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2009/11/24

かもめのジョナサン<2>

<1>よりつづく

かもめのジョナサン
「かもめのジョナサン」 <2>
リチャード・バック /五木寛之 1977/05 新潮社 文庫 140p

 一日に平均すれば100に満たないアクセス数しかない当ブログではあるが、そうであればこそ、ひとつひとつのアクセスは貴重なネット上のつながりであるともいえる。当ブログへの来訪者のあり方は大きくわけて、3つのタイプがある。

 ひとつは、他のSNSや別なブログからのアクセスであり、書き手を私とわかっている上でアクセスしてくる人々だ。この人々はもっとも親しい人々であり、彼らは私に関心を持ってくれているのだろうし、私もまた彼らはどうしているのか、いつも関心を持っている。

 二つ目は、ブログリーダーやRSSなどに登録してそこからアクセスしてくる人々。この人たちの存在は気付いているのだが、杳としてその存在がつかめず、どのような関心を持ってきてくれているのか、いまひとつ分からない。不安といえば不安だが、そうしてまでやってきてくれる、顔の見えない来訪者に、それなりの感謝の気持ちがある。

 三つめは、検索機能から当ブログのにアクセスしてくる人々。この人々も軽視できないほど多数存在している。もっとも多いのGoogleからであり、YahooやGooなどはそれほど多くない。その他、小さな検索サイトからの細かいアクセスは限りなくあり、へぇ、こんな検索サイトがあるのだ、と驚かされることもしばしばだ。。

 この三つめの人々については細かいことはよく分からない。たまたま本のタイトルや文言が一致したためにアクセスしてきた方々がほとんどであろう。この人々は直帰率も高く、どのような読み方をし、どのような感想を持たれたのかは、ほとんど分からない。しかし、量的には圧倒的に多いので、この人々が一体どのような単語で当ブログへと訪問されたのか、集計してみると、唖然とすることがわかる。

 当ブログは今年の4月より<2.0>にバージョンアップした。以前の<1.0>では、アクセスは<2.0>より数倍多かったが、その中身については、あまり細かいことは分からなかった。ブログ提供者の機能の限界があり、分析しようがなかった。

 だから、わずか半年の中での感触ではあるし、数的に集計したわけではないが、圧倒的に目についたのが、この「かもめのジョナサン」へのアクセスである。これは4月29日の連休に、近くの公園で日向ぼっこしながら読んだものであるが、しかし、書き込みは一回だけであった。にも関わらず、その後、一定して切れなくここにアクセスがある。

 一体これはどうしたことなのだろうか、と思う。検索サイトから来るのだから、私の文章そのものを求めてくるのではない。むしろ毎回、見知らぬ人がそのキーワードだけをたよりに訪問してくるのである。

 たとえば「1Q84」などのアクセス数も多い。しかし、これは時期的に見ても相当数の検索があるのだろうし、その盛り上がりのブームのおこぼれが、当ブログにも波及している程度、と判断してもおかしくはない。にもかかわらず、村上春樹をはるかにしのぐ数のアクセスがあるのが「かもめのジョナサン」だ。

 実は、数的にはまだ並べていないが、他にもこのようなキーワードがいくつかある。たとえば「テラフォーミング」。今回当該記事を書くまで、このような単語があり、このようなプロジェクトがあることさえ知らなかったし、書いたこともごくわずかなのだが、実に切れなくこのキーワードでのアクセスが続いている。

 他には「二入四行論」「シーシュポスの神話」「シッダールタ」「ゴドーを待ちながら」「フロイト 精神分析」「タゴール詩集」「シークレット・ドクトリン」「きけ小人物よ」「山上の垂訓」「スーフィーの物語」「グルジェフ」、などがある。ひとつひとつは若干の認識はあるものの、アクセスしてきた人が呆れるほどの内容しか書いていないものがほとんどだ。わざわざ来られた人々に申し訳ないとも思う。

 他にはもちろんOshoやサニヤシン、あるいはグルジェフ&ウスペンスキー関連のキーワードで来られる人も多いが、こちらが敢えて予想したり期待しているアクセスのされ方ではないことがはっきり分かる。

 当ブログにおいては、半年に一度、「最近読んだ新刊本ベスト10」なるものを発表している。冬至から夏至、夏至から冬至の半年サイクルを採用しているものだから、あとひと月もすれば、今期の発表をしようと思っている。そのためにも、夏以降は積極的に図書館の新着コーナーから目新しいもの借り出しては目を通しておいた。

 その前は、いわゆるOsho「私が愛した本」追っかけをしていたので、どうしても旧刊本、古書の類が中心となり、話題もちょっとカビ臭いところがあった。その反省も込めて、新しい本を積極的に手にとってみたのであった。

 そういう流れの中にあっても、「かもめのジョナサン」を初めとする、当ブログのいわば「定番本」はコンスタントに人気があるようだ。せっかくアクセスしてくれた人々に対して申し訳ないので、もう少ししたら、これらの再読モードに入ろうと思う。

 せっかくアクセス数が多いのに、内容を良く覚えていないものもけっこうある。「二入四行論」なんて本は、まるで覚えていない。自分のブログがなぜこのキーワードで検索されているのか不思議にさえ思っていた。しかし、さらに驚くのは、このキーワードで検索する人びとの多さである。そのような希望があるなら、もっと別な格調の高いページにたどり着けばよかったのに、申し訳ないと思う。

 しかし、よくよく考えてみる。ネット上のブログは必ずしも独り言を書き連ねる場ではない。何事かの公開性があり、双方向性の機能があるのだ。ウィキペディアならぬ、ひとりぺディア化してしまっている当ブログではあるが、これは貴重な、未知なる来訪者たちからのリクエストだと思い、これらのキーワードにすり寄っていくのも、ひとつのブログの成長方法であるのではないか、と思うようになった。

 と、前置きだけで字数が尽きてしまったが、また「かもめのジョナサン」を再読することになった。昼食を食べ終わったあとの、昼休みに読めてしまうような、実にシンプルな本であるが、これがやっぱりひとつの高揚感を覚えさせてくれる、すごい本なのだ。

 ジョナサン・リビングストンの喩え話の中に、自らを重ねてみてしまうような部分がいくつも発見できる。小説嫌いの当ブログであってみれば、このような小品であるからこそ、一気に読めて、感動もしやすいのかもしれない。

 おりに触れて、また読んでみようと思う。

<3>につづく

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