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2009年11月の48件の記事

2009/11/30

ヘルマン・ヘッセを旅する

ヘルマン・ヘッセを旅する
「ヘルマン・ヘッセを旅する」 
南川三治郎 2002/08 世界文化社 単行本 143p
Vol.2 No845 ★★★★☆ ★★★★★ ★★★★☆

 ヘッセ生誕125周年の2002年、1945年生まれの写真家、南川三治郎が、その詩人の足跡を追い、写真に収めた。たしかヘッセの編集者、 フォルカー・ミヒェルスにも似たような一冊があったと思ったが、こちらは、日本人的な感覚で、しかも、写真家の手になる一冊である。

 写真とともに、その文章も素晴らしい。もともとヘッセの持っているメロディに同調するように、さらにその余韻を広げてくれる。

 まず、027ページの一丁のピストルと三発の弾丸の画像には驚かされた。およそメルヘン的なコスモポリタン、ヘルマン・ヘッセに似合わない一枚の写真である。

 ガラス細工のような過敏な神経の持ち主だったヘッセがカンシュタット高校時代、自殺用に買ったピストル。p29

 繊細な青春時代のヘッセの感性は「郷愁」や「車輪の下」にも表現されているが、生涯に渡る「隠者」のような生活は、このような内面的な性格によるものであったのだろう。

 (1916年の春)、あれやこれやと心労が重なり、身も心もすっかり消耗し、ヘッセ自身もく極度のノイローゼに陥った。この鬱状態を治療するため、ヘッセはユングの弟子である精神分析医ヨゼフ・ベルンハルト・ラング博士の診察を仰ぐ。p085

 この治療の結果は「デミアン」の中で結実している。

 博士は、精神的な危機を乗り越える治療の一環としてヘッセに絵を描くことを勧め、すでに絵筆をとり始めていたヘッセもこの意見を取り入れ、ますます絵画に傾倒していくこととなった。p085

 「へッセの水彩画」でも、たくさんの絵を見てきたが、実は彼が絵を描きだしたのは40代になってからだった。どこかニコライ・レーリヒのシャンバラの絵に連なるようなヘッセの水彩画は、一貫した波長を放ち続ける。

 モンタニューラに移り住んだあと、ヘッセはガーデニングを瞑想の場としてとらえ、地球との繋がりを感じ取れる場所として理解したようです。ガーデニングを通じてヘッセは、炎、地球、自然の素晴らしさに出会ったのです。そして、植物の栽培をすることによって、ヘッセは「魂」について考察するようになりました。「魂」は彼の「信仰」とも深く関わっています。彼は何年もガーデニングを続けました。恐らく、ガーデニングはヘッセの一部だったのでしょう。p106

 そもそも当ブログがヘッセを読み始めたのは「庭仕事の愉しみ」を偶然に手にしたからであった。

 ヘッセの庭仕事は、ヘッセの心を静めさせるメディテーションであったのだ。p0107

 「シッダルタ」「ガラス玉演戯」で分かってしまっていた気分になっていたヘッセであるが、ここに来て、また、その足跡を追いかけてみたくなった。

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2009/11/29

グリーン・ニューディール 環境投資は世界経済を救えるか

グリーン・ニューディール
「グリーン・ニューディール」 環境投資は世界経済を救えるか
寺島実郎 /飯田哲也 2009/06 日本放送出版協会 新書 220p
Vol.2 No844 ★★★★★ ★★★★☆ ★★★☆☆

 政治や経済の動きは日々めまぐるしく流動しており、ましてや、日米の政権が交代した2009年などは、後年になって振り返れば、明らかに大きな変換の年代であったという評価を受けるに違いない。オバマ政権にせよ、日本の民主党政権にせよ、意欲的に新境地を開こうとしているが、必ずしもアドバルーンとして挙げたマニュフェスト通りに物事が進んでいるとは言えない。

 その中にあっても、かなり現実味を帯びてきているのが、このグリーン・ニューディール政策の一連の動きであろう。エコとか環境とか、あるいはCO2などと、さまざまな言い方はされるが、基本的には以前から叫ばれていた問題であり、それらの問題解決の糸口はあったのにも関わらず、革新の流れを押しとどめてきたのは、既得権益をまもろうとする保守的な潮流であった。

 その保守的な流れから、「革新」の流れに変わったのだから、一連のグリーン・ニューディール政策は、より現実味を帯びていくのは当然だ。衰退していく産業やビジネスもあれば、新規に高騰してくる潮流もあろう。大きな変革期であることには変わりない。

 寺島実郎は民主党の政策ブレーンとも言われており、片や飯田哲也は、環境工学エネルギー政策研究所を代表している科学者だ。それにNHKのクローズアップ現代のクルーが番組として取り上げる過程に生まれた本であるだけに、なかなか現実味がある。日本における政権交代は8月30日の総選挙であったので、その前の6月に出されたこの本は、少し抑え気味に書かれている。

 よくよく考えてみれば、グリーン・ニューディールなどはごくごく当たり前の制作なのだ。いままで進まなかったのが可笑しいのだ。ひとりひとりの市民にエコな生活を押し付けるのも限界がある。産業、官僚、学問、揃って、現実味のある政策を作り、市民をリードしていかなくてはならない。そのタイミングは、ともすれば遅きに失していた感さえある。

 言葉での表現はどうであれ、このような地球環境とともに共生していかなければならないのは、現代の地球人の宿命なのであり、現実化に当たっては、新たなる問題が次々に生まれてくるのは当然に予測できることである。しかし、多くの市民は協力するであろう。その時期や来ている。自分のことを考えても、考えられる範囲で協力を惜しまないだろうと思う。

 と、ここまでは何の変わりのない、当ブログのいつもの論調なのだが、最近は、すこし思うところがある。先日、当ブログへのアクセスログ解析を眺めていて考えるところがあった。それをともあれ当ブログ、想定外の『定番本』たち」その1としてまとめておいたが、闇雲に書き連ねている当ブログにおいても、明らかにアクセスされる頻度の高い記事にははっきりとした傾向性があることがわかったのだ。

 当ブログは、科学、芸術、意識を三本柱として、それらが統合された世界を模索してきた。その三つは、具体的な職業で言えば、プログラマー、ジャーナリスト、カウンセラー、のようなものとして象徴させてきた。

 現代における科学の粋といえばコンピュータであろうし、その現場で働く専門家をプログラマーという言葉で象徴しておいた。あるいは芸術という広いカテゴリーのなかにおいても、ジャーナリズムという文芸を広義の中の芸術の象徴としてきた。あるいは、意識については、「死」を扱えるカウンセラー、という象徴を使ってきた。

 しかし、これらの三つのカテゴリの立て方は、あまりに多岐にわたっており、このまま散漫な読書を繰り返すだけなら、構いはしないが、何らかの終結点を見いだそうとするなら、ほとんど個人ブログとしての収まり具合は相当に拡散的なものになってしまうのではないか、ということが分かってきた。

 たとえば、科学と言った場合、それはインターネットやITだけが科学ではないし、もちろ脳科学とか、あるいは、このたびのグリーン・ニューディールに採用されるような技術もまた科学的な研究の積み上げであるということができる。

 しかし、当ブログは、そのような技術的な潮流に本当に関心があって、それらを追い続けることができるのだろうか、という疑問が湧いてきた。自ら主体的に研究しているわけでもなく、実行を率先してできるわけでもない。おざなりに他の人々と歩調を合わせていくのが精いっぱいなのではないか。

 そのことは、煩雑を究めるジャーナリズムを芸術分野として追っかけてみたり、あるいは、意識の世界を、せまい意味でのカウンセラーに背負わせても、どこか貧弱で、もっと深いなにかまで下りていくには、まるで見通しが立たないのではないだろうか。

 そんなことを漠然と感じ始めていた時に、上に書いたアクセスログ解析を見て、ここはかなり考えを改めなくてはならないのではないか、と考えるようになった。

 いつもの当ブログらしく、とにかく手っ取り早く、ぶっきらぼうに言えば、科学はフロイト、芸術はヘルマン・ヘッセ、意識はグルジェフ、この三人にこの三分野を象徴させてみるのはどうだろう。とにかく、アクセスログは、この決断を支持してくれているのではないか、と思う。

 フロイトは精神分析という「科学」を持って、意識・無意識の暗闇に切り込んだ。だが、フロイトは「科学」であろうとしたために、ある種の限界を残した。その限界は、後継者たちによって続々と開拓されているが、さて、その研究の最先端はどこまで進んでいるだろう。

 ヘッセは、「シッダルタ」や「ガラス玉演戯」のような精神世界を題材にしたノーベル賞作家であり、そのヒューマニズム的な「芸術」は時代を超えて世界中に支持されている。そのライフスタイルは牧歌的でさえあり、孤高な芸術家のイメージは好感もてるものの、必ずしも「科学」的というものでもなければ、「神秘」の奥深く到達したものでもなさそうだ。

 グルジェフは、いまだ世界中の探究者たちの魂を揺さぶる20世紀の最大級の精神世界のマスターであるが、生前、多くのことが知られることはなかった。ウスペンスキーなどの周辺で生きた人々によって次第に明らかにされては来ているが、しかし、グルジェフが到達した「意識」の神秘領域は、十分に指し示されているとは思えない。少なくとも、その教えには、ミッシング・リンクがある。

 これら、三つの存在をつなぐキーワードは「魂」であろう。フロイトは「魂」を科学的に解明しようとした。ヘッセは「魂」を芸術的に高く歌い挙げた。グルジェフは「魂」の奥深くを探求し、その神秘領域をさらに広げた。このトリニティの中心に位置するキーワードこそ「魂」なのではないか。

 もちろん、この三人のほかにもたくさんの人々が存在する。フロイトの他にはライヒやアサジョーリやアドラーやユングなど。ヘッセに先立つニーチェ、あるいはカミュやベケットやウィトゲンシュタインたち。グルジェフに至っては、ウスペンスキーやクリシュナムルティ、ブラバッキー、そしてOshoなど。列挙していったからキリはない。

 しかし、今日、ここでメモしておきたいのは、当ブログは個人の読書ブログでありながら、ネットに公開している以上、そのアクセスログの動向にデリケートに反応して、あたかもクラウドソーシングの共同ワークのように動いていくことができるのではないか、ということ。すくなくともアクセスログは、このような方向展開を支持している、あるいは望んでいると言っても過言ではないのではないか。

 つまりは、次第にインターネットや環境科学のような技術的なことや、政治経済、あるいは報道のような外側にあることからはすこしづつフェードアウトしていく必要があるのではないか。また、意識や神秘を、セラピーやカウンセリングといった狭い領域から解放して、もっとその無限性に遊ぶことが大事になってくるのではないか。そんなことを考えた。

 グルジェフ&ウスペンスキーについては、一通り目を通したが、まだ、その書籍の存在を確認した程度で終わっている。ヘッセについても何冊か目を通した程度で、よまれるべき本はまだまだある。フロイトに至っては、すこし毛嫌いしてきたせいか、ほとんどまったく手つかずだ。

 この三つの存在の本たちを新たに手に取り、あるいは再読していくことから、あらたなる展開があるのではないか。それは、いままでやりかけてきた「OSHOのお薦め本ベスト10(私家版)」や、いまだ再スタートできていない「東洋哲学(インド)編」の読み込みにつなげていくことができるのではないか。

 当ブログのタイトルは「地球人スピリット・ジャーナル」ではあるが、はて、このジャーナルというタイトルはいつまでついてくることになるのだろう。そろそろ「地球人スピリット・プロジェクト」とでも変えてみようか、と思う時も最近ある。

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2009/11/28

ブッシュからオバマへ―アメリカ変革のゆくえ

「ブッシュからオバマへ―アメリカ変革のゆくへ」
「ブッシュからオバマへ―アメリカ変革のゆくへ」 
古矢 旬 (著) 2009/08 岩波書店 単行本: 280p
Vol.2 No844 ★★★☆☆ ★★★★☆ ★★☆☆☆

 長期に渡ってアメリカを見つめてきた研究者たちにとっても、オバマ大統領出現を予期することは難しかったという。むしろ専門的な研究者だからこそ、難しかったのかもしれない。しかし、大統領を生みだす世論は、必ずしも専門的な研究家達ではない。時には気まぐれな、時にはより非常識な変革の嵐だったりする。

 オバマ個人に脚光が浴びせられる部分と、その背景となるアメリカの政治や経済、そしてとりわけ繋がりのつよい世界状況を見据えなければ、この「アメリカ変革」の本当の意味はわからない。この本はそういった意味ではバランスの取れた一冊と言える。

 アメリカ国民ならざる私たちにとっては、他国の大統領でしかないが、しかし、いまやアメリカが地球上の国際政治に占める位置は圧倒的なものがあり、アメリカの動向には無関心ではいられない。

 アメリカがどう変わっていくのか、ということは、この地球上の人類がどう変わっていくのか、ということでもある。核兵器の放棄や、地球環境問題への取り組み、医療問題や教育問題、とりわけ、世界経済のへの積極的な取り組みなど、新アメリカ大統領に期待されることは、極めて大きい。

 それに加えて、日本も55年体制からの脱却とばかりに、民主党が政権を奪取したところである。ジャーナリズムも専門的な研究者たちのレポートも、現在進行形の出来事まで追いつくにはかなりの時間がかかりそうだ。

 なにかが進行しており、意欲的な変革が行われる可能性があるとするならば、日米関係だろうが、地球のどこかであろうが、「よい」方向に変わっていって欲しい。では「良い」方向とはなんだろう。

 まずは戦争をなくすことだ。そして核兵器をなくす。自由と平等のバランスをうまくとる。そして地球環境が持続可能な状態に維持できるようにする。そして、その中で、人々が人生を有意義におくり、自らの精神性を、ひとりひとり高められるようにすることだ。

 そういう意味では、ブッシュよりオバマのほうが、より可能性があるように思う。過去より未来へ、古きものから新しきものへ、部分的なものから全体的なものへと移行することは「良い」ことだ。粗雑なエネルギーからまろやかなエネルギーへ、貧しさから豊かさへ。ウソから真実へ。敵対から友好へ。

 そんなことを期待する。

 

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オバマの仮面を剥ぐ 「チェンジ」は口先だけ、ウォール街の代理人はなにを企んでいるのか?

オバマの仮面を剥ぐ
「オバマの仮面を剥ぐ」 「チェンジ」は口先だけ、ウォール街の代理人はなにを企んでいるのか?
浜田和幸 2009/06出版社光文社 単行本 227p
Vol.2 No843 ★★☆☆☆ ★★★☆☆ ★★☆☆☆

 オバマ関連本は、さまざまあるので、当ブログでも10数冊読んできたが、その中でも、どういうわけか「オバマは何を変えるか」へのアクセスが集中している。これはグーグルの検索の上位にランクされているからだろうという推測がつくが、それにしても、あまりに大きな偏りがある。他にもいろいろあるのに。

 たとえば、この本のようなタイトルはどのように読まれるのだろう。トンデモ本や陰謀論は、関心ないわけではないが、当ブログの材料としてはあまり歓迎していない。その真偽を確かめるほどの情報もなければ、それだけの情熱があるわけでもない。

 だが、一方的な提灯記事ばっかり読んでいては理解も薄いものになってしまう。ましてや、このような強大な権力者に対しては、強力な批判勢力がなければ暴走してしまう可能性は常にあるので、必要な存在ということであろう。

 さて、この本は、正統な批判本になりえているのかどうかは微妙な感じがする。著者には他の本もあるようだ。この本はオバマ関連だったのでめくることになったが、他の本はあまり当ブログには登場しないだろう。

 AIGとゴールドマンサックスの関係とか、オバマはホントにハワイで生まれたのかなど、大きなスキャンダルになりかねないテーマもあるし、グリーン・ニューディール政策の疑問などもあるが、読んでいて、楽しくなく、どうもますます寒々してくる。

 この本の存在は必要ないとは思わないが、この本だけではどうもつまらない。他の含めた全体的な話題の中で、リトマス試験紙として使ってみるものいいかな、という程度。あまり長く手元に置いてはおきたくない一冊。

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ビヨンド・ザ・シークレット 「ザ・シークレット」の隠された「鍵」を解き明かす

ビヨンド・ザ・シークレット
「ビヨンド・ザ・シークレット」 「ザ・シークレット」の隠された「鍵」を解き明かす
アレクサンドラ・ブルース /中村安子 2008/06 ゴマブックス 文庫 284p
Vol.2 No842 ★★☆☆☆ ★★★☆☆ ★★☆☆☆

 他にも「ザ・シークレットを超えて」という本を最近読んだばかりだが、どうやらこの「ザ・シークレット」という本は、全米でかなりヒットしたようである。本と言うか映画なのだろう。これらの本を読んでいて、なるほどそういう映画があったのかな、という興味は湧くのだが、それじゃぁと、手を出してその本を読んでみようとは、今までのところ、なかなか思い立てない。

 それにしても、「ビヨンド」とか、「超えて」とかばかり言われていて、ちょっとかわいそうな気もする。方向性としては面白そうなのだが、どうやら途中でエンコしている風に見えてしまうのかも知れない。じゃぁ、どのように超えていくのか、というと、実は、これらのコバンザメ本の中においても、あまり明確ではない。

 「ザ・シークレット」という本が話題になっているのは、「成功」したからであろう。つまりアメリカ的に言えばベストセラーになった、ということであろう。とにかく売れた。売れたという現象を持って、アメリカでは「成功」という。

 アメリカで「成功」したのに、他の国々ではあまり売れていなさそうだ。イギリスやオーストラリアなどでも、必ずしも「成功」していない。さて、これら関連本も含めて、日本においてはどうだろうか。「成功」するだろうか。

 まず、単体としての、この「ビヨンド・ザ・シークレット」という文庫本を見ると、正直言って、あまり素晴らしい翻訳とは言い難い。字句的な翻訳というより、この本は、日本向けに大幅に編集しなおされなければならなかったのではないだろうか。

 この本を読む限りにおいて、アメリカと日本の精神世界、スピリチュアリティには、大きな隔たりができているように思われる。日本の精神世界は90年代中盤の、例の「麻原集団事件」を期に、かなりの長いトンネルに入った。事件全容が解明されるとともに、時間の経過とともに風化する部分ができてはきているが、しかし、あの事件を止揚する方向性もわずかながら、見えてきたようにも思われる。

 アメリカは、その景気動向から考えれば、サブプライムローンのバブルの危うい経済サーフィンから叩き落ち、怒涛の波間に呑み込まれようとしていたタイミングだった。外側の動乱をなんとか解決するために、内面世界へと逃げ帰ろうとした動きもあったに違いない。そんな時、このちょっと「粗雑」(?)な「ザ・シークレット」なる映画やら本やらがヒットしたに違いない。

 この本をパラパラとめくっていると、アメリカと日本の「精神的風土」の違いをいやというほど感じる。アメリカはやっぱり「キリスト教」をベースにしてできている国家形態だ。とくにこの本や「ザ・シークレット」などは、それを大前提として、作り上げられている。

 しかるに、日本は世界に稀に見る非キリスト教的国家だ。グローバリズムの中にあって、日本的精神性はたしかに「島国」的なものからは解放されつつあるが、それでも、やはり一神教的な思想には、どうにも同調しない強情さというか、しなやかさがある。

 いや、むしろ、これからのグローバル・スピリチュアリティでいえば、この「しなやかさ」のほうが、主流であると言える。つまり、「ザ・シークレット」の流れは、すこしマイナー過ぎる嫌いがあるようだ。つまり、伏水流のように、隠れていた保守的な精神性が、反動的に噴出しただけであって、いずれは、また水量を減らして大地に沈み込んでいくのではないだろうか、と思われる。

 この本においては、ケン・ウィルバーが、最初と最後に、お飾りのように引用されているが、どうも、引用者の恣意的な姿勢が強く目立ちすぎ、誤引用しているとさえ感じられる。アメリカ文化の中では、最近にない話題を提供した形になったのであろうし、それぞれの立場から、それぞれの発言をしなければならない事態になったのだろうが、どうも、本当に画期的ななにかが「解き明かされた」ということではなさそうだ。

 当ブログとしては、今のところ、ビヨンドする必要も感じないし、超えようというつもりもない。無視する、と言ったらあまりに失礼になるだろうから、それよりは、静観する、という表現をとったほうが紳士的な感じがする。

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2009/11/27

「45歳からのクルマ選び」石川真禧照

45歳からのクルマ選び
「45歳からのクルマ選び」 
石川真禧照 2009/03 小学館 単行本 255p
Vol.2 No841 ★★★★☆ 

 45歳から、とは少しサバを読み過ぎているが、気持ちはまだまだ30歳台のつもりでいる。まだまだ若いもんには負けませんよ(爆)。ということで、たまにこういう本にも手が伸びる。それにしても、なんとまぁ、自分の年齢の現実を考えざるを得なくなる。

 パッと開くと、まずは目に飛び込むのがBMW Z4。オープン、ツーシーターのスポーツカーだ。いいよなあ。こういう車こそ、おじいちゃんは乗るべきだろう。・・・・とは思うが、まぁ、やっぱりお値段が・・・。それにこれ1台で1年間を過ごすのはちょっと無理。二台目ならカッコイイだろう。だけどそれではさらに負担が大きくなる。(p116)

 スポーツカーが欲しいなら、国産だけど、マツダ ロードスター(p138)もありまっせ。BMWより、むしろ、こちらのほうが本家でしょう。グッとお値段も身近で、街並みにもなじむのではないでしょうか。その気なら、ダイハツ コペン(p142)という手もある。これもなかなかいいなぁ。

 年から年中スポーツカーで暮らすには大変だから、2台目という位置づけになるが、そもそも2台の車を所有する、という贅沢は、このご時世では、許されるのだろうか。世はエコ時代。ハイブリットの風が吹いている。

 であるなら、ハイブリッドのホンダ インサイト(198p)も気になってくる。後ろの座席は小さすぎるが、もともとツーシーターのスポーツカーであると思えば、お値段もかなりダイハツ コペンにさえ近づいてくる。エコ減税もある。

 ただ、45歳からのクルマ選びというコンセプトでいうと、ホンダ車はちょっとインテリアなどが、うるさくないですかね。チカチカしすぎ。それに、ハイブリッドとはいうものの、燃費の伸びも中途半端だ。

 もちろん、ハイブリッドというなら、大本命はトヨタ プリウス(294p)だろうが、現在はネコも杓子もプリウスで大騒ぎ。これからのことを考えると、あまりにもプリウスが増えすぎて面白くない。注文しても10カ月待ちくらいだそうで、そんなに卑屈になってまで乗るようなクルマなのかなぁ。だいたいにおいて、あのハッチバックが気にくわない。

 セダンならトヨタ プレミオ/アリオン(p92)あたりということになるが、著者は、2000CCを勧めている。かなりいい出来だ、と称賛しているが、これだと、「ズバリ」45歳からのクルマ、ということで、何も熟考したことにならない。あまりに「じいちゃんクルマ」で、ハマり過ぎでしょう。

 ホンダ インスパイア(98p)やレクサス IS F(102p)なんて選択肢もあるが、個人的な使用法としては、少し大きすぎる。もうちょっと小ぶりなほうがいい。となれば、あとはBMW 3シリーズ(p66)なんてことになるだろうが、これもまた、もとの黙阿弥で、あんまり熟考したことにはならない。

 Kカーやワゴン、1Boxはもう飽きたし、4駆も結局あまり役に立たないので、合理性がない。メルセデス・ベンツ Aクラス(p210)やフィアット 500(p212)なんてのもあるが、どこか奇をてらい過ぎ。

 いっそのこと、ポルシェ 911 GT3(p236)やロールスロイス ファントム ドロップヘッド クーペ(p242)なんてページもめくってはみるが、中古マンションどころか、土地付き一軒家よりも高いクルマを転がせるような身分ではない。

 ジャガー XJ(p70)もアストンマーティン V8 ヴァンテージ(p244)だの、キャデラック STS(p74)だの、リンカーン MKX(p160)だの、マセラティ グラントゥーリズモ(p248)だのと、いろいろ言っては見るが、何処が一体、「45歳からのクルマ選び」なんだか。所詮、一部のマニアの好事家が本屋で立ち読みする程度で終わるのではないでしょうか。

