心と体がよろこぶ! ネイティブアメリカンの美味しい生活
心と体がよろこぶ!「ネイティブアメリカンの美味しい生活」
塩浦信太郎 2009/11 PHP研究所 単行本 143p
Vol.2 No840 ★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆
当初、当ブログがテーマを決めかね、途中から読書ブログと自己規定したあたりでは、まず読んでみたいと思ったのは、図書館にあるチベット関連本とネイティブアメリカン関連本だった。検索してみれば、どちらも数百とも千に届くとも思われる書籍があるが、どうやらネイティブアメリカン関連の本のほうが多いようだった。
同時進行的に二つのジャンルを乱読し始めたのだが、チベット関連本は、
「OM MANI PADME HUM」、「チベット密教」関連、「ダライ・ラマ関連本」、「さらに深くチベットの歴史を知るための読書案内」 、「マンダラをさらに深く知るために」、などなどで一通り目を通してきた。図書館にある本の半分くらいは手に取ったことになるだろうか。さらに「深追い」の大体の手口もつかんでおいた。 ところが、ネイティブアメリカンについては、カテゴリ「チェロキー」、カテゴリ「アンソロポロジー」をこしらえて、わずかに追っかけの姿勢は作ってみたものの、なかなか手ごわくて、中途で挫折している。その理由は一体何なのか、考えてみた時もある。 チベット関連は、結局のところ、チベット「仏教」であり、中興の祖ツォンカパであり、その正統な後継であるダライ・ラマ、そしてそれを乗り越えるべきところの津田真一「反密教学」的視点、あるいは中国政府との「チベット問題」、これらを抑えれば、なんとか全体像の素描はできたことになるのではないか。 それに比較すれば、ネイティブアメリカンをテーマにすると、どこまで読書をすすめても、杳としてその行く先がまったく見えないままなのだ。どの本にも均質ななにかがある。大地に根差し、大空の元に暮らす人々。神々を崇拝し、決して戦いを好まなかった人々。だが、それは何かひとつのものに集約される同軸的なものではない。 あえて言えば、この二つの人々は、地球のちょうど反対側に生きながら、かたや天空に生き、片や大地に生きている。「伽藍とバザール」の例を引けば、チベットを伽藍に例えるなら、ネイティブアメリカンはバザールだ。クラウド・コンピューティングとクラウドソーシングの喩えを借りれば、チベットはまさに雲の上=「クラウド」であるし、ネイティブアメリカンは、その文化の中に「民主主義の萌芽」を持っていたと言われるほどの「クラウドソーシング」な人々なのだ。 当ブログの喩えでいえば、政治的には「世界政府」的な動きと、「マルチチュード」的な動きがある。これをこのままチベットとネイティブアメリカンに当てはめることはできないが、それでも集中と分散、という意味ではいい比較になるかもしれない。この二つのネイティブ地球人たちこそ、未来の地球の基礎となるモデルを持っているのではないだろうか。 この本はネイティブアメリカンたちの食を中心とした文化の紹介である。最近、カロリーブックを片手に、1500kcalヒッチハイク食事法に切り替えたばかりである私には、美味しそうなカラフルなレシピはちょっと強烈すぎるところがある。 ナバホシチュー、パンプキンレッド、フルーツ入りローストターキー、タオスラビット、ワイルドライスサラダ、アボガドディップなどなど、どれもこれもおいしそうだ。現地に行って食してこそのご馳走だろうが、いくつは材料さえあれば、私にも作れそうだ。スモークサーモン&スクランブルエッグなど、今晩でもできそうだな。 この本の中には、スエットロッジやペヨーテミーティングなどの伝統的な儀式も紹介されている。チベットに学ぶものが、どちらかというと精神性に偏り、とくに仏教的な高みが多くを占めるとすると、ネイティブアメリカンたちからは、そのライフスタイルそのものを学ぶ必要があるように思われる。そして、必ずしもドグマ化されず、組織化もされていないスピリチュアリティの中に、シンプルで、かつ普遍的な自然とともにいきるネイティブ地球人たちの原風景が見えてくる。 |
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