの小さな体験から、著者の体験を類推することはできる。しかし、そのスケールは桁が極端にはずれている。国も違えば、世代もすこし遅れてきた私などには、その実態は、単に話に聴くだけだが、映画「イージー・ライダー」をみた時と同じように、限りない憧れとともに、限りないまがまがしさも感じる。整理がつかない感情が湧きあげてくる。

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2009/10/15

ウッドストックがやってくる<1>

ウッドストックがやってくる
「ウッドストックがやってくる」<1>
エリオット・タイバー /トマス・J.モンテ 2009/08 河出書房新社 単行本 309p
Vol.2 No783★★★☆☆ ★★★★★ ★★★☆☆

 日曜日のNHKテレビ番組「週刊ブックレビュー」をみていたら、この「ウッドストックがやってくる」を紹介していた。その時、おやぁ、と思ったのは、すでに私の傍らにはこの本が転がっていたからだった。図書館の新刊コーナーで見つけて、借りてきたは見たけれど、小説なのかノンフィクションなのかさえ分からず、読むか読まないか決定しないまま放置しておいた。

 テレビ番組をみてからも、どうもいまいち手がつかないでいた。「週刊ブックレビュー」で取り上げる本と、「読書ブログ」である当ブログで読み込む本のタイトルが重なることはほとんどない。年に何冊あるかどうか、というくらいだ。この辺は傍らで一緒にテレビを見ている奥さんの趣向とは大いに異なる。彼女はむしろ、番組で紹介されたり、紹介されそうな本を読み続けており、この番組は彼女のマイ・フェバリットになっているのだった。

 「ウッドストック」という名前を聞いて、そのタイトルの前を通り過ぎることはできない。ビートルズがやってきたのは1966年の6月。この時、中学一年生だった僕たち(と言うほうが似合っているか)はテレビで同時体験したが、「ウッドストック」のことを知ったのは、ほぼ一年遅れの1970年だった。高校1年から2年になった僕たちは、4軒長屋の公立住宅に住んでいた友達の部屋に集まり、「ウッドストック」の4枚組(だったと思う)のLP版に針を下ろした。

 たった3畳の畳部屋にスシ詰めになり、もうもうたるハイライトの煙のなかで、想いをアメリカ大陸に馳せた。当時は1970年。おりからの68~69、そして70年安保の政治的盛り上がりのなかで、高校生の僕たちも、ひそかに「共犯幻想」を抱きながら、「ウッドストック」を聴いた。

 ロックフェスティバル「ウッドストック」、正確には「第一回アクレリアン・エクスポジション」は、開催された地名「ウッドストック」で呼ばれているが、実は、最初の予定地での開催が不可能になり、さらに80キロほど離れたホワイト・レイクというさびれた観光地で開催されたのであった。

 ところが突然、状況が一気に変わる可能性が出てきたのである。ウッドストック・フェスティバルは開催地と開催許可を必要としている。ぼくは思わず心のなかで叫んだ。ぼくは許可を出せる立場にいるじゃないか! それだけじゃない。開催地だって提供できる。脳がいきなりダンスをはじめ、クリエイティブな脳波を生み出した。これまでのこの脳波は、想像力豊かなセックスをするときや、ムーラン・ルージュかニューヨークのSMクラブでロマンティックな夜を過ごすときにしか使ったことがなかった。おお、すごいぞ! ぼくらはこのコンサートの開催地を提供できるんだ! p122

<2>につづく

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2009/10/14

きれいに地デジを映す本 意外と簡単デジタルTV対応

きれいに地デジを映す本
「きれいに地デジを映す本」 意外と簡単デジタルTV対応 電波の世界で遊んでみようseries 
高木誠利 /能登尚彦 2009/07 CQ出版 単行本 166p
Vol.2 No782★★★★★ ★★★★☆ ★★☆☆☆

 訳あって、屋根の上のアンテナだけ、地デジ対応に替えた。BSアンテナも交換したので、思わぬ臨時出費となった。もともと地域の共同受信アンテナから電波が供給されていたのだが、アナログ放送が終了するにあたって、この共同受信システムが終了することになったのだ。

 補助がでて若干割安だ、という触れ込みなので、とにかくアンテナだけは地デジ対応にしたが、受像機そのものはいままでのままだ。友人知人たちは、かなりの割合ですでに地デジ受像機に転換している。見せてもらうと、うむ、なるほどキレイだ。いろいろな機能もありそうだが、それはこの際おくとしても、実際にこの地デジは必要だろうか。

 テレビが見られなくなります・・・・こう言われるとかなり戸惑いを感じる人も多いのではないでしょうか。アナログ放送からデジタル放送になるからといて、まだあと10年は使えるTVセットを買い替える? という疑問も湧いてくることでしょう。そのような手間やお金をかけても地上波デジタル・テレビ放送に切り替える価値はあります。p2「まえがき」

 う~ん、いつもの疑ぐり深い性格はなかなか治らない。このまま映らなくなるまでアナログを見続けて、映らなくなったら、そのままテレビ生活を卒業しようかな、とさえ思う。デジタル・チューナーをつければ、このTVセットでも見れるとはいうものの、それではいつかは地デジテレビに買い替えることになるだろう。

 最近、新聞も週刊誌も定期的に見ることにしてみたが、結局は数週間でその試みは終了した。週刊誌は銀行や歯医者で見ればいいし、新聞は、まとめて図書館で読むことにした。この際、テレビも、と思う。とにかく実験の価値はある。

 災害時の緊急用避難セットの中にラジオが必ず入っているように、ラジオは大切な情報源であり電源も乾電池なども長い時間使用できます。また普通に備蓄できる一次電池などで電池をも他sることが可能だし手回し充電タイプなどというものもあるようです。
 情報源を得るためにラジオを持っていることは必須条件ですが、次にははやり自分の周りの状況を視覚的に入手したいと考えると思います。
 電気が来ていなければテレビなど家庭用の大型の機器を動かすことはできません。こういうときにこそ、内臓の電池で動くワンセグ・テレビは役に立つのではないでしょうか。
p133「ワンセグ・テレビの災害時の有効性」

 たしかにエンターテイメントだけではなく、緊急用の情報源としては、やはりテレビは必要なようだ。そういえば、最近わが家にやってきたポータブルナビが、災害時にも活躍しそうだ。

 2008年9月現在市販されている新車にディーラーなどで装着されるカーナビのテレビ・チューナーはほとんどがデジタル・チューナになっています。それ以前の地上波デジタル放送が開始されたころに装着されたものは、アンテナはデジタルのUHF対応になっているもののアナログ・テレビがほとんどのようです。p132「カーナビ搭載デジタル・テレビ」

 つぎからつぎと新しいサービスが誕生し、どこまでが自分のライフスタイルに必須なものかどうかの見極めが大切だが、まるで世間知らずの浦島太郎になる必要もあるまい。この本は、技術が中心の本なので、実際に活用するチャンスがなければ、あまり意味のない本だが、なるほどこうなっているのか、と大ざっぱに知っておくのも悪くない。

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2009/10/13

年金被害者を救え 消えた年金記録の解決策

年金被害者を救え
「年金被害者を救え」 消えた年金記録の解決策
野村修也 2009/07 岩波書店 単行本 110p
Vol.2 No781 ★★★☆☆ ★★☆☆☆ ★☆☆☆☆

 「消えた年金」問題など、他人ごとだと思っていた。年金支払い対象期間については完全に把握しており、2冊あった年金手帳も、いくつかのプロセスを経て統合されたはずだった。しかし、実は私には、もう一冊、別の年金手帳があったのである。 

 30数年前、まもなく40年前になろうとする青春時代、ハイティーンだった私は、仲間とともにヒッチハイクで日本一周することになった。予定期間は3か月。しかし、親元を離れ、すでに仲間ともに共同生活をスタートしていた私は自分でその資金を稼がなければならなかった。そこで3カ月間だけアルバイトすることにしたのである。

 3カ月間の住宅費を含む生活費を稼ぎながら、旅行期間の住宅の維持費、そしてさらに旅費を稼ぐ。たしか3万数千円の手取り月給だったが、約10万円の稼ぎの中から、約その半分を持って旅に出たのであった。

 あの時、3カ月間だけアルバイトしたのだが、当時、アルバイト、という形式はあまり一般的ではなかった。3カ月間だけ勤めさせてくれと言ったら、断られることがほとんどだったと思う。なんにせよ、私は2カ月間の試用期間のあと、3カ月目から「正社員」になったことになる。しかし、この3カ月目を境に私は「退社」したのだから、その1か月だけ会社は「厚生年金」保険料を払ってくれていたのだった。

 これは、ごくごく最近、社会保険庁から送られてきた文書によって初めて知った。その可能性さえ考えてみたこともなかった。文書は確認を求めていたので、私は手元に保管していた当時の名刺をもとに「正確」に当時の会社名や住所・電話番号を記入して返送しておいた。これで、私の年金手帳に書き加えられることになるだろう。

 わずか1カ月なのに、よく発見してくれたな、という思いとともに、なんでまた当時から分かっていなかったのか、とちょっと怒りにも似た感情も湧いてきた。住所も氏名も変わっていない。そもそも、別手帳になっていたこと自体がおかしいじゃないか。