 あちこちページをめくっていると、だんだん白けていく。ふと、わが車庫の、10年10万キロをとうに過ぎた国産リッタカーセダンに目をやる。まぁ、結局、これでいいじゃん。今のところ、特に悪いところはないし、燃費だってまだまだ下がらない。ボディのキズだって、細かくリペアしてきたから、大きく目立つところはどこもない。

 今回の、わが家の「55歳からのクルマ選び」は、結局、現状維持。いまのままでいいじゃん、ということであった(汗)。週末は冬タイヤに交換して、半年点検でオイル交換だな。

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2009/11/26

かもめのジョナサン <3>

<2>よりつづく 

かもめのジョナサン
「かもめのジョナサン」 <3>
リチャード・バック /五木寛之 1977/05 新潮社 文庫 140p

 6月に書いた自分のブログを見て、おや、と思った。あの頃もまた、この「かもめのジョナサン」と「意識とは何か」の2冊を持って、旅に出たのであった。夏には政権交代劇などがあり、興味の範囲が大きく外側にぶれたが、意外に冷静になってみれば、自分の好みはかなり安定しているというか、限定されているものだな、と思う。

 二つとも小さな本なので、持ちやすい。旅のお供にはちょうどいい位だ。ジョナサンのほうは中にラッセル・マンソンの写真も入っているし、気のきいた五木寛之の解説もついている。その上に、この小さな小説は、実にパターン化されたスピリチュアリティ小説の骨格を持っているように思える。

1、探究する青年

2、到達したものと、到達し得ないもの

3、マスターとの出会い

4、新しい世界の展開

5、マスターとの別れと、新しい青年との出会い

6、永遠なるものについて

7、いまここで

 他のいくつかの典型を見ると、このようなパターンを形成している小説は結構みつかりそうだ。小説は小説であり、科学的とは当然言えないし、かといって、光明を得た存在からメッセージとも言えない。だが、そこには、ひとつの典型が見事に表現されている。

 それに比較すると「意識とは何か」のほうは、脳科学の先端研究の結果をもとに、「意識」を真摯に切り開こうとしている。科学的に実証され、追認されたものではあるが、しかしまた、残された大きな課題がある。上の段階でいえば、1、2、のステップのところで、とどまっているようだ。

 3、のマスターとの出会い、とまではいかないが、「意識とは何か」の中には貴重な「意識」を巡る「ブックガイド」がついている。これもまた楽しみである。しかし、そこに紹介されている「マスター」たちも、「永遠なるもの」について語り得ているとは言い難い。「永遠なるもの」については、この2書以外の、他の手掛かりを探さざるをえない。

 そんなことを考え、当ブログのアクセスログのコンテンツ別のリストを見ていると、意外な当ブログの定番本が、ほのかに見えてきた。それは思いもかけない形でやってきたのだが、案外、図星をついているかもしれない。そう思って、随意に並べてみた。

当ブログ、想定外の「定番本」たち、その1

イ、「きけ小人物よ」
ロ、「フロイト 精神分析」
ハ、「テラフォーミング」

ニ、「シッダールタ」
ホ、「かもめのジョナサン」
ヘ、「シーシュポスの神話」
ト、「ゴドーを待ちながら」

チ、「二入四行論」
リ、「山上の垂訓」
ヌ、「タゴール詩集」
ヲ、「スーフィー」
ワ、「グルジェフ」
カ、「シークレット・ドクトリン」

 あくまでGoogle からのアクセスログをもとに随意に拾いあげてみただけだが、これらのキーワードからのアクセスが圧倒的に多い。たまたまリストの上位にランクされたとか、ロングテール効果で、あまり他のブログなどで触れていないものが、このリストに並んでしまった、ということもあろう。

 しかし、このリストは、当然、当ブログが触れていた本たちについてのアクセスであり、またOshoの「私が愛した本」で取り上げた本がほとんどだ。また、「OSHOのお薦め本ベスト10(私家版)」に連なってくるものもある。

 ざっと見ると、イ~ハがいわゆる「科学」分野であり、ニ~トが「芸術」分野。さらにチ~カが「意識」分野、ということができるであろう。「意識」分野、というのはあまりふさわしくないが、とにかく、客観的なデータに基づいているようなものでもないし、表現豊かな「芸術」の世界、とも言い難い。敢えていうなら、「This is it」に行き着いたマスターたちからの、語りえぬことを語ったメッセージである。

 ロの「テラフォーミング」はちょっと方向違いだが、ライヒやフロイトは基本中の基本として、学び直す必要がある。小説などは得意じゃないが、全部嫌いなわけではない。ある傾向性のある小説は大好きなわけだから、ヘッセやカミュなども読みなおしてみるのもいいだろう。

 それにしても、圧倒的なのは「意識」分野にランクされた本たちだ。禅、キリスト教、ヒンズー、イスラム、が見事にならび、グルジェフとブラヴァッキーがキチンと網羅されている。あえていうならタントラが入っていないのが不思議だが、その理由は、もうすこし後になったら追求してみよう。この「想定外」定本たちの再読モードから、当ブログの今後の展開があるだろう。

 <4>につづく

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2009/11/25

「意識とはなにか」 <私>を生成する脳 <4>

<3>よりつづく 

意識とはなにか
「意識とはなにか」 私>を生成する脳 <4>
茂木健一郎 2003/10 筑摩書房 新書 222p

 当ブログなりに軌道修正をはかるべき時期に来ている。あちこちに気持ちが散漫になりやすいが、今年前半は、この本あたりを中心とした読書を進める予定でいた。だが、なかなかそのようにはならなかった。なぜか。

 今年は内面的なことより、外面的なことが賑やかな年であった。象徴的なことは、オバマ政権と鳩山政権、日米の民主党が政治の表舞台に登場し、さまざまな話題を提供したことである。大いなる期待とともに、失望もないまぜにしながら、地球人社会は進行している。

 茂木健一郎は「4億円申告漏れ」で東京国税局から指摘されたという。あまりにカッコイイ話ではない。教育、勤労、納税、は国民の三大義務だ。修正申告したにせよ、4億円を申告し忘れるというのは、一般的な感覚ではない。あきらかに恥ずべき行為だ。

 何でもブームにしてしまえば、経済効果もあがるのだろうが、このところの「脳科学ブーム」、とりわけ「茂木健一郎ブーム」は異常なものがある。巷には茂木「脳」本が溢れ、テレビにも頻繁に登場している。一冊一冊は、少なくともタイトルだけは面白そうなのだが、なんだかいまいち興味を持てない。当ブログでも20数冊をめくってみた。実際に流通している本は、ごく近刊の新刊を含めるとこの数倍はあるだろう。夥しい数である。

 正直言って、当ブログは、すこし茂木「脳」本は飽きている。すべてが金太郎飴になっていて、マーケッター達がこのブームを見逃さずに売り込んでいるだけで、内容的には薄っぺらいこと半端じゃない。一番悪いのは、そういう売り方をしている本人だろうが、そういう「買い方」をしている日本社会とは、一体なになのだろう、と不思議に思う。

 むしろ、当ブログが茂木に関心を持ったのはそこのところだった。日本社会は茂木「脳科学」を通して何を求めているのだろうか。日本社会は、真摯に「意識とはなにか」を探求しようとしているのだろうか。「<私>を生成する脳」の仕組みを知りたいと思っているのだろうか。

 人間であるかぎり、探究心が芽生え、自然にその旅路に足が向くのが当然であるかに思うが、茂木あたりを、あたかもマスコットのようにしてしまって、その探究心をどこかでごまかしてしまっているのではないだろうか。

 前々回のリストの中のファインマンやウィトゲンシュタイン、フッサール、永井均やチューリング・テストに関する本などは、もともと読みたいと思っていた本なので、少しづつめくっていくとしても、当ブログの「指針」となるような方向性が、本当に茂木「脳」科学にあるだろうか、と、あらためて疑問を持つ。

 池谷裕二などの類書と目される本に目を通しても、なにか到達し得ない無限さの前で佇んでしまっている感じがある。この探究心は、はて、たとえば「かもめのジョナサン」などに示されたような、シンプルな物語では片付かないことは分かっていても、やはりどこかで実を結ぶはずだ、という思いがある。

 茂木には「意識は科学で解き明かせるか」「プロセス・アイ」「今、ここからすべての場所へ」 など、再読すべき本がいくつもあるが、この「意識とはなにか」を含め、その志は高いものの、日暮れて、道遠しの感が残る。今回、再読して、あらためてそう思った。

<5>につづく

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2009/11/24

かもめのジョナサン<2>

<1>よりつづく

かもめのジョナサン
「かもめのジョナサン」 <2>
リチャード・バック /五木寛之 1977/05 新潮社 文庫 140p

 一日に平均すれば100に満たないアクセス数しかない当ブログではあるが、そうであればこそ、ひとつひとつのアクセスは貴重なネット上のつながりであるともいえる。当ブログへの来訪者のあり方は大きくわけて、3つのタイプがある。

 ひとつは、他のSNSや別なブログからのアクセスであり、書き手を私とわかっている上でアクセスしてくる人々だ。この人々はもっとも親しい人々であり、彼らは私に関心を持ってくれているのだろうし、私もまた彼らはどうしているのか、いつも関心を持っている。

 二つ目は、ブログリーダーやRSSなどに登録してそこからアクセスしてくる人々。この人たちの存在は気付いているのだが、杳としてその存在がつかめず、どのような関心を持ってきてくれているのか、いまひとつ分からない。不安といえば不安だが、そうしてまでやってきてくれる、顔の見えない来訪者に、それなりの感謝の気持ちがある。

 三つめは、検索機能から当ブログのにアクセスしてくる人々。この人々も軽視できないほど多数存在している。もっとも多いのGoogleからであり、YahooやGooなどはそれほど多くない。その他、小さな検索サイトからの細かいアクセスは限りなくあり、へぇ、こんな検索サイトがあるのだ、と驚かされることもしばしばだ。。

 この三つめの人々については細かいことはよく分からない。たまたま本のタイトルや文言が一致したためにアクセスしてきた方々がほとんどであろう。この人々は直帰率も高く、どのような読み方をし、どのような感想を持たれたのかは、ほとんど分からない。しかし、量的には圧倒的に多いので、この人々が一体どのような単語で当ブログへと訪問されたのか、集計してみると、唖然とすることがわかる。

 当ブログは今年の4月より<2.0>にバージョンアップした。以前の<1.0>では、アクセスは<2.0>より数倍多かったが、その中身については、あまり細かいことは分からなかった。ブログ提供者の機能の限界があり、分析しようがなかった。

 だから、わずか半年の中での感触ではあるし、数的に集計したわけではないが、圧倒的に目についたのが、この「かもめのジョナサン」へのアクセスである。これは4月29日の連休に、近くの公園で日向ぼっこしながら読んだものであるが、しかし、書き込みは一回だけであった。にも関わらず、その後、一定して切れなくここにアクセスがある。

 一体これはどうしたことなのだろうか、と思う。検索サイトから来るのだから、私の文章そのものを求めてくるのではない。むしろ毎回、見知らぬ人がそのキーワードだけをたよりに訪問してくるのである。

 たとえば「1Q84」などのアクセス数も多い。しかし、これは時期的に見ても相当数の検索があるのだろうし、その盛り上がりのブームのおこぼれが、当ブログにも波及している程度、と判断してもおかしくはない。にもかかわらず、村上春樹をはるかにしのぐ数のアクセスがあるのが「かもめのジョナサン」だ。

 実は、数的にはまだ並べていないが、他にもこのようなキーワードがいくつかある。たとえば「テラフォーミング」。今回当該記事を書くまで、このような単語があり、このようなプロジェクトがあることさえ知らなかったし、書いたこともごくわずかなのだが、実に切れなくこのキーワードでのアクセスが続いている。

 他には「二入四行論」「シーシュポスの神話」「シッダールタ」「ゴドーを待ちながら」「フロイト 精神分析」「タゴール詩集」「シークレット・ドクトリン」「きけ小人物よ」「山上の垂訓」「スーフィーの物語」「グルジェフ」、などがある。ひとつひとつは若干の認識はあるものの、アクセスしてきた人が呆れるほどの内容しか書いていないものがほとんどだ。わざわざ来られた人々に申し訳ないとも思う。

 他にはもちろんOshoやサニヤシン、あるいはグルジェフ&ウスペンスキー関連のキーワードで来られる人も多いが、こちらが敢えて予想したり期待しているアクセスのされ方ではないことがはっきり分かる。

 当ブログにおいては、半年に一度、「最近読んだ新刊本ベスト10」なるものを発表している。冬至から夏至、夏至から冬至の半年サイクルを採用しているものだから、あとひと月もすれば、今期の発表をしようと思っている。そのためにも、夏以降は積極的に図書館の新着コーナーから目新しいもの借り出しては目を通しておいた。

 その前は、いわゆるOsho「私が愛した本」追っかけをしていたので、どうしても旧刊本、古書の類が中心となり、話題もちょっとカビ臭いところがあった。その反省も込めて、新しい本を積極的に手にとってみたのであった。

 そういう流れの中にあっても、「かもめのジョナサン」を初めとする、当ブログのいわば「定番本」はコンスタントに人気があるようだ。せっかくアクセスしてくれた人々に対して申し訳ないので、もう少ししたら、これらの再読モードに入ろうと思う。

 せっかくアクセス数が多いのに、内容を良く覚えていないものもけっこうある。「二入四行論」なんて本は、まるで覚えていない。自分のブログがなぜこのキーワードで検索されているのか不思議にさえ思っていた。しかし、さらに驚くのは、このキーワードで検索する人びとの多さである。そのような希望があるなら、もっと別な格調の高いページにたどり着けばよかったのに、申し訳ないと思う。

 しかし、よくよく考えてみる。ネット上のブログは必ずしも独り言を書き連ねる場ではない。何事かの公開性があり、双方向性の機能があるのだ。ウィキペディアならぬ、ひとりぺディア化してしまっている当ブログではあるが、これは貴重な、未知なる来訪者たちからのリクエストだと思い、これらのキーワードにすり寄っていくのも、ひとつのブログの成長方法であるのではないか、と思うようになった。

 と、前置きだけで字数が尽きてしまったが、また「かもめのジョナサン」を再読することになった。昼食を食べ終わったあとの、昼休みに読めてしまうような、実にシンプルな本であるが、これがやっぱりひとつの高揚感を覚えさせてくれる、すごい本なのだ。

 ジョナサン・リビングストンの喩え話の中に、自らを重ねてみてしまうような部分がいくつも発見できる。小説嫌いの当ブログであってみれば、このような小品であるからこそ、一気に読めて、感動もしやすいのかもしれない。

 おりに触れて、また読んでみようと思う。

<3>につづく

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2009/11/23

心と体がよろこぶ! ネイティブアメリカンの美味しい生活

ネイティブアメリカンの美味しい生活 心と体がよろこぶ!「ネイティブアメリカンの美味しい生活」 
塩浦信太郎 2009/11  PHP研究所 単行本 143p
Vol.2 No840 ★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 当初、当ブログがテーマを決めかね、途中から読書ブログと自己規定したあたりでは、まず読んでみたいと思ったのは、図書館にあるチベット関連本とネイティブアメリカン関連本だった。検索してみれば、どちらも数百とも千に届くとも思われる書籍があるが、どうやらネイティブアメリカン関連の本のほうが多いようだった。

 同時進行的に二つのジャンルを乱読し始めたのだが、チベット関連本は、

「OM MANI PADME HUM」「チベット密教」関連「ダライ・ラマ関連本」「さらに深くチベットの歴史を知るための読書案内」「マンダラをさらに深く知るために」、などなどで一通り目を通してきた。図書館にある本の半分くらいは手に取ったことになるだろうか。さらに「深追い」の大体の手口もつかんでおいた。

 ところが、ネイティブアメリカンについては、カテゴリ「チェロキー」、カテゴリ「アンソロポロジー」をこしらえて、わずかに追っかけの姿勢は作ってみたものの、なかなか手ごわくて、中途で挫折している。その理由は一体何なのか、考えてみた時もある。

 チベット関連は、結局のところ、チベット「仏教」であり、中興の祖ツォンカパであり、その正統な後継であるダライ・ラマ、そしてそれを乗り越えるべきところの津田真一「反密教学」的視点、あるいは中国政府との「チベット問題」、これらを抑えれば、なんとか全体像の素描はできたことになるのではないか。

 それに比較すれば、ネイティブアメリカンをテーマにすると、どこまで読書をすすめても、杳としてその行く先がまったく見えないままなのだ。どの本にも均質ななにかがある。大地に根差し、大空の元に暮らす人々。神々を崇拝し、決して戦いを好まなかった人々。だが、それは何かひとつのものに集約される同軸的なものではない。

 あえて言えば、この二つの人々は、地球のちょうど反対側に生きながら、かたや天空に生き、片や大地に生きている。「伽藍とバザール」の例を引けば、チベットを伽藍に例えるなら、ネイティブアメリカンはバザールだ。クラウド・コンピューティングとクラウドソーシングの喩えを借りれば、チベットはまさに雲の上=「クラウド」であるし、ネイティブアメリカンは、その文化の中に「民主主義の萌芽」を持っていたと言われるほどの「クラウドソーシング」な人々なのだ。

 当ブログの喩えでいえば、政治的には「世界政府」的な動きと、「マルチチュード」的な動きがある。これをこのままチベットとネイティブアメリカンに当てはめることはできないが、それでも集中と分散、という意味ではいい比較になるかもしれない。この二つのネイティブ地球人たちこそ、未来の地球の基礎となるモデルを持っているのではないだろうか。

 この本はネイティブアメリカンたちの食を中心とした文化の紹介である。最近、カロリーブックを片手に、1500kcalヒッチハイク食事法に切り替えたばかりである私には、美味しそうなカラフルなレシピはちょっと強烈すぎるところがある。

 ナバホシチュー、パンプキンレッド、フルーツ入りローストターキー、タオスラビット、ワイルドライスサラダ、アボガドディップなどなど、どれもこれもおいしそうだ。現地に行って食してこそのご馳走だろうが、いくつは材料さえあれば、私にも作れそうだ。スモークサーモン&スクランブルエッグなど、今晩でもできそうだな。

 この本の中には、スエットロッジやペヨーテミーティングなどの伝統的な儀式も紹介されている。チベットに学ぶものが、どちらかというと精神性に偏り、とくに仏教的な高みが多くを占めるとすると、ネイティブアメリカンたちからは、そのライフスタイルそのものを学ぶ必要があるように思われる。そして、必ずしもドグマ化されず、組織化もされていないスピリチュアリティの中に、シンプルで、かつ普遍的な自然とともにいきるネイティブ地球人たちの原風景が見えてくる。

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1人でもできるリハビリテーション 脳卒中・脳損傷・高次脳機能障害からの回復

1人でもできるリハビリテーション
「1人でもできるリハビリテーション」 脳卒中・脳損傷・高次脳機能障害からの回復
橋本圭司 2009/09 法研 単行本 126p
Vol.2 No839★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 思い立って人並みにウォーキングなどをしてみると、皆さんそれぞれに健康づくりにためか、ジョギングや犬との散歩、ウォーキングにいそしんでいるのが見受けられる。いや、以前からスポーツジムや市民プールなどを覗いてみても、なるほど、と思えるほど結構各層、各年齢層の人々が、体動かしをやっていらっしゃる。

 その中でも、たまにすれ違う人々がいる。ほとんどの方が杖をついたり、一緒に随伴の人をともなったりしている。すこしゆっくり目の歩き方なので、はっと、気付いて、こちらがコースを譲ったりする時もある。

 長嶋茂雄と王貞治の人生を、先日NHKが3晩に渡って特別番組を組んでいた。その中で長嶋が長島らしくなるために、王が王らしくなるために、彼ら自身が彼ら自身の描いた「らしさ」に向かって歩いてきた人生が語られていた。

 そのらしさは決して、自分のありのままの姿ではない場合もあった。球場に詰めかけた満員の観客の前では、長嶋は「長嶋」でなくてはならなかったし、王は「王」でなくてはならなかった。

 長嶋が、ワールドベースボールの監督に就任しながら、病に倒れたのは数年前のことであった。その後、奇跡的に回復したのは、普段から体を鍛えていたからとともに、その不屈の精神と努力のたまものである、と紹介されていた。

 長嶋は今、まだ「長嶋」らしく戦っている。自分自身の中の「長嶋」であり、そして多くのファンのための「長嶋」だ。リハビリテーション中の姿は、球場の華々しい姿とは違う。観客もなく、怒涛のような拍手や歓声もない。しかし、コツコツと、自ら描いたイメージを一歩一歩踏みしめる彼の姿は、以前からの「長嶋」の延長なのだ。

 敗戦後の日本の高度成長を支えた人々は、「長嶋」とともに成長してきた。長嶋に期待し、長嶋に夢を見た。そして、多くの人々はすでに引退をしている。そしてある人は亡くなり、ある人はボランティアなどにいそしんでいる。ある人々は介護され、ある人はリハビリテーションに励んでいる。

 わずかながら体に障害の残っている長嶋は、いまでもスーパースターだ。毎日かかさず近くの公園を一時間ほどウォーキングするという。ある人々は、もうカメラの前に立つべきではない、というらしい。しかし、長嶋自身は、自らが置かれている立場を知っている。

 一生の間にテレビカメラにアップで登場する人など実に限られている。しかも毎日毎日報道されるなんて人はごくごく一部の人でしかない。その長嶋の姿を見て、今日もリハビリテーションに励む人々が少なからず存在していることを長嶋は知っている。決して逃げないで、その姿をカメラの前に現す長嶋に、敬服する。

 からだにとって良い方法と一般的にいわれているのは、1回30分程度の有酸素運動、つまりは、早歩きぐらいの散歩程度の運動を、1日2回、週3回以上行うことです。
 この運動は、肥満や糖尿病に対する運動療法の原則でもあり、認知度の予防にも適しています。
 また、散歩は空気の良い緑の自然に囲まれた場所が適しています。緑の自然に囲まれた場所には、フィトンチッドという木の香りがあふれており、からだの治療能力を高めてくれます。
 1回30分の有酸素運度を1日2回、週3回行うことができたら、確実にからだの耐久力は上がります。その後は、運動する時間を増やすよりは、運動や活動の種類を変えていきましょう。
p92

 この本にはからだについてばかりではなく、自分でできる「こころのリハビリテーション」についても図解入りでやさしく書いてある。このまま、すぐにでも役立ちそうな項目がいくつかあった。

 ケガや病気による障害で苦しんでいる患者さんとご家族に出会ったら、進んで自分たちに何ができるか問いかけてください。
 自分に障害がある人も、同じ障害に苦しんでいる人を助けることができます。むしろ、同じ障害だからこそ、助けることができるのです。
p125「おわりに」

 リハビリテーションとは、もともとラテン語で「再び適した状態になること」「本来あるべき状態への回復」p10という意味であってみれば、障害のあるなしにかかわらず、みんなのテーマであるはずだ。「もとの状態に戻ることだけを目標にするのではなく、新しい「本来のあるべき」姿の発見でもある。

 人間が人間らしく生きる、とはどういうことなのか。またひとつ考えるヒントを得たような気がする。

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2009/11/22

だから、楽に走れない! 目からウロコのマラソン完走新常識

だから、楽に走れない! 目からウロコのマラソン完走新常識 (じっぴコンパクト新書)
だから、楽に走れない! 「目からウロコのマラソン完走新常識」
飯田 潔 (著), 牧野 仁 (著) 2009/10 実業之日本社 新書 204p
Vol.2 No838★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 10年ほど前にウォーキングを積極的にやっていた時は、赤信号になる前に、横断歩道を渡り切ろうとして小走りになったりすると、そのまま止まらずに走り出してしまい、いつの間にかウォーキングのつもりがジョギングになってしまったりしていた。あの頃は、確かに今よりも10歳若かったのだ。

 最近、ようやく重い腰を挙げてウォーキングを少し始めてみたが、なんとも体が重い。信号で赤になる前に、確かに以前のように小走りに渡り切ることは度々あるが、そのまま走りだすなんてことはない。そのことに、我ながら、時間の経過をズシリと感じることになる。

 年齢を重ねてからジョギングを始める人もいるし、村上春樹などのように還暦を迎えながら、フルマラソンに挑戦しようという人も多くいるようだ。だから、彼らよりまだまだ若い自分としては、まぁ、そのうちジョギングを始めて、いつかフルマラソンへ挑戦、なんて夢もないわけではないが、まるで真実味がない。

 フルマラソンどころか、近くで毎年行われているハーフマラソンの見物にも行ったことがない。いやいや、我ながら、普段からのものぐさぶりに呆れてしまう。なんてったって、自己流エレクトリック・コテッジの職住一致で、そもそも家の中も、動線を研究して、できるだけ移動を少なくして「快適」に過ごそうと設計してある。

 玄関を開けて数歩歩けば、決して豪華とは言えないが、きちんと定期点検している営業車兼マイカーが待っている。最近こそ真面目に腰に万歩計をつけているけれど、意識しなければ、一日数百歩も歩かないでも、十分暮らしていけるライフスタイルになってしまっている。

 いやいやこれじゃぁ、いけない、と、自転車踏みを考えたり、ジョギングを考えたりするが、まさかロードバイクやフルマラソンまで、一気に過激なことは考えることはできない。まぁ、せいぜい、世の中の人々は、このような努力をして、健康づくりに励んでいるんだなぁ、と感心するのが関の山である。

 シューズの選びかたや水分補給の方法、フォームの留意点、ストレッチ、筋トレ、読めばなるほど、うなづける技や裏技があちこちに散りばめられている。この数日は、腰を痛めて整骨院通いの身であれば、今すぐ今日から即採用というわけにはいかないが、注目すべきポイントとは、常識といえば常識的な部分であり、当たり前なことが多いようだ。

 しかしその常識もやってみなければ分からないことがいっぱいある。致命的な失敗に終わって再起不能になる前に、すこしは予備知識を入れておいて、「被害」を最小限にとどめる必要はあるだろう。「いつまでもデブと思うなよ」でもないけれど、いつまでもウォーキングばかりではないかもしれない。

 いつかはジョギングになって、持久走になって、フルマラソンとはいかないまでも、5キロとか10キロくらいは走れるようになるかもしれない。まぁ、そのくらいの可能性と、ささやかな希望は残しておいてもいいのではないだろうか。

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2009/11/21

脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?

