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2009/11/21

脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?

脳はなにかと言い訳する
「脳はなにかと言い訳する」 人は幸せになるようにできていた!?
池谷裕二 2006/09 祥伝社 単行本 353p
Vol.2 No837★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 「脳科学」本を一気に読むのは、なかなか難しい。ましてや、同じ著者とは言え、何冊も続けて読むのは、私にとっては難行苦行のような状態になってくる。この本は、「VISA」の宣伝誌に「ビジネス脳のススメ」として書かれたコラムが中心となっており、そのコラムに追記する形で全体が進んでいる。

 なぜに読む進めることが難しいのか、自分なりに考えてみた。

1、もともと脳科学って奴をあんまり信用していない。

2、科学が科学で終わるような科学を科学とは呼べないと思っている。

3、身体科学のような、自分の体を中心とした科学を矮小なものだと思っている。

4、もともと物理的な論理性でもって、真理を探究できるという姿勢に疑問を持っている。

5、所詮は、脳という限定された範囲の研究結果なのではないか。

6、そこで展開されているものの裏付けとなるデータを、自らが再現できない。

7、所詮は本で分かるようなものでないものを、本に書く、ということで、少なからず矮小化された形で紹介されているのではないか、という疑問を常に持っている。

1、昔、多湖輝の「頭の体操」というカッパブックスのシリーズがあったが、どうも脳科学というとあれを思い出す。その発想の面白さはなるほど、とは思うのだが、所詮カッパブックスなんて買っているような連中は、この程度のもので我慢しておけ、みたいな、どこか読者を矮小なスペースに追いやっているような気がしていた。あの当時のトラウマが続いているのかもしれない。

2、そもそも、当ブログは、科学、芸術、意識、の三層、あるいは三極、あるいは三面から、何事かの探究を行おうとしている。科学や芸術、あるいは意識へのアクセス回路がないものは、どうも片手落ちという気がしてならない。

 瞑想しているアジアの僧侶からは特殊な脳波が現れます。特殊な脳の状態です。(中略)逆にわかっちゃうんですね、(中略)脳波を記録してみたら、実はぜんぜん悟りの境地を開拓できていなかったというのが。p142

3、これは反省も込めてのことだが、モノとココロなら、モノよりココロのほうが大切でしょう、というライフスタイルを維持して来たもので、ついつい、物質的な現実性を軽視しがちになる。

4、これはかなり言い訳くさいが、所詮は、論理的な説明をされれば、「いやもっと感性を大切に」と思うし、感受性豊かな表現をされれば、「いやもっと落ち着いて論理的な説明をしてよ」と、常に私の脳は何かと言い訳をする癖がある。

 自分の死期を悟ったとき、多くの人は、過去を振り返ってこう言うという。「幸せな人生だった」と。
 本当に他人より満ち足りた人生を送ってきたのか、純粋に感謝の気持ちからなのか、単に残される周囲を気遣っての発言なのか、その真意はわからない。実際、もし私に突然、死が迫ったときに「人生に思い残すこてゃないか」と訊かれたら、私はなんと答えるだろうか。
p90「脳はなにかと言い訳をする」

5、脳は脳として単独で存在することはできずに、身体があるからこそ脳は脳として存在し得るし、脳も成長すると、著者も本書の中で言ってるが、やはり、「ばっかり」研究には、絶対どこかに落とし穴があると、思う。

 脳は、「単体では存在し得ないもの」であるということ。体があって初めて脳が存在するのです。脳は頭がい骨という箱の中に入っていて、外部とは接点を持っていません。環境を感知したり、環境に働きかけたりするのは、すべて体です。脳は、すべて乗り物である体を通じて初めて、外部と接触することができます。p55

6、自らを文科系と理科系のどちらに大きく傾いているとは言えないが、すくなくとも研究室で実験データを積み上げるような検証方法を持っていない身にしてみれば、いくら専門家とは言え、通り一遍の説明で納得してしまうことに、危険性をいつも感じている。へたすりゃ、トンデモ科学の虜になってしまう可能性がある。眉唾精神は、これは一生治るまい。

 「ロボットと人間」、もしくは「コンピュータと脳」の境界線は何なのか、突きつめれば突きつめるほど、よくわからなくなってきます。
 石ころは生物ではありません、人間は生物です。この違いを生んでいるのはなんでしょう。
p315

7、ここは微妙なのだが、結局は、脳科学など、自分には及びはないと思っている。つまり、手の届かない高い位置にあるブドウは、眼に入らないのであり、私にとっては、ないのと同じなのである。そんなことより、自らの手の届く範囲の中に、無数に不思議な謎がいっぱいあるではないか。なにも手の届かない遠方まで出かけていって不思議発見をするようりも、自らの体験している不思議をうまく解釈してくれる科学なら、その時こそ、原寸大の、私に即した立派な科学と言える、とそう思っている(らしい)。

 「人」の営みがもつ”温かみ”に親和性を覚えるようになったのは、かつて科学万能主義的な理系バカであった私からは想像できない変化だと思います。「科学は何でも解決できる。仮に今は無理でも、いつかはこの世のすべてが科学的に説明できる」などという独りよがりな傲慢さは、今では完全に消えています。p328「おわりに」

 ひととおり記述がおわると、著者は、「おわりに」で野々村仁清の「色絵鱗波文茶碗」について触れている。ここで私もほっと一息ついた。しかし、そこからすぐ著者は「科学者」らしく「フラクタル」の話に移る。日本地図の海岸線の不思議さを例に出しながら、科学の限界性についてかたる。

 自分の内部に自分とそっくりな”相似形”を持っていることを「フラクタル」と呼びます。日本語では「自己相似性」となります。p331

 これは、地球地図の縮小が日本地図になっており、日本の地図の縮小が奄美になっている、なんていう出口王仁三郎らの「国魂学」に通じそうなところである。私の脳の中では、科学にお付き合いしながらも、早くそこから離れて神秘な世界へつなげたいと、わずかに存在するらしきシナプス群が、さも、うずき出すかのようである。

 

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