 この私の「消えた年金」は、今回の騒ぎが起こらず、見直しがなければ、発見されなかったのだろうか。少なくとも、私自身は気付いていなかった。私の経歴から考えれば、実にシンプルなはずだ。ましてや、転居や転勤・転職を繰り返した人ならば、「消えた年金」が存在する可能性はおおいにあることになるだろう。

 私の場合は、わずか1カ月だけ増えただけだから、いずれ支給される年金額にはそれほど大きな影響はないだろう。私は自らを「年金被害者」とまで言う気はない。「被害」にあっているとまでは言えないだろう。しかし、著者がいうところの年金「被害者」にとっては、極めて大変な難しい問題になっていることは間違いない。

 著者は1962年生まれの弁護士にして、「年金記録問題検証委員会」などを歴任してきた、当事者である。自民党政権時代に政府の要請を受けてその職についたのだが、その経緯について、概略をこの一冊にまとめている。

 選挙に有利と見て記録の修復作業のハードルを上げ続けた民主党と、それに負けじと「最後の一人まで」確認すると公約した政府・与党。この不幸な対立の図式は、「水を汲み直して」被害者を救済するのでなく、記録の修復という「手で水をすくい続ける」作業を優先させてしまった。しかし、少し考えれば誰もが分かるように、水を汲み直しさえすれば、手で水をすくい続ける必要はなくなるのだ。つまり年金記録を修復することができなくても、すべての被害者を救済できれば、この問題は終わる。にもかかわらず、社会保険庁は、ひたすら手で水をすくい続けるかのごとく、年金記録の修復に努めている。p92「覆水盆に返らず」

 つまり、内部を見てきた当事者の一人として、著者は、年金記録問題の完全解決はできないと、完全ギブアップ宣言をしているのである。「年金被害者を救え」とは、きちんと今まで払い続けてきたひとりひとりの年金受給者の「誇り」を回復することを意味するわけではない。かつての集金した年金保険料を使いこんでしまった職員たちなどの罪を問わずに、とにかく、現在の受給者たちに、国が年金を払ってやればいいじゃないか、という論法である。つまり、正直者が馬鹿をみる現状を追認する政策をとれと言っているのだ。

 実際には4年後をめどに、消費税はアップされて、年金システムは大きく変化されるだろう。現実的にはそうならざるを得ないだろうし、国民の大方の賛成を得る方向に持っていくことは可能であろう。しかし、その前に、間違ったことは間違ったと、正確に把握し、謝罪すべきは謝罪すべきだろう。国民は、自らの年金の計算方法さえ知らない。すべてがブラックボックスなのだ。それをつまびらかにしないで、逃げ切りを図ろうとするのはズルい。

 こうした状況を前に、私たち国民は、年金制度のデザインを抜本的に検討しなおす時期に来ている。保険料方式を維持するのか、それとも、税方式にするのか。賦課方式を維持するのか、それとも、積立方式にするのか。今こそ真剣に話し合わなければならない時期に来ているのであり、これこそが本当の年金問題なのだ。p100

 ズルい奴はどこまでもズルいな。ここまで生きてきて、最近とくにこのように感じることが多くなってきた。憎まれっ子世にはばかる、という言葉もあるが、本当に、ズルい奴は、本当にズルい。ズルい奴が、世に、はびこり過ぎている。悪いことをやって、責任を取らない。あとは野となれ山となれ。さっさと逃げ切って、あとは自由自適の生活だ。

 政界を引退したとして、小泉純一郎は、最近は、ウルトラマン・キングのアフレコをやったという。あとは野となれ、山となれ、の典型だ。自分の年金さえ確保できればそれでいい。ズルい奴はどこまでもズルい。「年金被害者を救う」なんて意識はサラサラない。こういう奴に執行猶予の時間を与えていた国民が馬鹿なのである。昔の戦国時代なら打ち首獄門だ。フランス革命時代なら断頭台の露となって消えただろう。いやいや現代でも、地球上のあちらこちらの国々では、引退した前権力者たちは、命さえ保証されていない。

 この本の言っていることは、「年金被害者を救え」ではない。この本の言っていることは、「年金『加害者』を救え」なのだ。アホらしい。

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食料自給率100%を目ざさない国に未来はない

食料自給率100%を目ざさない国に未来はない
「食料自給率100%を目ざさない国に未来はない」
島崎治道 2009/09 集英社 新書 188p
Vol.2 No780 ★★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★☆☆☆

 八ッ場ダムや高速道路、JAL問題で一挙にクローズアップされている国土交通省や、亀井金融相のモラトリアム法案などで、影に隠れている農政問題だが、いずれ間もなく、大きく国民的議論のテーマとなることだろう。農家の所得保障政策の、その具体的な実態はどのようなものになるのか。そして、これからの日本の農業はどのようなグランドデザインを描くことができるのか。

 自給率100%という言葉はイメージしやすいが、この数値もその本質的な意味を理解することはそう簡単ではない。

 実は、食料自給率と一口でいっても、何に基づいて算出するかで、カロリー自給率(供給熱量総合食料自給率)、金額自給率、穀物自給率、品目別自給率など、さまざまな数値が存在します。先進国間で比較をするときは、多くの種類の異なる食料が供給されていても比較できるという理由で、カロリー自給率の数値を「食料自給率」として用います。p23

 CO2問題と同じように、一般人的感覚としては、数字だけが独り歩きし、その計算方法や根拠となる現状、そしてその分析や理解については、たんに提示されたものを鵜呑みにしただけでは、納得いかない。いくつかの研究結果に対して、一定期間の間、定期的に定点観測し続けなければいけない。過剰な反応は慎むべきだろう。

 食料自給率と言った場合、イメージとしては自給自足と連なってくる。はて、貿易経済で外需に頼り続けてきた日本の産業構造が、今、内需を高めると言ったところで、食料に限らず「自給率」は相当に偏っているものになっているだろう。さて、それでは地域別に見た場合どうなるのか。p160の「都道府県別食料自給率」が興味深い。

 北海道は自給率195%。東北6県のうち4件が自給率100%を超えている。その他、日本の国内には100%を超えているところはない。北陸では、かろうじて新潟の自給率99%が光っているだけで、四国、九州でさえ、100%に届いていない。東京都は自給率1%、大阪は2%。沖縄でさえ、自給率28%、というのだから驚く。

 この資料は、一部の指標にすぎないのであり、他の指標とともに全体的に理解されなければならないのは当然だが、日本全体の自給率40%前後、というのに対して、アメリカ、フランス、ドイツなどは自給率100%を超えている、ということは十分記憶しておく必要がある。

 地域格差もあり、数字のマジックあり、日本という産業構造の特殊性を考えたとしても、この数年来続いている輸入食料の汚染問題などを考えると、国内の農業生産性を高めることは、なにを置いても高めなければならないテーマだと思える。

 しかし、ながら、この本の著者もそうであろうと想像するが、農業を初めとする第一次産業の大事さを強調しながら、自らは、第一次産業に従事しようとはしない。魅力ある産業に作り替えなければならない、と分かってはいても、自ら「手をよごす」人は少ない。

 かくいう私も若い時分には、公立の農業講習機関で2年間の寮生活を送り、農業全般に学んだにも関わらず、結局は農業を職業とすることはできなかった。卒業と同時に、大病を患い、その重労働に従事することにドクターストップがかかり断念したのだった。それでもやっぱり、後ろめたさはいまでも残っている。

 年に一度の田植え作業の手伝いに行き、ネコのひたいより狭い庭にゴーヤを植えてその収穫を楽しんでいる程度で、とてもとても自給自足どころか、食料自給率100%なんて、夢の夢なのだが、将来的に、それは絶対無理、とは言えない。いずれはそうなる可能性を模索している。

 食料自給率問題は、農業などの第一次産業問題ではあるが、つとめて地域主権の問題でもある。そして、地域主権の問題とは、当然のごとくヒト問題でもある。人間が生きていく地域モデルがイメージできないことには、実は食料問題は解決の方向さえみえてこないだろう。

 今回、2020年オリンピックの開催地として、ヒロシマとナガサキが手を挙げた。実際に成功するかどうかはともかくとして、手を挙げたことに当ブログは大いに賛成する。「核なき世界」は、オバマが言おうが、鳩山が言おうが、国連安保がどうのこうのと決議したとかしないとかの問題ではなく、人間として、絶対に実現しなければならない問題だ。

 ところがオリンピック憲章では、ヒロシマ・ナガサキは、開催地としては、都市機能のキャパが満たされていないと判断されてしまいそうだ。二県合わせても東京都の10分に1にも満たない都市ではあるが、東京などのモンスター・シティをこれ以上つくる必要はない。人類は、もっともっと、コンパクトな、自然と共生するライフスタイルを模索するべき時代となっている。

 広島県の食料自給率は36%で中国地方では一番低い。長崎県は自給率38%で、19%の福岡県についで九州では2番目に低い(163P~164P参考)。立派な工業県であるし、地域での中核都市でもある。都市機能はこれ以上大きくなる必要はない。東京がエコシティーだ、なんて大きな真っ赤なウソに騙されないで、ヒロシマ・ナガサキは、独自のオリンピック開催を目指せばいい。感じるところ、オリンピック憲章自体が間違った方向に進み始めているのだ。(ちなみに東国原の宮崎県の自給率は65%)。