脳はなにかと言い訳する
「脳はなにかと言い訳する」 人は幸せになるようにできていた!?
池谷裕二 2006/09 祥伝社 単行本 353p
Vol.2 No837★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 「脳科学」本を一気に読むのは、なかなか難しい。ましてや、同じ著者とは言え、何冊も続けて読むのは、私にとっては難行苦行のような状態になってくる。この本は、「VISA」の宣伝誌に「ビジネス脳のススメ」として書かれたコラムが中心となっており、そのコラムに追記する形で全体が進んでいる。

 なぜに読む進めることが難しいのか、自分なりに考えてみた。

1、もともと脳科学って奴をあんまり信用していない。

2、科学が科学で終わるような科学を科学とは呼べないと思っている。

3、身体科学のような、自分の体を中心とした科学を矮小なものだと思っている。

4、もともと物理的な論理性でもって、真理を探究できるという姿勢に疑問を持っている。

5、所詮は、脳という限定された範囲の研究結果なのではないか。

6、そこで展開されているものの裏付けとなるデータを、自らが再現できない。

7、所詮は本で分かるようなものでないものを、本に書く、ということで、少なからず矮小化された形で紹介されているのではないか、という疑問を常に持っている。

1、昔、多湖輝の「頭の体操」というカッパブックスのシリーズがあったが、どうも脳科学というとあれを思い出す。その発想の面白さはなるほど、とは思うのだが、所詮カッパブックスなんて買っているような連中は、この程度のもので我慢しておけ、みたいな、どこか読者を矮小なスペースに追いやっているような気がしていた。あの当時のトラウマが続いているのかもしれない。

2、そもそも、当ブログは、科学、芸術、意識、の三層、あるいは三極、あるいは三面から、何事かの探究を行おうとしている。科学や芸術、あるいは意識へのアクセス回路がないものは、どうも片手落ちという気がしてならない。

 瞑想しているアジアの僧侶からは特殊な脳波が現れます。特殊な脳の状態です。(中略)逆にわかっちゃうんですね、(中略)脳波を記録してみたら、実はぜんぜん悟りの境地を開拓できていなかったというのが。p142

3、これは反省も込めてのことだが、モノとココロなら、モノよりココロのほうが大切でしょう、というライフスタイルを維持して来たもので、ついつい、物質的な現実性を軽視しがちになる。

4、これはかなり言い訳くさいが、所詮は、論理的な説明をされれば、「いやもっと感性を大切に」と思うし、感受性豊かな表現をされれば、「いやもっと落ち着いて論理的な説明をしてよ」と、常に私の脳は何かと言い訳をする癖がある。

 自分の死期を悟ったとき、多くの人は、過去を振り返ってこう言うという。「幸せな人生だった」と。
 本当に他人より満ち足りた人生を送ってきたのか、純粋に感謝の気持ちからなのか、単に残される周囲を気遣っての発言なのか、その真意はわからない。実際、もし私に突然、死が迫ったときに「人生に思い残すこてゃないか」と訊かれたら、私はなんと答えるだろうか。
p90「脳はなにかと言い訳をする」

5、脳は脳として単独で存在することはできずに、身体があるからこそ脳は脳として存在し得るし、脳も成長すると、著者も本書の中で言ってるが、やはり、「ばっかり」研究には、絶対どこかに落とし穴があると、思う。

 脳は、「単体では存在し得ないもの」であるということ。体があって初めて脳が存在するのです。脳は頭がい骨という箱の中に入っていて、外部とは接点を持っていません。環境を感知したり、環境に働きかけたりするのは、すべて体です。脳は、すべて乗り物である体を通じて初めて、外部と接触することができます。p55

6、自らを文科系と理科系のどちらに大きく傾いているとは言えないが、すくなくとも研究室で実験データを積み上げるような検証方法を持っていない身にしてみれば、いくら専門家とは言え、通り一遍の説明で納得してしまうことに、危険性をいつも感じている。へたすりゃ、トンデモ科学の虜になってしまう可能性がある。眉唾精神は、これは一生治るまい。

 「ロボットと人間」、もしくは「コンピュータと脳」の境界線は何なのか、突きつめれば突きつめるほど、よくわからなくなってきます。
 石ころは生物ではありません、人間は生物です。この違いを生んでいるのはなんでしょう。
p315

7、ここは微妙なのだが、結局は、脳科学など、自分には及びはないと思っている。つまり、手の届かない高い位置にあるブドウは、眼に入らないのであり、私にとっては、ないのと同じなのである。そんなことより、自らの手の届く範囲の中に、無数に不思議な謎がいっぱいあるではないか。なにも手の届かない遠方まで出かけていって不思議発見をするようりも、自らの体験している不思議をうまく解釈してくれる科学なら、その時こそ、原寸大の、私に即した立派な科学と言える、とそう思っている(らしい)。

 「人」の営みがもつ”温かみ”に親和性を覚えるようになったのは、かつて科学万能主義的な理系バカであった私からは想像できない変化だと思います。「科学は何でも解決できる。仮に今は無理でも、いつかはこの世のすべてが科学的に説明できる」などという独りよがりな傲慢さは、今では完全に消えています。p328「おわりに」

 ひととおり記述がおわると、著者は、「おわりに」で野々村仁清の「色絵鱗波文茶碗」について触れている。ここで私もほっと一息ついた。しかし、そこからすぐ著者は「科学者」らしく「フラクタル」の話に移る。日本地図の海岸線の不思議さを例に出しながら、科学の限界性についてかたる。

 自分の内部に自分とそっくりな”相似形”を持っていることを「フラクタル」と呼びます。日本語では「自己相似性」となります。p331

 これは、地球地図の縮小が日本地図になっており、日本の地図の縮小が奄美になっている、なんていう出口王仁三郎らの「国魂学」に通じそうなところである。私の脳の中では、科学にお付き合いしながらも、早くそこから離れて神秘な世界へつなげたいと、わずかに存在するらしきシナプス群が、さも、うずき出すかのようである。

 

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2009/11/20

仮想世界ロードマップ 次世代Webへの対応が企業の明暗を分ける

仮想世界ロードマップ
「仮想世界ロードマップ」 次世代Webへの対応が企業の明暗を分ける
野村総合研究所 2009/02 東洋経済新報社 単行本 215p
Vol.2 No836★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 セカンドライフに代表される仮想社会はこのまま衰退するのか? p1「まえがき」

 この本、ここから始まる。ああ、やっぱりな。セカンドライフ(SL)は衰退しているのだ。当ブログでもSL本は、2007年6月の「ウェブ仮想社会『セカンドライフ』」 以来、約40冊ほど読んできた。「セカンドライフマガジン」も2007年12月に創刊以来、2008年3月の2号、2008年8月の3号以来、途絶えている。ムック形式だから「廃刊」という公表はないが、多分、今後の続刊も難しかろうと思われる。

 ティム・ゲストの「セカンドライフを読む。」など関連本も興味深く読んだ。SLをやりたくて、古くなっていたパソコンを買い換えたし、実際にSLにも参加してみた。その間多分、一年ほど、次第次第にネタ切れになり、SLに行かなくなってから一年ほど経過してしまった。あの世界はどうなっているのか、気にはなっていたのだが、「衰退」という文字がでて、ああ、やっぱりな、と思う。しかし・・・

 その答えはNOである。仮想世界は今後、現実の経済活動にも多大な影響を与えながら、ますます発展していくはずだ。p1

 と、上の疑問に対する答えは、このようになる。もっとも、この本、東洋経済新報社から野村総合研究所技術調査部が出している本で、株屋の予想と同じで、もったいぶった権威をバックにちらつかせながら、自分の身の保存を大きく込めて「こうあって欲しい」 世界を「予想」したりするので、鵜呑みにはできない。

 この本編集は2008年11月に完了しており、出版されたのは2009年2月である。しかも執筆陣は6人の研究員たちが名前を並べている。本としては、いまいち訴求力のないものである。巻末に付録としてついているアンケート結果などは、実は2007年9月に行われたものが使われており、いまいちデータが古い。

 だから、SLや仮想社会についての、もっと最新の研究やデータをもとにしなければ、ここで議論してもいまいちリアリティに欠けてしまう。だが、すくなくとも、「衰退」しつつある日本のSLを含む「仮想社会」について、正面から研究している本としては、珍しい本なのではないか。

 SLの長所はともかくとして、日本におけるSLの仮想社会性についての欠陥は、この本に指摘されずとも、すぐに思いつくものばかりだ。「なにをやったらよいかわからない」、「英語が中心のコミュニケーション」が日本人には難しい。高機能パソコンのスペックが求められる。他の仮想社会との相互運用性がない、など、予想されるものばかりだ。

 これらの一連の問題は、多分、すべて乗り越えられるものばかりであろう。たしかに方向性は、この連動した仮想社会のメタバースからマルチバースへの展開は可能であろう。しかし、その技術的な可能性ばかりが問われていて、結局は、仮想社会の相対的な価値、相対的な位置的関係が、まだ十分に理解されていないところに問題があるのだと思う。

 たとえばティム・ゲスト「セカンドライフを読む。」などにでてくる、身体に障害のある人々にとっての、仮想社会における「身体の獲得」などは大きなメリットに掲げられてもよいはずだと思う。ただ、仮想社会が現実社会や、その他の動きに十分連動する可能性についてまだまだ未開発な部分が残されている、ということは間違いない。

 この本、SLや仮想社会に関心のある読者にはとても興味深い一冊だが、冷めてしまった人々にとっては、ちっとも面白くないかもしれない。この本をこれから解凍して美味しく食べる「冷凍ピザ」と見るのか、冷たくなってしまったおいしくない「冷めたピサ」と見るかは、読者の姿勢に大きく関わる。

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2009/11/19

いつまでもデブと思うなよ<2>

<1>よりつづく
いつまでもデブと思うなよ
「いつまでもデブと思うなよ」 <2>
岡田斗司夫 2007/08 新潮社 新書 223p

 出版当時に書店で立ち読みし、先日、図書館から借りだして一通り目を通したはずなのに、なぜかまた読みたくなった。なかなかこのタイトルに惹かれるところが多いようだ。それほど深い内容があるとは思えないのだが、著者の体験談でもあり、また劇的なダイエット効果でもあったから、印象が強いのだろう。一年間でえ50万部を超えるベストセラーになったのも分かるような気がする。

 ざっと目を通してみれば、他のダイエット本と特段に大きく変わっているわけではない。食事に注意して、運動をする、基本はここに戻るのだが、「脱デブ」を読んだかぎり一年後にもリバウンドしていないようだから、さらにその後の一年後である現在でも、快調に「軌道」に乗っているはずである。

 この本を再読したくなったのは、内容はすでに十分に把握しているのだが、細かい数値などをもう一度確認したくなったからだった。摂取カロリーとか日数とか、細かいところはメモしておかないと忘れてしまう。いや最初から細かいところは読んでない。

 でも、ちょっと違うかも知れない。読みたくなった理由は、ボディとマインド、脳と身体、仮想世界、スピリチュアリティ、などが、いくつか並立している当ブログにとって、極めて象徴的な部分をこの本が代表しているのではないか、と直感したからだった。

 「脳はなにかと言い訳する」「こころで体の声を聴く」「魂の科学」「仮想社会ロードマップ」「一人でもできるリハビリテーション」「目からウロコのマラソン完走新常識」「オバマの仮面を剥ぐ」「ネイティブアメリカンの美味しい生活」などの雑多な本を並べながら、この中にこの「いつまでもデブと思うなよ」を置いてみる。

 この雑然性は、まさに当ブログの雑然性の発露であるが、これらの本のなかにあって、この「デブ」本の、親近性、意外性、具体性、実利性、現代性、趣味性などなど、侮れない魅力が満載されているように思われる。ベストセラーになるにはその理由があるはずだ。なにか分からないプラスαの魅力がこの本にはある。

 先日、物置を片付けていて、古いゴルフバックがでてきたものだから、ちょっといたずらに1番ウッドをフルスイングしたら、お見事、腰を痛めてしまった。イテテテ・・・。現在、整骨院に通院中。そんな弱気な自分を奮い立たせるために、この本が恋しくなったのだろうか。食事も運動も筋トレも必要だが、ストレッチも大事だと、痛感している今日この頃。

<3>につづく

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2009/11/18

海馬 脳は疲れない

海馬
「海馬」 脳は疲れない
池谷裕二 /糸井重里 2002/07 新潮社 文庫 344p
Vol.2 No835★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 本には、読むべき時期、読まれるタイミング、というものがあるのだろう。この本がでた当時、池谷は独身の31歳。若き新進の脳科学者に、54歳の老練なる少年・糸井重里が「挑む」という形だ。社会的には、例の9.11同時多発テロ事件の直後、ということになる。この本には仕掛け人がいる。ほぼ日新聞のスタッフ(乗組員)の木村俊介だ。木村はこのあと、池谷と共著という形で「ゆらぐ脳」を企画・出版している。

池谷 ええ。うちの研究室だけでも、(ネズミ)が数百匹はいます。一気に反乱したらどうしようとか、たまに思うと怖くなりますねぇ。p181

 「海馬」とは、脳の中でもさらに奥の潜んでいる親指ほどの大きさの部分。この海馬が池谷の目下の研究課題だ。この研究をするために、多分、ネズミを飼っているのだろう。その実験室で何が行われているのかは想像するしかないが、すくなくとも、ペットで飼っているわけではない。そこではさまざまな外科的、あるいは、電気的な「生物」「実験」が行われているのであろう。

 ベジタリアンならず、熱烈なるクジラ保護者でもなく、動物愛護精神にも特に優れているわけではない私ではあるが、このような科学者たちの手によって、多く葬りさられていく「命」たちの運命をふと思う。高橋敬一は「『自然との共生』というウソ」のなかで、この動物実験に触れていたと思う。

 池谷は「自然との共生」を唄い文句にしているわけではないが、多くのネズミやその他の実験の中から、脳科学や、「意識」を研究しようとしている。多くの犠牲のなかから「意識」についての新しい研究成果があがるとして、はて、それは生命倫理からみた場合、どうなのか、という反論があって、当然であろう。

 選抜された数人の高校生と語り会った「進化しすぎた脳」のなかで、池谷は、戦争が人間の脳科学の進歩に貢献していることを紹介していた。

 戦地に赴いた兵士たちは、負傷して帰ってくる。現代の兵器は極めて進化していて、敵弾が兵士の体を貫いて、ピンポイントで損傷はしても、生命そのものは生き残る可能性があるのだという。つまり、敵弾を浴びた兵士が脳の一部だけを損傷して機能を失っているが、他の部分は健全に機能している。このような場合の、「異常」な機能状態を調べていくと、人間の脳の研究に大いに役立つというのだ。

 私はこの話は直視できない。ネズミに電極を付けたり、負傷戦士をサンプルとして集めることで、解明される「科学的」成果とはなにか。あまりに痛ましい光景を思い浮かべてしまうのは、科学者ならざる小児的平和主義者の憂いでしかないのだろうか。

 当ブログ、Osho「私が愛した本」の中の「東洋哲学(インド)」編が進んでいない。一時的に中断したまま、いつ再開するとも目途がたっていなかった。しかし、もし、人類が自らの「意識」を研究するのに、ネズミなどの実験や負傷兵士たちの異常状態に学ぶより、「意識」そのものに入っていった、先人たるブッタたちにこそまなぶべきなのではないか。脳科学の現実を思い知らされた時、私なら、そちらのほうに舵をとることになるだろう。

池谷 マジックナンバー7と言って、人間が同時に意識できる限界は7つ程度なんです。
 たとえば、やかんの火をつけながら、歯を磨きながら、テレビを見ながら、さらに電話をかけて・・・・とかやっていったら、いずれは最初のやかんのことを忘れたりしますよね。人が意識できる記憶は、かなり少ないのです。意識にのぼらせることのできる記憶というか「現在はたらいている記憶」を「ワーキングメモリー」と言います。それはほんとうにかぎられています。
 p130

 ちょっとこじつけのようにも思うが、自然発生的に「7」がでてきたとするならば、それはそれで面白い。

池谷 (前略) ぼくは学生たちに、「脳は複雑に見えるけれども、脳の機能を分類していくと、たったふたつしかないんじゃないか」と言います。
 「情報を保存する」と「情報を処理する」・・・・・煎じつめると、これしかない。そして、さらに一歩話を進めるんです。
 「情報を保存する」と「情報を処理する」とでは、どちらが大切だと思いますか?と訊くんです。
 p111

 池谷の話は面白い。話上手なのだろう。あるいは、他に見られない独創性があるに違いない。うえの質問では、「情報を保存する」ほうが大切だ、という結論になるのだが、私はふと、いや「情報を処理する」ほうが大切なのではないか、と思う。

池谷 実は今糸井さんがおっしゃった方向に、科学のあり方も変化しているんですよ。
 昔の科学は結果勝負的なところがあって、全部を証明してつくりあげたあとにはじめて発表していたんですが、今は仮説のまま公表しちゃうんです。
 仮説の発表後に人が寄ってきて、その仮説を証明していくというように、科学全体がプロセス重視に変わっているんです。
 インターネットの発展に伴って、情報の行き来が速くできるようになったために、科学のあり方も変わってきています。閉鎖系から開放系に移っていますよ。
p279

 この本はすでに7年前の本である。当ブログは、著者の近著「単純な脳、複雑な『私』」を読んでから、フィルムを逆回しするように、著者の過去の本を読み返してみたので、すこし整理つかないところがあるが、すくなくともこの「海馬」がでた当時よりも、池谷本人は、かなり全体性を取り戻しているように思う。

 池谷さんと脳の話をして、ぼくは「勇気」をもらったように思います。『道理として、人間はあんまり哀しい生き物じゃない』んだと、わかったような気がしました。科学は人のためにあると思えました。いい時間を共有できて、ほんとうに感謝しています。p293 糸井

 いつから脳科学や脳ブームがこれほど一般的になったのか、気がつかなかったが、すくなくとも、この本は、そのブームの立役者の一冊であることは確かだろう。しかし、最近の茂木健一郎の振る舞いをみても思うのだが、やはり、脳は海馬だけではなく、人間は脳ばかりではない。

 脳を調べれば当然身体性へと還らざるを得なくなり、身体性に帰れば、人間とは何か、人類とは何か、地球とは何か、宇宙とは何か、生命とはなにか、と大きな、全体的な課題への帰っていくことになる。そして、究極のテーマは意識、であり、最終的には「私は誰か」に帰結するのではないだろうか・・・。

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2009/11/17

ゆらぐ脳

ゆらぐ脳
「ゆらぐ脳」
池谷裕二 /木村俊介 2008/08 文藝春秋 単行本 252p
Vol.2 No834  ★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 「脳科学」に強い関心があったわけではないのだが、「脳ブーム」とかいわれる風潮を、当ブログなりに触れておくことも必要かな、と思ったのが最初であった。それは、つい一年ほど前のことである。まずは、巷にあふれている茂木健一郎シンドロームの実態を見ておこう、と、おっとり刀でスタートした。

 茂木の「意識は科学で解き明かせるか」「プロセス・アイ」、あるいは「今、ここからすべての場所へ」などは、とても面白く読めたので、ひょっとすると、もっと奥があるかもしれないと、茂木追っかけを始めてみたのだが、その期待は、わりと早く簡単に薄らいで行った。茂木の「脳科学」も結局は、どこか中途半端で、途中から「科学」から「芸術」に転向してしまったような、物足りなさを感じた。

 そんな時、池谷の「単純な脳、複雑な『私』」 をめくることになり、お、こちらの「脳科学」のほうがおもしろそうだぞ、と勝手に思い込み、やおら、池谷追っかけを始めた。しかし、もともと基本的な素養と理解力がなければ脳科学の先端など、話を聞いてもチンプンカンプンになり、なにがなにやら落ち着かない気分になった。

 2001年当時の池谷が糸井重里との対話した本「海馬」を読みだしたのだが、どうもタイミング合わず、途中でほっぽり出して、全然別なジャンルの本に手を伸ばしていた。だが、こちらの本も返却期限が近付いてきた。なにはともあれ、ひととおり目を通しておこう。

 茂木健一郎と、池谷裕二に、「なぜ『科学』はウソをつくのか」 の竹内薫、この三人を横に並べてみて、考えた。たとえば、池谷と竹内を分けてしまったものはなにか。それぞれに若い新進の科学者として、将来を有望視された存在であったことは間違いない。しかし、この二人の道は大きく分かれた。

 池谷は、大学の薬学部の准教授として、アカデミズムの中でその人生を歩んでおり、かたや竹内は、とかくトンデモ科学を扱うようなサイエンスライターのひとり、と目されている。この二人を大きく分けたものは、もともとの持って生まれた才能や運命、努力やチャンス、ということもあっただろうが、池谷は学会の研究誌に論文を掲載することに成功し、かたや竹内は、アルバイトで書いた記事が、トンデモ本の中に収録されてしまった、という偶然の出来事からであった。

 この「ゆらぐ脳」と竹内の「なぜ『科学』はウソをつくのか」に共通するものは、科学、あるいは科学者というものに対する疑問、批判である。あるいは、科学者として生きるということに対する、曖昧さ、茫漠とした不安のようなものである。同じような感想を抱えながら、片や「体制側」に生き、かたや「反体制側」に生きている。しかし、一般人が考えている「科学」や「科学者」というものが、現在のところ、どのような状況に陥っているのかを、それぞれの立場から表現しているように思う。

 この本において池谷は、「科学」から、より真理へ向けての「神秘の扉」を開いているように思う。科学には科学の力があり、また、科学には科学の限界がある。そのことを暗に読者に広く告知しているかのようだ。盲目的な「科学」信仰を慎まなければならない、そう言っているかのようだ。

 茂木おっかけにあきて、池谷おっかけを始めようとした当ブログではあったが、結局は、茂木がなぜあのような「道草」的行為をしているのか、すこし分かった気がする。つまり、脳科学はブームであり、一般人はそこから何か無限の可能性を感じているのだが、その期待とは裏腹に、その先端にいる研究者たちは、その期待に「答えられない」ことを、知ってしまっているのではないか。

 少なくとも、科学者と、科学者たちに期待している一般人の間には、大きなギャップがある。科学がどこまでも科学であり得るかどうかなど、定かではない。いつ疑似科学に落ちるかわかったものではない。あるいは、トンデモ科学と思われているものと、真正な科学と思われているもの違いは、ホンの小さな違い、たとえば、論文が認められたであるとか、誰かが権威づけたとかであったりする。現場に近いところにいればいるほど、その危うさが分かるのだろう。

