進化しすぎた脳<2>
「進化しすぎた脳」 <2>中高生と語る「大脳生理学」の最前線
池谷裕二 2007/01 講談社 新書 397p
最新刊「単純な脳、複雑な『私』」2009/05を読んで面白いと感じたもので、こちらもめくってはみたが、なるほど興味深いことはやまやまなのだが、ひとつひとつを理解しようとする気力がどことなく失せていく。このあと、続けて「海馬」2002/6、「脳はなにかと言い訳をする」2006/9、「ゆらぐ脳」2008/08と読み進める予定だが、こののまま連続して読み続けることはできない。目の前にこれらの本を並べてはいるのだが、進まない。
歴史的に見ても、化学者は物質をバラバラにして分子を発見して、分子がわかったら、次に分子は何からできているかと、原子をみつけたよね。こんどは物理学者が出てきて、原子が何からできてるかと調べていって、原子核と電子でできているのを見つけた。近代物理学はもっとすごくて、原子核が何からできてるかって、陽子や中性子に行き着いた。それらをもっと分解してクオークにたどり着いた。
そうやって細かく駒買う分解していく。これ以上分解できないというところまで行って、物質の本質的な<要素>を見つけた時点で、何かもうわかったゆな気分になっているのね。それは理系の特徴なのかもしれない。でも、ほんとにそれでわかったと言えるのかな。p245
ひとつひとつのエピソードには。それぞれに心魅かれるものがあるのだが、どうもいまいち腑におちない。脳科学だから、それは頭のなかの話であって、原にストンと収まらないのは当たり前、ということになろうか。それにしても、いったい、これはどうしてなのだろうか。
それでふと気づいた。そういう細部ばかりをきみらに教えても、たぶんつまらない。とういうことは、みんなが知りたい内容と、専門家が知りたい内容にはかなりギャップがある。言葉を換えて言えば、一般の人たちが脳に関して知りたいことというのは、ほとんど何もわかっていないと言えるわけ。専門家が知りたいことと違うんだから。実際に実験しているのは専門家で、一般の人じゃない。だから、一般の人が興味あることは、そこにギャップがある限り、いつまでたても解明されない。まぁ、科学は加速度的に進歩するので、今後どうなるかはわからないけれど。p327
科学はちょっと目を離すとモンスター化する。全体性や普通性をどんどん失っていく。一読者でしかない当ブログでは、あんまり難しいところはどんどん飛ばして読んでいくしかない。だが、それであっても「高校生が理解できる」といういう意味でなくて、当たり前の人間の人間が取り扱えるような、ロマンチックな科学であってほしいと思う。
意識の話って、僕としては、本当は避けたい話題なんだ。出口が見えないからね。でも、やっぱり興味があるわけさ。皆もそうでしょう? じゃぁ、意識って何だろう。どうやって生まれるんでしょう。p358 「意識とはなにか?」
科学というドラマツルギーに踊らされて、眼くらませされているような気分でいても、結局、ふと気づいてみると、な~んも分かってなんかいない、ってことがよくある。根本の根本はわからないことが多い。すくなくとも、科学にも、脳科学にも、面白さは感じるけれど、期待しすぎもよくない、といことが、すくなくともこの本で分かった。
そう、もはや宗教だね、信じる信じないという話なんだからさ。思い切った言い方をすると、科学ってかなり宗教的なものなんじゃないかな。「科学的」というのは、自分が「科学的」だと信じて、よって立つ基盤の中での「科学的」なんだよね。そう考えると、科学ってかなり相対的で、危うい基盤の上に成立しているんだよ。p360
根っからの化学者からの言葉としては、あまりに突拍子もない言い方ではあるが、この宗教、っていうことに対するイメージも、どうも紋切り型で、ほんとうに宗教をきちんと把握しているのかな?と思わざるを得ない。科学的であり、なお宗教的である、などというのは、実に至難のコンビネーションだ。
まぁ、すくなくともこの本に於いて、いわゆる「脳」というものの持っているポテンシャルの奥深く甚大であることと、それに取り組もうとしている科学が急ピッチで進んでいる、ということは、すこし分かった。
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