 国をつくるのは、それぞれの地域だ。それぞれの地域を作っているのは人間だ。人間は自然に囲まれて、自然の恵みに育まれて生きている。自然に愛され、ヒトに愛されなければ、地域もなければ、国もないのは当然のことだ。そして、国がヒトを忘れてしまえば、地球の上で人間が生きていくことは無理だろう。

 食料自給率100%を目ざさない国に未来はない、というスローガンは正しい。しかしそこで言われる本質は、自然と共生を目ざさなければ、人間は地球から排除される、と読み替えるべきだ。ひとつ食料問題を考えることは、極めて本質的で、未来の地球人たちのライフスタイルに大きな影響を与えるだろう。

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2009/10/12

世代間連帯 上野千鶴子 /辻元清美

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「世代間連帯」
上野千鶴子 /辻元清美 2009/07 岩波書店 新書 246p
Vol.2 No779 ★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 「ソーリ、ソーリ!」や「あんたは疑惑の総合デパート」発言で話題を提供した辻本清美も、いまや国土交通副大臣。与党内閣の一角を占め、八ッ場ダムやJAL、高速道路公団問題に揺れるコンクリート行政を、内から改革する立場となっている。社民党は連立与党であるだけに、来年の参議院選挙まで、というひややかな見方があるなかで、少しでも存在感を示せるかどうか、今後の動向に注目していたい。

 この本がでたのは今年の7月。実質的には、その数カ月前の発言が収録されていることになるだろうから、9月の政権交代劇の前に言いたい放題語っているということか。成り行き上、民主党マニュアルとは整合性がとれない文面も多々あるが、目いっぱい自民党政権に対する批判的な言辞を並べている。

 辻本 男が一人で月収35万円から40万円稼いで、たくさんの制度的優遇をつけられた「専業主婦」と子ども2人を支える。この政府の考えてきた「家族モデル」を維持し続けるためには、朝から満員電車に乗って、長時間過酷労働にさらされ、夜遅く帰る生活になる。私は、男の人こそ「やってられへん」と声をあげるべきだと思う。これだけ個人の生き方や家族の形態が多様化しているのに、制度が現実にあっていない。p9

 こんな言葉を聞いたら、倫理感やら道徳やらに一家言葉をもつ自民党のおっさんどもは、やっぱり最初から対応する気はなくなるだろう。国が国民に求めるのか、国民が国に求めるのか。かなり難しいところだ。この言辞は、民主党の「おっさん」たちでさえ、なかなか、ニコニコとは受け入れがたいところだろう。

 辻本 私はね、子ども年金「逆七五三プラン」という子供手当を個人的にあたためています。月額で1子目が3万円、2子目が5万円、3子目が7万円を15歳まで支給する。現在の子どもへの給付には親の所得制限などがあるけれど、それも外してしまう。p93

 言論の自由があるわけだから、このような新書本の中でなら、なんとでも言うことは可能であるが、それを実現することは容易ではない。月額2万6000円の子ども手当を作ろうとしている民主党でさえ、かなりの抵抗を受けている。でもそれを実現化へのプロセスの上に載せているだけ、民主党はすごいと思う。

 それを上回る「逆七五三プラン」は、辻本独自の「政策」であろうが、その社民党はたしか、子ども手当「月額1万円」でなかっただろうか。それに、民主党の「所得制限外し」に対して、社民党党首・福島みずほは、いまでも「所得制限」をつけるべきだと、主張しているはずだ。個人として、ひとりの女性として、「おひとりさま」、「負け犬」としての辻本は自由に発言していいだろうが、いまや国土交通副大臣となった辻本は、はて、どのようにこれらの政策や言動に統一性を持たせるのだろう。

 私は上野千鶴子さんの「おひとりさまの老後」だけは買うまいと思っていた。現状「おひとりさま」であり「負け犬」として分類される私には、このタイトルは手にとるのがちょっと気恥ずかしい。でも自分の将来に不安をもっているし、親の老後など心配のタネはつきない。また、政治の場に身を置く者として、この本が政策的にどう位置づけられるのにかにも興味があった。そこで同じくおひとりさまの友人と誘い合い、書店に行った。辻本pi

 民主党のマニュフェストであったとしても、政権を取る前はただの言葉でしかない。政権を取ればこそ、それをひとつの規範として国家の運営が始まる。ことほどさように、女性政治家一個人の「絵空事」が並べてあるこの本を、ひとつひとつ細かく検討する気はないが、鈴木宗男をあれだけ酷評しておきながら、今度は同じ閣内で手を取り合う運命となる。なんとも、政治の世界とはウソと欺瞞に満ちた、トボけた世界であろうか。

 辻本 つまるところ「おひとりさま革命」というのは、「ぼちぼち革命」であり「まったり革命」ということでもある。大国主義で国際競争力重視の国より、バブルに乗っかる人ではなく身の丈に合った経済でええやんか。それも、それぞれの多様な生き方こそが大事にされるようにですね。p204

 当ブログは、「自称」フェミニストであり、「男女共同参画社会」の実現におおいに「賛成」である。女性の社会的進出ばかりではなく、社会全体が「女性化」していくことにも大賛成である。しかし・・・・、この辻本という人、ホントに女性なのかな。戸籍上の性別はそうなっているかもしれないが、当ブログが思っているような、フェミニン、というニュアンスでは、ちょっとすぐには首肯しがたい。・・・・・、いや、よくはわからないが、「大阪のおばちゃん」、という意味では、たしかに女性なのかもしれない。

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2009/10/11

デジタルネイティブの時代

デジタルネイティブの時代
「デジタルネイティブの時代」
木下 晃伸 (著) 2009/05 東洋経済新報社 単行本  212p
Vol.2 No778★★★★★ ★★★★☆ ★★★☆☆

 民主党が政権交代を実現してから、当ブログの読書傾向も少し変わった。どう変わったかというと、より現実的な話題にシフトした、と言えるだろう。ちょっと前までは、小説やら哲学やら、なんだかちょっと逃避的と思えるような隠遁的傾向にあった。ああ、それなのに、現実的に面白そうなことが起きると、すぐ方向転換してしまうのが、当ブログの良いところでもあり、おっちょこちょいなところでもある。

 毎月送られてくる「FPジャーナル」のバックナンバーはだんだん溜まっていくが、それこそ読まずにツンドクになってしまっていたのだった。ところが、この政権交代劇があってから、またCFPの勉強をはじめようかな、と思った。さっそく最近の10月号を取り出して読みだしてみたのだが、やっぱり、いまいち集中できない。

 そこで、FP執筆陣の著書でも読んでみようかなと思って、今号のトップ記事「どうなる日本経済--企業業績から先行きを読む」の木下晃伸の著書を検索してみた。いまいち気が乗らなかったのだが、これが意外とヒットした。この「デジタルネイティブの時代」。おお、これなら、当ブログでもなんとか読めそうだぞ。もっとも「FPジャーナル」路線からは外れるけれど。

 世代というのは、時代背景がつくると考えています。ちなみに、私は1976年生まれのいわゆる「ナナロク世代」に属します。p32

 写真でみると、結構若そうなので、自らをデジタルネイティブと呼ぶのかなと思ったら、彼自身は自らをノンデジタルネイティブと呼ぶ。著者の概念としてのデジタルネイティブの概念は、平成元年(1989年)生まれ以降の世代のことを言う。

 先日、NHK取材班の一人が書いた「デジタルネイティブ」を読んだ。デジタルネイティブというネーミングは日本では定着するかどうか疑問だが、世代としてはいわゆる「ケータイ世代」ということができるだろう。いわゆるデジタルネイティブなら、いわゆる往年のパソコン少年たちだって、自らをその草分けと豪語するだろうが、いわゆるケータイ文化には、ちょっと違和感を感じている元祖パソコン少年たちは多くいるだろう。

 この本では、日本の状況を主に取り上げているので、「ケータイ世代の時代」と読み換えてもおかしくはないだろうが、本来はデジタルネイティブとケータイ世代では意味が違う。この本では、この世代に焦点を合わせて、社会論やマーケット論を展開しているわけだが、どこか、その根拠に皮相なもの感じる。

 その環境が劇的に変わったのは、2001年に孫正義社長率いるソフトバンクがスタートさせた「ヤフーBB」による猛烈な攻勢からでした。この技術は「ADSL」と呼ばれ、従来の電話線を使いながら、サクサクとインターネットを利用することを可能にしたのです。p81

 一般的にはそうとらえておいてもいいのだろうが、私は当時ISDNからすでに光ファイバーに乗り換えていたから、ADSLにお世話になることはなかった。むしろ、当時の不安定なADSLでは、ちょっと業務用のオンライン作業は恐くてできなかった。島 聡の「政治とケータイ ソフトバンク社長室長日記」を読んだりすると、その舞台裏は、とてもデジタルネイティブなどというほど隔世の感のあるものではないのだが、この本の著者は、ちょっとそのあたりを大くくりでまとめてしまっている。

 私たち「ノンネイティブ」の従来の常識では測れない「デジタルネイティブの時代」がすぐそこまできています。そうしたなか、私たち「ノンネイティブ」に求められていることは、「デジタルネイティブ」のことを理解できないということを理解するということなのです。p209