 当ブログは、科学、芸術、意識、の三つの総合的に融合した世界の在り方を求めている。決して「科学者」になることや、「科学者」であることを至上とするものではない。もちろん「芸術家」や「神秘家」であることで、なにかが達成されたとも思えない。この三つの要素は、多分、ひとつのものとしてメルティングされていく必要があるのだ。

 「意識」といえば、今は花型の研究です。意識のことは多くの研究者が解明したがっています。だから、自発活動と意識の関係が示唆された時、期待と注目を集めました。しかし、意識への強い関与が否定されるというこのやりとりを見て、私は「自発活動は、意識の源泉じゃないんだなぁ。がっかりしたなぁ」とは思いませんでした。むしろ、自発活動は意識なんていう表層的なものであってほしくなかったので、よかったなぁと思いました。私にとっては、反論の登場で余計に「ゆらぎ」の重要性が増したわけです。意識は人間の活動のほんの一部の現象で、意識を重要視しすぎることは、いわば滑稽と言ってもよいくらいのものですから。p200

 なにはともあれ、私はこの本を面白く読んだ。そこにあったのは、科学から神秘への「ゆらぎ」であり、そのゆらぎをなんとか表現しようとする芸術に似た努力だ。ひとつひとつの事象や記事内容は理解できないまでも、「なに」かと真正面から取っ組み合いをしようとする著者の姿には、好ましいものを感じた。

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あなたの医学書 高脂血症―名医の言葉で病気を治す

あなたの医学書 高脂血症―名医の言葉で病気を治す
「あなたの医学書 高脂血症」 名医の言葉で病気を治す」
及川 眞一 (著) 2009/10 単行本: 191p  誠文堂新光社
Vol.2 No833 ★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 高血圧」とくれば、次は高脂血症の本でも目を通しておきますか。どうもこの手の本は、自分の目の届かない自分の欠点を指摘されているようで、いつもバツの悪い思いがする。一つひとつはなるほどと思わないでもないが、結局は自分の血管を切り開いてみるわけにもいかず、体重や血圧のようにお手軽に家庭でチェックする、というわけにもいかない。せいぜい年に一回の定期検診の結果に心が右往左往するだけだ。

 とくに指摘がなければ、そんなことまったく気にしないが、前年と比べて異動があれば、やはり気になる。医師の指摘などがあれば、なお気になる。だけど、一年に一度の検診でどれほどのことが分かるのか、もっと頻繁に計測してもらればいいのか。自分の健康に自信を持つ、というのは、なかなか難しいものだ。

 とくに大きな不都合がなければ、体そのものはともかくとして、あとは食事と運動のお話だ。他の家庭医学書との差異はそれほどない。あとはストレスの問題か。食事はバランスよく、三度三度きちんと食べて、食べ過ぎず、減らしすぎず。運動も適度で無理なく、長く続けることができるもの。仕事も適度に、ほどほどに、ってところに収まっている。

 だが、健康が一番、とはいうものの、たとえば、ちょっと酷評してしまったが、「危ないダイエット」(阿部純子著)のように、体からメンタルな部分へ、そして瞑想へと言及していくプロセスがあるのが本当ではないか、と思う。そこまで書いてしまうと、通常の「家庭医学書」の範疇からは外れてしまうのか。

 心や意識から切り離されて、肉体としての身体一本やりの「健康」なんて、本当はないのだから、その辺をもうちょっと解説してあると面白いのになぁ、と思う。まぁ、それはしかし、この本に求めようとしている、こちらのほうが少しヘソが曲がっているかもしれない。

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2009/11/16

高血圧のすべてがわかる本 予防から対処法まで完全収録

高血圧のすべてがわかる本
「高血圧のすべてがわかる本」 予防から対処法まで完全収録
桑島巌 /島田和幸 2009/10 実業之日本社 単行本 223p
Vol.2 No832 ★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 新着本コーナーにこのようなタイトルの本があれば、つい手がでてしまうのは、最近気にしているからか。以前なら、このような本は、目ざわりだけだったのに、なぜか最近は魅力的に感じる。

 すべてがわかる、と言われて、親切丁寧に書かれていても、実際には、自分に関係のありそうなところだけをつまみ読みして、あとはつまみ読みしたところでさえ、いつの間にか忘れてしまっている。自分が健康なら、その程度でいいのじゃなかろうか。

 症状、食事、運動、ストレス対処法など、まずはあり得そうなテーマについて詳しく書かれている。だが、計測値についての数字が、各書わりとまちまちなので、かえってストレスがたまりそう。まずは自分の体調がいいのか悪いのか、自分で自分の体に聞くことが一番だな。

 関係ありそうで、関係なさそうな、微妙な記事がずら~と続くが、あとは随時、気になったところを再読すれば足りるだろう。下記の部分などは、自分とは関係なさそうだが、当ブログの読者のなかには、留意されたほうがよいお方もいるやもしれないので、抜き書きしておこう。

性生活

腹上死の7~8割は妻以外の愛人などとの性交渉中に起こっています。

 性交渉をすると誰でも血圧は上がります。
 欧米での夫婦間の性交渉(24~40歳男性)では正常な血圧の人でもピーク時には収縮期の血圧が40~50mmHgほど上がり、脈拍数が倍になることがわかっています。長年の夫婦間の性交渉では血圧も、脈拍数も上がらないで、むしろ心身の満足感から性交渉後は血圧が安定する効果があると報告されています。

 危険な性交渉は、愛人、年齢のはなれた相手との浮気です。性交渉の興奮状態によりますが、時として収縮期の血圧が200mmHg以上にも上昇することがあり、心臓疾患や脳血管障害を起こして腹上死することになりかねません。命を失いかねない危険な性交渉はほどほどに。 p194

 なるほど・・・┐( ̄ヘ ̄)┌

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危ないダイエット 一億総ダイエットブームにひそむ危険な罠

危ないダイエット
「危ないダイエット」 一億総ダイエットブームにひそむ危険な罠
阿部 純子 2009/06 ディスカヴァー・トゥエンティワン 新書 p219
Vol.2 No831 ★★☆☆☆ ★★☆☆☆ ★★☆☆☆

 この本の前半部分は、いわゆる巷でいわれるところのダイエットの危険性について語られている。もとより、朝バナナなどの「ばっかり食い」療法や、誇大広告の「サプリメント」療法には関心はない。でも、新ためて、このように列挙されると、ああ、このままデブのままでいいじゃん、と思わないわけでもない。いや、それじゃぁいけない。

 ベストセラー書籍「いつまでもデブと思うなよ」中で著者の岡田斗司夫氏は、レコーディングダイエットを提唱している。体重と体脂肪、食べたものをすべてを記録するというものだ。p75「レコーディングダイエットの落とし穴」

 結果良ければすべてよし、ではあるが、必ずしも、誰もが、体重などを記録しただけで岡田斗司夫のようにダイエットに成功するとは、限らない。

 ところが”記録をつけること”が目的になってしまい、まるで生化学の実験データのようにエクセルで美しい表を作るだけで満足してしまう人もいる。美しい表は悪くはないが、表を作ることが目的ではない。表からフィードバックを得るために行うのだ。p77

 まぁ、そういうことではある。

 リバウンドしない減量ペースの目安は、一ヵ月あたり、たった1キロの減量だ。いざダイエットとなると張り切ってしまう人には、少なすぎて物足りない数値化もしれない。だが、これがもっとも効果的な痩せ方だ。最大でも体重の5%。これ以上を一ヵ月で減らすようなまねは厳禁だ。p135

 この数字はかなりアバウトではないですかね。岡田斗司夫みたいに117キロもあったら、その5%というと6キロ近くなる。1キロか6キロ、という数字はかなり曖昧。5%が1キロの人はもともとの体重が20キロの人のこと。これじゃぁ、あまりに「安全すぎるダイエット」のように思うが・・・。いや、20キロの人がダイエットしよう、という発想自体、それは「危なすぎる」でしょう。

 脳科学者の池谷裕二氏は脳をだますためのテクニックとして、次のA~Dの方法をすすめている。(「脳だま やる気の秘密」幻冬社)p149

 おや、池谷裕二は、他の流れでも読書中だが、こちらにもでてきたか。

 A 理想のロールモデルを描く

 B いつもとは違ったアプローチをしてみる

 C とにかく何も考えずに体を動かす

 D 自分にごほうびをあげる 149~151p

 う~む、ふむふむ。なんだか、当たるも八卦、当たらぬも八卦の世界に近づいてきましたな。純粋に医学や科学とはいいにくい。いや、そうであることのほうが真実なのであろうか。

 「ストレスを食に向かわせない」、という章では、つぎなような表現もある。

 座禅などで瞑想の効用に関しては、世界中で研究が行われていて論文も多くある。アメリカのマサチューセッツ工科大学のブッシェル教授は、座禅と同種の瞑想を10~20年間続けている人と一般の健常者の脳の画像を、磁気共鳴画像(MRI)を使って比較する実験を行った。p176

 実験を行ったことは素晴らしいと思うが、「座禅と同種の瞑想」とはいかなるものか。さらに「10~20年間」続けている人と、「一般の健常者」というカテゴリを、脳の画像を比較だけで単純に検討するのは、かなりトンデモ科学に近付いていると、私なら思う。

 早朝の座禅を習慣にしている上場企業の社長は意外に多い。例えばTM瞑想は、世界中でビジネスマンを中心に400万人が愛好していると言われている。日本でも元ソニー会長の井深大氏や京セラ会長の稲盛和夫氏が実践するなど、広がりを見せる。
 ビジネスパーソンにとっても、プレッシャーに負けないこと、ストレス発散、精神集中に座禅は最適だ。
p177

 たしかにTMは宣伝上手だし、積極的にこのようなデータを出して、研究者に利用されやすくしているが、私は眉唾だ。結果的にはねつ造されたデータをもとに研究をすすめているにすぎない。

 さらに言えば、一部上場のどうの、というのと、あの芸能人が、というのと、どのような違いがあるのか。これもまたトンデモ瞑想、トンデモストレス解消法の案内人になりかねない。

 とりあえず、無理せずできそうなことを21日間続けてみよう。21日間だけの小さな努力。そうすればもう無意識が勝手に行動を選んでくれるから、自分の習慣とすることができるのだ。p214

 21日間、というのは賛成するが、その根拠もあいまいだ。本書に対する当ブログの評価は、プラス、マイナス、相半ばする。著者は法学部法律学部出身のサイエンスライター。

 「16歳のころより数々のダイエットを試みて、10キロの減量に成功し、痩せるだけでなく、健康で精神的にも強い体を手に入れた。」裏表紙見返し

 私なら、16歳でダイエットしているなんて奴は、もともと不健康なやつと思う。しかも「10キロの減量」を「成功」と表現するのか、と、ちょっと疑問。「健康で精神的にも強い」なんて自己紹介する奴は、信用ならん。そもそも健康とは何か。「強い体」を「手に入れる」とはどういうことか。ポケットにお気に入りのフィギュア人形を突っ込むのとはわけが違うのだ。

 理解できるところもあるのだが、この本、読めば読むほど、だんだん評価が下がってしまった珍しいケース。最初★4つだったのに、修正につぐ修正で★2つになってしまった。所詮は所詮、よくある手のトンデモ本の類の域をでないだろう。

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弓道パーフェクトマスター 基本技術から的中率を上げる極意まで!

弓道パーフェクトマスター
「弓道パーフェクトマスター」 基本技術から的中率を上げる極意まで!
村木恒夫 2009/10  新星出版社 単行本 191p
Vol.2 No830 ★★★★★ ★★★★★ ★★★★☆

 この本は安い。なんせ全編これカラーページ。しかも厚紙のアート紙に印刷されているし、内容が満載の82分のDVDが付録でついている。本の内容を、指導の女性弓道士が実演。これで1500円。これは、弓道に関心を持っている読者なら垂涎の的であろう。

 更にすごいことに、この実演指導の女性モデルさんがなんともいい。ああ、大和撫子とはこういうものであろうか、と惚れ惚れするような映像だ。このような女性が弓道場にいたりしたら、私なんぞは、口をあんぐりあけて、弓の的なぞ見ずに、モデルさんばっかりおっかけているのではないかしらん。

 いえいえ、モデルなどとは失礼な! 実演指導は、弓道五段認許の小山京子さんである。ウルウルとセンセイばかり眺めて稽古をサボっていたら、うつけ者!とか叱られて、蹴飛ばされたあげくに、道場から即刻追い出されるに違いない。

 「お茶のおけいこ」をめくったときも感じたことだが、日本の伝統文化というものは、実によく「型」にこだわるものだ。礼に始まり、礼に終わる。その中にあっても、考えてみれば、剣道や柔道、合気道などに比較しても、弓道の場合、基本動作は、まったく「型」にはまったものだ。

 的まで飛んでいく矢の行くえはさまざまあれど、弓を射るまでの動作は、基本的に毎回何ひとつ変わらない。茶道なら、部屋の作り方とか、来客との会話など、さまざまな変化があるに違いない。華道だって、たぶん、ひとつとして同じ作品はないはずである。

 しかるに弓道は、毎回毎回まったく同じ動作で行われる(のだと思う)。考えてみればすごいことだ。基本動作という意味ではゴルフなども似通った面もあるかもしれないが、ウッドやアイアンのクラブの違いやら、コースも違うし、それこそシチュエーションには相当の変化がある。ああ、それなのにそれなのに。「弓と禅」の オイゲン・ヘリゲルの驚きも、そうとうなものだったと思われる。

 そうそう、そういえば、Oshoタロット54番は、タントラマスター・サラハのカードだった。彼のマスターは、矢作の女性だった。                                      

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 彼は、活き活きと生に輝き、矢の柄を切りながら、矢を作ることに完全に飲み込まれているこの女性を、この若い女性を見た。彼は、彼女がそこにいることになにか特別なものを感じた……彼女は自分の動きにまったく飲み込まれていた。
 サラハは注意して見守った。矢が出来上がり、その女性は片方の目を閉じ、片方の目を開けながら、目には見えない的を狙う仕草をした……。
 そしてなにかが、コミュニオンのようななにかが起こった。その瞬間に、彼女がやっていたことのスピリチュアルな意義が、サラハにわかりかけてきた。左も右も見ることなく、彼は彼女を見た……。彼はそのことが言われるのを何度も聞いていた。そのことを読んだことがあった。彼はそのことを熟考していた。そのことをほかの人びとと議論したことがあった。真ん中に在ることが正しい、と。彼女はあまりにも完全に飲み込まれていた、あまりにも全面的に動きのなかにあった――それもまた仏教徒のメッセージだ。動きに全面的に入っていることは、動きから自由であることだ。トータルでありなさい。そうすれば、あなたは自由になる。
OSHOタロットカード54番

  

 

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2009/11/15

知識ゼロからのウォーキング入門

知識ゼロからのウォーキング入門
「知識ゼロからのウォーキング入門」 
小出義雄 2008/09 幻冬舎 単行本 159p
Vol.2 No829 ★★★★☆ ★★★★☆ ★★☆☆☆

 同じウォーキングでも、オリンピック・マラソン金メダリストのQちゃんの師匠である小出監督のウォーキングの本である。どこか違っているに違いない。そう思って読みはじめてみたが、割と、基本はやっぱり同じようなことなのだな、と思う。

 ウォーキングにシューズはとても大切 できれば専用のものがよい p24

 これは痛感した。スニーカーや紐が緩んでいるような靴では、足に豆ができて歩けなくなるし、疲れがすぐ来る。

 ウォーキングには専用のウェアは必要なし p34

 これはその通りだろうが、私の場合はすぐ汗をかくので、アンダーウェアには気をつかわないと、すぐ風邪をひいてしまいそうだ。途中で着替えるために下着を1着もって歩くことにした。

 無理せず自分のペースで歩けばよい! p42

 これもその通りで、自分のペースで歩けるのが一番だが、時にはすこし無理をしてしまうこともある。

 歩き始めるための体の準備 それがウォーミングアップ p54

 どうも準備体操とかウォーミングアップやクールダウンは面倒くさくて、サボりがち。だがそれではいかん。

 「のどが渇いた時」が水分補給のタイミング 飲みたくなければ、無理して飲まなくてもOK p74

 最初は大は小を兼ねると大きめのペットボトルを持ち歩いたが、実際にはそれほど必要はなかった。現在は330CC程度のペットボトルでも十分であるようだ。

 夏は強い日差しと、高い気温が大敵 帽子の着用と水分補給を忘れないように p82

 帽子はスタイルから言っても必要だと思う。野球帽よりハンチングのほうが、オシャレかな。

 冬はしっかり着こんで出かける 特に手袋は必ずして行ったほうがよい p86

 これも確かだ。最近は冷たくて、凍えるときもある。1枚軍手をはめるだけで、かなり快適になる。

 クールダウンをしっかりやって 翌日に疲労を遺さないようにしよう p88

 う~ん、たしかにその通りです。ついついさぼりがちになるが・・・。

 足が”つる”のは、水分と血液の不足 足を休めてほぐすのが解決法 p98

 なるほど、そういうことか。まだ”つった”ことはないけれど、予防は大切。

 ”マメ”ができるのは、歩きすぎか シューズが合っていないのが原因 p100

 はい、マメはたくさんできました。シューズが合っていませんでした。

 生活習慣病や腰痛も歩くことで予防できる 歩くことで得られる健康的な効果の数々p108

 目下の目的はこの辺なのだが・・・。

 脳を元気にする 歩くことで脳に刺激を与えられる p114

 さて、これはどうかな。たしかに、歩いていると、すっきりして余計なことは考えなくなる。

 腕を振って歩くと効果が高い p128

 これも確かだ。最初はちょっと恥ずかしげにやってみたが、すでにウォーキングは公認されている。すれちがうウォーキング愛好者たちも、小学一年生のように腕を大きく振って歩いている。

 長い距離を歩くと充実感が違う p134

 これも確かだ。実際に歩いてみると、まぁ、よく歩けるものだ。いつも車でしか行けないものだ、と勝手に決めているような目的地も、歩いてみると、意外と簡単にたどりつく。あれ、こんなに近かったの? なんて思う。

 ジョギングは自由に走るのが楽しい p146

 持久走やハーフマラソンなど、いつかはチャレンジしてみるのもいいかもしれないが、今の段階ではまだ早い。若い時は、結構、健脚で、よく走ったものだが、と昔を懐かしむ程度にとどめておこう。

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エンゾ早川のロードバイクドリル 写真を眺め実践するだけで知らない間にうまくなる!

エンゾ早川のロードバイクドリル
「エンゾ早川のロードバイクドリル」 写真を眺め実践するだけで知らない間にうまくなる!
エンゾ早川 2009/09 エイ出版社 単行本 125p
Vol.2 No828 ★★★★☆ ★★★★☆ ★★☆☆☆

 ウォーキングの次は自転車と勢い込むものの、わが家には奥さん用のママチャリと折りたたみ用のミニサイクルしかない。いやママチャリとは言え、4段変速の結構丈夫なフレームでできている奴なので、いつかは中沢新一を見習って「アースダイバー」と洒落こみたかったのだが・・・。

 ミニサイクルは、何年前の初売りで買った、ちょっと割安の中国製。こちらは、安いだけあって、すぐ錆が上がったし、タイヤなんか何回空気を入れてもすぐ抜けてぺちゃんこになってしまう。なんだか、さぁ、出かけるぞ、という意気込みに欠ける。

 かと言って、この本のような「ロードバイク」は、ちょっとハードルが高い。ドロップハンドルのロードバイクを「かっこよく」乗りこなそう、というのだから、なお高値の華である。いつかはこんなカッコイイ自転車にも乗ってみたいのだが、まずは、そのうち、いろいろ自転車を見て回る処から始めよう。

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楽しく踊って、一生介護いらず!

楽しく踊って、一生介護いらず!
「楽しく踊って、一生介護いらず!」 介護予防のための7つのダンス・エクササイズ
田中尚喜 2009/08 講談社 全集・双書 79p
Vol.2 No827 ★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 なるほど、踊りも大切だ。バレエ、東京音頭、フラダンス、ラジオ体操、社交ダンス、サルサ、ステッキダンス、なんてのもある。

踊るときの注意10ヵ条

1準備体操から始めよう

2休むことも大切に

3がまんは不要

4服装も楽しんで

5欲張りすぎない

6毎日1時間歩こう

7やっぱり基本が大事

8歴史や伝統にも関心を

9一緒に楽しく

10ゆっくり、少しづつ p16

 なるほど、そういうことか。6の「毎日1時間歩こう」というあたりは、なかなか気になるところ。ウォーキング1時間では1万歩まではいかないだろうが、それに準じた運動量になるだろう。この辺はやっぱり基本かな。

 フラダンスは、ハワイに古代から伝わる、ゆったりしたリズムを基本とする情緒豊かな踊りです。腰やひざをやわらかく使う動作に特徴があり、腰やひざの衰えを防ぐためにも効果的な踊りです。ただし、腰の動きも、ひざの使い方も、けっして無理をせずに、できる範囲で踊るようにしてください。p36

 あちこち、いろころ体験するのもいいが、私の場合は、Oshoのクンダリーニ瞑想で踊るのが一番適しているかな。クンダリーニ瞑想で、楽しく踊って、一生介護いらず、となるだろうか。クンダリーニの第1、第2ステージを、万歩計で測ると、約3000歩に値するようだ。高齢者になったら、クンダリニーニ瞑想は不可欠だ(笑)。 

 いや、ナタラジでも、ダイナミックでもいいのだが、ナダブラフマとかグリシャンカールでは、万歩計は反応してくれないかも。瞑想して介護知らず、というのもちょっと珍妙だが、踊りを生活に取り入れるというのは賛成だ。

 巻末に「楽しく踊れる、おすすめCD」p74のリストがあったので、メモしておく。

バレエ
「乙女の祈り - おばあちゃんのピアノ・アルバムより」

東京音頭
「盆踊りの音楽 ベスト」

フラダンス
「フラ・ガール (世界夢紀行)」

フラダンス
「ブルーハワイ」

フラダンス
「hula Hawaiian Music for Hula Dancer」

ラジオ体操
「ラジオ体操」

社交ダンス
「BASIC DANCE MUSIC 第6集」

社交ダンス
「ELEGANT DANCE Vol.1」

サルサ
「Rainbow Love」

サルサ
「100% SALSA」

ステッキダンス
「SINGIN’IN THE RAIN」

ついでに安来節なんてのはどうかな・・?

