クラウドソーシング みんなのパワーが世界を動かす
「クラウドソーシング」 みんなのパワーが世界を動かす
ジェフ・ハウ /中島由華 2009/05 早川書房 新書 421p
Vol.2 No772★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
今回の政権交代劇で総務大臣となった原口一博が、最近のインタビューで「民主党はリナックスのような政党です」という答えをしている映像をどこかのテレビ局が流していた。いきなりの放送だったので、はて、そうかな? と首をかしげた。
もちろんリナックスとは、コンピュータのOSのことだし、民主党そのものはコンピュータではない。自民党の与謝野馨が趣味で自作パソコンを何台も作っていることも知っていたし、新党日本の田中康夫が長野県知事時代に、行政で使うパソコンをリナックス化しようとしたことなどを、すこしうっすらと記憶しているに過ぎない。
政治とリナックスはなかなかつながらないが、この時、原口一博が言いたかったのは、リナックスができたそのバックボーンであるオープンソース(あるいはフリーソフトウェア)のことを言いたかったのだろう。
さて、そのオープンソース的視点から考えて、伽藍とバザールの比喩を使うとするなら、原口は当然、民主党は「バザール型」政党である、ということを意味していたに違いない。だとするなら、自民党は「伽藍型」政党、ということになるのであろうか。
これは、どうもぴったりした比喩ではないような気がする。むしろ、このような比喩を使うとするなら、日本の官僚行政が「伽藍型」で、日本の政治はすべてにおいて「バザール型」である、という喩えの方がただしいのではないか。その、「伽藍型」官僚行政のマリオネットに成り下がってしまっていたのが自民党で、そこから脱却しようという民主党が「バザール型」ということになるのだろうか。
発言者の原口の真意も、この喩えの正当性も、いまいちわからない。だが、リナックスというインターネット上で出来上がったオープンソースの果実を見習って、実際の仕事のうえにこのシステムなり哲学なりを活用したい、と思うのは、ごく当然のことだと思う。当ブログでも最近は埋没してしまったがOSHOmmp/gnu/agarta0.0.2というカテゴリ名の元で、なにごとかの試行錯誤を続けている。
オープンソースやウィキペディアの成功によってわかったこと―それは少数の専門家集団よりも雑多なアマチュア集団のほうが賢くて創造的で、効率よく物事を進められるということだ。その先にはどんな可能性が秘められているのだろう?大人気のTシャツ屋の経営から、異星人探索、世界的貧困の解消まで、群衆の知恵で大きな物事を解決しようとしている現場を「クラウドソーシング」という言葉の生みの親自らレポート。ムーブメントの全貌を捉えた話題作。裏表紙
「クラウドコンピューティング」とまぜこぜに読んでいるために、「クラウドソーシング」、という言葉の意味がよくわからなったのだが、前著がCloud Computingで「雲になったコンピューター」を意味しているに対し、こちらのCrowd Soucingは「群衆の知恵」を意味しているのようなのだった。つまり、日本語は同じクラウドでも、かたや「雲」であり、かたや「群衆」を意味している。
まったく意味が違うのであり、英語圏においては混同されることはないだろうが、日本語としては、ミスリードされて混乱されてしまうことになりかねないと思う。他にも同じタイトルの「クラウドソーシング世界の隠れた才能をあなたのビジネスに活かす方法」などと言う本もあるのだから、すこしづつこの言葉は日本語のなかに浸食をはじめているのかもしれない。
同じクラウドでも、雲よりも群衆のほうが、やや親近感をもつ。とくに当ブログではネグリ&ハートの「マルチチュード」という概念と共に群衆としてのクラウドにも関心を持ってきた。しかし、マルチチュードという概念は、結局どこまでもスピリチュアリティに行きつかない。革命的な可能性をもつ概念として語られてはいるが、結局それは架空のものではないか、という疑念はどこまでもつづく。
共産主義にはたったひとつ欠けているものがある。霊性(スピリチュアリティ)だ。モデル・コミューンは求道者たちの、恋人たちの、友人たちの、<生>のあらゆる領域での創造的な人々の霊的な集まりであるべきだ。彼らはここに、この地上に、天国を作ることができる。Osho「新人類--未来への唯一の希望」モデル・コミューンp46
同じ、クラウドという日本語が、一方は雲の上のコンピューターを意味し、一方は、手前にある人間たちの群れを意味していることは、意味深い。さきほどの「クラウドコンピューティング」と合わせて読んでも、繋がる意味が多くある。
集団的知性、あるいは群衆の知恵(クラウド・ウィズダム)
クラウドソーシングの主な動力は、集団は個人よりも多くの知恵をたくわえているという原則である。 p392
限りなくクラウドコンピューティングが発達し、限りなくクラウドソーシングが活性化したとしても、スピリチュアリティは進化しない。スピリチュアリティは個人の人間に宿るからだ。当ブログでいえば、コンテナに対応するクラウドコンピューティング、コンテンツに対応するクラウドソーシングに呼応して、コンシャスネスに対応する、新たなる何かが必要だ。
いや別に新たなものである必要はない。たとえば池田晶子が残した「私」「魂」「死」とはなにか、という問いかけを問い続けて行けばいいことだろう。ただそこには、かぎりなくクラウドコンピューティングやクラウドソーシングとの密接な接点が現れることを期待する。それこそが、今日的であり、21世紀の的と言えるだろう。それを当ブログでは地球人スピリットと呼んでおく。
この本、とても面白い。再読する価値あり。
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