 そうなのかなぁ。それほど恐れることもあるまい。いつも子供たちはアンファンテリブル、恐るべき子供たち、でいいのではないか。この本を読んでいて、昔、三菱レイヨンの「現代っ子ルック」というコマーシャルがあったことを思い出した。Youtubeでは探せなかったので、似たような同じ会社のコマーシャルを貼り付けておく。

 

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2009/10/10

CO2と温暖化の正体

CO2と温暖化の正体
「CO2と温暖化の正体」  
ウォレス・S・ブロッカー (著) ロバート・クンジグ (著)  内田 昌男(監訳)  東郷えりか(訳) 2009/9 河出書房新社 単行本: 350p
Vol.2 No777★★★★☆ ★★★★☆ ★★★☆☆

 本書『CO2と温暖化の正体』の原題は、”Fixing Climate-- What Past Climate Changes Reveal About the Current Threat--and How to Counter It"(気候の修復--過去の気候変動は現在の脅威について何を明かすのか。それにどう対処すべきなのか)という。著者の一人が、海洋のベルトコンベヤー説で有名な地球化学者、ウォレス・S・ブロッカー でなければ、眉唾もの地球工学の本として片づけたくなるようなタイトルだ。共著者のロバート・クンジグは、本書を一般読者向けにわかりやすく書くためにブロッカーが選んだ科学ジャーナリストである。東郷えりか p342

 たしかにこの手の本の信憑性は、具体性や数字の積み上げなので、どこまでが本当でどこからが膨らましなのかは、科学者ならぬ一般的な読者にはわかりにくい。たくさんの情報の真贋を見極めるのは、一般人にはなかなか難しいことだが、自分の人生を振り返ってみれば、明らかに高エネルギー消費の生活スタイルになってきていることは間違いないし、それが環境におおきな影響を与えているとすれば、その生活スタイルを改めなければならない、と思うのは当然のことだ。

 もちろん、突き詰めれば、二酸化炭素はまったく排出しないほうがいいのだろう。そして、太陽エネルギーや風力、および核融合エネルギーによって、最終的にはそれが可能になるかもしれない。とはいえ、そうなることを当てにして、今世紀中に化石燃料の時代が終わることを期待するわけにはいかない。
 ところが、過去の気候の研究から得られたメッセージは、大気中のCO2濃度の上昇を止める時期はまさにいまだと訴えている。
p17

 危機感の受け止めからは、人それぞれだが、今こそ、真剣にその問題に取り組み始める必要がある。

 平均的なアメリカ人は、年間およそ20トンの二酸化炭素を排出している。燃費がリッター11キロの車を運転しているとすれば、1キロ走るごとに排気管から280グラムほどのCO2がでてくる。ちなみに、アメリカの車の平均的な燃費は、リッター8.9キロである。アメリカ全体では、毎年、化石燃料から60億トン近いCO2が大気中に排出されている。p136

 わが家の車はリッター当たり17~8キロほど走るから、アメリカの平均的な車のほぼ半分のCO2排出量ということになろう。ただ、植物などは、二酸化炭素を吸収して、酸素を排出すると教えられたものだが、このへんの計算はどうなっているのだろう。

 植物生理学者は何十年も前から、空気中のCO2量が多いとよく生長する植物があることを知っていた。たんぱく質と脂肪をつくるには、植物は窒素とリンを必要とし、それを土壌またはわれわれが撒く肥料から得ている。しかし、植物はあらゆるものをつくるのにCO2を必要としている。たとえば、トマトの栽培業者は温室内に定期的にCO2を余分に注入する。p140

 いつもセンセーショナルなデモンストレーションは、断片的で意図的に偏向された動機に基づいていることがある。だから、いたずらにひとつひとつの情報に過剰反応するのは問題だが、常に冷静に、時にはより科学的で合理的な理性を働かせる必要がある。

 アル・ゴアをはじめ、地球温暖化について人々を行動に駆り立てることに熱心な環境保護者は、ときおりkの問題は西洋文明にへの脅威なのだと主張する。その動機は分からないでもないが、そのような主張は根拠が乏しく思われる。西洋文明にはもっと回復力があるだろう。p202

 しかし、科学的や合理性だけでは乗り越えられない問題が、人間の一生にはたくさんある。人間には感性が、創造性が、そして、芸術的な創造性も必要とされる。1から10を知る想像性が極めて大事だ。CO2問題を、科学的問題としても、政治的な問題としても、経済的な問題としても取り上げることができる。しかし、本当は、もっともっとスピリチュアリティの問題として取り上げる必要を当ブログは感じている。

 振り返ってみれば、当ブログのVol.2 No777の読書だった。これも何かの縁。危機こそ好機。CO2問題が、地球人スピリットがさらに成長するよいきっかけになればよい、と感じている。

 

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2009/10/09

オバマ大統領 ノーベル平和賞授賞

<1>よりつづく

「オバマ大統領 ノーベル平和賞授賞」 

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理由の全文

ノルウェーのノーベル賞委員会は、09年の平和賞をバラク・オバマ米大統領に授与することを決めた。その理由として、オバマ氏は多国間外交と人びととの協力を強化することに並はずれた努力をした。とりわけ、オバマ氏の核なき世界についてのビジョンや働きを重視する。

 オバマ氏は、大統領として国際政治において新たな機運を作り出した。国連やその他の国際機関が果たすことのできる役割を強調したことで、多国間外交が中心的な位置を取り戻した。最も困難な国際紛争を解決する手段としても、対話と交渉が好まれるようになった。核なき世界のビジョンは、核軍縮や武器をめぐる交渉を力強く激励した。オバマ氏の主導のおかげで、米国は世界が直面する気候変動の挑戦に立ち向かう上で、これまでよりも建設的な役割を果たしている。民主主義と人権も強化されるだろう。

 オバマ氏ほど、よりよい未来へ人々に希望を与え、世界を引きつけた人はほとんどおらず、まれな人物だ。オバマ氏の外交は、世界をリードするには、世界中の人々の大半が共有する態度や価値を基盤にしなければならないとする考えに基づいている。

 108年にわたって、委員会は、そのような国際政策や態度を促進することを目的にしてきており、まさにオバマ氏が今、その分野で世界をリードするスポークスマンになっている。委員会は、オバマ氏が「今こそ、私たち全員が、グローバルな課題に対してグローバルな対応をとる責任の一端をとる時だ」と強調していることを支持する。

asahi.comニュースより2009年10月9日19時22分

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<改革>の技術 鳥取県知事・片山善博の挑戦

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「<改革>の技術 鳥取県知事・片山善博の挑戦」
田中成之 2004/11月 岩波書店 単行本 269p
Vol.2 No776★★★★☆ ★★★★☆ ★★★☆☆

 民主党新政権のムダ削減のさらなるチェックをする行政刷新会議のメンバーの一人に選ばれた片山善博とは、どういう人物なのか。八ッ場ダム計画中止問題に絡んで、すでに県知事として鳥取中部ダムを中止したことで知られるこの人が、最近よく引き合いに出される。

 「中部ダム中止がローカルニュースで済んで非常に助かった。あの時東京のテレビ局が来て『環境保護かダム推進か』となっていたら大混乱したと思う。改革は黙って小さくはじめて、そこから波及させた方が良い。大風呂敷を広げれば衝撃的効果はあるが、無用な混乱を生む」

 「(過激な言動で)クローズアップされるほど無用のあつれきや戦いが増える。クローズアップしても変革の成果が小さい、というよりは、気がついたら『こんなことができていたのか』という方に私は関心がある。時代の変わり目では、変革に賛成の人もいるし、反対の人もいる。変革に従うけど無念を残すケースもある。そういう方々も考慮しなければいけない。あまり大げさに勝った負けたと勝負みたいにしない方が、実質的な変革ができるし、しこりも少なくできると思う」p103

 実際に、自分のエリアのこともよく分かっていないのに、他県のことまでなかなか関心が及ばないものだが、<技術>にもいろいろあるものである。2016年の東京オリンピック招致に失敗した石原慎太郎が、かつて東京都のホテル税に絡んでの片山の発言に対してののしった言葉が有名だ。

 「ナンセンスだね。夢でも見てるんじゃないか。あれ、もとは自治省の役人だろ? 担当省庁(旧自治省のこと)が自治体(東京都のこと)が勝手なことをして嫌なのよ。ことの何たるかも理解せずにね、誰にどんな知恵をつけられたか知らないけれどね、恥をかくのはテメエの方だ」片山に対する石原の言p250

 このような発言を繰り返す知事を選出した東京都民1300万人の良識を疑うが、新銀行東京の致命的な大失敗を隠ぺいするために画策した2016年オリンピックの招致にも、都民国民の不支持をよそに推進して失敗したのも、当然のことと言えよう。ましてや、問題発言を繰り返して、オリンピック開催地に選ばれたブラジル・リオデジャネイロからの大ブーイングで、国際問題を起こし始めている。

 脱ダム、ダムはムダ、の田中康夫・元長野県知事のパフォーマンス重視の県政もはていかがなものか、と思われる。大阪の橋本知事や、宮崎の東国原知事などの<改革>も、マスメディアを活用して、大ナタを振るっているように見えるが、はて、その成果はいかがなものか、まだ結論はでていない。