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2009/11/14

次のグローバル・バブルが始まった! 国際マネーはこう動く

次のグローバル・バブルが始まった!
「次のグローバル・バブルが始まった!」 国際マネーはこう動く
山﨑養世 2008/07 朝日新聞出版 単行本 255p
Vol.2 No826 ★★☆☆☆ ★★★☆☆ ★☆☆☆☆

 民主党の次の内閣の国土交通省大臣を務め、「日本列島快走論」などがあり、いわゆる民主党支持のシンクタンクのひとつと目されるグループを率いる山﨑養世ではあるが、「環東京湾構想」などよりは、元ゴールドマン・サックスの金融マンとして、こちらのタイトルの本のほうが、より彼らしいのではないだろうか。

 出版時期がもうすでに一年以上経過しており、書かれている内容もずれていたり、すでに結果がでていることも多いだろう。ひとつひとつ点検するつもりはないが、「環東京湾構想」「日本『復活』の最終シナリオ」の同列として、この本があることになんだか納得がいかない。

 投資、投資、というけれど、結局は博打じゃぁないか、と思ってしまう。博打はその胴元が一番もうかる。掛け金をどんどん釣り上げることによって、その何割かを胴元はもらう。投資家の損得に関係なく、胴元ばかりは儲かるシステムになっているのではないか。

 だから、世界恐慌などと言って投資家熱が下がった時、「次のグローバル・バブルが始まった!」と、新たなる挑発をして、投資家がまたマネーゲームに戻ることを推奨する。胴元にとっては、バブルが来るか来ないかなんてどうでもいい。バブルが来ると信じた投資家があらたに投資してくれることだけが、目的なのだ。

 そう考えてみれば、この本のタイトルは理解できる。この本には、当たったの当たらないのいう話がいくつもでてくる。そんなのは表現の違いのうちであることが多いし、何とかの鉄砲数打ちゃ当たるで、何割かはその通りになることもあるだろう。そうならなかったことについては、二度と触れない。これって、つまり、商売として行われている「占い」と同じシステムだよなぁ、と思う。

 当たるも八卦、当たらぬも八卦、あとは自己責任でお願いします、ってか・・・・。これって相当に恐い。ベンチャー・ビジネスなら、その勇気も高く評価されるだろう。ハイリスク・ハイリターン、って鼓舞するけれど、それってやっぱり向き不向きがある。やりたい人はやればいい。やりたくない人にまで無理強いすべきものでは、もちろんない。

 株は下降気味で、底値で買うことこそ、最大の利益を生むシステムであることは理解できるし、高値で握らされれば、その後、利益を確定することはなかなかできない。それも余裕がある御仁たちの、趣味のうちならば、笑ってみていられるだろう。

 しかし、どこぞの県知事選にまじめに立候補するような御仁が、このようなハイリスクの道に、一般人を引きづり込むことは、慎むべきことなのではないだろうか。郵政問題もさまざまな角度から見直しされる必要があれど、小泉=竹中コンビの改革路線が、人々の年金の「トラの子」まで、国際金融の荒波の中にさらけ出せ、と言ったのも、やっぱり酷だったな、と思う。リスクが高すぎた。

 日本のように外資をハゲタカ呼ばわりする代わりに、「一緒に儲けよう」と呼びかけて、国営企業を変える代わりに世界に通用している外国企業に自国に来てもらい、人と金をいれさせ、資本主義経済の下で生きてゆくために必要な技術とノウハウを、それまで全くその素地がなかった中国に移転させたのです。p124

 インドが非常に逆説的なのは、人種とカースト制のために一見すると世界一差別の多い国のようでありながら、世界一開かれた民主主義国という一面も持っているのです。p148

 北欧諸国にとって大きなプラスだったのは、EUという共同体ができたおかげで、その中に入っている限り安全保障の心配をしなくてよくなったことです。これは戦後の日本がアメリカの傘の中に守られていたのと同じで、小国にとっては非常に経済的にプラスが大きいのです。p244

 さまざまな表現があれど、これらの表現を無批判的に、素直に受け入れることはできない。ましてや投資セールスマンの話など、どこにどういう地雷を隠しているか、わかったものではない。いつのまにか相手のペースに巻き込まれて、引っこみがつかなくなる。

 日本の公的年金には150兆円の莫大な資金が貯まっています。しかし、その資産の三分の二程度を金利の低い国際などを中心に運用してきました。確かに、元本は確実に還ってきます。しかし、一方で国民に約束した年金資金の利回りは確保できません。リスクを取らないと言いながら、年金資金が足りなくなるリスクを高めてきたのが、日本の年金運用なのです。p238

 この辺なども、いち金融セールスマンの言辞なら、眉唾で聞いていればいいが、少なくとも、「次の内閣」に組み込まれるような人物であり、与党を支えるシンクタンクの代表としての言葉だとすれば、あまりにもリスクが高すぎる。

 私たちは国が目覚めるまでただ消極的に待っているわけにはいきません。投資家一人ひとりが、ここまで繰り返し述べてきた世界経済の構造的な大変革に注目し、積極的に国際投資、そして日本への投資について考え、行動してほしい。それが自分自身の資産を増やし、生活を豊かにし、ひいては自らの生命を守ることにもつながるのですから。p250

 これがこの本の結句である。投資の本としては、昔からの典型的な結論と言わざるを得ない。投資の本としては、これしか結句はないのだ。ここまでのすべてはここまで来るための与太話でしかない。この本でしか得られない情報なんてない。つまり、この本はこの結句だけを読めばそれで済む話で、しかもごくありふれた結句だ。金融セールスマンの口上としては、これしかあり得ないのだ。

 だからこそ、私は、ホントかな・・・・? と首をかしげる。

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2009/11/13

オバマ外交で沈没する日本

オバマ外交で沈没する日本
「オバマ外交で沈没する日本」
日高義樹 2009/06 徳間書店 単行本 246p
Vol.2 No825 ★★☆☆☆ ★★☆☆☆ ★☆☆☆☆

 アメリカのオバマ大統領が、アジアの国として初めて日本を訪問し、友好ムードが漂うなか、なにもこのようなタイトルの本を読まなくてもいいのに、とも思うが、巡り合わせはそうなってしまった。これも何かの因縁か。著者は1935年生まれの、元NHKニューヨーク・ワシントン支局長。現在はハドソン研究所主席研究員。出版社も、なるほど、トンデモ本で名高い徳間書店か。

 私はこの仕事をはじめて50年になる。そのほとんどを日本の国営放送ともいうべき日本放送協会NHKに属して、国際関係のニュース報道と番組制作の仕事にたずさわってきた。最後はアメリカを中心にNHKの国際的なニュースの半分を、日本からアメリカにかけて監督をする仕事をした。P215

 この人物が一般的にどのように評価されているか知らないが、アメリカの支局長として、「みなさまのNHK」のレポーターとして、テレビ画面に出てくるとき、私はいつも違和感を持ってみていた。なんだか強面の笑顔のない顔が、あまりにもNHKに似つかわしくなかった。それに、レポートの内容が、いつも偏った強権的な発言に彩られていたようなイメージがある。

 私の所属するハドソン研究所など保守的なシンクタンクが「イラクの占領をつづけるべきでない」と提案したのは、こうした問題を考えたからである。p148

 自ら、NHK退職後の現在の所属先であるハドソン研究所を「保守的」と明言してはばからないのだから、この人物を、保守的な研究者、と表現していいのだろう。

 オバマ大統領自身、進歩的であり、日本を保守勢力とみているので、基本的に好きではない。アメリカでは進歩勢力の民主党の大統領であること自体が、日本に対する批判と冷たさにつながってくる。p81

 これらの文脈から、保守的VS進歩的、という図式が成り立つとすれば、保守的である著者=日高義樹は、基本的に進歩的=オバマ大統領が好きでないのであり、オバマが嫌っている保守的日本=自民党に肩入れしているということになる。

 この本は今年の6月に出版されている。大下 英治の「民主党政権」などを読んでみると、8月30日の総選挙前でありながら、すでに「政権交代」は既成事実であるかのように語られている。日高はアメリカにおいて、日本の政治の変動を感じられないところに行ってしまっていたのだろうか。

 日本の平和憲法はアメリカの軍事力によって守られている。だがオバマ大統領の新しい国際政策のもとで、平和憲法がこれまでのようには作動しなくなってくる。オバマ大統領が、「アメリカは強くなくてもよい。国際社会に責任を持ちたくない」と考えているアメリカ国民に支持されているからである。p221

 日本の政治が民主党政権に変わった今、民主党が進歩的と言えるかどうかはともかくとして、これらの文脈を裏の裏から読み直してみる必要がでてくる。あらゆる外交的マヌーバーの跋扈する国際政治の場であったとしても、日米関係は対等である、という認識はとりあえず交わされた。だが、オキナワの普天間基地問題を見るまでもなく、その対等という意味にも、複雑なものがある。

 この本、地政学的というか、軍事的というか、戦争や軍備の話が集中して語られる。さらには、商売柄か、センセーショナルな悪意に満ちた文言があちこちに散見される。

 オバマは北朝鮮と正式国交を樹立する p12

 オバマは日本防衛に関心がない p48

 オバマの中国戦略は失敗する p86

 オバマは中東から追い出される p128

 オバマに世界戦略がない p170

 日本はどうする? p208

 当ブログなどからすれば、アナクロともファナテッィクともとれる表現がつづく。

 オバマ大統領の登場で日本は荒波の中にほうり出されることになるだろう。だが日本人にとっては、真剣に国家を考える絶好の機会である。私はアメリカ人の友人が言ったのとは違う意味で、日本人は賢いと思っている。国家をみずからの手で守るのは独立国として当然であると、はっきり理解すれば、そのために努力する政治家を持とうとするに違いない。さもなければ、日本は沈没してしまう。p246

 杞憂は杞憂として受け止めるとしても、ちょっと大げさな表現は、元NHKを看板にするジャーナリストの表現としては、決して上品とは言えない。

 カーター大統領はノーベル平和賞をもらったとき心から喜んだが、ノーベル平和賞が戦いの最高司令官としての大統領にはふさわしくない賞だと批判的なアメリカ人は大勢いた。p179

 カーター元大統領についての是非はともかくとして、著者がこの本を出したあとに、新オバマ大統領もノーベル平和賞を受賞した。理想主義をまるで小児病的なものとして冷笑する立場があることを知りつつも、なお、「戦いの最高司令官」にふさわしくない「アメリカ大統領」こそ、本来あるべきアメリカ大統領なのではないか、と思う。

 著者とて、すべて未来が見通せているわけではない。むしろ、スタートしたばかりのオバマ政権や、まだ「政権交代」していなかった民主党日本などについての考察が、この本の中で十分に考察できているとは思えない。

 問題は指導者である。世界の現状をよく知り、日本が独自の抑止力を持って国家の安泰をはからねばならないことを理解してしている指導者を持たねばならない。p243

 なにはともあれ、新しい時代が始まっている予感がする。今夜のマスメディアはオバマ=鳩山会談のニュースで持ちきりだ。

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なぜ「科学」はウソをつくのか 環境・エネルギー問題からDNA鑑定まで

なぜ「科学」はウソをつくのか
「なぜ『科学』はウソをつくのか」 環境・エネルギー問題からDNA鑑定まで
竹内薫 2009/11 祥伝社 単行本 204p
Vol.2 No824 ★★★★☆ ★★★★☆ ★★★☆☆

 当ブログは、大まかに、科学、芸術、意識の三つの指標を持っており、現在は、科学としての「クラウドソーシング」、芸術としての「表現からアートへ」、意識としての「私は誰か」の三つのカテゴリのなかに、読んだ本を次々と振り分けている。ただ、芸術というには、ちょっと幅広すぎるので、表現や生き方を含む、芸術としての「地球人として生きる」を加えている。

 これら4つのカテゴリは、それぞれ108のエントリーに達すれば、そこで終了とし、次なるカテゴリ名でもって、再スタートすることになる。必ずしも、同じカテゴリだからと言って、ひとつの連なりのテーマを追っかけているわけではないが、同じ時期に読んだ同じような傾向の本、という意味では、類似性が見られないわけではない。

 さて、この本、どのカテゴリに入れようか。東大の理学部物理学科を卒業し、マギル大学博士課程を卒業した科学作家だけに、本来であれば、現在進行形の科学分野のカテゴリである「クラウドソーシング」にいれるべきであろうが、いまいち、この本、「科学」的、とは言えない。むしろ、「科学」にまつわる、いろいろな表現、と言ったほうがよさそうなので、今回は敢えて、「表現からアートへ」に入れておくことにする。

 科学作家を自称する著者ではあるが、欧米でいうところのサイエンスライターの分野であろう。ところが、著者が本書でなんども嘆くように、日本にはサイエンスライターという確立された分野が存在しない。それにはいくつかの理由がある。

 ひとつには、科学雑誌などが極端にすくない。アメリカと比較すると、人口比率を考慮しても10分の1のキャパシティしかないらしい。つまり、日本ではサイエンスライターは食べていけないのである。二つ目には、日本では「疑似科学」が横行しているらしいということ。マイナスイオンがどうしたとか、クラスターが小さい水はおいしいとか、本来、誇大広告や虚偽記載になるようなコピーが横行しているという。さらには、日本教育界の理科(科学)ばなれが後押ししているという。

 きまぐれに図書館や書店で手に取った本をめくってはその印象なりを書きとめている当ブログではあるが、たしかに、欧米のサイエンスライターの手による、コッテリとした本に出会うことが、ちょくちょくある。なかなか読みごたえがあるのだが、ちょっとコテコテな感じがする。せめて新書本やブルーバックスのレベルで止めてくれておいてくれればいいのだが、トルストイかドストエフスキーでも読むかのごとき科学書も、時々みかける。

 正直言うと、あれは重すぎる。他の著者たちの類書を何冊か重ねて読もうとすると、同じような文章を何度も読まされることになる。なにもこんなに厚くして、同じことを何度も繰り返さなくてもいいのに、とは思うのだが、文化の違いなのであろう。自分で調べたことは、すべて書かないと、字数が稼げないとばかり、とにかく仔細にわたる描写が続く。

 竹内薫という1960年生まれの「科学作家」には100冊を超える著書があるということだが、当ブログでは初出である。茂木健一郎と同輩でもあるようだから、世が世であれば、どこぞの教授か、売れっ子マスコミ科学者としてもてはやされていたかもしれないが、運命は著者には、そのような華やかな道を与えはしなかった(ようだ)。

 著者なりの意味を込めての「なぜ『科学』はウソをつくのか」というタイトルではあるが、本来、科学にウソがないものであるなら、残る「芸術」や「意識」のカテゴリなど不必要となる。科学には科学の限界があるのであり、科学にはウソをつかなければならない「限界」がある。であるがゆえに、他のカテゴリも生きているわけである。もちろん他のカテゴリにも「限界」があり、であるがゆえに「科学」の存在意義もある。相互依存し、相互補完しあっているともいえる。

 いま日本では、政府が主導して「チーム・マイナス6%」といって、二酸化炭素を減らそうとしている。これは、2005年に発効した京都議定書によって、日本は、2008年から2012年の間に温暖効果ガスの排出量を1990年時点よりも6%減らすことを義務付けられたことによるものだ。それを達成するために、国民に「冷房の設定温度を上げよう」、「過剰包装をやめよう」といった取り組みを勧めている。
 ボクが疑問に思うのは、そもそも二酸化炭素の排出量を減らすことが可能かどうかという点だ。2008年の最新統計で、日本が排出する二酸化炭素は、どのくらいマイナスになただろう?
 驚くべきことに、(マイナスどころか)プラス8.7%になってしまったのだ(環境省による)。これだけみんなが、がんばって、オフィスの冷暖房を倹約し、エコバッグを持ち歩き、クールビズをやった結果、二酸化炭素は増えてしまった(汗)。
p127

 そういえば、私もチーム・マイナス6%の一員なのであった。毎週MLで情報も配信されてくるし、エコバッグも中国製のものを業界団体で発注して顧客に配った。その他、コピー用紙を裏表使っているし、コンポストで生ごみは庭に返しているし、もちろんエアコン使用は最小レベルの使用にとどめている。でも、一番よかったのはクールビズかな。6月から9月まで、ノーネクタイで暮らせるのは、とても気持ちがいい。

 1、計算や数値シュミレーションをうのみにするな!(前提が間違っている可能性がある)
 2、学会のコンセンサスを鵜呑みにするな!(時代とともに別のコンセンサスが形成されることがある) 
p136

 もとより当ブログでは、数字マジックを眉唾で見ているし、情報源についてはステレオ効果を狙って、複数のソースに当たることを常に心がけているつもりではいる。そういった意味では、インターネットの検索機能はとてもありがたいと思っている。しかし、インターネットや情報として外部にもれないもののようが、より最新であることも多いので、なかなか「真実」を把握することは容易なことではない。

 この本の原稿を出し終わってから、民主党が政権を取り、新総理の鳩山由紀夫は温室効果ガスの25%削減という驚くべき政策を打ち出した。科学には「クレイジーなアイディアでなければ使い物にならない」という標語がある。中途半端ではうまくいかない、というのである。
 その標語にしたがったわけでもあるまいが、25%という数字には、正直恐れ入った。「オペレーションズ・リサーチ(戦略研究)」が専門で、常に最適戦略を念頭に政治活動をしている鳩山由紀夫が世界に向けて公言したのだから、何か秘策があるのか。
P147

 マイナス6%から一気に25%まで挙げたのだから、やはりこれは「クレイジー」と言えるだろう。

 実は、鳩山内閣は日本初の「理系」内閣だ。総理の鳩山由紀夫は東大工学部を出て、アメリカのスタンフォード大学で博士号と取っている。女房役である内閣官房長官の平野博文は中大理工学部卒、そして、国家戦略担当大臣の菅直人は東工大理学部卒なのだ。P191

 「かすかな期待をもって、ボクは政権の動きを眺めている」著者にとっても、あるいは当ブログにとっても、興味深い事態が進行している。「ファインマン」などについても著書のあるこの人物の本は、この次、機会があったら、もうすこし積極的に読んでみたい。

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2009/11/12

民主党政権 鳩山民主、新政権運営シナリオとその舞台裏

民主党政権
「民主党政権」 鳩山民主、新政権運営シナリオとその舞台裏
大下 英治 (著) 2009/8/28 ベストセラーズ 単行本: 304p
Vol.2 No823 ★★★★☆ ★★★★★ ★★☆☆☆

 う~~ん、残念ながら、この本はとても面白い。まがりなりにも当ブログは「スピリット」を表題に掲げるブログである。政治の権力闘争についての与太話など、ながながと目を通していていいのか。いくら、偶然に図書館の新着本コーナーにこの本があったからと言って、すぐ手をだしてしまうのは、不節操と言えるのではないか。そう思いながら、読み進めてみたのだが・・。

 大下英治。350冊以上の著書を持つ、元「週刊文春」のトップ屋である。話がうまい。実際に面談しインタビューした記事が元になっているので、リアリティもあり、構成もしっかりしている。発行は2009/09となっているが、店頭に並んだのは8月28日だ。まさに歴史的な「政権交代」劇となる総選挙のごくごく直前であった。

 だから、この本には選挙当日のことや選挙の結果についてなど書いていない。そこまでのプロセスがこまかく書いてあるだけだ。しかし、これがなんとも面白い。マスメディアを通じて、大体のところは知らされているところだが、裏の裏がなかなか分からない。その辺が、この本では、なるほど、実はこうであったか、と納得させられるところが、次々でてくる。

 まるで小説かドラマだ。草食系男子に飽きて、歴史的武将と遊ぶ若い女性が流行り、歴女と呼ばれるそうだが、あんな手垢にまみれたフィクションをたしなむより、このような生きた歴史を遊んだ方が、よっぽど楽しいのではないか。少なくとも、この本は、おっさん方だけが読むべき本ではない。歴女こそ読むべき本であり、彼女たちが好むと思われる肉食系男子達が、現在進行形で闊歩する。

 当ブログは、自前の「プロジェクトG・O・D」なるものをベースに進行している。いわゆるプラットフォームづくりをしているところだが、その中でも「O」にはOshoとオバマの意味を込めている。Oshoについては、これはしかたない。私のマスターであるかぎり、どこかで、このニュアンスをいれておかなくてはならない。それとオバマは、なんと言っても旬であろう。

 しかし、私は、この「O」の中に、本当は「小沢一郎」の「O」も入れるべきではないか、と思い始めてしまった(笑)。いや、笑いごとではない。毎回明記しないまでも、小沢の「O」は、せめて「(O)」くらいにして、括弧のなかに入れて隠し味としてでも、いれて置く必要があるのではないか、と思い始めた。

 政権交代、二大政党、55年体制の終焉、などなど言われて、そのスローガンのもとで行動した政治家も多い。しかし現実のもっとも現実の世界である「政治」の中で、少なくとも日本の政治の今日的状況を生みだした最大の役者は、やはりこの括弧つきの「(O)」であることは間違いない。同じ「O」でも、岡田の「O」では、まだまだ器が小さいと言える。いや鳩山の「H」や、菅の「K」でも太刀打ちはできない。

小沢 (前略) 農業は、まずは自給体制を作る。いまの反別で食料自給率は100%近くにできる。ただいま市場にあるものを全部作るという意味ではないですよ。厚生労働省の発表によると、日本人が健康で活動できる一日の最低平均カロリーは、2000キロカロリーだという。2000キロカロリーを人口と365日にかければ一年間に必要なカロリーが出てくる。いまある反別で主要穀物を作れば十分に生産量をまかなえる。日本は米だけ研究してきたから麦や大豆の収穫量は欧米の半分しかない。麦や大豆を欧米並み、もしくはそれ以上の収穫量にすればいい。

 ただ、採算が取れるからといって若い人たちが急に農業をやってくれるとは思わない。若い人は百姓など最初からするわけがない。ぼくは、いつも後援会で「あなたがたは、若い人に百姓をしろと言うから駄目なんだ」と言っている。そうではなくて、地方分権によって地元に雇用の場を作ればいいんだよ。若いときは、サラリーマンをし、歳をとったら百姓をすればいい。

 若い人が家から雇用の場に通えるということが大事なんだ。地方に雇用の場がないから東京に出てしまう。実家から職場に通えるような地域社会を作ればいい。そうすれば、何も農業だけで食っていく必要はないでしょう。

 それができないというのは、中央集権になってしまっているからだ。だから、東京に人も権力も金も集中してしまう。国から地方へ税源移譲をするべきだとよく言われるけども、いま税源移譲されたって、ぼくの地元の岩手県なんか全然集まらないよ。だから、しばらくは国で一括して集めて再配分する。地方の活性化が軌道に乗ってきたら税源も渡せばいい。(後略)p31

 最近、「いつまでもデブと思うなよ」を読んだばかりの当ブログは、一日2000キロカロリー、という話には、相当なリアリティを持って反応する。年齢や性別、体格によって違いはあるだろうが、ダイエットの本などを読むと、大体は一日1600キロカロリー程度の数字を推薦している。かつて117キロあった岡田斗司夫などは、一日1500キロカロリーを目標にしたという。なるほど、2000カロリーが平均であれば、日本のメタボ層もそうとう減るのではないか、と、我が下腹部を見ながら、そう思う。

 作ったコメは、どこに出荷する必要もなく、コメ農家と養鶏家が直取引すればいい。
 何よりのメリットは、アメリカからトウモロコシを買わずにすむことである。そうすれば日本の自給率はポンとはね上がる。
 ただし、農林水産省は一人一日当たりの摂取量は2600キロカロりーで計算している。これを実際に摂取量である2000キロカロリーに計算し直すと、自給率は39%から70%となる。
 もし、トウモロコシを輸入せずに、国内でコメを生産するとなれば、自給率は80%、90%になる。実際の摂取カロリーで計算すれば、自給率を100%にすることも不可能ではない。
p246(養鶏業者の話から・・)

 なるほど、統計や数字には、さまざまなカラクリがある。まんまとしてやられていることはかなりありそうだ。少なくとも2600キロカロリーを2000キロカロリーとして計算し直せば、なんと23%の誤差が修正されるのである。

 「食料自給率100%を目ざさない国に未来はない」を読む限り、この食料自給率の計算も、実は簡単なことではない。このほかにもさまざまな計算方法があり、一概に上の話を鵜呑みにはできないが、それでも、いたづらにペシミステッィクになるばかりが人生ではない。

 ダムにせよ、オキナワにせよ、高速道路の無料化にせよ、子ども手当にせよ、なにはともあれ、とにかくその政策の実際を見てみないことには判断はつかない。しかし、手はある。絶望ばかりしていてはいけない、そう思わせてくれただけでも、この本の価値はある。そして、明日、来日するオバマと共に、(O)の小沢も含め、民主党政権をも、今後とも、直視し続ける必要を強く感じる。

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2009/11/11

ほびっと 戦争をとめた喫茶店 ベ平連1970ー1975 inイワクニ

ほびっと戦争をとめた喫茶店
「ほびっと 戦争をとめた喫茶店」 ベ平連1970ー1975 inイワクニ 
中川六平 2009/10 講談社 単行本 285p
Vol.2 No822 ★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 このお店に一度だけ行ったことがある。行ったことがあるのだが、記憶が定かではない。なんせもう37年前のことだ。忘れてしまっていて当然だ。そこで働いていたり、お店をつくったり、反戦運動をした人たちにとっても、記憶が定かでないことも多いだろう。だが、著者は当時の日記を偶然見つけては、当時の記録を克明に再現する。

 「ウッドストックがやってくる」を読んだ時のような、ちょっと気恥ずかしいような、だけど興味津津というような、ないまぜになった感情が湧きあがる。正直あまり思い出したくなかった。もうすでに過去のことだし、「戦争をとめた喫茶店」とは、ひいき目にみても、ちょっと大げさではないか。そんな思いが去来して、読むのが後回しになった。

