「意識とはなにか」 <私>を生成する脳 <4>
「意識とはなにか」 <私>を生成する脳 <4>
茂木健一郎 2003/10 筑摩書房 新書 222p
当ブログなりに軌道修正をはかるべき時期に来ている。あちこちに気持ちが散漫になりやすいが、今年前半は、この本あたりを中心とした読書を進める予定でいた。だが、なかなかそのようにはならなかった。なぜか。
今年は内面的なことより、外面的なことが賑やかな年であった。象徴的なことは、オバマ政権と鳩山政権、日米の民主党が政治の表舞台に登場し、さまざまな話題を提供したことである。大いなる期待とともに、失望もないまぜにしながら、地球人社会は進行している。
茂木健一郎は「4億円申告漏れ」で東京国税局から指摘されたという。あまりにカッコイイ話ではない。教育、勤労、納税、は国民の三大義務だ。修正申告したにせよ、4億円を申告し忘れるというのは、一般的な感覚ではない。あきらかに恥ずべき行為だ。
何でもブームにしてしまえば、経済効果もあがるのだろうが、このところの「脳科学ブーム」、とりわけ「茂木健一郎ブーム」は異常なものがある。巷には茂木「脳」本が溢れ、テレビにも頻繁に登場している。一冊一冊は、少なくともタイトルだけは面白そうなのだが、なんだかいまいち興味を持てない。当ブログでも20数冊をめくってみた。実際に流通している本は、ごく近刊の新刊を含めるとこの数倍はあるだろう。夥しい数である。
正直言って、当ブログは、すこし茂木「脳」本は飽きている。すべてが金太郎飴になっていて、マーケッター達がこのブームを見逃さずに売り込んでいるだけで、内容的には薄っぺらいこと半端じゃない。一番悪いのは、そういう売り方をしている本人だろうが、そういう「買い方」をしている日本社会とは、一体なになのだろう、と不思議に思う。
むしろ、当ブログが茂木に関心を持ったのはそこのところだった。日本社会は茂木「脳科学」を通して何を求めているのだろうか。日本社会は、真摯に「意識とはなにか」を探求しようとしているのだろうか。「<私>を生成する脳」の仕組みを知りたいと思っているのだろうか。
人間であるかぎり、探究心が芽生え、自然にその旅路に足が向くのが当然であるかに思うが、茂木あたりを、あたかもマスコットのようにしてしまって、その探究心をどこかでごまかしてしまっているのではないだろうか。
前々回のリストの中のファインマンやウィトゲンシュタイン、フッサール、永井均やチューリング・テストに関する本などは、もともと読みたいと思っていた本なので、少しづつめくっていくとしても、当ブログの「指針」となるような方向性が、本当に茂木「脳」科学にあるだろうか、と、あらためて疑問を持つ。
池谷裕二などの類書と目される本に目を通しても、なにか到達し得ない無限さの前で佇んでしまっている感じがある。この探究心は、はて、たとえば「かもめのジョナサン」などに示されたような、シンプルな物語では片付かないことは分かっていても、やはりどこかで実を結ぶはずだ、という思いがある。
茂木には「意識は科学で解き明かせるか」 、「プロセス・アイ」 、「今、ここからすべての場所へ」 など、再読すべき本がいくつもあるが、この「意識とはなにか」を含め、その志は高いものの、日暮れて、道遠しの感が残る。今回、再読して、あらためてそう思った。
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