 それに比したら、国内でも最小県に属する鳥取県知事としての片山の活躍は、それほど大きくマスメディアに取り上げられることはなかったが、たしかに「気がついたら『こんなことができていたのか』」というような改革だ。元防衛庁長官であり、父に元鳥取県知事を持つ石破茂に請われて、鳥取県知事になった片山は、必ずしも民主党を以前より押してきたわけではない。むしろ、東大→自治省→県知事、という、旧態依然としたコースを歩んだ陳腐なケースと思われがちだ。

 この本は、若い新聞記者が鳥取県に配属になり、身近なところで見ていた知事としての片山の活動を知事二期目の中ごろにまとめたもので2004年にでている。だから、その後のことについては、他書によらなければならないが、なるほど、と思わされるところが多くある。

 発言の仕方にも注意が必要だ。「改革か、しからずんば死か」と言わんばかりの感情的レトリックに満ちた発言をすれば、過大な反発を招き苦労することになる。実際、片山知事の発言は、西尾前知事の方針への「疑念」や「違和感」の表明ではあっても、ストレートな「批判」にはあまり発展しなかった。西尾前知事の”負の遺産”を相続放棄するまでの2年間、片山知事は、声高に「改革」を叫ぶことはせず、従来の方針の「見直し」を叫び掛け続けた。 p21

 本年度補正予算の中から2兆5千億を超える執行停止する「ムダ」をほじくり出した民主党の「技術」を踏まえ、さらに「過大な反発を招き苦労することに」ならないようにするには、どうしたらよいのか。あらたに行政刷新会議のメンバーとなった片山の「技術」に期待がよせられる。

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2009/10/08

高速道路はタダになる! 大人のための税金の絵本

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「高速道路はタダになる!」 大人のための税金の絵本
山崎 養世 , 吉田 寛 2004/06 新風舎 単行本: 47p
Vol.2 No775★★★★☆ ★★★★☆ ★★★☆☆

図書館の受付でこの本を受け取って、おやぁ・・・と思った。なんだかカラフルなムック形式だったからだ。もっとも「大人のための・・絵本」というサブタイトルなのだから、当然と言えば当然か。「日本列島快走論」「環東京湾構想」を読む限り、もうちょっと小難しそうな本なのかな、と想像していた。厚さも47ページしかなく、かなりお手軽な本だ。出版もすでに5年前のことだった。

 2003年11月衆議院選挙において、「高速道路無料化」及び「郵政資金の中小企業への活用」が民主党のマニュフェストに採用されるとともに、同党が政権を取った場合の国土交通省大臣に指名される。表紙見返し「著者プロフィール」より

 やっぱりそうであったか。当時、民主党による政権交代などまだまだ夢であったし、「高速道路無料化」などとは、さらに想像することもなかった。もっとも、民主党のマニュフェストなんかもまともに読んでいないので(いや読んだけど、ほとんど忘れた)、こんなことが描いてあったことなんか、全然記憶になかった。

 それにしても、この人が国土交通省大臣ねぇ。現在の前原・国土交通省大臣の大ナタぶりを見ていると、なかなかこのポジションも大変だぞ、と思う。高速道路だけやっていればいいわけではない。八ッ場ダムを初めとする143個のダム建設計画の見直しや、JALや全国の無駄な飛行場の見直しが待っている。

 共著者の公会計研究所代表・吉田寛の担当部分もあってか、この本全体は、税金の話になっているが、すくなくとも、面倒くさそうに思ってしまう、これらの政策や税金の話題が、日の友太のイラストをともなって、極めて見やすく、分かりやすく説かれている。

 かなりデフォルメされている本なので、この本一冊では危なくてすぐには納得できないが、入門書としてはかなりとっつきやすいことは間違いない。

 道路四公団の借金さえなくなれば、簡単に高速道路の通行料金は無料にできるのです。そのためには、実質的に破綻している道路四公団の借金を、国が一日も早く返済してしまうことが必要です。さらに、道路四公団は民営化などではなく、廃止してしまうことでもっとムダを減らせます。p15「本当に無料化が実現できるのか?」

 まずはとにかく、お手並み拝見、と行きたい。

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グリーン・ニューディール これから起こる変化と伸びるビジネス

グリーン・ニューディール
「グリーン・ニューディール」これから起こる変化と伸びるビジネス
三木優 2009/07 近代セールス社 単行本 253p
Vol.2 No774★★★★☆ ★★★★☆ ★★★☆☆

 ニューディール政策(−せいさく、New Deal)は、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトが世界恐慌を克服するために行った一連の経済政策。新規まき直し政策とも呼ぶ。それまでアメリカの歴代政権が取っていた古典的な自由主義的経済政策(政府は市場には介入せず、経済政策も最低限なものにとどめる)から、政府がある程度経済へ関与する社会民主主義的な政策へと転換したものであり、第二次世界大戦後の資本主義国の経済政策に大きな影響を与えた。世界で初めてケインズの理論を取り入れたと言われる。Wikipedia

ニューディール、つまり、ポーカーゲームで、勝敗が大きく決まってしまったら、もういちどディーラーがカードを配り直すことを意味する。新規まき直し、敗者復活戦だ。この言葉が1930年代の大恐慌時の公共事業拡大のように理解されているが、必ずしも公共事業そのものを言うわけではもちろんない。 

 100年に一度と言われる「大恐慌」だが、はて、80年前の恐慌を超えるほどの自体になっているのかどうかは、今のところ分からない。逆に、100年に一度、という「恐怖感」をあおって、何事かをやってしまおう、という意図があった動きもあったのではないだろうか。

 グリーン・ニューディールという言葉も、1930年代の大恐慌を連想させる様なネーミングだが、どうもネーミングばかりが先行して、新しげに聞こえるが、環境問題から考えて、いままでやるべきなのにサボってきたことを、この際だから、再スタートさせよう、という政策が多いのではないだろうか。

 みんながやるなら私もやります、という鳩山25%宣言もいまいち弱い。One Seed Makes the Whole Earth Green とまで豪語するのは、誰にでもできることではないが、ひとつの地球に対する一人の地球人としての行動は、そのくらいの意識と存在感で対峙する必要があろう。

本著では「グリーン・ニュー・ディールで伸びる6つのビジネス」が述べられている。

1)再生可能エネルギー

2)電気自動車

3)省エネ住宅・省エネビル

4)適応ビジネス

5)森林ビジネス

6)金融ビジネス

 それぞれにありそうなテーマだが、金融ビジネスについては、ちょっと引っかかる。

ここで金融ビジネスを取り上げることについて、「なぜ、グリーン・ニューディールと金融?」と感じる人は少なくないだろう。「なぜ、”金融危機”を招いた超本人の金融ビジネスが改めて追い風を受けないといけないのか」、そう感じる人もいるかもしれない。

 その答えは、グリーン・ニューディールは、金融ビジネスが生まれ変わらなければ実現できないからである。グリーン・ニューディールの実現には、多額の資金を必要とする。それを公的資金だけでまかなうのは無理なことだ。そのため、民間の金融ビジネスが、どのように環境・地球温暖化関連分野に資金を供給できるかにグリーン・ニューディールの成否はかかっている。p235

 グリーン・ニューディールが本格始動しそうな今、現実問題として、なお一層具体的な問題として考えていく必要を感じる。

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2009/10/07

国連安保理と日本

国連安保理と日本
「国連連安保理と日本」 
白川義和 2009/08 中央公論新社 新書 183p
Vol.2 No774★★★★☆ ★★★★☆ ★★★☆☆ 

 日本国内の政治状況でさえこれだけ混沌としているのに、国際政治などに思いを寄せ始めたら、「パジャマを着たままパソコンの前に座」っているだけでは、何も手付かずのまま、理解不能で終わってしまう可能性が大きい。

 それでも、未来の地球人たちが享受するであろう世界政府というシステムはどこまで成長しているのであろうか、と興味津津ではある。ましてやGoogleが「世界政府っていうものが仮にあるとして、そこで開発しなければならないはずのシステムは全部グーグルで作ろう。」という意気込みなら、無関心でいられるはずがない。

 米国オバマ大統領の「非核宣言」を受けて、日本の鳩山新首相が、国連の安保理で演説をし、さらにまたその安保理が「核兵器ない世界を」決議採択するに至って、未来は明るいのではないか、と淡い期待を持ってしまうことは当然のことである。

 ところが、この1965年生まれの読売新聞政治記者がレポートするところの国連やその安保理、そしてその動きの中で翻弄される国家としての日本外交は、とても芳しい動きとは言えない。ましてや、虹色に輝く「ひとつの地球政府」など、夢の夢、という想いにさえなってしまう。

 安保理は各国の国益が正面からぶつかり会う場であり、二国間外交とは違った力学が働く。
 中国の国連大使が記者団の前で顔を真っ赤にして怒ったり、米露の国連大使が突然、避難合戦を始めたりするのは珍しくない。安保理は15か国と参加するプレーヤーが多く、密室での生々しいやりとりも時間がたてばもれてくる。これほどむきだしの本音がぶつかり、大使ひとりひとりの人間的な側面が伝わってくる外交の舞台は、安保理をおいてないだろう。
 そこでは、日米同盟がいつも有効に機能するとは限らない。米英仏中露の常任理事国5か国は複雑なゲームを日々展開しており、二国間の同盟関係は時に埋没してしまう。
p7