 1972年の夏、私が山口県岩国市の反戦喫茶「ほびっと」を訪れたのは、8月7日のことだと思われる。定かではない。というのも、この時ヒッチハイクで日本一周をしている最中で、北海道の帰りに三沢の基地に寄り、そこから一気に南下し、返還されたばかりの沖縄まで行って、その帰りにナガサキに寄り、ヒロシマに向かう旅路であった。その日程は自分たちがその旅をまとめたミニコミ誌「時空間」創刊号に書いてあるが、要所要所しか書いておらず、中川六平メモほどの資料性はない。

 思えば、8月6日はヒロシマの平和記念日だった。私は、その翌日にヒロシマに着いたのであった。その日かさらに翌日に私は「ほびっと」に行ったのだ。私の記憶によれば、そのお店に入ったのだが、店の中は閑散としていて、黒人が2名ほどいたような、いなかったような、そんなイメージしか残っていない。コーヒーを一杯飲んできたのか、そのまま返って来たのか、その辺も定かではない。

 この本によれば、1972年の8月7日は月曜日で「ほびっと」は休業日だった。しかも6月頃に警察の家宅捜査を受けるという受難のあとだった。ヒッチハイクの途中であった私には、そのような細かい情報はなかった。ただ、メモした住所を頼りに、トラックやマイカーをヒッチハイクしながら、辿りついたのである。それ以上のことはない。

 しかしよく考えてみれば、ミサワ、オキナワ、ナガサキ、ヒロシマ、イワクニ、などなど、当時18歳のハイティーンの旅としては、よくよく「社会的」スポットを回ったものだと思う。他にも、一般的な観光地や神社仏閣も回ったのだが、80日間の旅の中で、よく「ほびっと」まで辿りついたな、というのが、偽らざる感想だ。

 イワクニには「イージー・ライダー」監督・主演のピーター・フォンダの姉、ジェーン・フォンダがやってきてコンサートをやった。その当時の状況も活写されている。たくさんのことがあったのだな、としみじみ思う。べ平連とはちがうが、当時の別のセクトに属していた荒岱介の一連の著書を読んだ時のような、どこか面映ゆい、どこか哀しい、どこか嬉しい、ないまぜになった感情が吹きあがる。「昔、革命的だったお父さんたちへ」という本のタイトルを思い出したりする。

 この本の巻末には鶴見俊輔が「日本人の中にひそむ<ほびっと>」という一文を寄せている。

 「ほびっと」は、惜しまれてつぶれた。六平は近所のおばさんに人気があり、送別におむすびをもらった。「ほびっと」の終わりからしばらくして、ベトナム戦争はベトナム人民の勝利に終わった。やがて人間は過ぎてゆく。その終りの前に、日本人民の中にひそんでいるホビットやザシキワラシに呼びかけて、新しい反戦運動がおこるのを待つ。鶴見俊輔 p285

 記した日時は、2009年8月30日。ちょうど、日本における「政権交代」が実現した日であった。鶴見は、当然、このニュースを聞きながらこの一文を書いたに違いない。

 あと数日すると、アメリカからオバマ大統領が来日する。今回は超過密スケジュールで無理だが、現役大統領としてヒロシマを訪れたい旨を表明している。

 悲しいことに、まだ、「戦争はとまって」はいない。アフガニスタン戦争のベトナム化が懸念されている。いくら「核のない世界」が宣言されたとしても、その実現には、これからもはるかに長く続く道のりが残されている。

 「ほびっと」を、昔の物語にしてはなるまい。昔、革命的だったお父さんたちは、「いちご白書」でオシマイ、と決め込んでしまっていいのか?この本がこの時期に出されたのは、決して、ノスタルジアだけではないに違いない。そう願いたい。

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2009/11/10

哲学者たちの死に方 The Book of Dead Philosophers<1>

哲学者たちの死に方
「哲学者たちの死に方」 <1>
サイモン・クリッチリー (著), 杉本 隆久 (翻訳), 國領佳樹 (翻訳)  2009/8 河出書房新社 単行本: 372p 原書 The Book of Dead Philosophers 2008
Vol.2 No821 ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

 当ブログは、ささやかながら自己流の「プロジェクトG.O.D」を掲げ、無手勝流に無鉄砲な試行錯誤を繰り返しているだけではあるが、時には、お、これは?と手ごたえを感じることがある。そんな大きな期待を抱かせるものがこの本にはある。

 私たちが回避や逃避を陶酔的に欲望するのと極めて対照的に、哲学的な死の観念は酔いを醒ます力を持っている。キケロが書いているように、そしてこの感情は古代のほとんどの哲学において自明であり、後世の哲学においても繰り返されるのであるが、「哲学をするとは死ぬことを学ぶことである」。こうした視野に立ったとき、哲学の主な仕事は私たちに死への準備をさせることであり、死のためにある種の練習を、つまりあの世を約束しない霊魂消滅の恐怖に直面する---そして顔を背ける---私たちの有限性と向き合う態度の修練を提供することである。p9

 この本にはおよそ190人の「哲学者」たちの死に方についての考え方やエピソードがまとめられている。ひとつの辞書のように使うこともできるだろうが、それはまるで一つの絵巻のように見ることもできる。しかし、もっとも大事なことは、読者自身が自らの死について問い、さらにそこから自らの生をどのように生きるか、を学ぶことである。

 著者は、「チベットの死者の書」やティモシー・リアリー、あるいはタゴール、キューブラ・ロスなどに触れながら、この書が依って成るその立場を語る。

 私は、このような手引きの疑う余地がないほど有益な治療的効果を否定したいのではない。死は適切な精神的準備で打ち勝つことができる幻想だという信念をそれらが養っていることについて、私は心配しているのだ。死は幻想ではなく、受け入れなければならない現実である。その上、私たちの存在が構造化されるべきであるのは、死の現実との関係においてであると私は主張したい。ひょっとすると現代社会のもっとも致命的な特徴は、この現実を受け入れたがらないことであり、死の事実から逃れることであるのかもしれない。p22

 著者は本書をまとめるにあたって、オンラインの「ブリタニカ百科事典」アカデミック版をよく参照したという。ウィキペディアや、クラウドソーシングの力を借りることなく、格調の高さを維持したところが、また本書のトーンをさらにひとつにまとめている。その他、ポール・エドワードの「哲学事典」、「スタンフォード哲学百科事典」などを用いたという。

 私はウィキペディアの荒れ狂う水流のなかにつま先を入れてみたり、時には膝まで入れてみたことを否定しない。それは膨大にしてどんどん増大している情報源であり、とてもむらがあって、常には信用ができないが、多くの興味深い項目と見出しでいっぱいであった。p351

 中味についての読書はこれからボチボチスタートするところだが、読む前から、再読、精読を要すとメモしておこう。

<2>へつづく 

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ザ・シークレットを超えて 幸せメイキングの超スピリチュアルなレシピ

ザ・シークレットを超えて
「ザ・シークレットを超えて」 幸せメイキングの超スピリチュアルなレシピ
ブレンダ・バーナビー /斉藤宗美 2009/06 徳間書店 単行本 230p
Vol.2 No820 ★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 書店のトンデモ・コーナーになら、この手の本は何冊も見つけられそうだが、公立図書館の新着本コーナーにこのようなタイトルが並んでいると、ついつい珍しさも手伝って、手にとってパラパラとめくってしまう。

 言葉の端々に面白そうなところを見つけては借り出してきて、傍らに積んではおくのだが、次から次と他の面白そうな本が登場してきて、この手の本はついつい後回しになる。貸し出し延長をしておきながら、最後の貸出期限が近付いてきていることに気がついて、仕方なく(笑)、またパラパラとめくることになる。

 私たちはいま極めて稀な機会を生きている、と私は確信したので本書を書こうと決心しました。この革新は、頂点を極めつつあるメンタリズム(唯心論。ロンダ・バーンの哲学的理論の中で言及されたメンタリズムの引用から)の教義の中にも見ることができます。このような動きがまさに第三千年紀の初期に起こっているというのも偶然ではありません。明らかに、この現象を最もよく示している例として、「ザ・シークレット」の著者ロンダ・バーンによって提案されたメッセージが、本や映像を通じて大きな成功を収めているということなのです。p001

 あ、たしかにトンデモ・コーナーに「ザ・シークレット」という本が平積みしてあった。ちょっとにぶそうな本であったが、パラパラと数ページをめくっただけで元の位置にもどした記憶がある。なるほど、あの本がかなりヒットしたおかげで生まれた、この本は、いわゆるコバンザメ商法の一冊なのかな。

 呼吸の重要な効力とは、身体とマインドの間を電送器のようにつなぐ役割を果たしているということです。私たちの臓器に酸素を送り込むことは、生きるために絶対に欠かせませんが、自分自身を深めるためにも有効に利用することができます。深呼吸のエネルギーが、内なる意識の完全なる領域に達すると、私たちは心の振動を認識することができるようになります。そして、すべてのレベルにおいて私たちの存在を瞬時に強化し調和していくのです。p061「身体とマインドをつなく呼吸練習を始めましょう」

 こまかいことを言うのはやめておこう。でも、それにしても、いまひとつ文字面を追っていてハラに落ちないのはなぜなのか、と、こうして一字一字キーボードに打ち込んだ時に、ハッと気づく。

 身体は魂の目に見える部分であり、魂は身体の目に見えない部分だ。身体と魂は、まったく分離していない。それはお互いの一部であり、それらはひとつの全体の一部だ。あなたは身体を受け容れ、あなたは身体を愛さなければならない、あなたは身体を尊重しなければならない、あなたは自分の身体に感謝しなければならない・・・・。OSHO「ボデイ・マインド・バランシング」まえがきp5

 あえて抜き書きまでして比較すべきところでもなさそうだが、ブレンダ・バーナビー が「呼吸は、身体とマインドの間を電送器のようにつなぐ」という時、Oshoはさらに飛躍して「身体は魂の目に見える部分であり、魂は身体の目に見えない部分だ」と言ってしまう。互いに、いわゆる純粋な現代的な科学的な検証可能な見解とは言えないだろうが、その違いは面白い。身体をマインドから切り離されているものとみるか、もともと魂と同じものの違う側面とみるか。

 新進気鋭の脳科学者・池谷裕二も「呼吸という行動はちょうど意識と無意識の境目にある不思議な行動だ」と述べたりしているから、その見解は池谷独自の見解であり、必ずしも現代科学の主流になっているものではないにしろ、大脳生理学の最前線の研究者の一人の意見として価値ある立場だろう。

 東洋の瞑想における伝統的な技術において、瞑想のときの体勢が非常に重要な役割を持っています。もっともよく知られているのが、床の上で脚を組み、腿(もも)の上に足を置く形で、胴体を真ぐに起こした状態を保つ<蓮の花>です。また、すでに本書の中でエジプトが起源の<ファラオの姿勢>についても説明しました。椅子に座って瞑想を行いたい人にお勧めしたい姿勢です。その他、規範となる姿勢は、パタンジャリがヨーガ・スートラの中で説明したハタ・ヨーガの姿勢、西洋でもよく知られている仏教の座禅、チベットのクム・ニェ法、グルジェフ・ムーブメンツ、そして、道教の信徒が想像の柱を抱いて歩きながら行う瞑想法などです。p139「クリエイティブ・ヴィジュアライゼーション」「姿勢」

 この本全体が、あちこちの印刷物や発行物からの切りだしたアフォリズムで成り立っている。読んだ本を抜き書きしてようやく成り立っている当ブログが、自らのことを棚にあげて冷やかしている場合ではないが、それにしても、人に何かの道をすすめているだけに、この本はさらなるチューニングが必要と思われる。

 岡田斗司夫のレコーディング・ダイエットにしても、ただ食べているものをメモするだけでやせられる、という触れ込みではあるが、ごく単純にメモしているだけではない。そこに気づきや変化がある。メモをし続けていると、食べ過ぎているものを食べなくなるし、合わせてウォーキングもしたくなるだろうし、体脂肪計も買いたくなる。筋トレもストレッチも、ときにはサプリメントも気になりだすだろう。

 スピリチュアル・ワールドも、結局は、みなさんおっしゃることは、単語の種類や数や傾向性としては似たようなものにならざるを得ない。しかし、「道は多く、旅する者は少ない」OSHOという現象が起きている限り、自戒を込めてヘッドトリップに注意しなければならない。

 もし誰かが、図書館の新着本コーナーや、トンデモ本コーナーでこの本を見つけ、ただこの一冊の本を入口として、神秘家の道を歩み始める、という可能性はゼロではないだろう。ゼロでない限り、この本の努力は、それ相応に評価されるべきものであろう。

 「来なさい、来なさい、誰もでもかまわないから来なさい!
拝火教徒でも、偶像崇拝者でも、放浪者でもかまわないのです。
私たちのキャラバンは、絶望のキャラバンではありません。
希望のキャラバンです。
 たとえあなたが千回の誓いを破っていたとしても、来なさい!
 来なさい、そして、いつでも戻ってくるのです!」
p201「超スピリチュアルな哲学の源泉」

 この本にも、ジャラルーディン・ルーミーの「マスナヴィ」のこの有名な言葉 が引用されている。ほかにも「バガヴァット・ギーター」、仏陀、レイキ、ピタゴラス、老子、などなど、名だたるマスターたちがたくさん引用されている。

 道を歩いて旅する探究者たちにとっては、道しるべは有難いが、乱立する立て札から、自らが歩むべき道を探し出すことが、むしろ困難になることもある。結局は、道の道たるものは内にあり、本来の道しるべは自らの中にあった、という結論になることも、少なくない。

 

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2009/11/09

こころでからだの声を聴く<21>

<20>よりつづく 

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<21> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次

 身体から始め、次にゆっくりゆっくりと、より深く進みなさい。最初の問題を解決しないうちに、別のことを始めてはいけない。身体が緊張しているなら、マインドから始めてはいけない。待ちなさい。まず、身体かに取り組むこと。覚えておくといい、小さなことが事柄が途方もなく役に立つ。 

 あなたは特定のペースで歩く。それは習慣になり、自動的になっている。さぁ、ゆっくり歩いてごらん。仏陀はよく弟子たちに言っていた。「ごくゆっくりと歩きなさい。ごく意識的に一歩一歩踏み出しなさい」。一歩一歩をごく意識的に踏み出すなら、必然的にゆっくり歩くことになる。もし走ったり、急いだりしたら、意識的に行うことを忘れてしまうだろう。だから仏陀は、ごくゆっくりと歩きなさいと言った。 

 とてもゆっくり歩いてみてごらん。すると驚くだろう----新しい気づきの質が、あなたの身体に芽生え始める。ゆっくり食べてごらん。するとそこに、大いなるくつろぎがあるのを発見するだろう。あらゆることをゆっくり行う・・・・・。古いパターンを変え、古い習慣を捨てなさい。 

 まず、身体は幼い子どものように完全にリラックスする必要がある。そうしてやっと、マインドについて始めることができる。科学的に進むといい----最初はもっとも単純なものから始め、次に複雑なもの、最終的にはより複雑なものへと。そうしてはじめて、究極の核をリラックスさせることができる。 

 くつろぎは、もっとも複雑な現象だ----実に豊かで、多次元に渡る。これらはすべて、くつろぎの一部分だ。 

 ゆだねること(レット・ゴー)、信頼、明け渡し、愛、重要、流れと共に進むこと、存在との合一、無自我、法悦(エクスタシー)。これらはすべて、くつろぎの一部であり、くつろぐすべを身に付ければ起こり始めるものだ。 

 いわゆる宗教的信条は、あなたをとても緊張させてきた。なぜなら、それらはあなたの中に罪悪感を生みだしてきたからだ。ここでの私の努力は、あらゆる罪悪感、あらゆる恐れを、あなたに捨てさせることだ。言わせてほしい----地獄はないし、天国もない。だから地獄を恐れてはいけない。天国に対して貧欲になってもいけない。 

 存在するのは、この瞬間だけだ。あなたはこの瞬間を、地獄にも天国にもできる----それは確実に可能だ。もっとも、天国や地獄は他のどこかにあるわけではない。あなたが緊張だらけになると地獄があり、あなたが完全にリラックスすると天国がある。全面的なくつろぎは楽園(パラダイス)だ。OSHO p126~127

<22>につづく

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2009/11/08

日本「復活」の最終シナリオ

日本「復活」の最終シナリオ
「日本『復活』の最終シナリオ」 「太陽経済」を主導せよ!
山崎養世 2009/02 朝日新聞出版 単行本 275p
Vol.2 No819★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★☆☆☆

 
著者の本は「日本列島快走論」「高速道路はタダになる!」「環東京湾構想」、などを読んだ。他にもいくつか著書があり、「次のグローバル・バブルが始まった!」や「米中経済同盟を知らない日本人」などもあるが、当ブログで読み進めるかどうかは、ちょうどボーダーラインに位置している本と言えるだろう。

 民主党の高速道路無料化は賛成である。自民党政権でさえ、ETC1000円の旅を実現したのだから、民主党なら首都圏など一部をのぞいて、全国の高速道路の無料化は実現してくれるのではないだろうか。と、期待を込めて待っているのだが、国民の6割はこの政策に賛同していないという。

 総論賛成、各論反対、という実態はよくあることだが、民主党には賛成だが、そのマニュアルのこれとこれは駄目、というスタイルはよく見聞きする。「コンクリートから人へ」のスローガンには好感を持っても、うちの県のダムだけは完成してくれ、というのが一般的な地域住民の意見だ。あっちの新幹線はつながなくていいから、こっちの高速道路は車線を増やしてほしい、などなど、ひとりひとりの意見を聞いていたら、まとまるものもまとまらない。

 さて、この山﨑養世の「最終シナリオ」も、その「太陽経済」とやらの政策を、仮に賛成する国民が多くても、いざ実行しようとすれば、「総論賛成、各論反対」の波に洗われるに違いない。ひとつひとつの政策は、やはり「数」に頼った強権的な政権によらないと、実現できないのか。

 大陸棚での原油採掘や原子力発電所の増設に消極的で、石油会社への増税をも唱えるオバマに対する業界の圧力は強大です。しかし、オバマがアメリカ経済を本当に石油経済から脱却させられるかどうか、そして浪費と過剰消費の伝統を超えて、アメリカ国民に「足るを知る」ライフスタイルが定着するかどうかが、アメリカ経済復活の指標といえるでしょう。p76「石油マン退場、オバマはなにを『変える』のか」

 良かれと思ってもそれを用いて実行しようとすると、さまざまな抵抗がある。これは世の常である。それでもなお、実行するとしたら、それを超えていくのは何か。

 また電気自動車の開発にともない、GPS(全地球測位システム)などを利用した衝突回避・運転支援システムや自動運転の技術開発も進むでしょう。日本は、世界に先駆けて全くガソリンのいらない事故も起こらない、新しい自動車社会を目指すべきです。p122「日本の中心は『電気自動車』」

 目指すのはよいが、あまりに飛躍的すぎるように思う。100年単位でなら可能かもしれないが、数年のサイクルで体制が変わる日本の政治システムでは、これは無理だろう。あるいは、まったく事故が起こらないとはあり得ない。少なくともこの数年来にできる話ではない。

 今こそ、アジア世界の一員として、日本は持続可能な共存共栄モデルを築いていかねばなりません。
 そのためのキーワードを、あえてわたしは「SAVE HUMANITY」(セーブ・ヒューママニティ)という英語で表します
。p241「合言葉は『SAVE HUMANITY』」

 鳩山政権の「東アジア共同体」構想や「「人へ」などのスローガンともカブるところがあるが、それを実行できるかどうかは、全く未知数だ。民主党は、それを宣言し、少なくとも具体的な国内外の政治の場で提案しているだけ、リアリティがあると言える。

 世界は、太陽経済を導入する方向に大転換を始めています。
 アメリカは、オバマ新大統領のもと、太陽経済の先頭に立つことでアメリカ経済を強化しようとしています。環境政策の導入で先行するヨーロッパも、今後の主導権を握るためにしのぎを削るでしょう。一方、中国やインドをはじめとした途上国は強烈な自己主張をして、自分に不利だと思う国際的な取り組みには反対するでしょう。ぼやぼやしていると、世界一の環境先進国である日本が、一方的に他の国の環境対策の資金を負担することになりかねません。
p264「人類が自らを救うには、石油経済から太陽経済に変わらなくてはいけません。」

 この本は2009/02にでているので、オバマの就任直後であり、まだ自民党政権下にあって、「政権交代」可能かどうかの瀬戸際で書かれている。だから、ひょっとすると民主党への期待を込めて周囲の外堀を埋めるために書かれている本であるのかもしれない。そういう時代背景を考慮しつつも、当ブログの中でよむとすると、いくつかの違和感が残る。

 ひとつは、「頑張れニッポン、チャチャチャ」という論調であり、自らの団体をどことなく外資系企業で働いてきた人間たちでまとめあげて、過大なビッグマウスに終始するところである。二つ目はヒューマニティ、といいつつ、そこからさらにスピリチュアリティにどう下りていくか、というところの目が見えてこないところにある。「太陽経済」という独自のネーミングを使いつつも、この本のタイトルが表すような仰々しい表現が好きな人たちなのだなぁ、と思う。   

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2009/11/07

こころでからだの声を聴く<20>

<19>よりつづく 

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<20> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次

 そうしたら、もうひとつのステップに移り、もう少し深く進む。マインドにリラックスしなさいと言いなさい。身体が言うことを聞くなら、マインドも言うことを聞く。だがマインドから始めることはできない----一番最初から始める必要がある。多くの人が、マインドから初めて失敗する。失敗するのは、間違ったところから始めるからだ。すべては正しい順序で行なわないといけない。 

 身体を自発的にリラックスさせられるようになれば、あなたはマインドが自発的にリラックスするのを助けられるようになる。マインドは、より複雑な現象だ。ひとたび身体は自分の言うことを聞いてくれるという自信を得たら、自分自身への新たなる信頼を手にするだろう。今や、マインドさえもあなたの言うことを聞いてくれる。マインドに関しては少し時間がかかるだろうが、それは起こる。 

 マインドがリラックスしたら、ハートをリラックスさせなさい----そこは、あなたが感覚と感情の世界であり、さらにもっと複雑で微妙なものだ。しかし今や、あなたは信頼を抱き、自分自身に対する確固とした信頼を抱いて進む。今では、それが可能だとあなたは知っている。。身体やマインドに関して可能なら、ハートに関しても可能だ。そして、この三つのステップを通り抜けたとき、そのとき初めて四番目のステップに踏み出すことができる。 

 今やあなたは、自らの実存のもっとも内なる核に至れる。それは身体、マインド、ハートを超えたものだ。あなたは、自分の存在のまさに中心に至れる。そして、それをもリラックスさせることができる。 

 すると、そのくつろぎは、大いなる喜び、究極の法悦(エクスタシー)、受容を確実にもたらしてくれる。あなたは至福と歓喜にあふれる。あなたの生は、ダンスの質を帯びるだろう。 

 人間を除いて、全存在は踊っている。全存在は、とてもリラックスしながら進んでいる。動きはあるが、それは完全にリラックスしている。木々は成長し、鳥たちはチュンチュンさえずり、河は流れ、星は動いている。すべては、とてもリラックスしながら起こっている。急ぐことも、慌てることも、心配することも、無駄もない。人間だけが例外だ。人間は、自らのマインドの犠牲者になってしまった。 

 人間は神より上に昇ることもあるし、動物より下に落ちることもある。人間の可能性の幅は実に大きい。最低から最高に至るまで、人間は梯子のようなものだ。OSHO 124p

<21>につづく

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2009/11/06

地球の授業

地球の授業
「地球の授業」
ユベール・リーヴズ /高橋啓 2009/08 飛鳥新社 単行本 178p
Vol.2 No818★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

 フランス語の原題は「空と命のコラム」2005という。もともとは2003年に一年間に渡ってラジオ・コラムとして放送されたものを語り手の1932年生まれの宇宙物理学者が加筆して編集しなおしたものである。地球環境、二酸化炭素、森林伐採、温室効果、オゾン、酸性雨、化石エネルギー、核エネルギー、生態系、科学技術の危機、人類を救うのは誰か、など、いわゆるこの手の環境啓発本として、コンパクトであり網羅的でもあり、誰でも読める良書と言える。

 この本の目次をめくって、最初に目がとまったのは、「民主主義の限界」というところ。この問題について、あまり多くが議論されていないように思う。

 政治家は「私の任期中には無理だけれども」という表現をよく使いますが、議会制民主主義という制度のなかで働く政治家の態度をこれほどよく言いあらわしている言葉はないでしょう。大きな問題に直面したとき、それをつぎの内閣に先送りするわけです。