 北朝鮮の核開発問題、自衛隊の海外における給油活動、CO2排出削減問題、などなど、日本を取り巻く国際的課題でさえ山積みとなっている。ましてや地球全体となれば、ほとんど全体を考えて行動できている人間など皆無と言っていいだろう。

 残念ながら、国連を取材していると、日本より中国の存在を感じることのほうが多い。常任理事国であるだけでなく、中国は国連総会で130か国以上が所属する最大派閥の途上国グループ「G77}を率い、欧米諸国に対抗している。また、アフリカを中心に積極的にPKO要員を出している。p165

 この世に兵隊さんが不要だとは思わない。警察やガードマンが必要なように、自衛隊も必要であろう。国連主導主義と言われれば、日本も海外派兵も必要なのか、などと思わざるを得ない。しかし、まずはその「国連」そのものが問われ、理解されなければならない。

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2009/10/06

日本列島快走論 高速道路を無料にして日本再生へ

Photo
「日本列島快走論」 高速道路を無料にして日本再生へ
山崎 養世 2003/9 NHK出版 単行本  256P
Vol.2 No773★★★★★ ★★★★★ ★★★☆☆ 

 私の経歴をご覧になった読者の中には、「金融マンだった山﨑が、なぜ『高速道路無料化』を考えついたのか」と疑問に思われた方もいるでしょう。p224

 たしかに先日、著者の近著「環東京湾構想」を読んだ時に、ゴールドマン・サックス投信代表取締役社長だった人が、このような構想を練ること自体、なんだか眉唾ものだなぁ、と感じた。その後、徳島県知事選挙に立候補した経緯なども、どうもいまひとつ怪しい、なんて思ってしまった。

 しかし、そのような疑念は、この本を読む限り、かなりの部分が払拭されてしまった。1958年生まれの著者が45歳の時、2003年に出したこの本は限りなく突拍子もないような感じがして、当時の私がこの本を読んだら、なにを夢みたいなことを、と一笑してしまったに違いない。

 ところが、この本の内容は限りなく信憑性があったということになるだろう。その証拠に、民主党が高速道路無料化をマニュフェストの重要な位置に加え、あの自民党でさえ、二年間の暫定であるとは言え、ETC1000円の旅を実現させた。民主党に政権が交代した現在、限りなく「高速道路無料化」は現実化へのプロセスのなかにある。

 「高速道路無料化」は法律改正が不可欠なので、国政選挙でのマニュフェストの対象になります。「高速道路無料化」をマニュフェストに掲げる政党が政権を取れば、その確実な遂行が求められるので、無料化は実現に向けて大きく前進します。自治体レベルでは、「高速道路無料化」と堂に始まる自治体主導による道路建設と街づくりがマニュフェストとしての恰好の分野になります。なぜなら、自治体の首長が道路建設の自主財源と権限をもち、首長が打ち出す道路政策が地域の生活と経済、環境に直結するからです。p219

 2003年と言えば、まだ小泉旋風が吹き荒れている頃の話。民主党政権の実現など、まったく可能性がなくなったと私などは、すっかり白けていた。それに比して、2009年の今、限りなく高速道路無料化は現実化しているが、それでも、世論はまだまだ反対論も多いようだ。

 マスメディアもまだまだこの高速道路無料化についての、きっちりした哲学なりを伝えてはいないのではないか。このプロジェクトのフロンティアがこの著者なのかどうは知らないが、少なくとも、今こそこの「日本列島快走論」は広く読まれる必要があるのではないだろうか。

 この本はたしかに、絵に描いた餅なので、実際に社会実験を繰り返していけば、ここに書いてあるように、おいしいことばかりではないだろうが、全体から伝わってくる雰囲気はよい。反対論者たちの意見もしっかり聞いては見たいが、とにかく、わたしはこの意見に賛成だ。民主党は実際にこの山﨑養世の論理を借りているのだろうか。なにはともあれ、現実化する過程においては、著者は今後もっともっとマスメディアに登場してくることになるのだろう。

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2009/10/05

クラウドソーシング みんなのパワーが世界を動かす

クラウドソーシング
「クラウドソーシング」 みんなのパワーが世界を動かす
ジェフ・ハウ /中島由華 2009/05 早川書房 新書 421p
Vol.2 No772★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

 今回の政権交代劇で総務大臣となった原口一博が、最近のインタビューで「民主党はリナックスのような政党です」という答えをしている映像をどこかのテレビ局が流していた。いきなりの放送だったので、はて、そうかな? と首をかしげた。

 もちろんリナックスとは、コンピュータのOSのことだし、民主党そのものはコンピュータではない。自民党の与謝野馨が趣味で自作パソコンを何台も作っていることも知っていたし、新党日本の田中康夫が長野県知事時代に、行政で使うパソコンをリナックス化しようとしたことなどを、すこしうっすらと記憶しているに過ぎない。

 政治とリナックスはなかなかつながらないが、この時、原口一博が言いたかったのは、リナックスができたそのバックボーンであるオープンソース(あるいはフリーソフトウェア)のことを言いたかったのだろう。

 さて、そのオープンソース的視点から考えて、伽藍とバザールの比喩を使うとするなら、原口は当然、民主党は「バザール型」政党である、ということを意味していたに違いない。だとするなら、自民党は「伽藍型」政党、ということになるのであろうか。

 これは、どうもぴったりした比喩ではないような気がする。むしろ、このような比喩を使うとするなら、日本の官僚行政が「伽藍型」で、日本の政治はすべてにおいて「バザール型」である、という喩えの方がただしいのではないか。その、「伽藍型」官僚行政のマリオネットに成り下がってしまっていたのが自民党で、そこから脱却しようという民主党が「バザール型」ということになるのだろうか。

 発言者の原口の真意も、この喩えの正当性も、いまいちわからない。だが、リナックスというインターネット上で出来上がったオープンソースの果実を見習って、実際の仕事のうえにこのシステムなり哲学なりを活用したい、と思うのは、ごく当然のことだと思う。当ブログでも最近は埋没してしまったがOSHOmmp/gnu/agarta0.0.2というカテゴリ名の元で、なにごとかの試行錯誤を続けている。

 オープンソースやウィキペディアの成功によってわかったこと―それは少数の専門家集団よりも雑多なアマチュア集団のほうが賢くて創造的で、効率よく物事を進められるということだ。その先にはどんな可能性が秘められているのだろう?大人気のTシャツ屋の経営から、異星人探索、世界的貧困の解消まで、群衆の知恵で大きな物事を解決しようとしている現場を「クラウドソーシング」という言葉の生みの親自らレポート。ムーブメントの全貌を捉えた話題作。裏表紙

 「クラウドコンピューティング」とまぜこぜに読んでいるために、「クラウドソーシング」、という言葉の意味がよくわからなったのだが、前著がCloud Computingで「雲になったコンピューター」を意味しているに対し、こちらのCrowd Soucingは「群衆の知恵」を意味しているのようなのだった。つまり、日本語は同じクラウドでも、かたや「雲」であり、かたや「群衆」を意味している。

 まったく意味が違うのであり、英語圏においては混同されることはないだろうが、日本語としては、ミスリードされて混乱されてしまうことになりかねないと思う。他にも同じタイトルのクラウドソーシング世界の隠れた才能をあなたのビジネスに活かす方法」などと言う本もあるのだから、すこしづつこの言葉は日本語のなかに浸食をはじめているのかもしれない。

 同じクラウドでも、雲よりも群衆のほうが、やや親近感をもつ。とくに当ブログではネグリ&ハートの「マルチチュード」という概念と共に群衆としてのクラウドにも関心を持ってきた。しかし、マルチチュードという概念は、結局どこまでもスピリチュアリティに行きつかない。革命的な可能性をもつ概念として語られてはいるが、結局それは架空のものではないか、という疑念はどこまでもつづく。

 共産主義にはたったひとつ欠けているものがある。霊性(スピリチュアリティ)だ。モデル・コミューンは求道者たちの、恋人たちの、友人たちの、<生>のあらゆる領域での創造的な人々の霊的な集まりであるべきだ。彼らはここに、この地上に、天国を作ることができる。Osho「新人類--未来への唯一の希望」モデル・コミューンp46

 同じ、クラウドという日本語が、一方は雲の上のコンピューターを意味し、一方は、手前にある人間たちの群れを意味していることは、意味深い。さきほどの「クラウドコンピューティング」と合わせて読んでも、繋がる意味が多くある。

 集団的知性、あるいは群衆の知恵(クラウド・ウィズダム)
 クラウドソーシングの主な動力は、集団は個人よりも多くの知恵をたくわえているという原則である。
 p392

 限りなくクラウドコンピューティングが発達し、限りなくクラウドソーシングが活性化したとしても、スピリチュアリティは進化しない。スピリチュアリティは個人の人間に宿るからだ。当ブログでいえば、コンテナに対応するクラウドコンピューティング、コンテンツに対応するクラウドソーシングに呼応して、コンシャスネスに対応する、新たなる何かが必要だ。

 いや別に新たなものである必要はない。たとえば池田晶子が残した「私」「魂」「死」とはなにか、という問いかけを問い続けて行けばいいことだろう。ただそこには、かぎりなくクラウドコンピューティングやクラウドソーシングとの密接な接点が現れることを期待する。それこそが、今日的であり、21世紀の的と言えるだろう。それを当ブログでは地球人スピリットと呼んでおく。

 この本、とても面白い。再読する価値あり。

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2009/10/04

羽ばたけ!イーグルス 祝CS決定!

羽ばたけ!楽天イーグルス 
祝CS決定!

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2009/10/03

クラウドコンピューティング 技術動向と企業戦略

クラウドコンピューティング
「クラウドコンピューティング」 技術動向と企業戦略
森洋一 2009/05 オーム社 単行本 238p
Vol.2 No771★★★★★ ★★★★☆ ★★★☆☆

 自分が関わる企業の社内パソコンが2011年度上半期までに、すべてハードディスク非装備のパソコンになるという。その導入端末の数、約3万台。もっとも重要なことは情報保護という観点からだが、思えば、一時期から考えると隔世の観がある。

 機械化が叫ばれてからも、一番遅れていたOAと言われる分野でも、依然として、紙と電卓の作業が延々とつづく業態だった。複雑な計算数理が延々と続き、そこに法制度が複雑に絡みこむ。情報量も多く、その保管も極めて重要だった。

 しかし、1990年代以降、他の分野と同じように、ITとインターネットの荒波に洗いあげられた。パソコンが苦手だなんて言ってはいられない。いまやパソコンが使えなければ、何もできない。さらに、パソコンとインターネットがあることを前提として、商品内容と法制度がさらに複雑化した。

 業務をパソコンに置き変えるなどという時代は当の昔の話で、パソコンやインターネットからスケジューリングされた業務を淡々とそつなくこなし続ける日常に変貌してしまっている。もともとIT推進は大歓迎であった私には、理にかなった実態に見えてはいたが、ここに来て、はて、これでいいのかな、という疑問を持ち始めた。

 弊社のパソコンもその業務の50%以上はオンラインで、企業のホストコンピューターにつないで使っているが、ものによってはオフライン・ソフトを使い、客先との連絡も、まだまだ紙や電話ファックスが主流を占めている。ここに来て、客先との面談の必要性が強調されるような揺り戻し現象も起きている。

 しかし、時代はさらにクラウド化していくことは間違いない。クラウド化すること自体に夢がないわけではない。最近もネットブック探しをしていて、ああ、時代はここまで来ているか、とその変遷を実感した。まだまだ接続料金がこなれていないが、仕事のことだけ考えれば、それはそれでいいのではないか、と思う。

 10インチ程度のディスプレーを持つフルキーボードでハードディスクがついていない2~3万円のネットブックを一台鞄に忍ばせておけば、ほとんど仕事ができてしまう。できれば、バッテリーもカタログ上だけではなく、実質10時間くらい持続してくれるなら、もう問題ない。

 モバイル接続料金も、24時間フルタイムで使って一カ月2000円程度なら許せる。接続エリアもドコモケータイエリアぐらいには拡大して欲しい。いや、このような環境はまもなく数年以内にできてしまう可能性がある。いや出来るだろう。できないはずはない。

 でもふと考える。小学生の時に、学校の近くで買った800円くらいのゲルマラジオがもたらしてくれた不思議な面白さ。乾電池もなければ、スピーカーもなかった。一つのコンデンサにイヤホンがついただけのもの。選局のための簡単な変換機がついていて、アンテナは、部屋に巡らした一本のエナメル線。あの、お手軽な手作り感覚。裸電球の下でワクワクしながら聞いたあの流行歌。

 あるいは、パソコンの黎明期。いや、日本じゃマイコンと呼ばれていた。私はマイコン・キットも買えなかったし、自作パソコンにも挑戦したことはないが、いっぱしのパソコン・オタクではありつづけてきた。オークションで落札した型落ちノートを何台も、分解しては再構成するということが、一種の日常的なシュミ化している。バラしては組み立てる、の繰り返し。

 業務がクラウド化して、コンパクトなルーティン・ワークになっていくことに別段に声を荒げて反対する気はない。それはそれとして、必然性がある。仕事自体は決して楽にはならないが、技術の進化によって、どこまで変貌していけるのかを見たい気もする。しかし、ハードも、そしてソフトも、はるかかなたに遠ざかってしまう悲しさが湧いてくる。

 時代が動いているのがわかる。
 今日のクラウドコンピューティングは、アマゾンやグーグル、そして新興企業たちが引っ張ってきた。
 かれらは、これまでコンピュータ産業のメインストリームにいなかった人たちだ。
 この動きと呼応しているのは、世界中のデベロッパー、重宝がられているのはオープンソースである。
 p204

 クラウドは時代の必然性であったとして、クラウドをはるか遠くに見つめるだけに取り残される側と、そのクラウドの中に入っていって、クラウド推進する技術者たちがいる。たんにハード技術やソフト技術だけではなく、利用技術が問われている。その流れを知るにはこの本は分かりやすい。

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2009/10/02

環東京湾構想 新たな成長と人間本来の生き方のために

環東京湾構想
「環東京湾構想」 新たな成長と人間本来の生き方のために
山崎養世 /竹村真一 2009/09 朝日新聞出版 単行本 241p
Vol.2 No770★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 ETC1000円の旅も何回か楽しんだ。高速道路無料化も待ち遠しい。実際に政権が交代して見れば、完全無料化まではさまざまなハードルがあるようだし、国民の半数以上は明確な反対意見を持っているようだ。

 もともとこの高速無料化には根拠がないわけでもなく、この話題が浮上したときには、まさか、と思ったが、自民党政権下においてさえ暫定的とは言え、この大きな「社会実験」が始まったのだから、実現性がないとは言えない。

 先日、例の週刊誌を見ていたら、「高速無料化が日本を変える」の記事があった。そこで熱弁をふるっていたのが、「元祖提唱者」山崎養世。経歴を見ると、エリートなのだか、いかさま師なのか、私には判断できない。とくに、外資系投資会社における活動がどのようなものであったのか、それいかんによっては、当ブログにおける彼の評価は大きく変わる可能性がある。

 さっそく図書館で彼の名前で検索してみると、すでに10冊ほどの著書があった。とくに「日本列島快走論--高速道路を無料にして日本再生へ」は2003/09に日本放送出版協会から発行されている。その他、読めば面白そうな本がいくつかある。その著者の最近刊と言えるのが、この一冊であろう。

 首都圏の問題は、他の地方にとっても他人事ではありません。
 日本の財政構造は法人税にしろ、消費税にしろ、「東京都で稼いだ金を全国に配っている」という形になっています。
p24

 もうすでに話題にさえのぼらなくなってしまったが、首都圏機能移転構想というものがあった。全国各地が立候補し、最終的に3~4の移転候補地へ絞られたはずだった。だが1999年に石原慎太郎が都知事になって、その構想を真っ向から潰してしまった観がある。いやまだあの構想は残っているはずだ。

 この前、ETCの旅で都心も走ったが、なにも、これだけ広い日本の機能を一極に集中する必要はないと思う。「東京都で稼いだ金を全国に配っている」などというが、そのような形に作り上げてしまっただけで、本来、そういう形になるべきものではないのだ。

 この先30年間、少子高齢化が直撃するのは、日本のどこよりもまず首都圏なのです。p18

 なんとも、この辺の論理も、都市圏のエゴが丸見えの一方的なへ理屈のように思える。そのようにしてしまったのは、都市そのものである。ここから、環東京湾構想とやらに展開していくとするなら、なんだか、いよいよ雲行きが怪しくなる。

 私が「環東京湾構想」という言い方にこだわるのは、一つには今のように左右が大きく分かれたままの東京湾岸ではなく、東京湾を取り囲むこの地域全体を一つの「環」として考える発想が必要だと思うからです。頭の中でそうイメージするだけでなく、実際に環東京湾全体を一つの環の構想としていくべきなのです。p128

 いくら環東京湾構想を打ち上げたとしても、その環東京湾が自給自足で自立できるわけではない。それを支える、あるいは支えさせられる地域があればこそ成り立つ構想になっている。地域エゴまるみえだ。

 環東京湾だけでなく、あるいは日本だけでなく、アジア、北半球、地球全体と視野を広げていった時、物理的な一つの限界性、あるいは絶対性としての「地球」を大きく念頭に入れていかないと、これからのグランドデザインにはならないのではないか。

 日本がつぶれる、東京が壊れる、アジアの中で埋没する・・。そんなたわごとは、ある意味、本気で組みすべきテーマではない。地球全体、人類全体が、一つの限界性、絶対性の壁にぶつかっているとき、小さなエゴは、さまざまな理論とともに噴出してくるが、本当はそんなのはどうでもいいのだ。

 これからの地球全体のことを考えれば、1000万人を超えるような大都市は必要ない。それを再整備するような大プロジェクトを考えるより、はやく「廃都」にしたほうがいいのではないか。そして、「首都圏移転」をきっかけとして、都市機能を分散させるほうがいい。

 個人的に言えば、東京のような大都市に生活することは、私向きではない。いや数百万の都市でさえ、少し大きすぎると思う。本当に「人間本来の生き方のため」であるなら、せいぜい3~40万規模の人口を抱える都市構想がリミットではないのか。この本が「新たな成長と人間本来の生き方のために」と唄うなら、その時の「人間」とは何かを問うてみたい。

 本日、2016年のオリンピックをどの都市で開催するかが決定するはずだ。東京も候補しているが、当ブログは、これをいいわけにして、矛盾の噴き出している東京に再投資することは反対だ。鳩山新首相だって、ついこの間まで、東京開催に懐疑的だったはずだ。リオでも、シカゴでも、どこかに譲ってしまったほうが、さっぱりする。