 わたしたちの政府の動き方の特徴には、さらにもうひとつの問題があります。政策決定とそれを実施に移すまでの手続きに時間がかかりすぎるということです。省庁特有のお役所仕事は、具体的な行動にとりかかれる場所までたどりつくのに数カ月、ときには数年かかることさえあります。内閣が変わることで時間が早まるかといえばそうではなく、むしろさらに遅くなるのです。地球の環境破壊が驚くべきスピードで進行しているというのに、お役所仕事とお役所間の遅々とした仕事ぶりを目の当たりにすると、わたしたちはいっそう不安になります。

 このような危機的な状況にあって、はたしえ政治は長期的展望をもち、必要な政策決定をすみやかにおこない、この緊急事態に対処するためにてきぱきと行動に移すことができるようになるのでしょうか? わたしたちの未来はそこにかかっているのですが・・・・・。p104 「民主主義の限界」

 日本やアメリカに限らず、民主主義というの政治システムが現在のところ最良のシステムであることは間違いないのだが、最高のシステムではない、ということが言われ始めている。次のシステムが生まれ出てくる必要が日々強くなっている。

 「新・平和学の現在」「15歳のためのグローバリゼーション」などと並ぶ、当ブログ、今年後半のベスト本入りするであろう一冊だ。トータルであり、難しくなく、問いかけに満ちている。高橋敬一の「『自然との共生』というウソ」あたりまでペシミスティックになって皮肉屋になるのもどうかと思うが、事態の危機はすぐそこまでやってきている、ということは忘れてはならない。

 著者は人間について、進化の頂点にあると考えるのは人間のおごりだとしている。この辺は高橋敬一などのペシミスト達と同じ傾向があるようだが、当ブログは、以前、人間は現在のところ想像のつく限り、生命進化の頂点に立つものである、という考えに賛同する。でなければ、人間そのものの責任はどこにあるのか、ということになる。

 地球から人間が退場すれば、それですべてはうまくいくことになるのか。そんなことはあるまい。人間という「未完成」、あるいは「進化途上」の存在を包含してこその、大自然、大宇宙であろう。最新の脳科学などの究明している人間のもっている可能性は、まだまだ無限大である。そこから知性やスピリチュアリティが解明されて、この難局に対処する知恵を生みだす必要がある。人間には人間としての責任がある。

 また、「15歳のためのグローバリゼーション」などに比較すると、向こうは複数の人々はランダムに参加して作り上げた本なので、そこから立ち上がる本としての「人格」、つまりキャラクターがいまひとつ分からないところがあるが、本書は、一人の書き手が話しかけてくる形なので、全体的でまとまりがある。もっとも、その半面、「15歳」などでは大きく評価されているインターネットやリナックスへの言及はない。ひょっとすると、現在76歳の著者はデジタル社会はお好みではないかもしれない。

 二千年前のサーカスでは、大勢の興奮した群衆の前で人間同士が斬りあい、殺しあったりしていました。飢えた動物に食い殺される人間を見て、観客が喝采を送ることもありました。戦争で捕虜になった兵士は奴隷のように売り買いされたり、「勇敢な勝者」が凱旋する街道に立てられた十字架にはりつけになったりしました。p133

 最近、トヨタがF1ビジネスから撤退することを表明した。ホンダもブリジストンもBMWも撤退の予定だ。よくよく考えてみれば、スピードとその運転テクニックを競うあうFIレースも、すでに過去のスポーツとなっているのではないか。群衆の前で時にはドライバーが命を落とす場合もある。もう人間同士が競いあうのは、スピードではないのではないか。

 F1レースを考えていると、あの超音速ジェット旅客機コンコルドの盛衰を思い出す。枝葉の末端まで行ってしまったモンスター・サイエンスの先にはいったい何があるのか。勇気ある撤退も必要であろう。

 道徳心の向上を声高にさけぶよりは、ある種の行動を社会的に受け入れられなくし、そのことによて人間の行動様式全般に影響を与えるような、人間らしい感受性の発達について語るできではないでしょうか。他人の不幸を思いやる気持ちが人類的に規模で湧きあがっていることについて語るべきなのです。それはすでに大きな声になっています。そしてそれについて語ることだけでも価値あることなのです・・・・。p134「人間は人間らしくなっているのだろうか」

 「人間は菜食に向かうのか」p138なども面白い。「人類を滅亡させるのは誰か」p167、「人類を救うのは誰か」p169。答えは自ずと明確である。しかし、その問いかけは禅の公案のように、体全体で全存在を賭けて取り組まれる必要がある。

 

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オバマは何を変えるか<1>

オバマは何を変えるか (岩波新書)
「オバマは何を変えるか」<1>
砂田 一郎 (著) 2009/10 岩波書店 新書: 223p
Vol.2 No817★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★☆☆

オバマ関連本リスト

「オバマ 勝つ話術、勝てる駆け引き」2008/10

「オバマ演説集」2008/11

「オバマ YES WE CAN!」2009/01  

「オバマ大統領 ブラック・ケネディになれるのか」 2009/01

「オバマ・ショック」 2009/01

「オバマ ホワイトハウスへの道」2009/01

「オバマは世界を救えるか」2009/02

「完璧な冷静 オバマ変革と試練」2009/02

「オバマノミクス」2009/02

「オバマのグリーン・ニューディール」2009/04

「オバマ外交で沈没する日本」2009/06

「オバマの仮面を剥ぐ」2009/06

「ブッシュからオバマへ―アメリカ変革のゆくえ」2009/07

「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」2009/08

「核兵器ない世界を」安保理で決議採択2009/09

「オバマ大統領 ノーベル平和賞授賞」2009/10/9 19時22分

「オバマは何を変えるか」2009/10

「オバマ政権はアメリカをどのように変えたのか」2010/07

 この11月4日で、ちょうどオバマが大統領選に当選したあの劇的な日から一年が経過したことになる。1月の就任式から、それほどの日数が経過しておらず、その政治的姿勢や業績を判断するにはまだまだ早すぎるが、今後もあらゆる角度からオバマ政権についての評価が下され続けることになるだろう。

 かたや日本においても、この9月に民主党・鳩山政権が発足し、さまざまな新政策や議論が物議を呼んでいる。こちらもまた、いまだ海のものとも山のものともわからない状況が続いており、日本新党の細川政権のように8カ月で倒れるなんてことがなければいいがな、と心配している向きも少なくあるまい。

 小沢一郎は、「民主主義において、主権者たる国民がその主権を実行するのは、唯一選挙だけである。民主主義は数である。選挙に勝たなければ民主主義においてはなにもできない」というようなことを語っている。そして、来年にある参議院選挙に向けて全力の構えで活動していると言われる。

 5年前、私はひょんなことで、参議院選挙の運動員となった。投票の1カ月ちょっと前にいきなり連絡があり、沖縄出身の某ロック歌手の選挙活動を手伝ったのである。そもそも彼のコンサート企画にも複数回関わったこともあり、個人的にも面識がある。彼の本に文章を寄せたこともある。言われなくても投票は彼にしようと思っていたし、少なからず応援しようとは思っていた。

 しかし、DMづくり、チラシまき、ポスター貼り、街頭でのビラ撒きと、短期間の中で考えられることはほとんどやったが、はて、後から考えた場合、一か月の間、仕事もそこそこにしてあの活動をして、私が得られたものはどれほどのものであっただろうか、と疑問になった。

 このような活動はほとんどしたことがなかったので、一度はやってみようとは思っていたので、活動したことについては別段に後悔はない。やっている最中はそれはそれで楽しかった。しかし、このような活動は幅広い参加者を必要とするものだが、私の呼びかけも上手でなかったせいもあろうが、選挙となると、身近な友人たちでも、ほとんど手伝ってくれるものはいない。ごくごく少人数でその活動を終えた。

 活動したエリアは、他の地域に比べ推薦する候補者の獲得票の比率が多かったから、まんざらその活動はムダではなかったとは思うものの、どこか釈然としないものが残った。まず、自分たちの活動している地域に候補者自身がこなかったこと。最初、遊説の予定は入っていたが、その芸能人としてのキャラクターから、他の候補や政党の客寄せパンダ的に扱われて、十分にその意見を主張する場を与えられなかったこと。

 あるいは、この5年間での一参議院議員の活動というものは、全体からみれば実に小さなものであるということ。すくなくとも、彼が議員であったことで、私が直接的に得たものはほとんどなにもない。いちど政治報告のような冊子が送られてきたが、それはお決まりの印刷物であり、それ以上のものではない。あとは政党へのカンパと党員参加の呼び掛けのDMくらいであった。

 もっともそれ以上のなにを期待するのか、と問われても答えに窮するが、すくなくとも政治に没頭して、身を捧げても、はて、それがどうした、と冷やかな気分がどうしても残ってしまう。先日、NHKスペシャルで「証言ドキュメント・永田町・権力の興亡」を三日連続でやっていたが、権力の中枢にいたり、首相を経験したりした人々でさえ、その人生を忸怩たる思いで振り返っていることが多いことがあらためて分かった。

 チェンジを叫んで大統領になったバラク・オバマに対する評価はまだまだ早い。医療保険制度問題では、共和党ばかりか民主党内部からの反対にさえあっているオバマだが、確かに支持率は低下しても、まだまだ彼に期待されていることは多い。

 もし、未来に「ひとつの世界政府」というものがあるとするならば、オバマこそ、その未来像を垣間見せてくれる存在になるのではないか、と期待する。ブッシュにも、プーチンにも、胡錦濤にもない、魅力と可能性を感じさせる。

 しかし、ふと考える。制度としての民主主義はすでに限界にきているのではないか、と思いつつ、政治というものが、新しい地球人たちに与えてくれるものは、どれほどものであろうか、と。政治はなくてはならないものだが、全部ではない。政治には及ばない世界がある。地球が一つになるとともに、人は、それぞれひとりでなければならない。とくにスピリチュアリティにおいて、人間は、ひとり自らの内部への下りていく必要がある。

 そんなことを考えていたら、先日読んだ「デジタル社会はなぜ生きにくいか」のなかの、生きて行くための「心構え」を思い出した。あれは、デジタル化する社会を生きて行くための個人の心構えであったが、意趣を変えてみれば、これはこのまま、政治社会を生きていくための「心構え」そのものにも使えるのではないだろうか。

心構え(1) 半分信用し、半分信用しない

心構え(2) 必要な知識や情報を得て、自分を守り、他人の立場を尊重する

心構え(3) 自分ですることの境界線を定める

心構え(4) 利用することと利用しないことの境界線を定める

心構え(5) 危険性を分散し、代替の方法を持つ

心構え(6) 依存しすぎない

 オバマも魅力あるし、鳩山政権もまだまだ期待できる。ただ政治家に「国民が主権を行使するのは選挙の時だけだ」と決めつけられては困る。数の論理に押し潰されてしまうのが政治の世界なら、数の論理が絶対に入り込めない世界が人間にはある。「コンクリートから人へ」のスローガンにある「人」には、どれだけのスピリチュアリティが含まれているだろうか。決して数を頼まず、人は人として自らのなかに安心の境地を求める必要がある。

 オバマには、さらに地球大の「政治」の中で活躍してもらいたいが、また、人が人として静かに内面暮らせるような局面を多く増やす機会をつくってもらいたい。外側の地球大の政治と、個人のひとりひとりのスピリチュアリティとのパランスがうまくとれるような、そのような社会や世界を創ってほしい。そのように変えてもらいたい。

<2>につづく 

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2009/11/05

こころでからだの声を聴く<19> 

<18>よりつづく 

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<19> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次

7、緊張とくつろぎ その1 

質問:私は多くの緊張やストレスを感じます。どうしたら、もっとリラックスできるでしょうか?
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 表層からリラックスし始めなさい-----そこが私たちのいる場所だ。私たちは、自分のいる場所からしか始められない。あなたの存在の表層をリラックスさせなさい----身体をリラックスさせ、所作をリラックスさせ、好意をリラックスさせる。リラックスして歩き、リラックスして食べ、リラックスして話したり聞いたりする。すべての過程のペースを落としなさい。 

 急いではいけない。慌てて行動してもいけない。まるで永遠なるものが、そっくりあなたに用意されているかのように動きなさい----実のところ、それはあなたに用意されている。私たちは最初からここにいて、まさに最終までここにいるだろう----もし初めと終わりがあるとしたらの話だが。実のところ、始まりもないし、終りもない。私たちは、ずっとここにいた。これからもずっと、ここにいるだろう。形は変わり続けるが、実存は変わらない。覆いは変わり続けるが、魂は変わらない。 

 緊張とは、性急さ、恐れ、疑念のことだ。緊張とは、防御し、安定し、安全であるための、たゆまゆ努力を意味する。緊張とは明日のため、あるいは来世のために、今から準備をすることだ。あなたは、明日は現実に直面できないだろうと恐れる。だから準備をしないといけない。緊張とは、真に生きられぬまま、何とか迂回したにすぎない過去のことだ。それはあなたにぶらさがり、あなたを取り巻いている----それは遺物だ。 

 ひとつ、生に関する非常に根本的なことを覚えておきなさい。生きることのできなかった体験は、あなたの周囲にぶらさがり、くりかえし主張する----「私を終わらせてくれ! 私を生きてくれ! 私を完結させてくれ!」と。体験というものは、終了され完結されることを望む傾向がある。すべての体験には、そうした質が内在している。 

 ひとたび完結されたら、それは蒸発する。完結されないと、くりかえし主張し、あなたを傷つけ、化けて出て、あなたの注目を引こうとする。「私のことをどうするつもりだ? 私はいまだに完結していない----私を終わらせてくれ!」と言って。 

 あなたの過去のすべては、何ひとつ完結されぬまま、あなたの周囲にぶらさがる。なぜなら、どれひとつ真に生きられることがなかったからだ。すべては何とか迂回され、ほどほどに、ぬるま湯につかりながら、部分的に生きられたにすぎない。熱烈さや情熱はなかった。 

 あなたは夢遊病者----眠りながら歩く人のように動いていた。このように過去にぶらさがり、未来は恐れをつくり出している。そして過去と未来の狭間で、唯一の現実であるあなたの現在が押し潰されている。 

 表層からリラックスするといい。最初のステップは、身体をリラックスさせることだ。覚えておきなさい。できるだけ頻繁に身体を見つめ、身体のどこか----首、頭の中、脚などに、緊張がないかどうか確かめる。もし緊張があるなら、意識的にリラックスさせる。身体のその部分に行き、その部分を説得するだけでいい。やさしく、「リラックスしてごらん」と言うといい。 

 すると、あなたは驚くだろう。身体のどの部分にはたらきかけても、それは言うことを聞き、あなたは従う----それはあなたの身体なのだ! 目を閉じて、つま先から頭に至るまで、緊張のある場所を探しながら、身体の内側に入りなさい。そして友人に話しかけるように、その部分に話しかける。 

 あなたとあなたの身体の間で対話をする。身体にリラックスしなさいと言いなさい----「恐れるものなんて何もないよ。恐がることはない。私がここにいて、あなたを大事にしてあげるからね。あなたはリラックスしていいんだよ」と言いなさい。ゆっくり、ゆっくりと、あなたはコツを会得していくだろう。すると、身体はリラックスする。OSHO p122~124

<20>につづく

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2009/11/04

デジタル社会はなぜ生きにくいか

デジタル社会はなぜ生きにくいか
「デジタル社会はなぜ生きにくいか」
徳田雄洋 2009/05 岩波書店 サイズ: 新書 191p
Vol.2 No816★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★☆☆☆

 「デジタル社会はなぜ生きにくいか」とくれば、いくつかの対語、あるいは反語が想像できる。

1)アナログ社会は生きやすい

2)アナログ社会も生きにくい

3)デジタル社会はまだ生きにくい

4)デジタル社会はやっぱり生きにくい

5)デジタル社会をアナログ社会へもどそう

6)デジタル社会はこうすれば生きやすくなる

7)アナログ社会とデジタル社会をうまく組み合わせよう。

 デジタル社会やアナログ社会というネーミング自体が、何を言っているのやらと、やや意味不明なところがあるが、結局この本の結論は、ごくごく当たり前の結論に達しているようだ。ソフトウェア生成系や情報ネットワークが専門の理学博士が書くこの本は、網羅的に現在の「デジタル社会」を紹介しているが、そのスタイルからは面倒くさそうな固有名詞や専門用語が、注意深く省かれている。

 だから、この本を誰が読むかによってだいぶ意味が違ってくるが、やっぱり「デジタル社会はだめだ」と思っていそうな中高年の読者を想定しているようなところがある。しかし、だからと言って、彼らの「反動的」な意見に迎合しているわけではない。

 結論としては、至極まっとうなものである

心構え(1) 半分信用し、半分信用しない

心構え(2) 必要な知識や情報を得て、自分を守り、他人の立場を尊重する

心構え(3) 自分ですることの境界線を定める

心構え(4) 利用することと利用しないことの境界線を定める

心構え(5) 危険性を分散し、代替の方法を持つ

心構え(6) 依存しすぎない p170~p177「生きるための心構え」

 当ブログの概念でいうところの、クラウド・コンピューティングと、クラウド・ソーシングのバランスをうまくとって行こう、というのがこの本の結論だ。アナログ社会へ戻ろうとか、デジタル社会を止めよう、という趣旨ではない。デジタル社会を生きるためには、その心構えを持つ必要がある、ということである。

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宇宙で暮らす道具学

宇宙で暮らす道具学
「宇宙で暮らす道具学」
宇宙建築研究会 /松村秀一 2009/08 雲母書房 単行本 205p
Vol.2 No815★★★★★ ★★★★☆ ★★★☆☆

 当ブログ2.0の半年の書き込みに対するアクセス数を見てみると、数は決して多くないのだが、コンスタントに上位に位置しているのが「テラフォーミング」に対するものだ。このテーマに関する本は、この一回しか書き込んでいないのに、これだけの関心があるのはどうしたことだろう、といつも不思議に思う。ロングテール現象のひとつであろうか。

 テラフォーミングとは、基本的に人類が生活する環境にない、地球以外の星々を、人類が住める環境にかえてしまおうというプロジェクトだが、この「宇宙で暮らす道具学」に通じるところがある。道具学、といえば、当ブログでかつて触れた「おまるから始まる道具学」とさえつながってくるかもしれない。

 オバマが大統領選挙に当選してからすでに1年が経過したが、アフガニスタンの戦争は泥沼から抜け出す気配がない。オバマは、教育問題、医療保険問題、グリーン・ニューディールを大きな政策の柱に掲げている。そして、ふたたび月面に人間を届けようという提言も行っている。戦争より宇宙旅行のほうがいいに決まっているのだが、現実はなかなか複雑だ。

 アーサー・C・クラークの「20001年 宇宙の旅」の世界も、ふと考えてみれば、ほとんど現実になりつつあるのではないか。コンピュータHALの「意識」の目覚めの問題も、まっとうに、まじめに論じられている。テラフォーミングも、宇宙で暮らす道具学も、現在ではまだすこし非現実的ではあるが、まったく絵空事、ということではない。何かのきっかけさえあれば、地球人たちの意識は、これからさらに「宇宙」に向かい始めることは大いにあり得る。 

 宇宙という特殊な環境条件が生んだ哲学として、「無形の哲学」を挙げておきたい。宇宙への挑戦は、すなわち重量との格闘といってもいい。地球の重力を振り切る宇宙速度を、いかに生み出すかにかかっている。そのためには、不必要な重量を可能な限り排除し、また必要なもんですら切り詰める決断も必要である。「無形の哲学」とは、必要なものを形や重量のあるものとして宇宙空間へと運び出すのではなく、食料品を種子のまま、建築材料を地球の祖とにある物質で賄うといった、重量のあるものを知恵によって削除したり置き換える哲学である。p62

 意識には、形も重量もないし、宇宙空間でも十分存在できそうだ。

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見えない宇宙を観る 天体の素顔に迫るサイエンス

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「見えない宇宙を観る」  天体の素顔に迫るサイエンス ビジュアル天文学
Lars Lindberg Christensen (著), Robert Fosbury (著), Robert Hurt (著), 岡村 定矩 (翻訳) 2009/7 丸善 152p 言語 日本語
Vol.2 No814★★★★★ ★★★★★ ★★★☆☆

 地球上に生きる人間が、カメラを持ってレンズを大地に向ければ「惑星、熊野」のようなアートの世界が生まれ、そのカメラを空に向けると、こちらのような無限のサイエンスの結晶となる。もっともカメラと言ってもおなじカメラではなく、こちらは天体望遠鏡だ。しかも、見えないものを、見えるようにしている。

 先端科学の粋を集めた宇宙工学によって、次第に明らかにされる宇宙。地球に生きる地球人の脳の中には、一体どれだけの知恵が詰まっているのだろう。あらゆる工夫をしながら、見えない宇宙に視線を向け、光の届かないはず宇宙のかなたに、その姿を見ようとする。まさにアートと言える。

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2009/11/03

惑星、熊野

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「惑星、熊野」
山本卓蔵  2009/07 求龍堂 単行本 127p
Vol.2 No813★★★★☆ ★★★★★ ★★★★☆

 求龍堂、って、たしかあの「事件」ともいうべき「松岡正剛千夜千冊」の刊行を決行した出版社だ。そういう出版社だからこそ出せる写真集といえるだろう。いやいや、写真家、山本卓蔵、という存在がすごい。熊野の山に、テントとカメラをかついで何日も籠るという。そういう写真家にしかとれない熊野がここにある。

 「惑星、熊野」というタイトルが生きている。人工衛星で宇宙からみるグローブ地球も素晴らしいが、こうして、一足ごとに山に入り込んで、じかに触れてみる「惑星」も、やっぱり地球だ。光沢を抑えた印刷面がまた、あの熊野の質感をより伝えてくれている。

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15歳のためのグローバリゼーション

15
「15歳のためのグローバリゼーション」 新しい地図を持って歩き出そう― マップ・セレクション
正井泰男・監修 Earth Atlas編集委員会 2009/9 幻冬舎 単行本 175p
Vol.2 No813★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆ 

 15歳のための、というところはなかなか興味魅かれるところだが、はて、「新しい地図を持って」というのはどうなのだろう。若者の旅たちなら、地図なき旅、となるべきではないか、そんなことを考えた。しかし、日本国際地図学会元会長の監修にして、地図作成業者の協力のもとに編集された本であれば、いくら15歳の旅たちとは言え、地図なき旅とはならないようだ。

 さて、15歳とか、若い人々へのアプローチの本もこの頃よく見かける。「娘と話す」シリーズなんてのもあった。15歳のグローバリゼーション、というなら、最近読んだ「平和学」なども、ぜひ加えてもらいたいものだ、とも思う。とか、いいながら、この本もなかなかよくできている。「大人が読んでもスリリング!」という腰巻のコピーが光る。

 だが、ひとりの15歳に、何人もの「大人」が、よってたかって「グローバリゼーション」を教え込む、というのもどうかなぁ。1対1のコミュニケーションが必要なのではないだろうか。つまり、各界からの「グローバリゼーション」についての考え方を列挙するとしても、それを一人の15歳が消化するには、ちょっと荷が重いのではないだろうか。

 15歳の前に立つのは、ひとりの「グローバリニスト」としての、ひとりの大人、ひとつの人格であるべきではないだろうか。と思い始めるほど、この本に書かれているのは、ひとつひとつは正しそうだけど、それをたったひとつに統合して理解するのはなかなか難しそうだ。それに、大事な眼目であるスピリチュアリティや意識への問いかけが抜けているのではないか。

 と思うほど、この本の狙いが面白そうだけに、いまいち残念に感じる。地球人としてのプラットフォームになるかもしれないという可能性があるだけに、もうすこし練り直しを要求したい。温暖化、森林、人口、冒険、リナックス、などなど、ともすればバラバラになってしまうようなテーマをコンパクトに一冊にしている。しかし、なにかが足りない。何かが変だ。

 1996年わが国の提唱で国連計画「地球地図」プロジェクトがスタートし、世界を100分の1の縮尺で統一して、地理情報を公開するという計画が具体化しました。p156

 なるほど、やっぱり地図ありきのお話であったか。Google Earthなどの発達で、すでに、ひと固まりの地球、という感覚は一般的になってきているが、ついこの間まで、いや現在でも、軍事上の秘密などで、各国の地図の公開は、かならずしも進んでいるとは言えなかった。