 コンクリートから人へ、というスローガンで、八ッ場ダムの建設を中止するなら、東京をこそ、コンクリート地獄から救うべきだ。そして、一極集中という過度な役割から解放し、もうすこし楽なエリアに作り替えるべきだ。そもそも、八ッ場ダム構想だって、都市圏への治水と水資源の提供というプランのもとに犠牲になったとさえ言える。

 Osho追っかけを主テーマにしている当ブログなら、ここでOshoのコミューンについてのインスピレーションを思い出す。

 コミューンについての私のヴィジョンは、国家は消え失せ、大都市は消え失せるというものだ。なぜなら大都市は、あらゆる人間に対して十分な空間を許さないからだ。そしてすべての人間は、ほかの動物たちとまさに同じく、どうしても一定の領域を必要とするような心理的要請をもっている。大都市では、人間はたえず人混みのなかを動いている。それが大いなる不安、緊張、苦悶を生み出し、いかなるときにも人がくつろぐことを許さない。いついかなるときにも自分自身であること、独りであることを許さない。生命の源泉である樹々とともにいることを、生命の源泉である海とともにいることを許さない。

 新しい世界についての、コミューンの世界についての私のヴィジョンは、国家もなく、大都市もなく、家族もなく、地球上のあらゆる所、深い森のなか、青々と茂る森のなか、山のなか、島のなかに拡がり点在する無数の小さなコミューンの世界だ。運営可能な最も小さなコミューンとしては、すでに私たちがすでに試みたことだが、5000人のコミューンが可能だ。そして最も大きなもので5万人のコミューンが可能だ。5000人から5万人のあいだだ。それ以上になれば運営不可能になるだろう。そうすれば、ふたたび法と秩序の問題が持ち上がり、警察と法廷と、すべての旧来の犯罪者たちが呼び戻されなければならなくなる。Osho「新人類」p70「コミューン主義」より

 本書の後半において著者山崎養世や対談者の武村真一は、なかなかシオらしいことを言い始める。

 小学校には昔から運動会など、子供を中心としたいろいろなイベントがあって、地域の人たちが集まっていますね。PTAにしても、子供たちのイベントだけをやるのではなくて、その地域の大人が集まって行う、いろいろな活動の中心になってもいいのではないか。p158

 そう思うなら、人に勧める前に、それを実践してみたらいかがだろうか。私は自分なりに、子供たちの成長とともに、町内会活動に参加し、父親の会を立ち上げ、PTA役員として10年以上も参加してきた立場から考えると、後半の著者たちの構想が、なぜ前半の、超モンスター・コンクリート都市構想に連なっているのか不思議でならない。

 日本政府は明治維新のときに、全国で小学校と郵便局と交番を造ったんですね。
 このときの小学校間の距離は、歩いて通える距離ということで、そこに通う子供たちが平均で1.2キロ歩けばいいように計画されたのです。
 街づくりでもこの小学校の校区をベースに、そこに住む人たちが話し合いで地域のことを決めていく仕組みを作ったらどうか。そう考えて、その小さな単位に「グリッドコミュニティー」と名前をつけました。
p158

 よく言うよ、という感じがする。1.2キロどころか、1.2メートル隣の住人がどのような人間なのか分からないような人間が暮らしているのが東京を初めとする日本の現状なのである。理想は理想として、絵に描いたような話をしても意味はない。大体において、明治維新においては、国家、国民と言う概念はあったとしても、具体的な地球、地球人、という感覚はなかった。だから、この100年間は、その構想がベースとなって機能してきた。

 しかし、すでにそれは破綻している。いくら山崎養世が、忘れたころに故郷を思い出すようなことを言ったとしても、一体、誰がその故郷を守っているというのか。若いものはみんな都市圏に就職し、ダムや要らない高速道路の公共事業を待っている地元の工事業者だけが残されていたのでは、シャッター商店街だけが無残な姿をさらけ出し、山崎が言うところのコミュニティーなど、夢のまた夢となりはててしまっているのだ。

 グランドプランを描き直そうというは賛成だ。しかし、そこには地球人という概念が必要だし、人間としてスピリチュアリティを持って暮らしていくという大前提を忘れてはいけない。著者たちの意欲はわかるが、どうも眉唾である。高速道路無料化問題はともかくとして、この人物については、もうすこし見定めないといけない。 

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2009/10/01

民主党新人議員143人全データ


「週刊朝日」10月9日号 民主党新人議員143人全データ
Vol.2 No769★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 週刊誌を4週も5週も連続して買ったのは、高校生時代以来ではないだろうか。当時はあまりマスメディアも発達していなかったので、週刊誌は貴重な情報元だった。とは言っても、当時購入していたのは「朝日ジャーナル」。新聞部の部室にも備え付けてあったが、自分用も欲しい。ましてやそれを自室に飾っておくことに何事かの意味があった時代だ。

 それと、短い時代ではあったが、「週刊アンポ」も、胸をワクワクして読んだ週刊誌であった。中学時代に肉筆マンガ誌を発行していたのに、もともとマンガ雑誌は購入していなかった。当時、自分たちのあこがれは、少年マガジンとか少年サンデーではなく、月刊誌の「ボーイズ・ライフ」だった。

 学習雑誌なども、3学年、5学年上の姉兄たちのものを読んだりしてのだから、小さい時から、どこか背伸びしたがっていたのだろう。五木寛之などが編集していた農家相手の雑誌「家の光」や「こども家の光」も貴重な情報源だったが、これらもまた月刊誌だった。

 さて、自分が大人になってみると、この30年来、週刊誌をまったく読まなかったわけではないが、毎週購読したなんてためしはない。この一カ月、私はどうしたというのだろうか。歯医者や銀行の待ち時間に見てしまった週刊誌の面白さに気付いてしまったのだろうか。それとも、この政権交代劇で、メディアそのものよりも、この政変になにかこころから期待するものがあって、自らが好むようなニュースを読みたい、という気持ちになったのだろうか。

 週刊誌も書店でパラパラめくってみると、どれもこれもどぎつい見出しではあるが、いずれも購読するまでには至らない。しかし、ここは定点観測をするためにも最低一誌ぐらい「定期」購読してみようという気になったのだった。

 新聞も同じだ。すでに朝刊の宅配をストップしてからすでに2年半が経過したが、ここに来て、朝刊が読みたくなった。新聞販売店に電話したのだが、受け付けた店員が新人だったのか、どうやらこちらの希望が通っていないようだ。それを幸いと、こちらは毎朝、近くのコンビニに散歩がてらに買いにいく。

 新聞も、図書館に言って、各紙まとめ読みしてみたが、それぞれ個性があり、やはり自分がもし読むとしたら、どれも一長一短で、歯がゆいものがある。それでも、一紙ぐらいは「定点」観測をしてみようと思った次第。これも数週間が経過した。

 それともう一つ。テレビ番組がある。いざニュース番組を見ようとすると、各チャンネル、時間帯が重なっているので、直接見るほかは、DVDや、最近購入したポータブル・カーナビの録画機能を駆使して、ほとんどの番組を見ることになった。

 そしてもともと分かっていたことではあるが、テレビ各チャンネルは、新聞各紙との系統があり、それぞれに個性があるのだ。各チャンネルを見ていると、これもまた私の意見により近いチャンネルがひとつだけ残ってくる。

 こまった時はNHKを見ればいいのだが(ちゃんと視聴料も払ってるし)、これが調べてみると、わりとニュース番組はすくない。さらに、市政広報みたいで、なんだか突っ込みがなく面白みがない。そういった意味では、NHKニュースはいまいち面白くない。それにNHKオンラインで、必要なニュースだけをピックアップしてことができる。

 結局は、現在は、ひとつのチャンネルのニュース番組を朝から夜まで録画して、空いた時間に順次再生してみることにしている。民放テレビで好ましくないのは長々としたコマーシャルだが、DVDで再生するならどんどん飛ばしていける。

 長時間にわたるニュース番組も録画をして、すこし時間を遅らせてから、おっかけ再生をすると、どんどんコマーシャルを飛ばすことができるし、結局は、番組が終わる頃は、ほとんど見終わることになる。

 こうして、にわかに出来上がった私のメディア対策、朝日新聞---週刊朝日---朝日テレビ、という系列は、何時まで持つだろうか。他の朝日系列の雑誌なども注目しているのだが、いまいち私のライフスタイルに組み込むほどではなさそうだ。

 さて今週の「新人議員143人全データ」。先日の「新閣僚の全データ」と同様、なかなか、興味深いものがある。

 早々とハネムーンが終了したのか、脱を迫られる閣僚たちが裏で画策しているのか、自民党のゾンビたちが最後の死力を尽くしているのか、はたまた、鳩山民主党がもともと持っていた脆弱さゆえなのか、ここに来て、新政権に対する「抵抗勢力」の勢いが増加し始めている。

 あまりにくだらないスキャンダル合戦が続くようなら、当ブログはまたまた現世を離れて「隠遁」(笑)しそうな雰囲気になってしまう。その前に、なんとか希望を失わないようにして、メディアを削減しながらでも、ここしばらくは新政権追っかけを続けてみようと思う。

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