 なにはともあれ、各界でさまざまなグローバリゼーションへの取り組みが進んでいることは、新しい地球人の誕生に向けて、大変重要なことだと思う。

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こころでからだの声を聴く<15> 

<14>よりつづく 

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<15> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

 1、腹部の緊張 

質問:しばしば腹部に岩のような感覚があります。
    どうしたら、やわらげることができるでしょう?
---------------------------
 

 人々の大半は、腹部の岩のような感じに苦しんでいる。それは、ありとあらゆる病気----身体的、精神的な病気の両方の原因だ。なぜなら腹部は、あなたの心理と生理が出会う中枢だからだ。それは臍で出会う。臍は心理と生理がつながるポイントだ。だから、臍のまわりの筋肉が岩のようになると、あなたはひどく分断される。マインドと身体は分離し、そして掛け橋のない、ほとんどふたつの物体となる。 

 だからたまに、あなたはマインドだけが望み、身体は望みもしないようなことをしてしまう。たとえば、あなたは食べる。お腹を空かせていなくても食べ続ける。それはマインドが楽しんでいるからだ。身体がどう感じているのか、マインドは知らない。なぜなら、その感覚は切り離されていて、掛け橋がないからだ。 

 ときにトランプやテレビに熱中しすぎて、身体が空腹なのに気づかないこともある。こうした場合、人は決して交わることのない2本の平行線のままだ。それは精神分裂病だ。どこかしら精神分裂病的でない人を見つけるのは非常に稀だ。だが、ある症状が常に存在する----腹部が岩のようになっている。 

 そこで、まず深く息を吐くことを初めるといい。深く息を吐くと、自然と胃が押し下げられる。そうしたらリラックスして、空気が流れ込むままにする。深く息を吐くと、空気はとても勢いよく流れ込んでくる。まるでハンマーで叩くように----それは、腹部のまわりが岩のように構成されたものを打ち砕く。これが第一のステップだ。 

 第二のステップ----朝、排便が済んで腹部が空っぽのとき、乾いたタオルで腹部をこすり、腹部をマッサージする。右下から始めて1周する。逆ではない。3、4分マッサージしなさい。それも腹部がリラックスするのを助ける。 

 そして第三のステップ----いつでもいいからできるときに、すこしランニングしなさい。ランニングはとてもいい----ジョギング、ランニング。これら三つのことをやってごらん。すると1ヶ月もしないうちに岩は消えるだろう。 OSHO p101~102 

<16>につづく

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インターネットが死ぬ日 そして、それを避けるには

インターネットが死ぬ日
「インターネットが死ぬ日」 そして、それを避けるには
ジョナサン・ジットレイン /井口耕二 2009/06 早川書房 新書 466p
Vol.2 No812★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆ 

インターネットを論じた、よくある手の本だが、煮詰めて言えば、つまり、現在の当ブログ的な枠組みで考えれば、クラウド・コンピューティングの行き過ぎを防ぎ、クラウド・ソーシングを強化せよ、ということになろう。しかし、複雑なのは、この二つが対抗する勢力として対峙し当ていることではなく、インターネット自体が特質として、この二つの側面を合わせ持っているということ。そのバランスが問われる。

 同一人物(スティーブ・ジョブス)がiPhoneとアップル2、両方を世の中に紹介したわけだが、その結果としてスタートした大変革の内容は大きく異なっている。発展する技術がまったく違うのだ。アップル2は本質的に生み出す力を持つ肥沃な技術である。プラットフォームであり、いじってみたいと多くの人が思う技術だった。(略)

 iPhoneの性格は真逆である。独創性を刺激することがなく、いわばやせた不毛な技術である。イノベーションを促進するプラットフォームではなく、すべてがきっちりと決められている。機能はすべて決められ、ロックされている。p7

 そもそもインターネットとは何か、が問われる。著者がその成功例としてリナックスやウィキペディアを挙げるように、つまりは、その可能性と危険性の中で生まれてくる芸術品たちに対する信頼こそがインターネットそのものである、と言っているようだ。

 インターネットとパソコンは、過去に成功をもたらした特性を持つがゆえに弱体化しつつある。混沌とした設計であったからこそ情報革命は起きたわけだが、インターネットがあらゆるところに浸透した結果、そこから大きく外れる部分が生まれた。そして、反革命的なこの動きにより、革新と混乱を生む肥沃なインターネットからアプライアンス型ネットワークへと移動するユーザーが増えているのだ。インターネットの力強さを残しつつ、インターネットの革新する力を大きく制限し、かつ、よきにつけあしきにつけ管理性を強化したネットワークへだ。p17

 一般論としてのクラウド・コンピューティング化は、過渡的な反動と見ることができるだろう。絶対に単純な端末化した貧相なパソコンを好む人間オンリーになることはないだろうし、ネット上の冒険者たちの姿がなくなることもないだろう。しかし、現在のインターネットのスパムの増加や構造的な混沌は、次第にピークへ向かいつつあるようにも感じられる。

 オープンなインターネットの進歩を停止させ、パソコン通信サービスの時代へと逆戻りすれば、ウィキペディアを初めとする、生みだす力を持った組織が生まれるチャンスも減ってしまう。p121

 最近、ふと気づいてみれば、日本SNSの草分けキヌガサや、テクノクラティ日本版の閉鎖がひっそりと進んでいる。さまざまなサービスが浮き沈みしていくのは仕方のないことだし、その結果、よいサービスが生まれているのだから、新陳代謝と考えれば、当然のことのようではあるが、その分野の独り勝ちが進み、囲い込み、管理強化につながっていく姿は、あまり好ましいものとは思えない。

 インターネットとパソコンの歴史をmると、ITが大きく進歩したとき、先頭に立っていたのは市場のことなど考えもしないアマチュアであり、大小の企業市場モデルが何度も好機を逃してきたことがわかる。p153

 次第にインターネットもパソコンもブラックボックス化しつつあり、もはや、その仕組みを手にとってわかる人間はすくなくなってきた。すくなくとも私なんぞは最初からよくわからなかったが、「分かるかもしれない」という可能性を秘めていた。しかし、現在花型になりつつあるサービスは、ほとんどが一方的な享受型の受け取り型のサービスで、消費だけが先行し、生産がしにくくなっているように感じられる。

 ひも付きアプライアンスやロックダウンパソコンへのシフトが進めば、サイバー法関連でずっと続いてきた問題にも少しづつ影響が出るだろう。問題の多くは、オンラインの活動から被害を受けた、あるいは受けたと思っている人とサイバースペースで自由に活動したい考える人が争っているものだからだ。p186

 当ブログはどちらかというと、サイバースペースで自由に活動したい派に軍配を上げる。

 オープンなパソコンとインターネットの限界、そして、XOに関するおそれは、貢献と革新について驚くほどのオープン性を持ち、だからこそ成功したシステムに何が起こり得るのかちう普遍的なケーススタディだと考えるべきだろう。成功ゆえに発生した問題に対し、その成功をもたらした力をなくすことなく対抗するにはどうしたらいいか、なのだ。p446

 そのいくつかの具体的な対策案がこの本に提示されている。しかし、いままでの、必ずしも長くもないその歴史を振り返ってみると、決して想像内で物事が進んでいったことは少ない。とんでもない横波が来る。だから、このパソコンやインターネットは未来において、現在では想像し得ないような発展を遂げる可能性は十分ある。あるいは、もちろん、失敗し形骸化して生命力を失ったものにもなりうる。

 しかし、大きく構えれば、それでいいのではないだろうか。死ぬ可能性があるからこそ、生きようとする。それはまるで、生命の本質と同じ構造を持っているように思う。最後は人間そのものであり、生命そのもの、意識そのものがテーマとなるだろう。

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進化しすぎた脳<2>

<1>よりつづく 

進化しすぎた脳
「進化しすぎた脳」 <2>中高生と語る「大脳生理学」の最前線
池谷裕二 2007/01 講談社 新書 397p

 最新刊「単純な脳、複雑な『私』」2009/05を読んで面白いと感じたもので、こちらもめくってはみたが、なるほど興味深いことはやまやまなのだが、ひとつひとつを理解しようとする気力がどことなく失せていく。このあと、続けて「海馬」2002/6、「脳はなにかと言い訳をする」2006/9、「ゆらぐ脳」2008/08と読み進める予定だが、こののまま連続して読み続けることはできない。目の前にこれらの本を並べてはいるのだが、進まない。

 歴史的に見ても、化学者は物質をバラバラにして分子を発見して、分子がわかったら、次に分子は何からできているかと、原子をみつけたよね。こんどは物理学者が出てきて、原子が何からできてるかと調べていって、原子核と電子でできているのを見つけた。近代物理学はもっとすごくて、原子核が何からできてるかって、陽子や中性子に行き着いた。それらをもっと分解してクオークにたどり着いた。

 そうやって細かく駒買う分解していく。これ以上分解できないというところまで行って、物質の本質的な<要素>を見つけた時点で、何かもうわかったゆな気分になっているのね。それは理系の特徴なのかもしれない。でも、ほんとにそれでわかったと言えるのかな。p245

 ひとつひとつのエピソードには。それぞれに心魅かれるものがあるのだが、どうもいまいち腑におちない。脳科学だから、それは頭のなかの話であって、原にストンと収まらないのは当たり前、ということになろうか。それにしても、いったい、これはどうしてなのだろうか。

 それでふと気づいた。そういう細部ばかりをきみらに教えても、たぶんつまらない。とういうことは、みんなが知りたい内容と、専門家が知りたい内容にはかなりギャップがある。言葉を換えて言えば、一般の人たちが脳に関して知りたいことというのは、ほとんど何もわかっていないと言えるわけ。専門家が知りたいことと違うんだから。実際に実験しているのは専門家で、一般の人じゃない。だから、一般の人が興味あることは、そこにギャップがある限り、いつまでたても解明されない。まぁ、科学は加速度的に進歩するので、今後どうなるかはわからないけれど。p327

 科学はちょっと目を離すとモンスター化する。全体性や普通性をどんどん失っていく。一読者でしかない当ブログでは、あんまり難しいところはどんどん飛ばして読んでいくしかない。だが、それであっても「高校生が理解できる」といういう意味でなくて、当たり前の人間の人間が取り扱えるような、ロマンチックな科学であってほしいと思う。

 意識の話って、僕としては、本当は避けたい話題なんだ。出口が見えないからね。でも、やっぱり興味があるわけさ。皆もそうでしょう? じゃぁ、意識って何だろう。どうやって生まれるんでしょう。p358 「意識とはなにか?」

 科学というドラマツルギーに踊らされて、眼くらませされているような気分でいても、結局、ふと気づいてみると、な~んも分かってなんかいない、ってことがよくある。根本の根本はわからないことが多い。すくなくとも、科学にも、脳科学にも、面白さは感じるけれど、期待しすぎもよくない、といことが、すくなくともこの本で分かった。

 そう、もはや宗教だね、信じる信じないという話なんだからさ。思い切った言い方をすると、科学ってかなり宗教的なものなんじゃないかな。「科学的」というのは、自分が「科学的」だと信じて、よって立つ基盤の中での「科学的」なんだよね。そう考えると、科学ってかなり相対的で、危うい基盤の上に成立しているんだよ。p360

 根っからの化学者からの言葉としては、あまりに突拍子もない言い方ではあるが、この宗教、っていうことに対するイメージも、どうも紋切り型で、ほんとうに宗教をきちんと把握しているのかな?と思わざるを得ない。科学的であり、なお宗教的である、などというのは、実に至難のコンビネーションだ。

 まぁ、すくなくともこの本に於いて、いわゆる「脳」というものの持っているポテンシャルの奥深く甚大であることと、それに取り組もうとしている科学が急ピッチで進んでいる、ということは、すこし分かった。 

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2009/11/02

脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦

脳のなかの身体
「脳のなかの身体」 認知運動療法の挑戦
宮本省三 2008/ 02 講談社 新書 254p
Vol.2 No812★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆ 

 理学療法士から見る脳と身体の関係である。

 どうしてこんなにも骨・関節・筋・反射といった身体への物理的な治療を重視する「運動療法の時代」が続くのであろうか。現代の科学は、怪物の正体が「脳の異常」であることを突き止めている。恐ろしい怪物の正体は、患者自身の脳の中に潜んでいることは明白なのである。

 正常な脳が異常を生じた脳と戦い、それを意識的にコントロールしないかぎり、怪物はずっと暴れ続ける。リハビリテーションに治療によって、脳に生物学的な変化(神経細胞の可塑性)を引き起こさないかぎり、運動麻痺の回復は生じない。つまり、治療の標的は目に見える身体の運動麻痺ではなく、目に見えない「脳のなかの身体」なのである。p14

 幸か不幸か、私は一般的な身体障害があるとは判断されていないが、だいぶ前に、交通事故で4カ月入院したことがある。最初の一か月はベットに張り付けられたまま、天井を見て暮していた。なんだか悲しくなって、涙が、両目の端から、左右に分かれて、耳のほうに落ちていった。

 その後、リハビリテーションを受けるようになり、次第に機能も回復し、数か月後には自宅に戻れるまでになった。あれから20年以上も経過しているのに、その後遺症はわずかにあるものの、日常の生活に支障があることはない。他人にはまったく分からないし、自分も忘れてしまっていることがある。

 あの数カ月の間に、垣間見たリハビリテーションの療法室の世界からしか類推できないが、理学療法士たちの努力にも、ひたすら頭がさがる思いだ。その障害にもさまざまあるだろうし、今後の私の生活態度いかんによっては、ふたたび彼らのお世話にならないとも言えない。

 身体を動かすだけでは不十分です。感じるために動くことが必要です。運動というのは、自分自身あるいは外部世界を認知するためのものです。大きな力を要する運動、すばやく大きな移動を要するような運動の練習はあまり役にたちません。
 脳は、あなたが世界を認知しようと運動した時にもっとも活性化します。ですから、あなたは動きを「感じる」練習をしてください。
p17

 当ブログの現在進行形の、基本的なプラットフォームは、「地球人として生きる」だ。さて、地球の上で、人間は何をしていればいいのだろうか。座っているのか、寝ているのか。もっとも基本的なことは歩いている姿であろうと、最近、思うようになった。二本足の走行こそ「人」の象形であるし、もっとも基本的な行動であろう。しかし、その歩きまわることによって、人は、いろいろなことを「感じる」必要がある。脳があるからこそ感じるのであり、感じるからこそ、脳は進化する。

 脳のなかに世界を表象する「ニューロン人間」がいるのだろうか。それは誰なのだろうか? おそらく、その誰かとは、私自身のことであり、あなた自身のことである。けれど、まだ誰も、その本当の姿を発見してはいない。p85

 最新の脳科学ばかりではなく、基礎的な医学知識においても、私の様なきまぐれ読者には、なかなか理解できないことも多い。難しい専門的な領域はそれぞれお任せするにしても、やはり、いずれは「私は誰か?」という根源的な問題へと回帰してくる。

 著者は、「脳のなかの身体」論の立場から、「リハビリテーション治療の現状」を踏まえ、批判する。

 身体を死んだ肉塊におとしめてはならない----マッサージ治療 p128

 身体をもの言わぬ物体としては扱ってはならない----関節稼動域訓練と筋の伸張訓練 p129

 身体を自動的に動く解剖標本として理解してはならない----筋力トレーニング p130

 身体を刺激に反応する物体と解釈してはならない----日常生活動作訓練とファシリテーション p132

 現場の実際を知らない立場としては、ちょっと変だなぁ、と思う程度でやりすごしてしまうことも多いが、よくよく考えてみれば、深いテーマを抱えていると思う。話はかなり飛躍するが、私はこの部分を読んでいて、インターネットのクラウド・コンピューティング化のことを考えた。ある部分が中枢として集中化するのは仕方ないとしても、もし端末が単純な入力出力端末となり、雲の上だけが巨大してしまったら、結局、それは進化の後退を意味するのではないか。

 木々の葉っぱや小枝たちが感じ、動くからこそ、幹も根も育つように、インターネット端末も、もっともっと、感じる創造的なものであってしかるべきなのではないか。全体的なネットワークとしてのクラウド・ソーシングこそ、この最新脳科学の「身体論」と重なってくる部分ではないか。そんなことを思った。

 人間は身体を生きる。日々の臨床で「経験と科学」がダンスを踊るように、主観的な身体の発する苦悩する言葉に耳を澄ましながら、客観的な脳科学の知見との整合性を探求すれば、リハビリテーションの世界は「ロマンティック・サイエンス(主観と客観が融合した科学)」へと大きく変わってゆくはずである。p184

 いつの時代も、どの分野においても、常にこのような意欲的な先駆者たちによって、未来は切り開かれていく。私は何処かモンスター・サイエンスの陰におびえているところがあるが、ロマンティック・サイエンス、というイメージには、すばらしい創造性を感じる。

 21世紀のリハビリテーションは「脳のなかの身体」を治療する時代に入る。それは、真の人間再生に向かう、身体の可能性を旅する旅になるだろう。p236

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2009/11/01

脱デブ なぜ一年以上たってもリバウンドしないのか

脱デブ
「脱デブ」 なぜ芸能人はレコーディング・ダイエットにはまるのか なぜ一年以上たってもリバウンドしないのか
岡田斗司夫 2008/08 ソニー・マガジンズ 新書 187p
Vol.2 No811★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★☆☆☆ 

 一年間で50万部売れたという「いつまでもデブと思うなよ」 の一年後にでた姉妹編。「なぜ一年以上たってもリバウンドしないのか」というサブタイトルを持つかぎり、著者は一年間で50キロダウンのダイエットに成功したあとは、特段にあの不埒な日常へとは戻らなかったらしい。

 今回は前著と違い、自分の体験をもとにはしているが、よりマニュアル化されており、本としてのインパクトは弱まっている。書いてある内容は、前著のおさらい、ということになろう。こまかく箇条書きに書いてあるが、はて、これは・・・・というものもある。

 61)飲み会やパーティは、1時間遅れの参加で目標カロリーを守る。p117

 さぁ、こんなのはどうだろう。たしかに、この数十年のダイエット失敗歴を考えてみると、この飲み会で崩れた、という回数はかなり多い。多分、私の計画が失敗した回数のもっとも多いものだろう。

 飲み会自体は、積極的に参加しなければそう多くはない。しかし、月に一度くらいはどうしても参加しなければならない飲み会というものが存在する。実に、これがいけない。普段はタバコを吸わない自分でも受動喫煙の結果、隣の席の友人から一本いただいて、ひさしぶりにタバコを味わうなんてことにもなる。飲んだ時のタバコがまたうまい。

 飲めばそれだけ食欲も旺盛になるし、理性も緩慢になる。ましてや目の前に、色とりどりのご馳走が並ぶとすれば、当然ながら、据え膳食わぬは男の恥、ということになる。まぁ、明日からまた減らせばいいや、と毎回思うのだが、これができない。次の日から、食生活が完全にもとにもどる。一カ月かけて減量しても、私の場合は3日でもとに戻る。そしてさらなる3日で、もとより体重が増加する。

 いけない、いけない、このような失敗パターンを思い出すべきではない。もっとポジティブに考えなくてはならない。しかし、本当にそういう失敗だらけであった。ただ、私には1時間遅れでパーティや飲み会に参加することはできない。みんなが出来上がっているところに、ひとりだけシラフで途中参加なんて、できない。無理だ。最初から行かないほうがいい。

 82)運動を選ぶなら、やった結果が万歩計で数値化できる「ウォーキング」。p145

 これは賛成できる。最近再スタートしたところ。なかなか生活に組み込むまでが大変だが、慣れてくると、一万歩はいけるようになる。最近、自分の場合は、いきつけの図書館を含んだ散歩コースが、ちょうど1万歩に値する。ショートカットしたり、遠まわししたりすれば、その日の調子に合わせて増減できる。途中に電車の駅がふたつあるから、いやになったら、電車で戻ってくればいい。

 この距離、いつもは車でいっていたが、数年前あたりから自転車でいく時もある。しかし、しっかりしたダイエット効果を計算するとすると、この距離を時点では足りない。ウォーキングにちょうどよい距離だ。今日も歩いてみたが、快適だった。だが、靴が合わなくなっていて、両足に豆ができたのには参った。

 100)卒業後も、体重だけは毎日はかる。小さな異変に早く気づけて修正がきく。p174

 この体重計、という奴が魔物である。減量しつづけている時は、ほんの100グラムの減量でも励みになる。しかし、停滞期やリバウンド期には、もう、全く見なくなる。当面見ないでいると、見事に1週間後には、トンデモないことになっている。もうトンデモないことになっていれば、あとはもう知らんぷり。「タイジュウケイ」って、なんだっけ・・・・? 卒業どころか、一回休んで、はい、振り出しに戻ります。

 今回の体重計はデジタル表示であるばかりか、ただただ計測するだけでいい。メモすらすることない。何キロあるかさえ忘れていてもいい。あとでまとめてパソコンに落とし込めば、記録はすっかりグラフ化される。ただただ、一日一回体重計に「乗る」努力をすればいいはずなのだが・・・・。まぁ、うまくできるかなぁ。

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いつまでもデブと思うなよ<1>

いつまでもデブと思うなよ
「いつまでもデブと思うなよ」 <1>
岡田斗司夫 2007/08 新潮社 新書 223p
Vol.2 No810★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 2年前に「『世界征服』は可能か?」 を読んで、面白いなぁ、と思っていたら、このすぐこの本がでた。おいおい、あまりにも直接的なタイトルだなぁ、と冷やかに思っていた。だが、その新書の腰巻には証拠写真がついていたから、度肝を抜かれた。なんと1年間で50キロの減量とは、無理じゃないだろうか。この話、つくっているんじゃないか。

 そう思って立ち読みしたが、本当のお話だった。本書の内容といえば、とくに目新しいことはない。そのレコーディング・ダイエットというメソッドも、必ずしも筆者の独特のものとはいいがたい。だが読む価値はある。さっそく図書館にリクエストしようと思ったら、当時、なんと膨大なウェイティング・リストが待っていた。これじゃぁ、いつのことになるか分からないと、リクエストすらしなかった。

 そうか、あれからもうすでに2年も経過したのか。今回リクエストしたら、ウェイティング・リストはゼロ。すぐ読むことができた。あっという間に世の中の話題は次から次へと移っていく。彼には、この本の続編になるのだろうか、「脱デブ」2008/08という本もある。著者はまだリバウンドしないのだろうか。

 あの2年前に思い切って私もレコーディングをはじめたら、きっと効果があったに違いない。月日の経つのは早い。だが、私には私なりの矜持があった。以前に似たようなことをやって、その効果は知っていた。私は著者のように117キロもないから、50キロは痩せなかったが、食べるものをメモして、カロリー計算をする、というだけでダイエット効果があることは分かっていた。私の場合は3か月で15キロやせた。これは本当に脅威的だった。

 だが、それからがイケなかった。さらに無理な期待をしたおかげで、すこし栄養不足になったのか、体の耐性が低下したようだ。具体的には目にものもらいができたり、口内炎ができて、長いこと回復しなかった。これがきっかけとなって、ダイエットのモチベーションが下がり、あとは見事リバウンドした。

 そんな体験があったものだから、この人のレコーディング・ダイエットには関心はあったものの、距離をつめることはなかった。でも今回、そういえばこんな本があったなぁ、と思い出したのだから、ふたたびまたチャレンジするチャンスが巡ってきたのかな、と思う。食べ物の記録は残していないが、他のデータは少しづつ残しつつある。あの時使ったカロリーブックなんぞも取り出してきた。

 最近、ちょっと離れたところにショッピングセンターがオープンした。今日はそこまでウォーキングした。往復で15000歩だったが、これがまぁ、なんとも快適だった。この15000歩のウォーキングで消費したカロリーが約600kcal弱。これがそのまま摂取カロリーの計算とはならないのにせよ、たとえばファミレスでハンバーグステーキなどを食べれば、それでほとんど600kcalは補充されてしまう。摂取カロリーを上回る消費カロリーを獲得すのは、なかなかむずかしい。

 まぁ、それでも袖摺り合うは何かの縁。今回、ようやくこの本をゆっくり読んだし、また、気を入れて、助走から離陸、上昇、巡航してみようかな。

<2>につづく

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